「カフェで遭いましょう」−2 『今日の夕方、もし都合が良ければキャッチボールに付き合って貰えますか?』 コンラート・ウェラーからのメールが届いたのは、有利が遅い朝ご飯をもちもちと食べている最中だった。 お誘いの文句に笑顔を浮かべ、提示された時刻と場所の都合も良いことに気付くと、有利はすぐに了解の旨を伝えた。 だが…携帯電話のディスプレイ上に《送信完了》の文字が浮かぶのを確認した途端…ほんの少しだけ、不安が掠めた。 先週の金曜日…車で送ることを申し出てくれたコンラートに拒否反応を示した村田を追っていったのだが、過敏な態度を諭すどころか…逆に説教を喰らってしまったのである。 『僕を追うように言ったから、いい人だって?…渋谷、君ってどうしてそう単純なんだい?そんなの、君のメルアドをゲットしてる安心感のせいに決まってるだろ?いつでも一人で君を誘い出せる…その余裕があるからこそ、そういうことを言うのさ。如何にも真っ当な大人みたいなことを言って、君を信用させるためにね』 友人の主張の殆どは、彼自身の強固な思いこみと疑い深い性質から成る先入観によって構築される理論なのだが、具体的な事例…以前、有利がトイレに連れ込まれた事件のことを引き合いに出されると、そう簡単に一蹴することも出来なくなる。 『君はねぇ…好きでもない男にレイプされるトコだったんだよ?もうちょっと警戒心を持ったらどうだい?』 あの時…最初はカツアゲされるところだったと思いこんでいた有利も、店長と村田に散々叱られてよくよく思い出してみると…確かに、カツアゲする男がはぁはぁと荒い息を吐きながらのし掛かってきて、服を脱がせようとするのはちょっとおかしかったかも知れない。 普通、財布を狙うならズボンのポケットだと思うのに、男は真っ先に有利のタイを狙い、シャツの襟合わせを引きちぎったのだから。 『俺…変態さんにヤバイ事されるとこだったのかな…』 しかし、だからといってコンラートを疑って掛かるのはどうなのだろう? あの男に襲われ掛けたからと言って、彼が自分をそういう意味で狙っていると考えるには無理はないだろうか? 『だってなぁ…』 有利は汚れた皿をシンクに運びながら、壁掛けの鏡にちらりと視線を送った。 艶はあるが、寝癖だらけでぴんぴんと跳ね回る毛先…。 大きいだけが取り柄のどんぐり眼に、精悍さに欠けるすべらかな頬。 小振りでふくっとした唇はどうにも男らしさに欠け、油断するとくちばしのように突き出てしまう。 脳裏に浮かべるコンラート・ウェラーはこうではなかった。 刈り込んだ襟足から伸びる首筋は逞しいのにすらりとした印象で、小振りな頭部に配置されたパーツは派手ではないものの、気品のある風情と野性味とを併せ持つという希有な印象で…特に、涼やかな琥珀色の瞳は見つめられるとドキドキしてしまうくらい…うつくしかった。 身につけたスーツは控えめな色彩ながら、上質な生地を丁寧に縫製したものであることが見て取れ…しなやかな体躯から醸し出される動作のひとつひとつが嫌みなく優雅だった。 『うん…村田、やっぱお前の言ってることは俺のミリョクとやらを過大評価してるよ。絶対』 あんなに恰好良い青年がよりにもよって、平凡な野球小僧など選ぶはずがない…。 その様に結論ずけた有利は、安心して夕方を待つことにした。 * * * 「良かった…来てくれたんだ」 待ち合わせの公園には約束の時間よりも少し早めについたのだが、既に到着していたコンラートが心底嬉しそうな顔で待っていたのに吃驚してしまった。 すっかりやる気満々なコンラートは、シャツの袖を捲って壁に投球を繰り返していたらしい。 「コンラッドさん…早ーい!」 「うん、少し練習しておかないと恥ずかしいかと思ってね。それに…じっとしてると色々考えてしまいそうだったから…」 「色々って?」 「いや…先週、友達にも変な風に誤解されてただろ?やっぱり、いい年した男が野球仲間が見つかったからって、あんなにはしゃいでしまったのは可笑しかったかなと思ってね…」 《野球仲間》…その響きは、きゅうぅ…っと有利の胸に響くのだった。 