「魔王、最後の闘い」

 

 

 ユーリ…

 ユーリ……

 

 懐かしい声が呼んでいる。

 凛々しいのに、自分の名前を呼ぶときだけは甘い響きを含んでいて…その声で名を囁かれたいばかりに《陛下って呼ぶな、名付け親!》と、子どものようにねだったものだ。

 

 もっと呼ばれたい。

 もっともっと…その声でこの身体が一杯になるくらい、名前を呼んで…。

 

 少女の幻想のような思いも、意識が覚醒に向かうと流石に淡い泡沫となって消えていく。

 少年として名付け親に向かい合うなら、名前を呼ばれるだけでなくこちらからも呼び掛けたい。

 極少人数のみが呼ぶ、独特の呼び方で…。

「コンラッド…」

 未だ茫洋とする意識の中、小さな声で囁くが…ちゃんと聞こえているのだろう。

 喉奥を震わせるようにして、楽しげに笑っているのが気配から伝わってくる。

「ユーリ…こんなところで眠っては風邪を引いてしまいますよ?」

 優しく囁きかけながら、大きな掌が髪を梳いていく。

 その感触の心地よさに目を細めれば、ますますコンラートの笑みは深くなる。

 心地よい木陰で大木の幹にもたれながら、有利はうたた寝していたらしい。

 辺りは緑なす丘陵地帯で、起伏に富んだ地形と鮮やかな若葉が目に楽しいし、高い空は麗らかな薄青に染まって広々と広がり…旨しい大気が胸をすく。

 木漏れ日の眩しさに瞼を開ききれず、眇めた眼裂から伺うと…端整な顔立ちに緑陽が差してとても美しい眺めだった。

 長い睫が光を帯びてけぶるさまなど、如何にも《王子様》といった風情だ。

『綺麗…』

 うっとりと…このままずっと眺めていたい欲望に身を委ねてしまいそうになる。

 だが…主の体調が気になるのか、少し焦れたような様子のコンラートに起床を促された。

「さ…起きて?」

 膝をついたコンラートが恭しく手を差し伸べるので右手を差し出すと、ひょいっと勢いよく身体が引き上げられた。

 コンラートはカーキ色の軍服に身を包んでおり、有利は学生服を思わせる魔王服を纏っている。いつも通りの風貌…いつも通りのやりとりが何故だか酷く懐かしい気がする。

「城に戻りましょうか?そろそろおやつの時間ですよ」

 

 仕事ではなく、おやつ。

 ああ、なんて素敵なんだろう…。

 

 そこまで考えて、有利はふと引っかかるものを感じた。

『あれ…俺、何かやらなくちゃなんない事があったような…』

 グウェンダルに仕上げておけと言われた書類だろうか?

 ギュンターの宿題だろうか…?

 でも、あまりにうららかな日差しが暖かくて…寄り添うように判行するコンラートの香りが心地よくて…ついつい促されるままに進んでしまう。

 

 その時…突然強い揺れが襲った。

 

「うわっ!」

「陛下っ!!」

 咄嗟に護衛としての立場を固守したコンラートは、我が身で包み込むようにして有利を護ろうとした。しかし、足下が崩れる感覚に気づくと、すぐさま地盤の固そうな大木の根方に向かって有利の身体を放り投げ…自分は、崩れゆく土塊を蹴りながら着地点を目指す。「コンラッド…コンラッドーっ!!」

 有利は叫ぶと、すぐにコンラートの姿を求めて駆けだした。

 

 ドボーンっ!!

  ゴバンっ!!

 

 大きな物体が…次々と水面を叩く音が聞こえる。

 崖っぷちから眺めると、眼下には大きな湖が広がっていた。大小様々な土塊が瀑布をあげながら落ち、沈んで暫くすると…深緑色の水底から噴き上がるようにして土色が広がっていく。どうやらかなり深いようだ。

「コンラッドーっ!!」

 崖を滑り降りていくと、灌木や岩に当たって手や足を擦過したがそんなことは気にしていられない。

 ただただコンラートのことが心配で、いても立てもいられなかった。

 「コンラッド…コンラッド!」

 狂ったように飛沫を上げながら湖に飛び込んでいくと、突然水底から何かが浮上してきた。

「な…に……?」

 現れたのは、神々しいほどの光を帯びた女性であった。

 ギリシア神話に出てくるような薄物の貫頭衣を身に纏い、小さな睡蓮を髪や服に飾った美しい女性は、厳かな声音でこう告げた。

「お前が落としたのは…何だ?」

「こ…コンラッド…です……」

 《何》という表現が気に掛かりはしたものの、この状況から救ってくれるだろう人(?)には丁寧な対応を心がけるべきだろう。なんとなく…こういう状況の昔話を聞いたことがあるような気もするし。

