「学園天国」







「護衛…お前…っ!な、何のつもりだ!?」

 珍しくも平日の朝7時から起き出して、食卓でぼんやりと朝食をとっていた渋谷勝利は、目の前に登場したあり得ない光景にぽろりと囓り掛けのトーストを口から落とした。

「勝利…汚っねぇなぁ。勿体ねーし」
「いやいやゆーちゃん…ゆーちゃんが反応しなくちゃいけない事はそこじゃないデショ?お前だっておかしいと思デショ?」
「……まぁ…多少、違和感はあるけど……………」
「そんな…ユーリ」

 そう…昨日の予告通り、眞魔国からやってきた百歳越えの軍人さんはピカピカの学ランに袖を通し(ご丁寧に第一ボタンまできっちり填めて)、やはりピカピカの学生鞄を携えているのだ。

「そんなに似合いませんかねぇ?」
「いや…似合ってはいるよ?不思議なくらい」

 実際…しなやかな肢体にぱりっとした漆黒の学ランはよく似合っており、特に立ち姿などはぴしりと通った背筋の美しさを反映させて、溜息が漏れるほどに凛々しい佇まいを見せる。

 では何故違和感があるかと言えば…ひとえに、《迫力がありすぎる》…のである。

 一分の隙もない武人の動きはどこからどう見ても徒者ではないし、澄んだ琥珀色の瞳に散る銀色の光彩…秀でた額から高い鼻梁に掛けての流麗なライン、薄く形良い唇に浮かべられた品の良い笑みはそこいらで早々見られる代物ではない。

 高貴な血筋の持つ気高さと、野生の獣を思わせる戦士としての闘気…。

 そういったものが、《未成熟・未発達》のレッテルともいえる学生服に包まれている様は、なんとなし《コスプレ》めいた背徳感を感じさせるのである。

「それに…ゆーちゃん、本気で学校なんか行くつもりか?護衛の違和感に吃驚しすぎて突っ込みが遅れたが…お前のその恰好も結構微妙な感じだぞ?」
「恰好つっても…いつも通りじゃん」
「お兄ちゃん…この事態に際して《いつも通り》で通そうとするお前に最も違和感を感じるよ」

 勝利が頭を抱えるのは無理もない話で、カバー性の高いスポーツブラで胸を押さえてあるとはいえ、全体的に甘やかになった容貌や華奢な身体のラインはこれまた《コスプレ》めいた印象をぬぐえない。

「大体…お前に学歴なんてもう関係ないんだから、卒業出来なくたって良いじゃないか」
「何言ってんだよっ!」 

 勝利の発言に、有利はか…っと目の間に火花が散るような怒りを感じた。

 何がどう気に障ったものか自分でも良く分からないのだが…有利は、自分の《学校生活》というものを《意味がない》と扱われたように感じたのだ。

「俺、絶対に高校は卒業するんだからなっ!そりゃ…勝利の行ってた学校とかに比べたら卒業したって言っても大した学歴になる訳じゃないし、眞魔国に行ったらそれこそ中退か卒業かなんて意味ないだろうけど…でも…でも、俺は…っ」

 こんな時、うまく想いを口に出来ないもどかしさは有利の最も忌むところである。

『どうして俺の頭はこう…っ!』

 言葉を紡ぐ力がないのだろう? 

 この胸の中には…伝えたい想いが確実にあるというのに。

「とにかく!俺は学校に行く、絶対に行く!」

 喧嘩はしても朝ご飯は抜かない健康少年(少女?)渋谷有利は、どっかとダイニングの椅子に腰掛けると、むしゃむしゃと大口でトーストやらサラダやらを頬張りだした。

 その様は頬袋一杯に餌を頬張るエゾモモンガのように愛らしい。

「ああ…ユーリ。そんなに頬張っては喉に詰まりますよ?」
「む…んぐ……」

 仄かに桃色の空気を醸し出しながら、有利の頬に付いたパンくずを指で拭うコンラート(当然、拭ったその手は自分の口に向かう…)に、勝利は激しい目眩を感じた。

『ゆーちゃん…お前、本当にそいつを連れて行くのか?』

 意固地になった有利は、昔から勝利が何を言おうと聞き入れたりはしない。今度も何か逆鱗に触れてしまったらしい様子から見ると、兄の言うことなど聞く耳持たないスタンスのようだが…。