そうだった…有利も、そうだったのだ…。 中学校で管理野球に嫌気が刺し、高校に入っても意地になって野球部には入らなかったが、ひとりぼっちで壁に投げるボールが…硬質な感触で跳ね返ってくるのがとても寂しかった。 だから…草野球チームで久し振りにキャッチボールをしたとき…生きた球が自分に向かって投げられることに、泣きそうなくらい感動してしまった。 コンラートには休憩時間などに簡単なキャッチボールをしてくれる相手はいるらしいが、それでも、ピッチャーであるらしい彼が思いっきり全力投球できないのは酷く寂しいことだったのではないだろうか。 「可笑しくなんかない…全然、可笑しくなんかないよっ!」 思いの丈が迸ってしまったのだろう。 必要以上に有利の声は大きく、眼差しは熱く燃えていた。 気恥ずかしくて頬が染まるが、それでも…精一杯の想いを伝えたかった。 「俺…嬉しいよっ!俺はさ、そんな大したキャッチャー役は出来ないかも知れないけど…でも、俺のこと、そんなに待っててくれて…楽しみにしてくれてたって知ったら、凄く凄く嬉しくなったよ!」 「シブヤ君…」 「君なんてつけなくて良いよ!ユーリって呼び捨てにして」 「そう?では…俺のこともコンラッドと呼び捨てにしてくれると嬉しいな」 ふわ…っと、はにかむように微笑みながら言われるが、その申し出には有利の方で少し戸惑ってしまう。 「えー?俺まで呼び捨て?それはなんか…悪いような…」 「駄目…かな?野球仲間…って感じがして嬉しいんだけどな……」 切なげに睫を伏せられれば、抗弁できようはずもない。 『知らなかった…伏し目がちのおねだりって、美女だの美少女だけの特権じゃなかったんだ…。美青年はこういう攻撃も出るんだな……』 有利は知らない。 自分の場合、上目づかいのおねだりが最強の必殺技になりうることを…。 「ん…ん……。分かった!んじゃ…コンラッド?」 《…うに?》とちょっぴり照れながら見上げれば、コンラートが素早く口元を覆ってしまった。 『う…やっぱ変な感じだったのかな?』 有利は知らない。 今、コンラートの鼻の下が《美青年》のカテゴリーから大きく逸脱していたことに。 だが、有利は有利で次の瞬間…不審な動きを見せてしまうのだった。 「ユーリ…」 切なげな…甘い響きを載せた声音で呼ばれれば、それが自分の名前であることに胸が高鳴ってしまう。 『う…なんちゅー無駄に色っぽい声で呼ぶかな…っ!』 そういう声を出すのは恋人限定にして欲しいものだと思う。 いたいけで経験不足な高校生としては、そんな気がないのが分かっていてもどきまぎしてしまう。 「こ…コンラッド…っ!早速キャッチボールしようぜ?んで、肩が馴染んだら日が暮れないうちに全力投球してみなよ。俺、座ってキャッチするよ」 「ああ、そうしようか」 綺麗な弧を描いて放たれたボールが、バスっ!といい音を立ててミットに収まる。 コンラートは既にある程度投げ込みをしていたせいか、実に滑らかな投球を見せた。 「いいじゃん、コンラッド!良い球良い球っ!」 「そう?…ふふ、嬉しくなるなっ!」 子どものような笑顔を見せてミットを叩く姿が妙に可愛らしい。 大人の男が見せる稚気というのは、時としてこんなにも愛らしくみえるらしい。 「じゃあ、俺も行くよーっ!」 結構な勢いをつけてボールを放てば、まだ肩が出来上がっていないまま力んで投げた投球は少し外れてしまう。しかし、コンラートは素早く回り込むと、危なげなくミットで受け止めた。 「ごめん、今の逸れた!」 「いま投げ出したばかりだもの。気にしないで」 「えへへ…コンラッドってばフットワークいいね!フィールディングとか得意な方?」 「どうだろう?確かに、ピッチャー返しをライナーで捕るのは得意な方だけどね」 「凄い!なんかやっぱり勿体ないよコンラッド!出来るだけ練習一緒にして、試合とかやらない?」 「そうだなぁ…勤務がない限り、一緒にやらせて貰えるかな?」 「うんうん、やろうっ!!」 はしゃいで球を投げ合うひとときはあっという間に過ぎて…有利が座ってコンラートの球筋を見る頃には、辺りは薄暗くなっていた。 