〜白鷺線の怪人〜
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有利side:2
 



 早朝の白鷺線…その混み合いにもすっかり身体が慣れてしまっている有利は、いつものように周囲の人壁にもたれ掛かるようにしてうとうとしていた。今日は背中側にやたらと肩幅の大きな、でっぷりとした体型の中年男性がおり、こちらもうたた寝している様子なので互いに支え合うような形になっている。

 肩甲骨がぺたりと他の乗客の背中に接することが出来るときは、特に安定感が増す。

 このとおり…楽な姿勢を取るコツも身体の方が覚えてしまい、下手をすると目的地まで熟睡していることもあるくらいだ。こんな時は終点が目的地であることに感謝したくなる。

 乗り降りの際に人の波が動くときには流石に目が醒めるが、それ以外の区間走行では混雑の中にも妙な安心感があるので、有利はこの白鷺線の込みようが嫌いではなかった。

『ねむ…何か今日も寝ちゃいそうだな…』

 昨日はカフェの常連客が店長と話し込んだりして粘っていたせいで、帰りが遅くなってしまったせいかえらく眠い。

『ん…?』

 有利がふぁ…と欠伸混じりに小さく伸びを打ったとき、ふと視界に入ってきたのは均整のとれた長身の外国人だった。

 長身の外国人自体は海外企業との交流が盛んな会社が多いせいでよく見かけるのだが、その青年はえらく目を惹く要素に溢れていた。

『へぇ…なんつーか、恰好良い兄ーちゃんだなぁ…』

 立ち姿は葦のようにすんなりと伸び、丈の長い黒のカシミアのロングコートと仕立ての良さそうなビジネススーツが、彼が社会的成功者の一員であることを物語っている。

 また、ぴしりと整った服装の中にもシャツが明るいブルーであったり、細身のネクタイがよく見ると綺麗な柄物だったりする辺りから、さり気ないお洒落を楽しめる人なのだと知れる。

 北欧系の顔立ちはすっきりとした怜悧な印象で、襟足は短く刈り詰めているが、やや長めの前髪が揺れると…ダークブラウンのその髪が意外と柔らかそうな髪質であることを伺わせる。

 秀でた額から高い鼻梁に続くラインは、薄目の形良い唇へと続いていき…口元に浮かべる表情によっては酷薄な印象さえ感じさせそうだが、今は慣れない環境に戸惑うように《への字》に曲がっている。

 その様子が、《嫌悪》というより《困惑》に近くて、妙に物慣れない動作に有利は軽く吹き出しそうになってしまった。

 背丈は十分にあるのに、一つの吊革にしっかり掴まろうとするあまり、人の波に押されて指先だけ吊り輪に引っかかっている様子など…何というか……

『なんか…言っちゃ悪いケド、可愛いなぁ…』

 見た目が完璧なだけに、戸惑う様子にやたらと愛嬌を感じてしまう。

 今も、怒濤の勢いで降りていく客に流されないよう、必至に踏みとどまろうとしている様子が涙ぐましくて笑いを誘う…。

『んー…お節介かも知れないけど……思い切って、言ってみようか?…つか、日本語通じなかったらどうしよう?何処の国の人なのかなぁ?でも…こっちで仕事してるんだとしたら、ある程度は日本語分かるよな?』

 鬱陶しがられる可能性も大なのだが…何となく、彼はそんな反応をしないような気がして(気がするだけなのだが…)、ちょいちょいっと肩をつついてみた。

 案の定、きょとんとしたような視線を向けられたのだが…その瞳の独特な色合いに、有利は一瞬息を呑んでしまった。

『うわ…綺麗……』

 切れ長の凛々しい瞳は澄んだ琥珀色をしており、その中に瞬く星のような銀色の光彩が鏤(ちりば)められている。

「何か?」

 怪訝そうに尋ねられて《はっ》…と我に返ると、《少なくとも日本語は通じそうだし》と、そこだけは安心して…挙動不審者に見られないよう意識して呼吸を整え、流れに身を任せる方法を提案してみた。

『うわ…引かれたらどうしよう?』

 急に、自分のしようとしたことに自信がなくなって小声になってしまうが…青年は驚きつつも言ったとおりに動いてくれて、柔らかな笑みを浮かべると感謝の言葉さえ口にしてくれた。

『ふわぁ…天は色々与えるもんだなぁ…。こんなに恰好良いのに、すっげぇ素直…』

 それに、よく中学生と間違えられる有利に、最初から《高校生?》と聞いてくれたのも好感度大であった。



*  *  *


  

