〜白鷺線の怪人〜
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コンラートside:1



「え?事故った?」

 日本全国で寒さの極まる2月某日夕刻のこと…夕食をすませてくつろいでいたコンラート・ウェラーは、電話で思いがけない知らせを受けた。

「本っ当ーにゴメン!」

 受話器の向こうで、頭を下げてしょぼくれているだろう友人の姿が目に見えるようだ…。

 コンラートは週末に、友人に頼まれて愛車を貸し出していた。

『今週のデートで決めたいんだっ!!』

 そう意気込んでいた友人に是非にと頼まれて貸した愛車はしかし…玉突き事故に巻き込まれたせいで、車体がかなり破損してしまったらしい。

 友人はその事故の際に彼女を庇ったことでラブ感が高まり、返ってプロポーズの契機になったらしいのだが…おかげで、コンラートは明日の月曜日に出勤するための交通手段に頭を捻ることになった。

 コンラートはドイツに本社を置くコンピューター関連会社から、現在の勤め先である東京の企業に1年間の期限付き契約で出向してきている。

 大学で日本語を専攻していたことと、ドイツにいた頃から日本人の知人も多かったことで培われた流暢な日本語と丁寧な物腰は、日本人よりも日本人らしいと妙な褒め方をされる事しばしばである。

 《コンラートさんって穏やかよねぇ…》と、会社のうるさ型女性社員にも太鼓判を押されている優しげな物言いは、この時も健在であった。

「まぁ…お前が軽いむち打ちで済んだ上に、プロポーズも上手くいったというのなら、仕方ない。婚約祝いを兼ねて許してやるよ。勿論…俺の車が後日、貸したときよりも綺麗になって返ってくる…という条件付きで、だけどな」

 悪戯っぽく笑うコンラートに、友人は平身低頭せんばかりにして《勿論だ》と請け負った。

「さて…どうするかな?」

 電話を切った後…コンラートは思案した。
 今からレンタカーを借りるか、公共交通機関を利用するか…。

「折角だし、電車にでも乗ってみようかな…」

 車好きのコンラートは免許を取るとすぐさま車を購入して生活の足としていたから、電車に乗ったことなど、まだドイツの大学にいた頃…ブンデスネッカー・カードという周遊券を使って列車の旅をしたとき以来だ。

 しかも、その時には《世界の車窓》よろしく窓辺からの景色や乗り合わせた乗客との世間話を楽しみつつ、ゆったりとした列車旅を楽しんだものだから、学生やサラリーマンでごった返す交通機関内が如何なる状況のものなのか実感として沸いてこないのだ。

 あと半年は日本での仕事が続くだろうし…仕事相手の話に合わせるときのネタとしてだけでも体験してみる意味はあるだろう。

「会社に電車で行くとなると…さて?」

 ネットで検索を掛けてみると、どうやら《白鷺線》という路線であれば乗り換え無しで行けそうだ。行程は1時間半とやや長めだが、少し早めに出立すれば問題ないだろう。


 この時…コンラートには想像することも出来なかった。
 よもや、自分の運命がこの《白鷺線》の中で変わってしまうことなど…。






有利side:1



「ねぇ渋谷、君…相変わらず白鷺線で人混みに揉まれてるのかい?」
「うん、揉まれまくりだよー。先週なんて受験生とかち合っちゃって、えらい込みようだったぜ?」

 村田健がお仕着せの短いカフェエプロンを腰に巻きながら聞いてくると、襟元の蝶ネクタイを不器用に締めながら渋谷有利が答える。

 村田は微笑混じりに溜息をつくと、慣れた仕草で歪んだ蝶ネクタイを直してやった。

「ん…サンキュ」
「どういたしまして」

 にぱりと笑って礼を言う有利に、村田は軽く会釈する。

 さて、ここは学生が多く訪れる気軽なカフェ《ココリナ》…の、更衣室。

 半年前からバイトをしている二人は、すっかりここでの仕事内容にも慣れ、専用のロッカーにはごたごたと私物を置いているほどの馴染み具合だ。

 地元に昔からあるこのカフェは、以前は《喫茶店》と銘打っていたのだが、ここ最近は世間の風潮に従業員の恰好だけ乗っており、有利と村田もお仕着せのギャルソン風の身なりをしている。