「お前が落とした《コンラッド》はこれか?」

 湖の女神とおぼしき女性は、その華奢な体躯からは想像しがたい膂力を見せて、一人の男の襟を掴んで持ち上げた。

 一瞬《はっ》…と、したものの…気を失った男の容貌を観察すると、それは有利の知るコンラートではなかった。

 確かに見覚えはあるのだが、その髪は長く…その身にはまだ傷跡はない。

『あ…この人……若い頃のコンラッドだ!』

 以前、魔鏡を覗いた際に見たことがある。

 《獅子》と呼ばれるに相応しい長髪と、いくらか若々しい容貌がそれを物語っている。
 また、身につけている軍服も現在のようなカーキ色ではなく、青を基調とした色合いであった。 それに、全体的な印象も軍人というより貴公子といった感じた。

「違います。俺のコンラッドは、もーちょっと年食ってます」

「ほう…それではこちらか?」

 次に引き上げられたのは、年嵩のコンラートであった。

 精悍な面差しには皺こそないものの、眦や口元のラインは渋みを増し…気を失った姿も一種悩ましいまでの大人の魅力に溢れている。どこか、長子たるグウェンダルとの共通点も垣間見えるようで、血の繋がりの濃さというものを感じさせた。   

  身につけているものは現在と同じカーキ色の軍服だが、襟周りや袖のデザインが幾らか変わっている。

「そ…それも違います。俺のコンラッドはそこまで老けてません!」

「ふむ…それでは、こちらか?」

 最後に引き上げられた男こそまさに現在のコンラートであり、見慣れたその姿に有利は驚喜した。

「そうです!それが俺のコンラッドですっ!!」

「お前は正直な男だ。よろしい…それでは、全ての《コンラッド》はお前のものだ」

「…………へ?」

 咄嗟に脳の回転がついて行かない。

 その意味を捉えかねている内に、有利の目の前には3人のコンラートが横たえられ…湖の精霊は、すー…っと湖に沈んでいく。

「ままま…待って!置いてかないでっ!!昔のコンラッドと未来のコンラッドはそれぞれの世界に送り返してよっ!!」

「何?折角好きな男が3人もいるのだ。しっかり可愛がって貰うが良い」

「いやいやいやいやいやっ!か…可愛がるって……っ!!そんないっぺんに相手出来ませんからっ!!」

 未熟な有利としては、床上手なコンラート一人を相手にするだけでも一杯一杯なのだ。とてものこと3人も相手になど出来ない。

「ふむ…そうか、孔が足りないと?」

「女神様、あんた何言ってんですかーっ!?」

 得心いった風な女神の表情に、有利は首筋まで真っ赤に染めて絶叫した。

 孔というのが鼻の穴や耳の孔を指すわけではないことは明瞭だ。

 そもそも下の孔だって、本来の用途とは異なるわけだが…。

「よし、正直なお前の心根に免じて更に褒美を取らせよう」

「え…!?」

 嫌な予感を感じつつ有利が身構えるが…女神の手が一閃すると、くらりと軽い目眩を感じて身体の奥が熱くなる。

 …が、暫くすると何と言うこともなく落ち着いてきた。

「ふふふ…これで良かろう。いや全く…そんな佳い男を3人も侍らせるなどまるで夢のようではないか。実に…羨ましいことだ」

 女神はそう言い残すと、もう仕事は終わりとばかりに水底に帰還してしまった。

『夢のよう…?』

 …その言葉に、有利は忘れかけていたことを思い出した。

『そうだ…これ、夢魔に取り込まれたコンラッドの夢の中じゃん!』

 …ということは……。

 有利は胸元から結晶化したコンラートの心の欠片を取り出すと、3人のコンラートに近寄せて反応を見ると…愕然として硬直した。

『ぜ…全員反応してるっ!!』

 この3人全てがコンラートの心の欠片の保有者なのだ。

「う……」

 小さく呻いて最初に意識を取り戻したのは年嵩のコンラート…あえてネーミングするなら《渋獅子》だった。《老獅子》ではあまりに気の毒だろう…ちょい悪オヤジ風だし。

「おや…陛下……随分と若返られましたね?」

 渋獅子は色気のある仕草で前髪を掻き上げながら、口の端を歪めるようにして笑った。

 眇めるような眼差しの端も艶を帯びた色合いを滲ませており、経験不足の有利などは見ているだけで頬が染まってしまう。