 この男を連れて平和な学校生活を送れるつもりでいるとしたら…この弟は、予想以上の暢気者なのではなかろうか…と、兄は兄弟愛に基づく不安を感じていた。



*  *  *




 ざわわ…

『はちゃ…』

 学ランとセーラー服に身を包んだ生徒達が、一斉にこちらを向いたのが視覚よりも肌合いから感じられて…有利は困ったように眉根を寄せた。  

コンラートの方はと言うと、こちらは衆目の中でも臆する気配もなく…綺麗に伸びた背筋が印象的な独特の歩様でもって、ゆったりと有利のペースに合わせて歩いている。

「渋谷!あけおめー」
「渋谷君、おはよー」
「ねえねえ、一緒にいる人…何者?」

 有利の所属するクラスの生徒達が数人話しかけてくると、やや遠巻きに様子を伺っていた面々も勢いづいて集まって来た。

「凄ーい、恰好良い人…ね、ドラマの撮影か何かなの?」
「あのー…日本語分かります?」
「ええ、勿論」

 気安くコンラートが応えれば、《わっ!》と歓声が上げて生徒達が詰め寄り…わさわさと人垣が出来はじめると、周りより頭一つ分は大きいコンラートは園児に囲まれた保父さんの様に見える。

『無邪気なものだな…』

 コンラートの方も、普段目にする魔族より遙かに華奢な子ども達の姿に思わず微笑みが浮かんでしまう。すると…

きらら…

 …と、クリスタルを揺らしたような彩りが冬の大気を震わせた。

 琥珀色の澄んだ瞳に舞う銀色の光彩は、夜空を飾る星々を思わせる輝きで心に沁みる。慣れている者でさえ容易く蕩かしてしまうその笑みは、耐性のない子ども達には強烈すぎる代物であった。

 女子も男子も…一様に頬を上気させ、言葉を失ってぽかんと口を開いてしまう。

「ふわぁぁ…お、王子様みたい……」
「綺麗……っ!」

 あながち間違ってもいない感想を熱い吐息と共に零す生徒達は、人混みがネズミ算式に人混みを誘う方式で増殖していき、見かねた教員の手で散開されることとなった。

「コンラート・ウェラー君だね?書類上の確認事項があるんで少し時間とれるかな?」
「ええ。それでは…すみません、ユーリ…。終わり次第教室に向かいますので」
「うん、先いっとくよ」

 体育教師に促されてコンラートが連れられていくと、今度は有利の周りに人が集まり始めた。

「渋谷君っ!あの人と知り合いなの!?」
「んー…うん。その…俺の従兄弟なんだよ」
「そーいや渋谷って帰国子女だっけ?英語の成績だけ見るととても信じらんないけど…」

 有利と付き合いの長い赤井敬志が笑いながら言うと、周りの友人達も同意だったのか一斉に笑い声が上がる。

 しかし…

「悪かったな!」

 ぷく…っと頬を膨らませて有利が眉根を寄せると、キュートな顔立ちが一層強調されて何とも言えない愛らしさを醸し出すものだから、友人達はこれまた一斉にごきゅりと喉を鳴らして瞠目してしまった。

「……渋谷。なんかお前…」

『可愛くね?』

 とは流石に聞けず、友人達は互いに目線を交わしつつ状況を伺った。

『なんか…なんか……渋谷君って、こんなに可愛いかったっけ?』
『どうしよう…俺いま……渋谷にときめいちゃった…っ!』

 小柄ながら男気があり、さっぱりとした性格の有利は男女を問わず人気が高い。

 クラブ活動の英雄や生徒会の重鎮のような扱いではないものの、一度同じクラスになったり、何かの事情で話す機会があったものは一様に、《渋谷?ああ、何か良い感じの奴だよね》という意見の一致を見る…そういう人物であったわけだが…。

 彼は…こんなにも愛くるしい容貌の少年だったろうか?

 まろやかな頬と、ぷく…っと尖らせた桜色の唇…は、前もこうだった気がする。

 つぶらな瞳…は、ちょっと目尻が甘く垂れ気味で、睫の密度と長さに伸張が見られる気がするが、そこまで大きく変化したというほどではない。

 だが…身体の端々から滲み出るこの艶やかさは一体何なのだろうか?