『ココリナの店員の子ってわりと可愛いよね』

 と、巷の…何故か男子高校生やサラリーマンから囁かれていることを村田は知っているが、有利は知らない…。

 また、ココリナはこのように上っついた商法だけを旨としている訳ではなく…味の方も昔から定評があり、休日の夕方であるこの時間帯にも結構な賑わいを見せている。


 なお、村田健は進学校に通う可愛らしい顔立ちの少年で、懐具合が暖かそうな仕立ての良い私服を持っていたりする割には、休日にもしっかりシフトを入れてバイトに励んでいる。

 《こんなにバイトをして成績の方は大丈夫なのか》…と、心配性の店長に聞かれるが、その心配をしなくてはならないのはもっぱら友人である有利の方であった。

 有利の学校は村田の学校と違って極々平凡なレベルなのだが、彼は自分の立ち上げた草野球チームの練習に勤しむほか、運営費を稼ぐためにバイトに励んでいるせいもあって成績の方はかなり寂しい状況だ。

 正直、バイト代を幾らかチームへの寄付に回してくれる上、マネージャーをやってくれたり、勉強を教えてくれたりする村田の存在は無くてはならないものになっている。


「で…白鷺線のことなんだけどさ…最近、変わったことない?」
「変わったこと?相変わらず込んでるけど、多分…あそこは開通したときから変わらず混み続けてんだろうから、込まなくなったらやっと《変わった》って言えるんじゃないかな?」

 有利は列車の混みようを思い返しているのか、折角締めて貰った蝶ネクタイを無意識に指で緩める動作をした。

 ちら…と覗く細い喉は透明感のある肌に包まれていて、清廉な印象のその白さが見る者の瞳を吸い寄せてしまう。

 派手な造作ではないが何とも言えない愛嬌を持つ有利は、本人はそうと全く認識していないのだが…ふとした瞬間に見せる眼差しや仕草がはっと目をひく…そういう少年であった。

 素直に伸びる漆黒の頭髪に黒目がちな大粒の瞳、野球をしているわりには華奢な体躯と屈託のない瑞々しい笑顔…。

 いかにも清らかな、少年らしい少年だ。

 とにかく、傍で見ていれば見ているほど…そのころころと変わる豊かな表情や若木のようにすんなりとした肢体がみせる仕草に、飽きもせず見惚れてしまうのだった。

 村田も案の定、意識を誘われていたのだが…じぃっと不思議そうに見返されたことで本題を思い出した。

「痴漢とか…いた?」
「んー?そりゃあんだけ込んでれば不埒な奴もいるだろうな。…たく、なんだってああいう連中っているんだろうな?身動きの出来ない電車の中でこっそり触られたりしたら、女の子は恥ずかしいのもあってなかなか言い出せないよな…きっと」

 一本気な有利のことだ、それらしき状況を見つけたりしたらすぐに痴漢を捕まえようとするに違いない。

 そして…返り討ちに遭いそうな気もするのだが…。

 実際、以前…村田が不良に絡まれていたところを救おうとして、有利は洋式便所に顔を突っ込まれるという悲惨な体験をしている。

 危うく窒息死しかけたところを、村田が呼んできた警官に助けては貰ったのだが、今でもあの事はちょっとしたトラウマになっている…。

 そして…その事は、村田の中では表に出して見せるよりもずっと大きな恩義になっているのだった。

 今も、有利を見つめる瞳は真剣味を帯びていて、いつもの飄々とした…悪く言えば巫山戯たような態度は見受けられなかった。 

「そうじゃなくて、君が痴漢をされたりしてないかって聞いてんの」
「…はぁ?俺、男だよ?」
「それがさ…今、白鷺線に《怪人》が出るって噂があるんだよ。男…それも、学生服を着た男子相手に痴漢を働くっていうんだけど…ちょっと、痴漢なんて軽犯罪で括るには酷すぎるような話を聞いたんだ…」
「男限定の痴漢?マジでぇ!?」