 それから、お互いに会社のことや学校のこと、趣味でやっている活動などについてちょっとした面白い話題を出し合っては笑いあった。

 もう有利の体内から眠気の誘惑は立ち消え、意識はとても清明な状態に維持されていた。

『なんでかなぁ…なんか、凄く楽しい…』

 日本語の上手なこの青年は出身がドイツだということだが、その《真面目で堅苦しい》というイメージからは逸脱した、軽やかな性格の持ち主であるらしい。耳障りの良い滑らかな低音で語る言葉は言い回し自体も洗練されていて、何と言うことはないような話でもとても楽しく聞こえてしまう。

 かといって、笑いばかりを狙うような…人柄の軽い人物であるというのでは決してない。

 まだそんなに会話を交わしたわけではないのだが、確かな精神骨格と強い意志を持った人のように思うのだ。

 そして、彼の言葉はとても《沁みる》…。 

 有利が中学のときに野球部を辞めざるを得ない状況に陥った後、高校に入ってから草野球チームを立ち上げたことを話題にしたとき…

『人は、一度大きく躓いてしまうとその痛みを感じたくないばかりに、最も愛する道を自ら閉ざしてしまうことが多いけど、君は諦めなかったんだね。俺は…凄いと思うな』

 そう褒めてくれたのが、有利にとってはちょっと泣きたいくらい嬉しかった。

 だから色を付けて人物判定しているのかも知れないけれど…それでも、この人の称賛は軽薄に上っ滑りすることなく、胸の奥にじぃんと沁みてくるのだ。

 それは、決しておためごかしの社交辞令ではなく…本心から言ってくれているからだと思う。



 もっともっと色んな事を話したい…。

 そうだ、まだ名前も聞いていないし、名乗ってもいない。



 その事に気付いた有利は、今更ながら自分の名を口にしようと思ったのだが…不意に車両が揺れだし、次の駅に近い事が放送で告げられると人の波に流されて青年から離されてしまった。

『あ〜…離れちゃうや』

 もう少し話をしていたかったのに。

 残念に思いながら小さく手を振ると、向こうも微笑みながら手を振りかえしてくれた。

『えへへ…やっぱいい人だ。せめて名前だけでも聞いとけば良かったなぁ…』

 普段は車で通勤していると言うし、慣れない満員列車に戸惑っていたみたいだからもうこの列車には乗らないかも知れないけれど、街で偶然会ったときに名前を呼ぶのと、《電車で踏ん張ってた人》と呼ぶのとでは随分と印象が違うだろう。

 しかし、この人垣を乗り越えて《名前教えて下さい》なんて言うのもちょっとおかしい気がする。

 今度こそ引かれること間違い無しだろう…。 

『しょーがないや』

 自分でも奇妙な程しょんぼりとしてしまうが、有利は周りからぎゅうぎゅうと押し寄せてくる人波に身体の揺れを合わせ、いつも通り体力を温存しながら終点を目指した。



 その時…突然、ちくりと首元に鋭痛が走った。



「痛っ!」

 思わず叫ぶと、機嫌の悪そうな老人にギロリと睨まれてしまった。

 足を踏まれて過剰に騒いでいるとでも思われたのだろうか?

 しかし、有利の痛みは首元からしたのだ。

 それも…少々何かと擦れ違ったくらいでは感じられないような、局在性の明確な痛みであった。

「…?何だろ……」

 痛みがあった辺り…詰め襟の上際辺りを触ってみると、微かにぬるりと指先を濡らすものがある。

 眼前に晒してみると…それは、微かながら指にこびりついた…



 血、だった。



 その瞬間…有利の頭蓋内である単語が断片的に再生された。



 《怪人》

 《男子学生に痴漢》

 《媚薬》



『俺…まさか……』

 慌てて辺りを伺うと、今まで無防備に身を任せていた人垣が急に恐ろしくなった。



 誰だろう?

 誰なんだろう?