 若葉のように爽やかだった印象が、咲き初めた白い華の愛らしさにとってかわったような…そんな印象の変化に、友人達はそわそわと挙動不審な態度を取り始めた。

「渋谷…変な事言ってゴメンな?気ぃ悪くしたか?」

 まず…先程笑いを取った赤井が殊勝に謝ると、一緒になって笑った連中も笑みを浮かべつつ小さく礼をしていく。

「え…いや……別に……」

 言われ慣れているからかい文句にそこまで本気で気を害したわけではない有利の方は、返って居心地の悪さを覚えて当惑してしまった。

「ほんと…ゴメンな?俺…つい安い笑いがとれるネタばっか選んじゃうから…。人を傷つけることがあるぞって親父にも怒られたばっかだったのにさ…」
「どうしたんだよ赤井…俺、本当に気になんかしてないよ?」
「ほんと?」
「うん」

 安心させるよう、にっこりと想いを込めて微笑めば…

 凍てつく冬の凍気すら綻ばせる柔らかな微笑みに、ほわぁ…と友人達の心に白い華が開花した。



*  *  * 




 始業式の場でもコンラートについての説明が簡単に為されたが、教室に入るとLHRのはじめに再度自己紹介が行われた。

「初めまして、コンラート・ウェラーと申します。冒険野郎危機一髪な父とジャングルの奥地や絶海の孤島を旅していたので少し老けて見えるかも知れませんが、一応皆さんと同い年です。アメリカのラインバート高校に籍を置いていたのですが、このたび日本に生活基盤を移すことになりましたのでこの学校に転校してきました。卒業までの短い期間ではありますが、どうぞよろしくお願いします」

 流暢な日本語の奏でる美しい声音に、クラスメイトはおろか…担任の女性教諭までもがうっとりと息を呑んで見惚れてしまう。

「先生、自己紹介はこのくらいでよろしいでしょうか?」
「え、ええ…っ!結構ですわっ!!」

 心なしか声の上ずる女性教諭は、わたわたと歪んでもいない眼鏡を人差し指で調整すると、手に持っていた日誌を力強く握りしめて教育者としての自分に立ち返ろうとした。



『あーあ…尾野先生、顔真っ赤……』

 有利は当然のように自分の隣の席に座るコンラート(そうなるように手を回したに違いない)に小さく手を振りながら、教育道一本で今年40歳を迎えた尾野先生を思いやった。

『クラスの子達もみんなコンラッドのこと見てら…』

 無理もないことではあるが、こうして衆目を集めるコンラートの姿を見ていると…この人が自分の想い人であることに対して面映ゆいような、切ないような気持ちになる。

 眞魔国でも救国の英雄として尊敬と憧憬の念を集めるコンラートではあるが、やはりあちらでは有利は《王》であり、コンラートは《臣下》だ。

 人物本来が持つ格ではなく、肩書きによってではあるがコンラートに対して優位な立ち位置にある有利は、そこまで強い引け目を感じることはない。

 だが、こうして《高校生》という同じスタンスに立ってみれば、歴然とした差というものを感じるのだ。

 コンラートの持つ華やぎ…落ち着き…全て、有利には持ち合わせない代物だ。

『俺なんかが相手で…本当に良いのかな?』

 辺りの生徒達をちらりと見回してみれば、多少脱色している者もいるが大抵の基本髪色は黒で…瞳もそうだ。この中では異質なのはコンラートだけで、有利は平々凡々とした一高校生に過ぎない。

『そーだよ。コンラッドって…眞魔国では日本人を見るの俺と村田だけだったけど、こっちじゃ唸るほど双黒だらけなんだもん。みんな凄い美形に見えるんじゃないのかな?』

 眞魔国では至上の宝玉と謳われた有利の美貌も、こちらでは特異性を主張出来るような代物ではないのではないか…。そう考えたら、ぐ…っと胃の腑に石でも詰め込まれたみたいに気が重くなる。

『ぅ…やだな。こういうの…』

 有利は原則としてさっぱりきっぱり上向き一直線指向なのだが、ことコンラートに関することだけは時折やたらと後ろ向きになってしまうことがある。たとえば、想いを初めて自覚した頃などはその際たるものだった。