 素っ頓狂な声を上げる有利に、村田は学校で聞いたという噂について説明してくれた。


 何でも、その《怪人》とやらは背後から忍び寄って、目星をつけた少年の首筋に特殊な薬を注入するのだという。刺されたときにはちくりとはするが、暫く変化は出ないし、何しろ混んでいる電車内でのことだから、大抵の少年は気のせいか悪戯かと思ってそのまま放置する。

 すると…次第に、身体が熱くなっていく。

 どうもこの薬…かなり高濃度の《媚薬》であるようなのだ。

 若い身体が否応なしに煽られていき、性的な反応を見せ始める様子をじっくりと視姦した後…《怪人》はそっと忍び寄って、痴漢を働くのだという。 

 そして、少年が達して立っていられなくなると、如何にも車酔いをした知人を介抱するようにして車両外に出て、公衆便所に連れ込んで強引にセックスしてしまうのだというから、これが事実であるとすれば痴漢というよりも強姦魔である。

「なにそれ…酷ぇ…っ!」

 有利はいたくご立腹の様子だが、それは自分がその危険に晒される可能性を顧慮していると言うよりは、被害者への同情と犯人への憤りのみを感じているようだ。

「うん、だからさ…渋谷、その犯人が捕まるまでは白鷺線には乗らないようにしたらどう?バスも通ってるだろ?」
「えー?でも、定期もう春休みまでの分買ってるもん」
「君んちの親御さんなら買い直してくれるって!特に、お兄さんあたりに話せば一発だよ?」
「俺が痴漢されそうだからバス通にさせてくれって?笑われるのがオチだって!」

 実際問題…有利の家族からの溺愛ぶりを考えれば、村田の発言の方が可能性としては高いのだが、有利はぱたくたと手を振って取り合わなかった。

「それにさ、もし同じ車両に乗ってても俺がそーゆーのの対象になる事なんてないよー。俺、美少年じゃないもん」

 友人の頑ななまでに低い自己評価に、村田は頭を抱えてしまった。

 大切なのは有利がどう思うかではなく、痴漢がどう餌食を選択するかだというのに…。

それには、以前彼が受けたトラウマの影響もあるのかも知れないけれど…。

『僕を助けたあと…警察の事情聴取で結構嫌な言い方をされたみたいだもんな…』

 村田を責めないようにと気遣ってか、何を言われたか話してくれたことはないが…有利の目元が、事情聴取のあと悔しそうに歪んでいたのは鮮明に覚えている。

「ねぇ…渋谷……」
「村田君、渋谷君、そろそろ良いかい?」
「あ…はーいっ!」

 店長のお呼び出しが掛かったことで結局その話は有耶無耶になり、有利は翌日の月曜日もいつも通り白鷺線に乗車することになった。

 そこで、自分の運命が変わるとも知らずに…。




コンラートside:2

 

『この混雑は…正気の沙汰じゃない…っ!』

 月曜日の早朝6時30分…。

 白銀のボディを持つ白鷺線車両に乗り込んだコンラート・ウェラーは、念のため少し早めに出てきたにもかかわらず…予想を遙かに上回る乗車率に、乗り込んでから5分にして音を上げそうになっていた。

 車両が揺れるたびに肋骨をひし折りそうな勢いで巨漢のサラリーマンがもたれ掛かってくるし、自分の世界に没頭した青年は携帯電話で喋りまくるし…こんな状況に毎日浸っている人々の気が知れない(強者の老人は、この環境下で立ったまま新聞を読んでいたが…)。

 明日は…いや、今日の帰路からは、何が何でもレンタカーを借りつけよう…っ!