『うわぁ…年喰ったらコンラッドってこんな感じになるのかな?色気ありすぎて…何かドキドキする…』

 ただ、これは物理的に未来のコンラートを召還したわけではなく、あくまで現在のコンラートによる未来予想図な訳だから、実際こうなるかは不分明なのだろうけれど…。

 禿げたり腹が出たりする未来予想図は、コンラートの中にないわけだ(あっても嫌だが)。

「う…」

 続いて目覚めたのは若き日のコンラート。《若獅子》とでも呼んでおこう。

 人間年齢で言えば有利と同じくらいだろうか?有利よりは長身だし、鍛えてもいるようだが…やはり現在に比べると華奢な印象だ。

「…君は…双黒!?」

 目にした有利の容貌にえらく驚いている。

 状況が飲み込めないのか、双黒の少年と、自分によく似た容貌の男達を眺めやりながら随分と困惑しているようだ。

 まだまだ人生の初盤であることを伺わせるその物腰は何処か微笑ましく、見ている有利は何となく親近感を覚えてにっこりと微笑みかけた。

 すると…はにかむように微笑み返してくれる様子が何とも若々しくて、有利は暖かな安心感を感じた。

『えへへ…このくらい若いコンラッドだと、ちょっと同じラインに立ってるような気がするな』

 こちらがリードしてあげたくなるような…そんな保護欲すら感じさせる。

「陛下…お怪我は!?」

 起きるなり跳ねるようにして傍に寄ってきたのは現在のコンラート。

『あ…コンラッド……だぁ…っ』

 《渋獅子》でも《若獅子》でもない…。

 ただ一人…《俺の》と、誇らかに冠することの出来る男、コンラート・ウェラーだ。

 左眉を斜走する傷も、節くれ立っているが優雅な動きを見せる指も…広い胸板も、形の良い鼻梁も薄めの唇も…全て有利のものと自信を持って言える。

 有利も、やはり彼のものなのだと確信出来る。

『コンラッド…コンラッド……っ!』

 彼が起きてきたことで安堵するやら何やら…すっかり動転してしまった有利はぼろぼろと涙を流し始めた。

「ユーリ…ユーリ…っ!何処か痛みますか?ああ…頬が切れています。すぐに消毒しましょう」

 湖の女神のおかげか、水底から引き上げられたにもかかわらず全く濡れていないコンラートは、ポケットから医療用具を取り出すとてきぱきと手当を始めた。

 なお、彼が周囲の《過去・未来コンラート》を気に掛けたのは、一通りの治療が終わってからだった。

「何とまぁ…この二人も俺の心の欠片を持っているのですか?」

 それが意味するところを了解しているらしいコンラートは、心底困ったように渋面を浮かべると、有利の肩を労るように抱きしめた。

 暖かくて安心感のあるその胸板に凭れると、一度は止まった涙が溢れ出てくる。

「無理…絶対無理……3人相手なんかできっこないよぉ……」

 止めようと思っても、縋る縁(よすが)の存在はどうしても有利の心を弱くして、逞しいコンラートの胸に身を委ねてしまう。

 このままこうして泣いていれば問題が解決するのではないか…この夢の中に入り込んでから初めて抱く幻想すら浮かんでくるのだ。

 この現象は、有利がどれほどこの戦いに疲れ…そして、コンラートの存在に飢えているかということを如実に顕していた。

「ユーリ…」

 状況が飲み込めずに沈黙している若獅子・渋獅子に見守られながら…有利は暫くの間泣き続けた。

 

*  *  *

 

「少し落ちつきましたか?」

 血盟城に戻ってくると、コンラートは厨房でお茶を煎れて有利や若獅子・渋獅子に振る舞った。

「うん…ゴメンな?泣いたりして…」

 有利は大好きな茶葉でミルクティーを煎れて貰うと、少しずつ啜っている内に何とか落ち着いてきた。

 目はまだ泣きはらしていたのだけれど…。

「いいえ、泣いてしまっても仕方ありませんよ。それより、こちらこそ申し訳ありません。俺のせいで…こんな危険な夢の中に飛び込ませてしまって…」

「そんなこと…」

 《ない》…とは流石にいえず、有利は頬を朱に染めた。

 これまでコンラートの夢の欠片を手に入れるために、数多くの淫夢を昇華させてきた。

 

