「真冬のマーメイド」−1









 好きで好きで大好きで、どうしようもなく惚れ込んでいる人がいる。

 以前から《好き》とは思っていたけれど、このところどうやら質が違ってきたらしいと気付いたのは、高校1年生の秋。うたた寝する彼の姿に欲情した時だった。

 彼のマンションに遊びに行った折り、口には出さなかったが仕事の疲れが溜まっていたせいで、横たわったソファから起きられなくなった姿はとても無防備で、普段は凛々しい横顔が油断しきったように和らいでいるのを見ていたら、ドキドキと破裂しそうな心臓を抱えて、思わずキスしていた。

 粘膜同士が触れあっただけで、ビクリと跳ねるようにして身体を離したけれど、滑らかなその感触はずっと忘れられなかった。
 その日の夜、彼の唇を思い出しながら自慰をしてしまった自分は、手の中に噴き出した白濁のぬめりに、もう戻れない道を歩き始めたのだと悟った。

 渋谷有利は惚れてる。
 コンラート・ウェラー…名付け親である、あの人に。



*  *  *




 2学期末テストも大体返ってきて、夏休みから家庭教師をしてくれているコンラートのおかげで結構良い成績が取れた有利は、お礼と報告を兼ねて彼のマンションに遊びに来ていた。忙しい時期の筈なのだが、メールで《遊びに行っても良い?》と聞くと、コンラートは必ずどこかしらに時間を空けてくれる。甘えすぎているかなと反省することもあるのだが、あまり遠慮していると全然会えなくなってしまいそうで、結局は《遊んで?》とおねだりしてしまう。

 優しい彼はちっとも迷惑そうな顔なんかしなくて、有利のために買い置きしてくれているお菓子(彼は一人だとそんなの食べないのだ)と暖かい飲み物を煎れて貰ってお喋りを始めると、楽しくて嬉しくて、ついつい時の経つのも忘れてしまう。

 優秀なビジネスマンであるコンラートにとっては、束の間の休息はもっと有意義に使うべきなのかも知れないけど、図々しくも長居をして、最終的には《夕食も一緒に食べよう》とのお誘いを引き出してしまう。ここまで来ればお泊まりコース決定で、夜中にコンラートを眺めてハアハアできる。オナニーしたくてしょうがなくなるのを我慢しなくてはならないけれど、帰ったらたっぷり出来るくらい、コンラートの寝姿を堪能するのだ。

『勝手にズリネタにしちゃって、本当に申し訳ないんだけど…』

 ずず…と啜り込んだ紅茶が、先程よりも苦く感じた。有利を未だに《穢れ無き天使》と思いこんでいる彼には、決して知られてはならないことだ。

 コンラートは有利が生まれる前から幼児期まで、ボストンでご近所付き合いをしていた。両家の奥様達がお茶会を開いていた折に当時8歳だったコンラートも同席していて、その時、7月に出産予定と聞いた彼が祝福の言葉をくれた関係で、彼は有利の名付け親ということになっている。

 有利が5歳になった年、勝馬の仕事の都合で日本に帰国することになった。別れの際にはわんわん泣いてコンラートにしがみつき、なかなか離すことが出来なかったのを今でもよく覚えている。凛々しくて優しくて綺麗なコンラートは、有利にとって理想の王子様だった。彼と別れるのは、身を引き裂かれるみたいに辛くて堪らなかった。
 馬鹿な有利は別れたくないばかりに、必死になって《ゆーちゃんはコンラッドのおよめさんになるんだもん!およめさんは、だんなさんとはなれてたらダメなんだよ?》と美子に主張していた。

 幼い子どもの戯言(たわごと)に、コンラートは琥珀色の瞳を綺麗な涙で濡らして、優しく微笑んでくれた。

『ユーリ、俺のお嫁さんになってくれる?じゃあ必ず迎えに行くよ。だから、それまで良い子で待っていてね』

 伸びやかな美声が告げた言葉を、有利はずっと信じていた。額に寄せられたキスも、厳かなる約束の儀式を取り交わしたのだと思いこんでいた。

 正直、小学校の高学年になるくらいまでは本気の本気で《俺は大きくなったらコンラッドと結婚するんだ》と心に決めていた。コンラートは学業に忙しくてなかなか日本には来てくれなかったけれど、丁寧な手紙を定期的にくれていたから、きっと約束も忘れないでいてくれると思ったのだ。

 《バッカだなぁ…渋谷。男はお嫁さんにはなれないんだぞ?オカマさんになるだけだ》当時親友だと思っていた大井田に断言された時、初めてコンラートの言葉が《社交辞令》というものなのだと知った。愚かな幼児をあやすために、傷つけないように調子を合わせてくれただけなのだと。