 コンラートは心に強く誓った。

「妹尾〜妹尾〜」

 比較的大きめの駅に着くと、どっと客が降り始めた。

 降り口付近にいたコンラートは身体を突っ張らせて波に耐えていたが、その肩口がちょいちょいっと何かにつつかれた。

 どうやら、傍らに位置していた少年が指先でつついているらしい。

「…何か?」
「えと…こういう時はですね、いっぺん…この駅で降りる人達と一緒に降りたら楽ですよ」

 声を掛けてきたのは、学ラン姿の男子生徒だった。

 やや小柄な体躯だが、生き生きとした律動感を感じさせる体つきをしている。

「勿論、すぐにまた乗り込まなくちゃいけないけど、流れに逆らって立ってるよりは楽だと思います…多分」

 言っている途中で差し出がましいと感じたのか、少し自信なげな口調になるが…言われるままにコンラートが一度降りると、その少年も一緒に降りて、今度は乗り込む乗客に合わせて再乗車する。

 なるほど、波に逆らっているよりは随分と楽だ。

「どうもありがとう、助かったよ…。電車に乗るのは初めてなもので…戸惑っていたんだ」
「えへへ…お節介しちゃってすみません。でも、喜んで貰えたんだったら良かった!」

 にこ…と笑うと、鮮やかな青葉が陽のひかりを浴びて輝くような…何とも言えない爽やかさを感じる。

 今時珍しいような素直な少年だ。

「君は高校生?」

 小柄なので正直なところ《中学生かな》…とも思っていたのだが、このくらいの年頃の少年は年下に見られることを厭うだろうと思ったのは正解だった。

「うん、1年だよ…です」

 敬語に慣れていないのか、慌てて語尾を直す様子が微笑ましくて、ついくすくすと笑ってしまう。

「う…すみません……。俺、敬語って慣れなくて……」
「いいよ、俺は君の先輩でも上司でもないんだから。それに、電車の乗り方については君の方が先輩だろう?さっきも俺に教えてくれたしね。だから…気にしないで?」
「そう?」
「ああ」

 こっくりと頷くと、少年はやはり良い笑顔でにぱりと笑った。

 コンラートは暫くの間…少年と何と言うことはない会話を続けた。

 話してみても少年は実に朗らかで、コンラートがこの車両に乗り合わせた事情や、満員電車に驚いている様子を聞くと、楽しそうにころころと笑った。       

 この窮屈な電車に乗って、初めて楽しいと思えた瞬間だった。

 ただ、相手はもう二度と会うことはないだろう少年であるため、名前を聞いたりはしなかったし、コンラートも名乗りはしなかった。

 そうしている内にも人の波は動き、次の駅で降りようとする人々の群れに押しやられて、少年は車両の奥の方に流されていってしまった。

 離れていく少年と目が合うと、心なしか残念そうに手を振ってくれる。

 コンラートの方も少年と声を交わす事が出来なくなると、また車両の中が無味乾燥で窮屈なだけの空間に戻ってしまった様に感じた。

『特別…凄く重要な話をしていたわけではないんだがなぁ…』

 少年の持つ何とも言えない空気感が心地よくて…ほんの僅かな時間ながら、えらく楽しいひとときであったように思うのだ。

 時折視線をやると、やはり向こうの方もこちらを気にしているらしく、視線がかち合うことがある。

 そうすると、決まって少年は《にこっ》と笑ってくれるものだから、ついついこちらも微笑み返してしまうのだった。

『………何をやってるんだ俺は……』

 軽く自嘲しつつも、ぽぅっと胸に灯る温もりが心地よくて、飽かず何度も繰り返してしまった。

『次の駅で人が動いたら、思い切ってあの子の方に流れていってみようか?』

 折角だから満員電車最後の思い出を楽しいものに変えるべく、積極性を出してみるのも悪くない。

 そう思いながらタイミングを推し量っていたコンラートは、ふと…少年の様子が変わったことに気付いた。

『……?』

 少年は幾らか青ざめた顔色になり、首筋をやけに気にしている。
 よく見ると、右の首筋…詰め襟の上縁辺りの所に血が滲んでいるのが伺えた。
 掻いてしまったのだろうか?