 周りにいる誰が怪人でもおかしくない気がして…下心を秘めた変態であるように感じて、有利は猜疑心の塊となって周囲を見回した。

 だが…誰も有利に注目している風などなく、それぞれに知り合いと喋りあったり釣り革にしがみついたり、吊り広告に目をこらしたりしている。

『勘違い…なのかな?』

 単に村田の大袈裟な説明のせいで自意識過剰になっていて、ちょっと女性のピンか何かに引っかけた疵を注射針によるものと勘違いしたのではないか…。



 きっとそうだ。

 そうに違いない。



『そうだよ…俺、そんなのに狙われたりしないもんっ!俺…俺、悩ましい美少年とかじゃないし…っ!レースのびらびらしたブラウスとか似合わないしっ!!』

 そう思おうとする有利の記憶の奥底から、何者かが囁きかけてくる。





『君みたいな子があまり無茶をするもんじゃないよ。君…うちの大谷が行くのが遅れていたら殴られるだけじゃなくて、今頃あの連中に輪姦(まわ)されて、ひぃひぃ言ってたとこだぜ?』

 

 嫌らしい言い方。

 舐めるような視線…。

 囁く男は、警官だった。



 絡まれている村田を助けるために不良連中に立ち向かった有利は、公衆便所でリンチを受け…通報を受けた警官に助けられた。

 その警官は有利の身を気遣い、破れた服の上から自分が纏っていたジャンパーを掛けてくれたり、無茶を窘(たしな)めつつも傷の心配をしてくれたりしたのだけど…。

 派出所に連れて行かれた後、担当者が変わった。

 無骨な顔立ちの大谷という警官は外回りが主な業務らしく、通報を受けて慌ただしく自転車に跨って出動してしまったのだ。そのあと有利の担当になったのは…名前も覚えていないが、とにかくいやに軽薄な顔をした若い警官だった。



 そして…取調室で、有利は耐え難い精神的苦痛を味わったのだ。

    

『あのままだと、何されてたのかなぁ…。チンコやふぐりを擦られて、イくとこを携帯で撮られたり…尻の孔に何本も指やらナニやら突っ込まれたり…携帯なんか突っ込まれて、バイブ機能使われたりねぇ…。入れ替わり立ち替わりに犯されて、注がれた精液が溢れてきたトコを撮られたりさぁ…』



 まるで、そうなって欲しかったみたいに…《ひひ》…と喉奥で嘲笑(わら)いながら、その情景を想像するように…警官は、分厚い唇を舐めながら有利に囁きかけたのだ。



『その可愛らしい顔やら薄い胸やらに、ザーメンを浴びるほどぶちまけられて…脚なんかM字に縛られてさ…イきたくてもいけないようにチンコの根本縛られたり、イかせて下さいって懇願してる君の口にチンコ突っ込まれて、フェラチオを強要されたりね…。その写真をネタに、奴らのアジトで大勢の男達の公衆便所にされたりねぇ……』



『嫌だ』

『嫌…嫌…嫌……っ!』

『何でそんなこと言うんだよっ!』



『俺は、男だ』

『そんな事されるはずがない』



 あの警官が特別変態なだけで、それ以外の連中から標的にされたりする筈がない。



実際、あの不良連中は有利を殴ったり便所に突っ込んだりはしたけれど、身体を触ったりしてどうこうということはなかった。

 ただ…あの取り調べの警官だけが、いやに嬉しそうな…いやらしい笑顔を浮かべて有利をチラチラと見ながら揺れ動いていたのだ。

 警官の手は…不自然に股間の辺りを彷徨っていた。

 今にも自分の股間にある何かを擦りあげたいみたいに…脂下がった目尻を赤く染めて、荒い息を吐いていた。

 あの警官の表情を思い出すだけで有利の背筋にはどっと汗が噴き出し、額にはじっとりと脂が滲んでくるのだ。

『気持ち悪い…』

 ホモなんか死んでしまえばいい。

 いや、ホモの人だって真面目に恋愛している人だっているんだろうから全員は死ななくても良いけど、性的嫌がらせをするような変態は死んで欲しい。

 取りあえず、最低限あの警官だけは死んで欲しい。

 犯人を捕まえようとしてバナナの皮に足を取られて、後頭骨陥没で死ねばいい。



 滅多に人の死など望まない有利が半ば本気でそう祈っていると…何かが、尻をまさぐり始めた。

『…え?』

 ぎくりとして身を捩るが、明確な意志を持って手は有利の尻を追跡してくる。

『俺…触られてる?』

 振り向こうとする首筋に、ねちゃりとした質感の指が触れてきて…全身が震えた。

 溺れる人のように藻掻きながら逃げようとするのに、揉みしだかれた尻の肉からぞっとするほど肉感的な刺激が陰部へと波及し、有利は自分の花茎がズボンの中で否応なしに勃ちあがってくるのを感じて吐きそうになった。

 媚薬は有利の精神的な嫌悪感などお構いなしに、肉体への刺激を快感として受け取ってしまうのだ。

 その事実が、有利を恐慌状態に陥らせる。

『嫌だ…イヤ…厭……っ!!』

 なりふり構わず絶叫してしまいたいのに、安い自尊心が有利の行動に制約をかけてしまう。

 《男に痴漢されるような男》…そう思われたくない。

 あの嫌らしい顔をした警官がちらちらと脳裏を掠める。

 《やっぱり君みたいな子は狙われやすいんだねぇ…》なんて囁かれて、またあんな取り調べを受けるのは嫌だ。

 では…このままここで辱めを受け続けるのか?