「あー…ちょっともう球が見えにくいや」 「この辺で切り上げようか?」 そうは言いながらも…コンラートの顔はまだ不完全燃焼といった様子だし、有利だってまだ十分に楽しんだとは言い難い。 何しろ、球速のあるコンラートとのキャッチボールはえらく楽しかったのだ。 それに、キャッチボールをしながら色んな話をするのも楽しかった。語彙や話題が豊富でおまけに声質まで良いコンラートの話は、とても心地よく有利の耳朶に響いたのだった。 ばすばすっとミットを叩きながら、有利はぽそりと呟いてみた。 「あのさ…明日もキャッチボールする時間とかある?」 「うん、明日は一日オフにしてるからいつでも大丈夫だよ」 「本当?」 ぱぁ…っと顔を輝かせて笑えば、どこか眩しいものを見つめるように…コンラートは瞳を眇めて有利を見つめた。 「じゃあ、明日は朝からやろうよっ!」 「いいね。それなら…もし良かったら、俺の家に泊まっていかないかい?」 「……え?」 言われた瞬間…びくりと肩が震えた。 『レイプされるトコだったんだよ?』 『もうちょっと警戒心を持ったらどうだい?』 村田のそんな言葉が脳裏を掠め…先程まで息を弾ませてボールを投げ合っていた人物が、急に得体の知れない生き物にでも変わってしまったかのように思えて、じり…と靴の踵が大地を擦る。 けれど…夕闇に染まり始めた公園の、楡の木の陰が降りかかる場所で…コンラートが一瞬、瞳を見開き…次いで、寂しげに微笑んだとき…有利は叫んでしまいそうになった。 『ごめんなさい…っ!』 一緒にキャッチボールをしたのに。 あんなに楽しく笑いあったのに。 この人を…疑ってしまった…っ! 藍色に染まる世界の中に…ぽつんと一人立たせてしまった。 誰にも受け止められなかったボールが転々ところがっていくように…寂しげな世界に。 「お……」 喉が引きつるように痛い。 罪悪感で胸が焼けるようだ。 「お願い…します」 「ユーリ…無理、しなくていいよ?都合が悪いんだろ?」 優しげな声が、努めて明るい声をだそうとしているのが分かる。 傷ついただろうに…それを表に出そうとしないコンラートの心情を思いやるうち、有利の頬からはぼろぼろと涙が溢れてしまった。 「ゆ…ユーリ!?」 「あ…ごめ……」 ごしごしと目元を擦れば、慌てたようにポケットから抜き出したハンカチで目元を拭われた。 「どうしたの?ユーリ…」 「うわ…ごめんなさい……恥ずかし……っ」 「気にしないで…。落ち着くまで待とうか?」 「うん……」 促されてベンチに座ると、つい先程まで明るい藍色だった空はすっかり紺色に置き換えられており、星明かりがちらりきらりと輝き始めていた。 「………ごめんね、コンラッド……」 コンラートのハンカチを借りたまま、くし…っと口元に寄せると、額にさら…っと髪が落ちかかって有利の表情に影を落とした。 恥ずかしいくらいに泣きはらした瞳が隠れるので、ある意味好都合だ。 「いいよ、ユーリ。ね…キャッチボールはまた明日、時間を約束してしよう?そうだ、君の友達も呼ぶかい?」 コンラートの申し出に、有利はふるふると頭を振った。 「いい…呼ばない。俺を、泊めてよ…泊めてくれるって言ったよね?」 なおも泣き声混じりの有利の声に、コンラートは困ったように苦笑した。 「そうだね、誘ったのは俺だったね」 「そうだよ…だから、泊めてったら泊めて…っ!」 「じゃあ…」 コンラートはベンチから立ち上がると、厳かと表現しても良いほど丁重な仕草で…有利の手を取ったのだった。 「是非俺の家に泊まって?ユーリ…」 差し伸べられた白い手を取った瞬間…有利の運命は決したのだった。 * * * クリーム色と大理石様の敷石が配されたエントランスには前衛的なオブジェがそこかしこに置かれ、独特の雰囲気を放っている。 コンラートの住まうマンションは一見しただけでもかなりの高級住宅であることが見て取れる代物で、有利は色んな意味でドキドキしながら歩を進めることになった。 売り言葉に買い言葉じみたノリでついてきたものの…やはり、暗証番号代わりに光彩パターンを読み取る装置の前でコンラートがチェックをすませ、スライド式に開いた扉を潜った瞬間には…思わず足が竦んでしまった。 