ありがとう 「ユーリ…全てあなたのおかげなんですよ。グウェンや…ヴォルフと、兄弟として…家族として過ごすことが出来るようになるなんて、以前は思いもよらないことでしたから」 「そんなことないよ!俺なんて、あの二人怒らしてばっかりだもんっ!」 「怒っても、決して軽蔑や拒否の意味合いがないことはユーリにも分かるでしょう?少し前まではああではなかったですよ…俺に対してもね」 「…うん」 そうだった。 コンラートは…有利が初めてこの世界に着た頃には、ヴォルフラムの肩に触れただけで《混血》と蔑まされ、手を弾かれていたほどなのだ。 『人一倍…いや、魔族一倍?甘やかすの好きなのにな。寂しかったろうな…』 うるりと目を潤ませれば、コンラートは苦笑しながら大きな手で頭髪を撫でつけてくれた。傷だらけの武人の手は、節くれ立って力強くて…でも、どこか貴族的な優美さを持って、わしゃわしゃとかき混ぜられる髪がとても気持ちいい。 まるでコンラート自身の映し鏡のようだと有利は思った。 「あのさ…ヴォルフとは、もっともっと仲良くなれると思うぜ?だってあいつ、もともとお兄ちゃん子なんだもんな。変な差別意識で凝り固まってた頭も、ここんとこ随分柔らかくなってきたもんっ!」 「ええ…そうだと嬉しいな」 「もういい年なんだし、ちっちゃい時みたいに猫っ可愛がりは出来ないかもしんないけど…」 あの勝ち気なポメラニアンのような少年のことだ。本当はコンラートのことを愛し、尊敬していても…そうであればあるほどムキになって反抗してきそうに思う。 有利とて、兄の勝利に対してはそうなのだから気持ちはよく分かるが。 「あのさ…もし、寂しいなって思ったら俺のこと弟代わりにしても良いしっ!なんなら、あんたのことは特別に《お兄ちゃん》って呼んでも良いぜ?」 勝利が聞けば泣いて悔しがりそうな申し出だったのだが、コンラートはゆるゆると頭を振ると、物言いたげな眼差しを有利に向けるのだった。 「ユーリは、誰かの代わりになんかなりませんよ。あなたは唯一人の…俺の大切な人だから」 「え…?」 思いがけず囁かれた言葉は何処か甘い響きを含んでいて…勘違いしてしまいそうで困る。 「ちょ……もーっ!あんた、変なときに色気振りまくのやめろって!女の子がそれやられたら一発であんたの虜になっちゃうぞ!?」 ヨザックに聞いた《夜の帝王》の噂は、どうやら真実であるらしい。 コンラート自身にはその気はなくとも、女は(時には男も)彼を生涯に唯一度しか出会えない運命の男と感じて、惚れ込み…どんな淑女でもその身を投げ出して愛を請うのだと聞く。 「あなたは、なってくれないんですか?」 ちょっと拗ねたような…鼻に掛かる甘い声に惑乱してしまいそうになる。 「もー……だーかーら〜…あぁっ!畜生っ!変なこと言うから顔が赤くなってきたじゃんかっ!」 この男は真面目なのか不真面目なのか…有利に忠実なのは確かなのだが、時折こんな風にからかっては、その反応を楽しんでいる節がある。 いや…ただ笑って終わりにしてくれるのならまだ良いのだが、じぃ…っと見詰める琥珀色の双弁に、それ以上の意味を感じてしまいそうで…心拍の拍動ペースが不安定になってしまう。 『ぅう〜…。こういう時、どうしてもケーケンの差ってやつがでるよな』 きっとコンラートの方は、照れ隠しの意味も含めてこんな冗談を仕掛けているのだろうけど、こちとら多感なティーンズの少年だ。たとえ男相手でも…それも、こんな恰好良いお兄さんに口説かれたりしたら、どうしたって顔色を青くしたり赤くしたりしてしまうものだ。 『いやいや、く…口説いてる訳じゃないからっ!』 早とちりを仕掛けてまた、わたわたと頭髪を振るう。 コンラートは《唯一人の大切な人》とは言ったが、別段それは口説き文句というわけではないのだろう。 『だって俺は…魔王様だもんな』 コンラートが自ら運んだ特別な魂の、唯一人の持ち主。 コンラートが仕えるべき唯一人の主君。 この世界で、野球や地球での文化を知る唯一人の仲間。 《唯一人》というのは、きっとそう言う意味なのだ。 『そうだよ…だから、特別で…大切なんだ』 自分に言い聞かせるように心に呟くと、有利は目深にフードを被り直して俯いた。 「…帰ろっか?」 「真っ直ぐ、血盟城に?」 「うん…ギュンターが、俺が居ないのに気付いたら大騒ぎするだろ?」 「そうですね。でも…少しだけ、あなたの時間を俺にくれませんか?」 「え…?」 返答を待たずに、コンラートの力強い腕が有利の華奢な体躯を包み込み…訓練に明け暮れていたろう身体からは、初めて嗅ぐような男臭いかおりが漂ってくる。 