 それも嫌だ。

 こんな車両の中で変質者に身体を嬲られて、達してしまうなんて…その挙げ句、連れて行かれてレイプされるのはもっと嫌だ。

『どうしたら良いのか分かんないよ…っ!』

 常に前向きに物事に立ち向かう有利だが、この時は絶望感に打ちのめされて立っていられないような状態であった。

 変質者に尻をまさぐられるだけでなく、ズボンの中にまで手を差し込まれそうになり…殆ど反射的に顔を上げた瞬間、あの青年の姿を目に捉えるまでは…。



 青年は、こちらを怪訝そうに見ていた。



 心配そうに端整な顔立ちを歪め、こちらに近寄ろうとしている。

 気分が悪そうにしている有利を、介抱してくれるつもりなのではないだろうか?

 そう思った途端…喉奥がぐっと熱くなって、震えながら…声にならない叫びをあげた。



『たすけて…っ!』 



たすけてたすけてたすけて……っっ!!



 溢れ出す…恐怖と嫌悪からの救いを求める思いを瞳に載せ、唇を動かした。

 青年は憤りを込めた眼差しで有利の背後を睨め付けると、大柄な身体で人の波を縫いながら…有利の元に向かおうとした。

 その時、駅への停車を告げる通告音が車両内に響き、人の波が一斉に動き始めた。

 その勢いに乗って青年は有利の傍に来てくれたが、同時に、捕らえようとした変質者もまたその人波に溶け込んで素早く移動してしまった。

「くそ…っ!」

 青年は苛立ちも露わに舌打ちをしていたが、有利の様子を見ると今度は気遣わしそうな表情で声を掛けてくれた。 

「君…大丈夫かい?」

「うん…あ、ありがとう……」

響きの良い低音…その声に安堵しつつも、耳孔を擽(くすぐ)る焦れったいような感覚に、いままで感じたことのない熱が身体の芯でちらりと燃える。

『…何?』

 意味が分からなくて戸惑う有利だったが、青年に、小さな子どもにでもするみたいに頭を撫でられ…その大きな掌の感覚に、ぞくぞくとした…変質者に対して感じたのとは全く性質を異にする感覚が沸き上がってくるのを自覚した途端、愕然としてしまった。



『俺…この人に欲情してるんだっ!』



 何ということだろう…。

 親切心で助けてくれた青年に対して、有利は性的な興奮を覚えているのだ。

 その何気ない囁きや接触の一つ一つに、花茎はその先端をしとどに濡らし…青年の大きな掌に包み込まれ、扱(しご)かれる様子を夢想するように打ち震えている。

 そんなこと、媚薬のせいとはいえど許されることではない。

 だが、何処に変質者がいるか分からないこの状況の中で、縋る縁(よすが)は結局この青年しか無く…有利は自分を護るように囲い込んでくれた腕を拒むことが出来なかった。

 それどころか…車両の揺れのせいで青年が覆い被さってくると、厚い胸板の弾力と鼻腔を擽る心地よい体臭に、くらりと目眩さえ覚えて耽溺してしまうのだった。

『駄目だ…』

 有利を無事に送り届けるまで、青年は仕事に遅れるのを覚悟で終点まで送ると言ってくれた。そんな青年に欲情していることなど、決して知られてはいけない。

「大丈夫?…苦しい?」

「え…?え、え…ぁ……」

 咄嗟に自分の情動を見抜かれたのかと思って慌てるが、青年の方はその動揺を良心的に解釈してくれた。

「怖かったろう?男に触られたりして…」

「う…うん……」

 確かに怖かった。

 気持ち悪かった。

 なのに…今、有利は目の前にいる人の良い青年に欲情している。

 自分を襲おうとした不気味な変質者と同様に。

『嫌だ…っ!』

 有利はぎゅ…っときつく瞼を閉じると、左手の示指の節を痛いくらいに囓るのだった。



  

  