『大丈夫…大丈夫だよっ!』 コンラートが有利に妙な手出しをしたりするはず無いではないか。 壁面の一部に填め込まれた鏡にちらりと視線を遣りながら、有利は自分に言い聞かせた。 二人の容姿には大きな開きがあり、多くの人を魅了すると思われるのは十人が十人コンラートの方だと思われる(あくまで有利の価値観による判断ではあるが)。 有利はぎゅうっとシャツの襟合わせを握ると、景気づけにどんっと胸を叩いた。 「どうかした?」 「ん…ちょっと、緊張しちゃって……。こんな高そうなお家だとは思わなかったから…」 「そう?でも、気楽にしててね。確かに高いとこらしいけど、俺の場合は親族が経営してるとこなんで、余った部屋に入れて貰ってるだけだから」 コンラートの住まいはこのマンションの22階にあった。 この部屋が余り物だとすれば、《残り物には福がある》ということわざは真実であるらしい。 ゆったり広々とした造りはこの階のかなりのエリアを占めており、そもそも、入り口からしてエレベーター直通…つまり、同じ階の住人と鉢合わせする事がないという設計になっている。 ご近所づきあいの盛んな渋谷家では逆に不便に感じるかも知れないが、お金持ち階層のヒト的には問題ないらしい。 木目調の扉を開ければ、自動的にやわらかな卵色のライトがついて主を出迎え、ステンドグラスを配した小さな足下灯も《いらっしゃい》と言いたげに明かりをともす。 ブラウン系統で統一された室内にはあまりものがなく、どちらかというと殺風景な印象だが、壁面を飾る数枚の写真が微かに生活感を醸し出していた。 「あ、コンラッドだ。一緒に映ってるのって親戚の人達?」 背景には異国めいた…多分、西欧の街並みがあり、ベストを身につけた学生らしい雰囲気のコンラートと共に、華やかな金髪の女性と、彼女にそっくりの美少年、そして無愛想ながら端麗な顔立ちをした青年が佇んでいた。 彼らは顔立ちこそバラバラなものの、漂う雰囲気に近しい何かを感じさせた。 「ああ、俺の家族だよ」 「ええ!?に…似てないねぇ…っ!」 思わず口をついて出た言葉に、すぐ後悔することになる。 「うん、こっちの金髪の美女が俺の母なんだけど…こっちとこっちは俺の兄弟とはいっても、父親は全員違うんだよ」 「あ…なんか……変なこと聞いた?」 父親が全員違うとなると、家庭の中では色々あったことだろう。 「ごめんね…俺、考え無しだからすぐ思いついたこと口に出ちゃうんだ……」 しょんぼりと肩を落とす姿は叱られた仔犬のようで、コンラートは思わず脂下がりそうになる眦をそっと指先で矯正した。 「気にしないで。父親が違うこと自体は、みんな気にはしてなかったんだよ。母が恋多き女性だというのはみんな認めた上で愛していたし、それに…俺は兄も弟も大好きだったよ。とても…とてもね……」 伏せられた睫の下の、琥珀色の瞳が切なげに揺れるのを見やるうち、どきん…っと、胸の中で変な風に心臓が軋んだ。 また、地雷を踏んでしまったのではないだろうか? 『コンラッド…全部、過去形で言ってる……』 《俺は兄も弟も大好きだった》…それは、コンラートの側から見た想いだ。 では、兄や弟の方ではどうなのだろう? いや、それとも…何か不幸があってみんな二度と会えないなんて事になってるんじゃあ…。 「ユーリ?」 頬をさらりと撫でられて、自分が俯いていたことに気が付いた。 「どうかした?」 「う…ううんっ!何でもないっ!えと…お邪魔しまーすっ!」 ふるるっと顔を振ると、殊更元気よい足取りで玄関に上がる。 ふかふかした来客用のスリッパが有利の足には不釣り合いなくらい大きかったが、気にせずぱふぱふと歩いてリビングにお邪魔した。 * * * 「あり合わせのものばかりだけど…」 一刻の後、そう言いつつコンラートがテーブルに並べてくれた食事は、一人暮らしの男性にしてはそつが無さ過ぎるほどに手際よく作られたメニューだった。 