『ああ、しょっぱいコトまで思い出しちゃった』

 眉根を寄せていたら、コンラートがすぐに気付いて頬を撫でてくれる。

「どうかしたの?ああ…お茶がもう無いね。お代わりは如何?」
「うん、いただきます」

 こくんと頷いてティーカップを差し出せば、優雅な仕草でポットを傾け、芳しい茶色のラインが空中に描き出される。カフェ店員のような腰巻きタイプのエプロンがまた死ぬほど似合っていて、思わずうっとりと見惚れてしまった。

『コンラッドに再会するまでは、俺だって普通に女の子と恋愛すると思ってたんだよね…』



*  *  *




 彼女いない歴=年齢の歴史は続いているが、中学生の頃にはやっきになって女の子に告白したりしている。今になって思えば、コンラートへの憧れを断ち切るためには、女の子と普通の恋愛をしなくてはならないという義務感のようなものに駆り立てられていたに違いない。

 でも、そんなのは何の意味もなかったと思い知ったのは、今年の7月のことだった。中学時代のクラスメイトである村田が公園で不良に絡まれていたから助けようとしたら、返り討ちにあって女子便所に顔を突っ込まれそうになっていた。その時、すんでのところで華麗に助けてくれたのがコンラートだったのだ。ドイツに本社を置く大規模商社で優秀な業績を修めていた彼は、自ら望んで日本支社での勤務を希望して、この夏から引っ越してきた。

 久し振りの再会に際して、いきなり冥土送りにされそうになっていた名付け子のために、コンラートは全力で怒ってくれた。

 《赦さない》…怒りの焔をあげた凄みのある美形外国人に、最初の一瞥から不良達も圧倒されていた。その上、コンラートの動きは凄まじく俊敏で、繰り出す拳と踵は容赦なく重かった。あっという間に不良達を叩きのめすと、コンラートはふわりと有利を抱き上げて、相変わらず王子様みたいに微笑んだのだった。

『ユーリ…待たせてゴメンね?君を幸せにできるだけの環境をハード面、ソフト面共に充実させたから、安心してお嫁に来てね?』

 華やかに微笑むコンラートの優しさが嬉しくて、有利はぼろぼろと涙を零して抱きついていった。

『ありがとう…コンラッド。相変わらず優しいなぁ!俺をあやすためにしてくれた約束、まだちゃんと覚えててくれたんだね?でも、大丈夫だよ。流石に俺だってもう子どもじゃないもん。あんたの言葉が嘘だって分かっても、泣いたり怒ったりしないよ?』
『……………そう?』

 コンラートは余程有利を傷つけないように言葉を尽くすつもりだったのか、何なら騙し続けてくれる気だったのか、有利の言葉に少し戸惑ったようだった。
 でも、すぐに昔通りの笑顔を浮かべると、ぴかぴかの新築マンションに連れて行ってくれて、丁寧に傷の手当てをしてくれた。その上、再会を懐かしむためにその夜はマンションに泊めてくれて、凄く豪華な食事まで採らせてくれた。ジャグジーつきのお風呂には素敵な香りのするオイルが垂らされ、薔薇の花弁まで浮いているし、広大な寝室には《ユーリと何をしてもゆったり寝られるように》と超キングサイズのベッドまで置かれていた。

『ゴメンな、コンラッド。子どもだった俺の言葉を守るために、ここまでしてくれたんだね!?』

 コンラートの誠意に感動して涙ぐんでいたら、うっとりするような甘い声で《気にしないで、大好きなユーリのためだもの》と囁かれて、目元の涙をキスで拭われたから、嬉しいのと同時に少し怖くなった。彼の優しさを良いことに、どこまでも自分がつけあがってしまいそうだったからだ。

『コンラッド…もう本当に平気だよ?そりゃあ、オカマさんにはなれてもお嫁さんにはなれないって知った時にはショックだったけど、もう大丈夫。俺だってもう子どもじゃないもん。ちゃんと分かってるよ?お嫁さんにはなれなくても、親友にはなれるよな?』
『ああ…うん、そうだね。うん…うん。大親友になろう、ユーリ』

 そう言って微笑むコンラートの瞳は、何だか仏様みたいに色んなものを超越したようなアルカイックスマイルだった。



*  *  *




「本当に今日はどうかしたの?心ここにあらずという感じだけど…」
「え?ああ、何か紅茶が美味しくて…。えと、何の話だっけ?」

 いかん。
 思い出に浸っている間に、コンラートに不快な思いをさせては本末転倒ではないか。有利は居住まいを正すと、ぴしりと背筋を伸ばして傾聴の姿勢を取った。

「いや、まあ…そんなに気合いを入れて聞いて貰うほどのことでもないんだけどね?23日は遊べないよっていうだけの話」
「また仕事?」
「そんなとこ。うちの会社が経営に加わっている《メルト》に行って、イベントを盛り上げてくれと頼まれてるんだよ」
「えー、良いなぁ。あそこって、スノボとかスキーやった後にすぐ温泉に入れるとこでしょ!?」