 この思いが薄汚い欲望があるかのように思いこんで…一人で悶々として…自分が酷く矮小な生き物に思えたものだ。

 それが嫌で、ピサの斜塔から飛び降りる勢いで告白したわけだが…まさか想いが通じ合った今になってぶり返すとは思わなかった。

 はぁ…

 合わせた手の中に吐息を漏らすと、集中出来ない頭ながら…何とか尾野先生の口にする連絡事項に思考ルートを変更するのだった。



 一方、そんな有利を見守るコンラートの方はというと…

『ユーリ…可愛いなぁ……』

 時々、自分の方に視線を寄越してくる様子に激しく萌えながら、幸せそうな笑みを浮かべている。

『それにしても…同じような服装の生徒達の中でも際だってユーリは可愛いなぁ…』

 眞魔国からこちらに来る際に、笑いながら《あっちじゃ双黒なんて珍しくないんだぜ?俺程度の奴なんてそれこそ十人並みなんだからな》と有利は言っていたが…どうやら、有利の自己評価というのは随分と強固に低設定を極めているようだ。

 どこからどういう角度で見たところで、有利の可憐さは小揺るぎもするものではない。

 それよりも気がかりなのは、有利を見る他の生地達の視線だ。

『あの連中…絶対、ユーリに気があるに違いない』

 特に、日本人高校生としては大柄で目鼻立ちも整った《赤井》と呼ばれる男子生徒などは、先程から切ないような色を載せて有利を見つめており、今も…窓から差し込む日差しに長い睫を伏せ、眩しそうにしぱしぱと瞬く有利に蕩けそうな笑みを浮かべている。

『要警戒…だな』

 コンラートの瞳が底冷えするような酷薄さを浮かべると、赤井は正体の分からぬ寒気に襲われて背筋を震わせた。

 

*  *  *




 翌日…1限目の数学が終わると、女子生徒達はコンラートに話しかけたい心を抑えつつ、2限目の体育のために更衣室に向かった。

「コンラッド、とっとと着替えてグランド行こうぜ!」

 頓着なくそう言う有利に、コンラートは小声で耳打ちをする。

「ユーリ…まさかここで着替えるおつもりですか?」
「あ……っ!」

 途端に有利の顔色がさっと青ざめる。

 一般的な公立高校に個室更衣室などあるはずはない。それどころか…男子更衣室は半ば野球部の部室と化しているという事情があり、殆どの生徒はクラスで着替えるのが普通だ。

 思わず、慣れた学校環境下に状況を忘れた有利は学ランを半ばまで脱ぎかけている。

「う…シャツの上に直接ジャージ着ちゃおうかな?」
「それが良いですよ。俺が目を引きつけていますから、さっと着ちゃってください」
「目を?」

 どうするつもりかと小首を傾げている間に、コンラートは思い切りよく学ランとシャツとを脱ぎ去り、ランニングに包まれた逞しい上半身を衆目に晒した。

「わ…っ!」

 どよ…っと教室の空気がざわめく。

 高校生離れした精悍な肉体に対する賛辞もあるが、それ以上に…その身に刻まれた傷跡の凄惨さに、不慣れな生徒達は悲鳴に近い声を上げてしまったのだ。

「コンラッド君…その傷って……」

 おずおずと問いかける赤井に対して、コンラートは屈託なく傷を曝しながら応えてやる。

「ああ、父が冒険家だと言ったろ?俺も巻き添えで旅に付き合わされていたからね、生傷が絶えなかったんだよ」
「この傷とか凄いな。動物か何かにやられたのか?」
「ああ…この脇腹はアマゾンでワニにやられてね…。腸がはみ出て大変だったよ」
「へぇぇ…っ!」