 様子を見に行こうと少しずつ少年の方に寄ろうとするが、人の波に阻まれてなかなか進めない。
 その間に、少年の眉根は困り切ったように寄せられ…大粒の黒い瞳は淡く水膜を被って潤み始めており、頬は真っ赤に上気していった。

 何かおかしい…少年の身に、なにか異変が起こっているらしい。

 最初は乗り物酔いでもしたのかと思ったのだが、少しずつ寄っていくうち…少年の背後に、背中合わせにぴたりと張り付く男の動向に気付いた。

『…何をしているんだ!?』

 男は明らかに興奮している様子で、しきりに少年の尻をまさぐっている。
 そして、図に乗った手はとうとう…少年のズボンの中へと手を滑り込まそうとしたのだった…!
 その時…少年の瞳が縋るようにコンラートへと向けられた。

『たすけて…っ』

 唇が…その言葉を意味する形に動いた。…と、思う。

 少なくとも、彼の瞳には強い恐怖と嫌悪感が充ち満ちており…その切羽詰まった色合いに、コンラートは我を忘れて叫びそうになった。

『その子に…触るなっ!』

 だが、今まさに喉奥から発しようとした声は、不意に響いた駅の警笛によって遮られた。
 駅に着き、扉が開き…人の波が動く。

 それに合わせて一気に少年の傍に詰め寄ったコンラートは男の手を取ろうとするが、するりと逃れた男はそのまま素早い動作で人の波に乗り、新たに乗ってきた客の間に紛れてしまう。

 これでは、男がこの駅で降りたのか、まだ乗り続けているのかさえ判別できない…。

「くそ…っ!」

 中肉中背で特徴のない風貌をしたサラリーマン風の男だったのは確かだが、この人混みの中、それだけの特徴で人物を特定するのは不可能に近いだろう。

 ことに、内容が内容だ…。

 男が少年に痴漢行為を働いていたなど、明確な物証でもない限り言い募ったこちらの方が名誉毀損で訴えられる可能性が高い。      
 舌打ちしたいような思いに、奥歯がぎしりと鳴った。

「君…大丈夫かい?」
「うん…あ、ありがとう……」

 コンラートが傍に寄ると、少年は怯えた瞳に微かに安堵の色を浮かべて見上げてきた。

 強い嫌悪感のせいだろう…首筋や微かに覗く前腕部には、可哀相なくらいはっきりと鳥肌が立っていた。

「今のは…その……」
「うん、痴漢……みたい」

 こくっと頷くと、少年はうるりと瞳を潤ませ、悔しそうに唇を噛みしめた。

「悔しい…俺……、友達からあいつのこと聞かされてたのに…尻なで回されて…気持ち悪くて…恥ずかしくて……何にも出来なかった………」

 コンラートはしょげかえる少年を慰めるように優しく頭髪を梳いてやった。

 指が触れた瞬間にはびくりと震えた少年も、乾いた大きな掌の感触に少しずつ安堵していくのか、ふぅ…と深く息をついて瞼を閉じた。

「友達から聞いたって…そんなに噂になっている奴なのかい?」
「うん、《白鷺線の怪人》とか言われてて、男子学生を狙って痴漢するとかって…」
「怪人とはまた…痴漢にしては大層な通り名だね」
「…うん……」

 少年は何かまだ知っている様子だが、言いにくそうに唇を噛むと…黙り込んでしまった。

「何とか捕まえられれば良いんだが…」
「俺のトコ…また来るかな?」

 怯えを滲ませた少年を思いやり、コンラートは優しく微笑みかけた。

「大丈夫。君が降りるまで、俺も一緒にいるよ?」
「でも…会社遅れちゃうかも。俺の高校、終点で降りるんだ」
「いいさ。今はまだ仕事もさほど忙しくない時期だし…恩人の君を《怪人》の魔手に晒すわけにはいかないからね」

 冗談めかしてぺろ…と舌を出してみせるコンラートに、少年はやっと笑った。

 だが…その漆黒の瞳には、滲むように絡みつく不安と怯え…そして、それらとは意味を異にする色彩…が、ちろりと掠めて行くのだった。

 それを…徒(あだ)めいた《艶》のように感じたのは、単なる錯誤だろうか?

 コンラートは正体の分からぬ感覚を胸を覚えつつも…少年を護るべく、その逞しい体躯で囲い込むようにして車両の隅に陣取った。





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