 《メルト》というのは温水プールを主力とする全天候型複合アミューズメントパークだ。基本的には水道水を涌かした湯を張り、凝った造りのウォータースライダーで遊んだり出来るようになっているのだが、更に、建設途中で本当に温泉が出たので、施設の一角には日本風の岩風呂を初めとして、南国リゾート風、北欧風と、様々な湯船が愉しめるようになっている。本格的なスパが出来ることもあり、この不景気の最中にしては女性客を中心にかなりの集客を上げているはずだ。

「興味ある?」
「うんうん、あるーっ!俺も行きたいっ!」
「23日は仕事絡みだから一緒にいられないけど、クリスマスには一緒に行こうか?良かったら、併設のホテルに泊まろうよ」

 元々、クリスマスイブと当日は一緒に遊ぼうと約束していた。てっきり、100m道路沿いのイルミネーションを見て歩いて、そのまま夕ご飯をどこかの店で食べるのだと思っていたのだが、予想外の申し出に心弾んでしまう。クリスマスにホテルに泊まるだなんて、まるで恋人同士ではないか。

「ええ〜?良いの!?」
「俺が約束を守らなかったことがある?」

 コンラートの微笑みはふわりと優しいのに、どこか眼差しには物言いだけな色が含まれている。微かに、咎められているような気がするのは気のせいだろうか?

「コンラッド…ゴメンね?俺が疑ってるみたいに感じちゃった?違うよ?コンラッドはいつだって約束守ってくれてるって、俺…分かってるよ?」
「そう…じゃあ、良かった」

 それでも、どこか眇められた眼差しは切なげに見えて、有利の胸はきゅうんと締め付けられてしまう。

「信じてるよ!だって、コンラッドってば俺の馬鹿な約束まで覚えててくれたんだもんね?しかも、ちゃんと守ろうとしてくれたくらいだもん…」
「約束だったもの」
「コンラッドってば、本当に甘いなぁ。名前を付けてくれたってだけでそんなに優しくしてくれるんじゃあ、いつか子どもが出来たりしたら、とんでもなく甘やかしちゃうんじゃない?」

 いかんいかん。
 自分で言った言葉に自分で傷ついて、泣きそうになってしまった。思わず顔を逸らしてしまったけれど、コンラートはどんな表情でいるのだろう?

「ユーリみたいに可愛い子が、生まれるかな?」
「あんたに似たら、きっと可愛いよ」

 そうだ。その日が来たら、心の中でどんなに泣いてもちゃんと受け入れよう。コンラートに貰った沢山の愛情のうち、ほんの少しでも良いから子どもに返してあげよう。それが、有利に出来る感謝の形だろう。

『だけどそれまでは、どうか一日でも長く俺と一緒にいて…』

 切ない願いを胸に抱いて、有利は目元を袖口で拭った。



*  *  *




 《メルト》に行くのなら、やはり水着が必要だろう。裸で入る温泉もあるが、やはり主体はウォータースライダーのついたプールみたいだし。

 けれど家に帰って水着を探すと、今年の夏に買った水着が虫に食われていた。母に言われていたのに、箪笥に○ンを入れなかったせいだろうか?

「えー?今の時分に水着なんて買えるのかなぁ…」

 ぶつぶつ言いながらスポーツショップに向かったのが、有利の運命を変える第一歩であった。



*  *  * 




『お、あったあった』

 夏場のように安い値段ではなかったか、水着はちゃんと売っていた。有利の肉体ではとてもブーメランパンツなんて穿けないので、取りあえず丈の長いボクサータイプの水着を手に取った。

 すると、男性水着よりも圧倒的に大きなエリアを占める女性水着のブースから、華やかな笑い声が響いた。

「これ、超攻め水着じゃない?」
「おお〜。流石は金沢女史、勝負出るわー」

 笑いながら水着を物色しているのは、随分と綺麗な女性達だった。年代や化粧の感じから言って、OLの同僚同士同士ところか。その中でも金沢と呼ばれていた女性は特に肉感的で、際どいデザインの水着を手にして高笑いをしていた。

「これでウェラー専務の眼差しを釘付けよぉ!」

 ドクン…っと胸の中で鼓動が跳ねた。ウェラーと呼ばれている専務なんて、この辺ではコンラート以外に考えられない。この人達はきっと、23日にコンラートと同様、《メルト》て水着姿になるのだろう。