 素直に感心する生徒達に囲まれたコンラートを見やりながら、有利は屈み気味にささっと着替える。

『ゴメン…コンラッド……』

 あの凄惨な戦争の傷跡を盾として有利を守ろうとするコンラートに…知らず目元が滲んでしまう。

 何時だって彼はこうやって、有利をあらゆる危険から護ってくれるのだ。

 時々彼自身が《危険》そのものと化すことはあるが、それは有利が容認しているので問題はない(←ないんだ…)。

「コンラッド…着替えたらすぐ行こうぜ?白崎先生、時間に煩いしさ」

 有利はちょこたことコンラートに寄っていくと、気遣わしげに指先でベルトを引っ張った。

「ええ、すぐに着替えますよ」
「あ、ゴメンなコンラッド君。じろじろ見ちゃって…」

 有利の眼差しから自分達の行動を振り返った赤井達は、慌てて謝罪の言葉を口にした。

「いいや、お見苦しいものを見せてしまったね」
「見苦しくなんかないよっ!」

 間髪入れずに放たれた大声…それは、有利の発したものだった。

「コンラッドの傷は…恰好良いよ!」
「ユーリ…」

 真剣そのものの眼差しは真っ直ぐにコンラートに向けられ、それを見返す瞳もまた真摯に有利へと向けられる。

『あんた自身だって…あんたのことを貶めるような物言いは許さないからな…っ!』

 国を…民を護って傷ついたその身体は、有利にとってどんな宝物よりも素晴らしい肉体なのだ。決して…決して揶揄いの対象になるようなものではない。

「ありがとう、ユーリ…」

 コンラートの眼差しが、先程までの社交辞令的な整然さを失い…解れると、大気の中に甘やかな華やぎが漂って教室中に満たされた。

『う…っ!』

 息が止まるほど濃密な空気に、周りで見ている生徒達は精神的に窒息死するところであった。溢れかえるコンユ体が教室内の恕限度(許容範囲)を越えたのだろう。 

 冬場は、教室の定期的な換気が必要です…。  

「グ…グランドに行こうぜ、な!?」
「お、おうっ!!」

 無理矢理テンションを高めて拳を突き上げながら、赤井達は駆け出した。

 一刻も早く、この桃色の大気から脱出することで現実から目を逸らそうとしたのである。



*  *  *




「あれ…?」

 その日の放課後、友人達と教室を出ようとした赤井はポケットが妙に軽いことに違和感を覚えた。

「どーしたよ赤井」
「あー…俺、部室に携帯忘れてるわ。先帰っててくれよ」

 3年の部活動はこの時期当然終了しているのだが、春まで部長をしていた赤井は何かと頼りにされており、今日も昼休憩中に春合宿の件で新部長と引き継ぎをしていた。どうやらその時、部室に携帯電話を置いてきてしまったらしい。  

 赤井は鞄を提げて部室に向かい、思った通りの場所で携帯を見つけると…体育館から響いてくる馴染みのある物音、威勢の良い掛け声に耳を澄ませた。

 リズミカルにボールの弾む振動…小気味よく床を擦るシューズの音…。

 何もかもが彼にとって外すことの出来ない日常であったが、一時的にとはいえ今は受験体制の中で引き離されている。

 赤井はスポーツ推薦の引きもあったのだが、正直2年次に膝を痛めてからは薄々選手としての限界を感じつつあり、体育科の教諭を目指して近場の大学を受験する予定だ。

『そういえば…渋谷ってどこに進学するんだっけ?』

 渋谷とは中学からの付き合いで、あの華奢な容貌からは信じがたい《監督殴り事件》の時にも、教員に対して有利の弁護をしたような仲だ。

 単純明快な有利の性格については飲み込んでおり、何を考えているのかその行動様式など大体察しが付いたものなのだが…高校に入学してからだろうか?彼が酷く悩んだりしていても、事情を話してくれなくなったのは…。

『そりゃ…高校生にもなりゃあ、中学の頃とは悩みの質と関わってくるもんなのかも知れないけどさ…』

 赤井には、それが酷く寂しく感じられる。

『あのコンラッドって奴には…色々話してんだろうな…』

 何となく…そんな気がする。

 今日の着替えの時の反応しかり…また、些細な仕草や目線の交わし方からしてそうだ。
 言葉にしなくともどこかで深く通じ合っているような、密接な空気が彼らの間にはある。

『寂しい…のかな?俺は……』

 その時、赤井は聞こえてきた声が自分の想像のものなのか現実のものなのか測りかねた。まことにタイミング良く…と言うべきか、今まさに懸案事項としていた人物達の声が聞こえてきたのだ。

『…隣か?』

 バスケ部や、幾つかのクラブの部室は体育館倉庫と密接して建っており、小さな天窓で繋がっている。どうやら、二人の声はその体育館倉庫から聞こえるようだ。

「あれー?おっかしいなあ…無い…」
「この辺に落としたんですか?」
「うん…多分。後の心当たりは全部探したもん」

 何か有利が体育倉庫に置き忘れたものを探しに来たらしい。

「んー…無いなぁ」
「そんなに大切なものなんですか?」
「うん、家の鍵がついてるし…それに、キーホルダーが友達に貰ったやつなんだ」

 有利の言葉に、《ああ》と察しが付く。きっと、昨年の誕生日祝いに赤井が渡したキーホルダーのことだ。留め具の部分が革製品で、そんなに高価な物ではないが焼き込まれた獅子の横顔がえらく気に入っていた様子だった。