 猫ムスコとして《ミルク》をたっぷり飲まされた夢。

 《魔王》たるコンラートの婚約者として人目も憚らずに抱かれたり、水の触手に責め立てられた夢。

 小型飛行機を舞台にした夢ではキャビンアテンダントの役回りで、機長の娯楽のために自慰行為をさせられたり…ワゴンの上に乗り、機内食のフランクフルトを後宮に差し込んで食べさせたり(食中毒になる可能性大だと思うのだが…)、性欲処理のためにコクピットで奉仕させられた。

 通学電車内を舞台にした夢では、セーラー服姿でサラリーマンのコンラートに痴漢行為をされ、声を殺してコンラートの手の中に放ち…後宮から溢れるほど白濁を注ぎ込まれ、あまつさえ…その様子を携帯で撮影されて脅迫され、呼び出された会社のデスク上で何度も犯された。

 学校を舞台にした夢では《生徒指導》という名目のお仕置きで、教員のコンラートに大きな消しゴムを後宮へと銜え込まされ、授業中に当てられ…黒板の前に立っている最中にさり気なく尻を撫で回されたり含まされている箇所を指で押されたり…放課後に体育倉庫に連れ込まれて縄跳びで縛られ、自分から欲しいと言うまで懐中電灯で責め立てられたりした。

 借金のカタに売り飛ばされた先では、豪商のコンラートにSM嬢のようなボンテージを着せられ、赤い蝋燭を肌に垂らされたり、感じやすい場所に瘤が来るように紐で縛られたり…尿道にカテーテルを挿入されて微震動を掛けられた上、バンドで花茎の付け根を拘束され、四つん這いにさせられてコンラートに奉仕をしながら…後宮に一個ずつアナルボールを含まされた。そして一気にアナルボールを引き抜かれた際に、カテーテルの中に射精するという異常な性感を味あわされた…。

 

 …………その他色々、あまりもう思い出したくないような夢の数々によって、有利はちょっとたAVシリーズが作れそうな勢いで淫行を重ねたことになる(後半、設定がどんどん和製AV化していくのが妙に気になったのだが…あれは、ロドリゲスによってコンラートの中にインストールされた、《間違った日本情報》のせいかもしれない)。

 夢の中で抱かれた数も濃度も、それまでに現実世界で抱かれたそれを遙かに上回る。

 だが、実体である肉体が相変わらず経験不足なせいなのか、そもそもの有利の嗜好のせいなのか…幾度倒錯したプレイで責められても有利の性への感覚は歪曲することはなく、場面設定が奇妙であればあるほど…ごく普通にコンラートと抱き合っていた日々のことを懐かしく思うのだ。

『俺…ただ、あんたに抱きしめて貰いたいだけなんだよ…フツーで良いんだ。抱き合うのなんて…』

 また、ほろりと涙が零れそうになる。

 そんな有利を見つめながら、若獅子が口を開いた。

「大変申し訳ないのだが…落ち着いたようなら、今の状況を説明しては貰えないだろうか?」

 若々しい面差しには戸惑いの色があり、そもそも双黒である有利の存在自体が飲み込めないのか、しきりと興味深げな眼差しを送っている。

 貴公子然とした優しげな容貌は心配げな色合いを帯びていて、単純な好奇心と言うよりは、有利の愛らしさやその涙の意味を純粋に知りたいと願っているようだった。

「そうだな…俺も知りたい。いや、君達も困惑している様子だから全てを…とは望まないが、せめて君達が把握している内容だけでも教えて貰えないか?特に、何故ユーリがこんなにも泣いているのか…その理由が知りたい」

 渋獅子の方は、彼が知っているであろう(あくまでこの夢の設定における未来の)姿よりも幼い有利の泣き顔に、苦みを帯びた笑みを浮かべている。

 こちらは現在のコンラートに対して微かな…いや、水面下では更に強いであろう…嫉妬を抱いているようで、無防備に身を寄せる有利の仕草や、その細い肩に回されるコンラートの腕に、《ちりり》と射るような殺気が混じっている。

『………夢魔もなかなかやるものだな…実にリアルだ』

 コンラートは苦々しいような、感嘆するような複雑な心持ちであった。

 実際…年若いコンラートがこうして有利を目の当たりにすれば、純粋な愛おしさと慕わしさを感じたであろうし、既に有利の身も心も自分一人のものとして占有している未来のコンラートであれば、たとえ過去の自分であっても有利に対して馴れ馴れしい態度を取る者がいれば、激しい嫉妬を覚えただろう。

 実に納得いってしまう事自体が酷く腹立たしかった。 

「かいつまんで説明させて貰おう…」

 


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