「どうかなー?専務って好きな子がいるって評判よ?」
「は!それがどーしたっての。例え恋人がいようか妻がいようが、後出しでも勝ったもんが勝ちよ!」

 金沢はがっちりと拳を握り締める。

「おお〜、略奪愛宣言?」
「私が狙って落とせなかった獲物はいないわ!」

 金沢の脚線美と衣服越しにも分かる豊満な胸は、手にしたFカップ水着を見事に着こなせそうである。有利は頭からどんどん血の気が引いていき、くらくらと目の前が眩むのを感じた。
 これまでだって、コンラートを狙っている女性は多いだろうなとは思っていた。だが、こうして目の前にすると、その人が綺麗な大人の女性であるゆえに、追い詰められた心境になってしまうのだ。

「つか、カナさんの場合は《落とす》が生々しいよね」
「まずは一発頂いた事で落としたことにしちゃうんだもん」

 半笑いで突っ込みを入れられても、金沢は豊満な胸を反らして堂々としている。色々と性格に難がありそうな女性だが、いっそ清々しいほど欲望に忠実なところが、潔いとも感じられる。

「まずは身体で感じ合う。その上で分かることだって沢山あるもの!」

 少なくとも、信頼してくれるコンラートに隠れて寝姿に欲情しているような有利に比べたら、眩しい位の潔さだ。

『どうしよう…』

 コンラートが誰かを好きになっても邪魔をしないと心に誓っていたのに、不意打ちに訪れた衝撃に、有利は立っているのがやっとという状態であった。

『せめて、俺が女の子だったら…』

 そうだったら、思い切って身体を張ることも出来たろうか?コンラートが《迎えに来たよ》と言ってくれた時にも、もっと図々しく《嬉しい》と言い通せたことだろう。約束だったのだから、守って当たり前だと言い張ることが出来たに違いない。
 押し切って、一夜だけでもセックスが出来たかも知れない。

『でも俺は、男だ』

 幾ら細身だとはいっても、コンラートと同じ性器を持ち、胸なんかつるぺたの男の子だ。幾らコンラートが優しくても、これ以上図々しく《抱いて?》なんて言えないし、ましてや本気で《お嫁さんにして》なんてとても要求できない。

 ポン

「…っ!?」

 突然、後ろから肩を叩かれた。

「やあ、渋谷。どうかしたのかい?」
「村田…!」

 7月に不良達から助けた村田だ。実際にはコンラートが助けた訳だが、どうしてだか村田は有利の方に強く恩義を感じているようだった。彼曰く、《助けられそうにもないのに、身体を張ってくれた勇気が嬉しかった》ということらしい。

「どうかしたの?水着の前で涙目になってるなんて」
「村田ぁ…」

 ふえ…と、本当に涙目になってしまった有利は、そのまま喫茶店に連れて行かれ、親身になって話を聞いて貰ったところ、会話をころころと転がされて、気が付いたら今の思いを全部話して聞かせてしまった。



*  *  * 




「これ、飲むだけで本当に効くの?」
「1粒につき1日だけだけどね、君に魔法を掛けてあげる」

 村田は事情を聞くと家に有利を連れてきてくれて、透明な小瓶に入った飴玉を手渡してくれた。これが女体化する薬だというのだ。
 人工的な赤色をした小さな玉一つに、モロッコで命がけの手術をしないとゲットできない《女の子人生》が、一日分だけとはいえ詰まっているというのだから信じられない。

 なんでも、村田の通う附属高校では文化系クラブに於いて大学と深い結びつきがあり、特に村田の所属する科学部では、ドイツからの留学生《紅い悪魔》ことアニシナ・フォンカーベルニコフ女史という人が、天才的というか、悪魔的なまでの才能を駆使して驚くべき発明を続けているらしい。

 この《メタモ》という、《メタモルフォーゼ》から来ているのだろうがどちらかというと《ミタボリックシンドローム》を彷彿とさせる薬については、市販化の目処は立っていないらしい。一定の層には莫大な需要がありそうだが、市販化されてしまうと流石に性風俗が異常を来すのではないかとアニシナが懸念したらしい。ドイツにいる強面の恋人に使用したところ、流石に縁を切られそうになったとか何とか、色々と背景もあるらしいが。

「村田が言うことだもんな。うん…信じちゃう!」

 ぱく…っと口に含めば、シロップ薬に似た苺味が口の中に広がるだけで、何が起こるわけでもない。

『あれ?俺、からかわれた?』

 そう思ったのはほんの一瞬のことだった。心臓がドクンドクンと拍動を始めたかと思うと、身体中が熱くなって立っていられなくなる。

 溢れ出る汗と痛みの中で、有利は時分の肉体が改造されていくのを感じた。 

『これでコンラッドに、迫ったり出来る…?』

 そう考えることが、苦しさに耐える唯一の方法であった。




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