「友達がくれた物ですか。そうですね…あと2ヶ月もしないうちにお別れですしね。思い出の品として、探し出さなくてはなりませんね」
「………うん」

 しんみりとしたコンラートの口調と小さく呟く有利の声に…赤井の胸は《きしり》と捩れた。

 そうだ…異なる進路を辿る有利とは、もうそうそう会う機会は無いだろう。
 今まで一番の友達と思っていた彼だが、高校に入ってから感じていた乖離は、今度は物理的な距離をもって二人を隔絶することになる。

「あのさ…コンラッド…」
「なんです?」
「友達に…眞魔国のことって、言ったらマズイ?」
「友達とは…例えば誰です?」
「ん…赤井とか」 

 とくん…と、胸の中で心臓が跳ねる。

 シンマ…なんとかという妙な単語はよく分からないが、《友達》というカテゴリーのトップに名をあげられたことが、凄く…凄く嬉しいという事実に自分でも驚いてしまう。

 何故だか…胸の内にひたひたと暖かいものが押し寄せてきた。

「赤井はさ…俺が中学の時に監督殴って退部になった時に励ましてくれたりとか…、高校入ってからも、草野球チーム作ったらどーよとか薦めてくれたんだ」
「眞魔国のことを、言っても信じてくれなかったら?」

 コンラートの言葉は一見冷たいのに、何故だか声音は何処までも優しく…何か目的を持って有利を促しているかのようだった。

「うーん…そうなんだよなぁ…《普通、信じられい》って引くよな…。でも、俺…このまま高校卒業して、こっちの世界との結びつきが無くなっちゃうの…嫌なんだ。上手く、言えないんだけど」
「良いですよ、ユーリ…ゆっくり考えて、俺に話して下さい」

 暫く沈黙が続いたが、はらはらと気を揉む赤井とは対照的に、体育倉庫にいる二人にとっては、その沈黙は苦痛となるものではないらしい。慌て者の有利は彼らしくもなくじっくりと考え込み、コンラートは急かすことなく穏やかな沈黙を守っている。

 そして…漸く有利が口を開いた。

「うん…そりゃあ、信じてくれるかどうかもわかんないんだけど…でも、俺…こっちの友達とか野球仲間とか…こっちでの暮らし自体も大好きだったから、どっちも大切にしたいんだ。だから…俺、赤井とか…後何人か、信じてくれてもくれなくても良いから…本当のこと、言っときたい…」
「そう…」

 それは…優しい声だった。
 柔らかく…小さな子どもをすっぽりと包み込む、肌合いの良い毛布のように暖かな…そんな声だった。

「全て、意味のあるものですよ。ユーリ…あなたがこちらで為したこと…結びついていた人々の全てが、今のあなたを構築している。何一つ、無駄なものなどない。それらで構成されているあなたをこそ…俺は愛おしみます」
「コンラッド…」

『……………』

 有利の言葉は物凄ーく…赤井の心を温めたのだが、如何せん…その後コンラートと共に醸し出した桃色大気が天窓越しに流れ込んでくるのだろうか…?赤井は妙な息苦しさを覚えて喉元を押さえた。