ほうれん草の胡麻和えはすりたての胡麻を使用しているのか非常に香ばしいし、さわらの西京漬けは纏めて冷凍したものを焼いたのだと言うが、しっかりと身に染みこんだ白みのせいで、有利はばくばくと白米を口内へと誘い入れてしまう。 いりこ出汁の利いた具だくさんのみそ汁に、卵焼きや昨日の残り物だという治部煮も旨かった。 それにしても、純欧風の青年が洒落たデザインのマンションの一室で完璧なお袋の味を提供してくれるというのは、なんとも不思議な光景であった。 いや、紺色のエプロンも似合ってはいるのだが…。 「はふー…凄い美味しいしかったぁ!凄いよコンラッド…っ!つか…何でこんなに和食つくるのこんなに上手いの?」 ぽんぽんとお腹をさすりながら、有利は満足そうな吐息を漏らす。 「料理には少し興味があってね。特に、和食はドイツにいた頃から好きだったんで、日本に転勤になってから自分なりに研究してみたんだよ。美味しいって言って貰って光栄だな」 にこにこと相好を崩して微笑む様子は、旦那様に喜んで貰えた新妻のようであった。 「うん、凄い腕前だよ!いつでもお嫁に行けるねっ!」 「じゃあ、ユーリが貰ってくれる?」 「…え?」 《貰う貰う》とでも陽気に返せば良かったのだろうが…見つめてくる琥珀色の瞳があんまり綺麗で…そして、艶めいていたものだから…思わずごくりと息を呑んで、有利は言葉につかえてしまった。 「……なんてね」 起こりかけた沈黙を、ぺろりと舌を出すことでコンラートが回避する。 「どうも俺のギャグセンスは日本人と合わないらしいね…時々、こうやって相手を固めてしまうんだよ…」 「え…と、俺以外にもああいうネタ振っちゃうの?」 「ああ…こないだ、同僚の奴に言ったら手を握られて《頼む!》って叫ばれちゃってね…。自分で振ったネタで申し訳なかったんだけど、思わず殴ってしまったよ」 「ひでぇ…」 如何にも嫌そうに眉根を寄せるものだから、有利はぷ…っと吹き出してしまった。 『ほーら村田、心配ないじゃん!コンラッドさん、ホモネタでこんなに嫌そうな顔してんだもんっ!』 それに、先程有利に食前酒を出しかけたときも、慌てて引っ込めていたほどだ。 有利はそれが香りの良いジュースか何かだと思っていたので、言われていなければ飲んでいたところだ。 よくある《ジュースと思わせて酔わせる》手口を自ら回避したわけだし、やはりコンラートは信用に足る男のようだ。 「ドイツってそういう冗談よくやるの?なんか、冗談とか言わない国ってイメージあるけど」 「そんなこともないんだけどね。まぁ…確かに真面目な人が多いような気はするけど…。それをいったら日本の方がきまじめな人が多い気がするな。それに、一次的接触をすると吃驚してしまう人が多いよね。俺は親しくなるとついドイツ式の挨拶をしそうになるから、誤解されそうになって困ってしまうことが多いんだよ」 「ドイツ式の挨拶?」 「家族や、親しい友人にはおはようの挨拶やなにかで、わりと頻繁にキスをするんだけど…こっちに来てからは恋人にならないとそういう接触は許されないだろ?それが無性に寂しいことがあってね…」 食後のお茶を啜りながらしみじみとそう言うコンラートに、有利は口に含んだお茶を喉につかえさせそうになった。 『そうだ…コンラッドって、結構寂しがり屋なとこあるみたいだしな…』 何か事情があるらしい家族や、国元の友人から離れ、好きな野球も十分には出来ないなか…異国の地で仕事を続けるコンラートは、酷く寂しいのではないだろうか?だから、こんな野球小僧とのキャッチボールにあんなにはしゃいでいたのかもしれない。 「あのさ…お、俺のこと…なんだったら弟代わりにしてみる?」 「弟?」 きょと…っとコンラートの目が見開かれる。 「うん、あんな可愛い金髪美少年じゃないから気分でないかも知れないけど…。でも、体格はちょっと似てるみたいだったし…」 突拍子もない申し出だったかな…と、もにもに語尾が消えていくが、コンラートの方はふわ…と、何とも言えないやわらかな笑顔を浮かべて喜色を露わにした。 「嬉しい…」 「…本当?」 「うん、そんなこと言って貰ったの。日本に来て初めてだよ。