コンラートside:3





 暫く沈黙が続いた後…コンラートは少年の意識を痴漢のことから逸らそうと、務めて和やかに語りかけた。

「そう言えば…名乗ってなかったね。俺はコンラート・ウェラーというんだが…良かったら名前を聞かせてくれる?」

「あ…俺、渋谷有利デス!」

「ユーリ?綺麗な名前だね。ドイツ語で7月を意味する言葉だ」

「でも、字ずらは最悪だよ?悠然と理性的な悠理でも優しい里で優里でもなく、有利不利の有利なんだから!しかも、渋谷って超メジャーな地名でしょ?俺、いっつも《原宿は不利なのかよー》とか、《渋谷の利率は上がってますかー?》とかいってからかわれるんだぜ?」

「あはは!でも…まぁいいじゃない。《有利》ってことは、いつも君に利有れ…つまり、幸有れという親心だよ、きっと」

 親の当て字に不満げな有利に、コンラートは本心から楽しげな笑い声を上げた。

 様子がおかしかった有利が少し元気になったので安堵したというのもあったし、こんな状況ではあるのだが…彼の名を知ることが出来たのは素直に嬉しかったのだ。

「ユーリ…良い響きだ」

 思いが声に乗ってしまったのだろうか?陶然と滑らかな声で名を呼ぶと、有利は真っ赤になって俯いてしまった。

「やめて…名前……呼ばないで………っ」

「名前で呼ぶのは嫌?」

 内心、軽くショックを受けて問うと、有利は苦しげに息を吐いた。

「今は…駄目……あんた、声…佳(よ)すぎなんだもん…っ」

 はぁ…と、朱花の唇から零れた吐息は熱く…コンラートの下腹にずくりと甘い刺激が伝わる。

 少年の眉間に切なげな皺が寄り…眇められた眼差しからえもいえぬ艶が、香り立つようにたちのぼってくる様子から…コンラートは剥ぎ取るようにして視線を逸らした。

『何を…考えている!?』

 先程から何度か掠めていた…そして、故意に目を逸らそうとしていた事柄を突きつけられたような気がして、愕然としてしまう。



『俺は…この子に、欲情しているのか?』



 コンラートは端正な容姿と軽妙な性格の故(ゆえ)か老若男女を問わず好意を抱かれる男だが、男性を性対象に…それも、こんな未成熟な子ども相手にその気になったことなどこれまで一度としてない。

 寧ろ、年端もいかない青少年を性対象とした販売物などに対しては嫌悪さえ抱いていた。 それが…いま何故この子に対して反応してしまうのか…。

『駄目だ…落ち着け、コンラート・ウェラーっ!!』

 相手は今まさに男から痴漢行為を働かれ、怯えきった少年ではないか。

 助けを求めた相手に欲情されているなどと知れば、それこそ精神的外傷にもなりかねない衝撃を受けるだろう。

『確かに、可愛いと思える要素はたくさんあるし、良い子だとは思うが…性的にどうこうしたい対象ではないだろう?』

 コンラートは女性に対して特に執着心はないものの、やはり好みというものはあり…どうせなら胸は大きい方が良いし、腰は細い方が良いし、尻はきゅっと引き締まった弾力のあるものが良い。

 有利の華奢な体躯は細腰であることはともかくとして、胸と尻は期待する事が出来ないだろう。

『いや、期待してどうする!』

 コンラートは自分の心に一人乗り突っ込みしてみる。

 そうでもしないと平静を保てないような気がしたからだ。

『落ち着いて、よく見てみれば良いんだ。ただの小さい子どもじゃないか…』

 頭を撫でたり《抱っこ》してやることはあっても、決して性的に《抱く》対象になどなりえない。

 …と、理性はその案を強く推奨するのだが…コンラートの視覚に捕らえられた映像が後頭葉鳥距溝付近の視覚野に認識されるやいなや、投射線維によって放たれた刺激が情動に関わる領域を刺激して、交感神経を無意識のうちに興奮させるのだった。

 汗ばんだ細い首筋は、うっすらと纏うような艶を帯び…東洋人独特のきめ細かい肌を吸い付くような質感に変えてしまう。

 伏せ目がちなせいで強調される長い睫はその影に在る大粒の瞳を縁取り、たまらなく可憐なものに見せているし…噛みしめられた唇は朱に染まり、口吻を待つ果実のように戦慄いている…。