 しかし、赤井の困惑はこんな物ではすまなかった。 

「コンラッド…その…あの………………」

 有利の声の末尾が、恥ずかしそうに捩れた。

「コンラッド…あの……お尻、何で撫でてんの?」
「ああ、すみません…瞳を潤ませたユーリがあまりに可愛いもので…」
「はぁぁぁぁ…………っ!?」

『はぁぁぁぁ…………っ!?』

 赤井の心の声と、有利の声帯が奏でる音とが見事にシンクロした。

『何言ってんだ?…』

 いや、これはきっと何かの冗談なのだ。

 多分、笑いながら《悪い悪い》とか何とか言うのだろう…そう考えた赤井の予測は極めて楽観的なものに過ぎなかった。

「ちょ…待っ!……そんなトコ弄っちゃ…っ!」

 くちゅりと湿った音が伝わってくるのは一体何処から零れる音なのだろうか?赤井の頬は《濡れる》場所を想像して真っ赤に染まった。

「すみません、ユーリ…寒いですか?それでは、あなたの肌に触れられないのは残念ですが、服は着たままでしましょうか?」
「いや…そういう問題じゃなくて…っ!」

『うわぁぁぁぁっっっ!本気モードだこいつっ!!』

 困ったように恥じらう声に、赤井の心の絶叫がリンクする。

「ゃ…駄目……コンラッ……っ」 

 ぬぷ…
 ちゅく……

 くぐもるような有利の声が次第に甘さを含んで蕩けて行くと、生々しいような…ぬるつく水音がひんやりとした大気の中で、異様な熱さを赤井に届けてくる。

 あの…華奢な体格の有利が外人生徒に蹂躙されているのだとしたら、自分は今すぐ救援に向かわねばならないのではないか?

「駄目……やぁ……っ」

 声を潜めようとするのに、一体何処を触られているものか…堪えきれない涙混じりの嬌声に、あらぬ場所が熱くなってしまう。

『うわ…渋谷……っ!お前なんでそんな色っぽい声…』

 そういえば…今までも男にしては甘い響きのある声だと思っていたが、風邪でも引いたのかなんなのか…年が明けてからの有利はやたらと可愛らしい声をしているような気がする。

『うわわ…ヤバイ……俺まで変な気分になりそうだよ…』

 救出に向かって股間を膨らましているような友人は激しく嫌では無かろうか。
 赤井はぽこんと自分の股間を殴りつけ、あまりの痛みに気絶しそうになった。
 そんな赤井に追い打ちを掛けるような台詞が続く。

「コンラッド…なぁ……ホテル行こう?お袋には早めに友達の家に泊まるって電話するから…」

『渋谷ーっっ!!お前合意!?』

 ストレートと信じて疑わなかった友人の爆弾発言に、赤井は脳味噌が吹っ飛ぶような衝撃を受けた。

 どんな純粋培養で育ったのかと思うような彼は、男同士の恋愛に免疫が無く…というか、受容体が欠落しているような所があり、その気を持ってアプローチを掛けてきた男子生徒は見事な空振りを味わい続けていたのだが…。
 コンラートという男はよくもまぁこのニブチン少年をその気にさせたものである。

『うう…でもまぁ…渋谷が幸せなら、良いか?』

 可愛い少女と歩いているよりも、恰好良い青年と歩いている方が妙に絵ずらが合う友人に、赤井は複雑な心境ながら祝福を送るつもりでいた。

 …が、事態は思わぬ方向に転がり始める。

「電話で…アカイ君にでも頼むんですか?」 

 妙に楽しげなコンラートの声に、どくん…っと赤井の胸中で鼓動が跳ねる。

『まさか…気付かれてる?』

 まだ夕日の差し込むこの時間帯には部室内は明るく、赤井は電気をつけなかった。
 それに、心の動乱に反して動作は最小限だっため、殆ど物音は立てていないはずだ。
 きっと、先程有利が友人代表として自分の名前を挙げたせいに違いない。

 …というか、そう思いたい。

 しかし、赤井の心情など知るよしもない有利はコンラートの問いかけに対して積極的な反応を示した。

「うん、今からでも電話してみようか?」

『うわぁぁぁぁぁっっっっ!!!』

 今電話されたら、一発でばれてしまう。

 赤井の携帯はマナーモードになっておらず、音を消すためには一度携帯を開けなくてはならない。しかし、開けると《ぴろりろりん♪》と電子音が鳴ってしまう設定になっているのだ。

 この距離なら間違いなく体育倉庫に音が伝わってしまうだろう。

 別に赤井自体は悪事をはたらいていたわけではないのだが(寧ろ被害者?)、今ここにいることを知られるのは激しく気まずい。下手をすると、羞恥のあまり有利は二度と口をきいてくれないかも知れない。

『やーめーてぇぇぇぇっっっっ!!!』

 その想いをくみ取ってくれたわけではないのだろうが…怯える子狸のように縮こまっていた赤井の手の中で、携帯が鳴ることはなかった。

 その代わり…再び唇を重ねているらしい水音が響き始めた。





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