ユーリ…本当に、ありがとう……」 ぺこりと…綺麗に腰から曲げる礼をして、コンラートは心からの謝意を示した。 「そ…そんな大層なことでもないんだけど…。じ、実際、弟代わりって言っても…大したコトできるわけでもないんだけど…」 「時々こうして遊びに来て、ご飯を食べてくれたりしたらそれだけでとても嬉しいよ」 「そう?」 「うん」 コンラートの様子が本当に嬉しそうだったものだから、有利は照れてしまって、必要以上に大きな声と動作を見せてしまうのだった。軽く挙動不審である。 「よぉっし!じゃあ、作ってもらっちゃったから、片付けは俺がやるよ」 「いや、ユーリはお客様だし…」 「いいっていいって!な、コンラッドお兄ちゃん!」 にこぉ…っ!とお日様みたいに笑う有利を、コンラートは眩しそうに見やる。 この様子を実の兄が見たら、憤怒の激流と哀感の涙で大地を染めたことだろう。 『実のお兄ちゃんがあんなに頼んでも呼んでくれないのに、にわか兄貴にはどうしてそんなに大盤振る舞いなんだよ!?』 御説ごもっともだが…こういうものは強要されるほど弟妹には嫌がられるものである。 「そうか…じゃあ、お願いしようかな」 案の定有利も、はにかむように微笑むコンラートには幾らでも言ってあげたくなるのだった。 「そうそう、お兄ちゃんは座ってテレビでも見ててよっ!」 「そう?じゃあ、お風呂の用意をしておくよ。パジャマは俺ので良い?下着は新品があるよ」 「お言葉に甘えちゃいます。下着は買って返そうか?」 「いいよ、去年の忘年会にビンゴゲームで貰ったやつだから」 この時、気付くべきだったのだ…会社のビンゴゲームに登場するような代物が、真っ当な下着であるはずがないことに…。 * * * 「こ…これは……」 「ね?返す気も失せるだろう?でも、サイズはぴったりみたいで良かったね」 くすくすと笑うコンラートを恨めしげに見上げるが、流石に人の下着を貸して下さいとは口に出来ず…有利は渡された代物を不承不承受け取った。 その代物とは…華やかなクリスマスカラーのラッピングに包まれた、黒いシルク素材のセクシーな紐パンだったのである。 『会社の忘年会って…下品……』 有利は淡く頬を染めながら、なるべく見ないようにして下着を借りたパジャマの下に入れた。 ふとみると、コンラートの方はまだ着替えの準備はしていないようだ。 「コン…お兄ちゃん、着替えは?」 「お風呂、先に入ってくれる?ユーリが出たら、俺は後で入るから」 「え?折角だから一緒に入ろうよ。兄弟仁義の皮切りは背中の流しあいと相場が決まってるんだぜ?」 相手を《お兄ちゃん》扱いした途端、急に大胆になる有利だった。 行きがかり的にそうなっただけとはいえ、《お兄ちゃん》的な立場になった人が自分にエッチな事を仕掛けてくるなど考えつかなくなったのだろう。 こういう単純なところが、家族や友人に愛され…同時に、激しく心配されるゆえんである。 「いや…でも、ちょっと恥ずかしいんで…」 「あ、そうか。ドイツって日本みたいに混浴の文化ってないんだっけ?」 「それもあるけど…俺は、結構身体中にケロイドだの傷痕だのがあるんだよ。見せると不快にさせてしまうかも知れないから…」 苦笑気味にそう言って踵を返そうとするコンラートを、はしっと掴んで有利が止めた。 「駄目…っ!」 「有利?」 「そういう理由で嫌だって言うんなら、ゼッタイ駄目…っ!ね、一緒に入ろうよ…お兄ちゃん!」 漆黒の双弁が真摯ないろあいを載せて、真っ直ぐにコンラートへと向けられる。 自己侮蔑を許さない眼差しが《予想通り》に自分へと向けられる様子を、コンラートは自ら計略したにもかかわらず…何故か、感動めいた心地で受け止めるのだった。 こういう言い回しをすれば、こういう反応を見せる子だと《知って》いた。 弟代わりになると言い出したときには驚いたが、受け入れた途端…警戒心を一切取っ払って懐に入ってきた少年は、すっかりコンラートに心を許しているようだった。 『なんて真っ直ぐな子なんだろう』 感動と共に沸き上がってくるのは、頭髪の先から足の爪先まで響いていくような… …《嫉妬》だった。 |