 華奢な肩がすっぽりとコンラートの腕の中に収まる大きさだということも、庇護欲と同時に支配欲だの征服欲だのといった度し難い感情を呼び覚まさせる。

『…駄目だっ!』

 見ていれば見ているほど妙な気分がむらむらと沸き上がってくる。

 何とかして意識を逸らそうとしている時、傍で喋っていた少年達の会話が耳に入った。

「なぁ、そーいや白鷺線の怪人の噂聞いた?」

「え?しらねぇ…。何それ、怪人って」

 筋肉質で少しお調子者めいた顔つきをしている少年が、からかうように小柄な体格の友人に言った。

「お前は気をつけた方が良いぜ?なんせ、男限定の痴漢らしいからな」

「なんだよそれ、気持ち悪い…」

「こういう込んでる時間帯に現れて、首筋に媚薬を注入するんだってさ。それで、痴漢しまくった後に駅の便所とかに連れ込んでレイプするらしいぜ?」

「うっわ…気色悪りぃ…つか、何で俺が気をつけるんだよ?男限定ならお前だってヤバイじゃん」

「俺みたくガタイの良い男が狙われるわけないだろ?真一みたいにちっちゃくて可愛いタイプが狙われるに決まっててんじゃん」

「馬鹿かお前!」

「心配しないで〜真ちゃん…。俺が怪人の魔の手から護ってあげるからね!」

「抱きつくな変態!まずお前の魔の手から身を守るのが先決じゃねぇかっ!!」

 大変BL臭い会話が繰り広げられる中、コンラートは呆然として有利を見た。

 有利の首筋…詰め襟の上際辺りに、明らかな鬱血痕が見受けられたからだ。

「ユー…いや、シブヤ君……。まさか、君……」

「分かんない…けど……」



 《変な風に、身体が熱いんだ》…。



 …自分自身の反応に怯えるように囁かれた言葉に、コンラートはずくりと下腹を刺激されて戦(おのの)いた。   

 怪しげな薬品に如何にも免疫がなさそうな少年が、媚薬を盛られていたとは…。

 それならば、先程からの徒めいた仕草も納得できる。

 恐怖や嫌悪とは別の所で、生体反応として欲情を催しているのであれば、それを散らそうとして苦悶する姿が艶を帯びてしまうのも致し方ないことであろう。

「シブヤ君…次の駅で降りよう。今日はもう学校に行っても勉強どころじゃないよ?」

「でも…病院、行きたくない……」

 何故か抵抗する有利に怪訝そうな小首を傾げつつも、コンラートは尚も勧めた。

「恥ずかしいから?でも、どういう類の薬品かは分からないし、品質の危険な物だと心配だよ?ああいった薬は血液脳幹門を突破して中枢神経系に直接働きかけるから、効果が切れる際の禁断症状の心配もあるしね」

「………うん、分かった。次の駅で降りる」

 有利はそれでも躊躇しているようだったが、コンラートに諭されるように繰り返されると、漸く頷いた見せた。

「そうか…うん、そうした方が良いよ。俺も付き添ってあげるから」

「駄目だよ!ウェラーさん、仕事だろ?そこまで甘えらんないよ」

「何言ってるんだ。ここまで来たら君の無事が確保されるまで、それこそ仕事になんかならないよ」

 そう言うと、コンラートは《本当は車両内ではいけないんだろうけど…》と、言い訳しつつも会社宛にメールを送信した。さしあたって必要な事柄は既に先週の内にかたをつけているし、有給は殆ど手つかずで残っている。一日休むくらいは何と言うこともないだろう。

「ほら、もうこれで大丈夫」

「でも…」

「でももへったくれも無し!」

「ウェラーさん……」

 潤んだ瞳に見上げられると、心とは別のところが熱く反応を示しそうになって困るのだが、コンラートは何とか逸らして、人の良さそうな笑顔を浮かべた。

 有利の方はコンラートの些か行きすぎた親切をどう思っているのか、感動と…そして別の何かに戸惑うように困惑した表情を浮かべている。

「俺…情けないな……」

「…え?」

「俺、昨日友達から痴漢に気をつけろって言われたばっかりだったんだ…」

「ああ、そんな事を言っていたね」

「いつもそうなんだ、俺…あんたの事だって、その友達の事だって…護ってあげようなんて分不相応な事考えて行動すると、結局…逆に助けられる立場になっちゃうんだ」

「友達も…?何か、あったの?」

「うん…」

 こく…と頷きながら、有利は寂しげに笑った。

 その表情は、酷く彼に似合わぬ…自嘲の色を浮かべていた。 




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