けど…同性の、汗くさい筈の身体は不思議と嫌悪を抱かせるものではなくて…有利はコンラートの香りに包まれるようにしてうっとりと瞼を閉じてしまった。 『なんでだろ…ドキドキするのに、妙に落ち着く…』 いつもに比べれば少しだけ速い息づかい…有利よりは少し遅い胸の拍動…。 そういったものが密に接した身体から伝わってきて、有利を甘やかな心地にさせてくれる。 「どんなに可愛い女の子に好きになって貰うよりも…あなたに虜になって貰いたいと言ったら…怒りますか?」 「…どうしてそんなコト言うの?」 まだタチの悪い冗談を続けているらしいコンラートに、ちょっと腹が立つ。 折角良い気分でいるのだから、このまま暫く黙っていてくれたらいいのに。 「お分かりになりませんか?俺が…あなたの虜だからですよ」 そう言って、有利のフードを払って覗き込むコンラートの双弁には、有利と同じだけの不安が垣間見えて…息を呑む。 「弟の代わりに可愛がりたいわけでも、ましてや女の子の代わりに手玉に取って転がしたいわけでもない…。だって、俺が一番あなたに転がされているのですからね。あなたの一挙手一投足に、どれだけドキドキさせられているか…お分かりですか?」 「そんなの…俺の方が絶対ずっとずっとドキドキさせられてるよっ!」 「いいえ、絶対俺の方です」 頑固な名付け親と名付け子は、むぅ…っと向き合って暫く睨み合っていたが…不意に、コンラートがくすりと笑うと互いに笑み解れてしまった。 「ね…ユーリ。俺があなたを好きだって、信じてくれますか?」 「信じらんないけど…」 正直な気持ちはそうだけれども…。 有利ははにかむように目元を赤らめると、コンラートの胸に頬を預けて、ちいさく…けれど、熱い吐息を漏らすのだった。 「信じたい…よ」 * * * その日の夜…少し遅れて晩餐に辿り着いた有利に、ギュンターは涙ながらに苦言を述べたけれども、申し訳ないほど馬耳東風状態だった有利に、遠目から見守っていたヨザックはくすりと苦笑していた。 晩餐の円卓をつぶさに見渡せる、バルコニー脇の木立はヨザックの恰好の隠れ場所だ。 グウェンダルとコンラートはその存在に気付いているのだろうが、一度だけちらりと視線を寄越した後は、何もそこにはいないかのように意識の外に追いやってしまったようだ。 命じられずとも、ヨザックがいざというときに特別なカードとして動ける男だと信じているからだろう。 『おーお、坊ちゃんてばとうとう隊長を墜としたな?』 虹色の雲の上を歩くような…ふわふわとした足取りの有利もだが、密かにコンラートの目元も紅の彩どりを纏い、艶めいて主へと向けられている。 人の想いなどにはさほど敏感ではないグウェンダルも流石にこれには気づいたのか、幾らか困ったような表情を浮かべて酒杯を煽っている。 ややこしいことになったものだと懸念しているのかも知れない。 彼としては、魔笛騒動でその王器に希望を抱いた魔王陛下を巡って、弟たちの熾烈な恋戦が起こるなど考えたくないのだろう。 もう一度、ちらりと視線をヨザックに向けると《後で来い》と言いたげに顎をしゃくった。 弟を想う気持ちと同時に、彼には《国を護る》という絶対的な命題が控えている。 『…となると、隊長の想いは断ち切れ…って命令になんのかな?』 考えがそこに及ぶとヨザックは憮然としたように唇を歪ませ、木立に実る小粒の果実を無造作に掴むと、微かな苦みを持つその果肉を忌々しそうに咀嚼した。 魔剣騒動があるまで、ヨザックは《お有り難い双黒の魔王陛下》等という者に酷く懐疑的であった。 希少で貴重で魅惑的…そんな存在が国に何をもたらしたか身に染みて知っていたからだ。 ヨザックが尊敬するフォンヴォルテール卿グウェンダルですら、戦時は母親の無責任ぶりを十分に食い止められたとは言い難い。 だからこそ、彼は二の轍を踏まぬ為に心を鬼にして次男に命ずるはずだ。 『国を乱すような恋なら、やめてしまえ』 非常に理解出来る発想と処置…。 きっと、今回魔王の護衛隊長等という立場に立っていなければ、ヨザックだとて諸手をあげて賛同したに違いない。 だが、ヨザックは改めて確認してしまったのだ。 あのちいさな魔王陛下の想いを、尊重してあげたいと思う自分というものに。 確かに経験に乏しい甘ちゃんで、構想ばかり大きい子だとは今でも思う。 けれど…だからこそ掴める夢もあるのではないだろうか? それが、コンラートやグウェンダル…そしてヨザック自身をも飲み込み、従わせずには居られない牽引力を発生させているのではないだろうか? 頭ごなしに…《不穏な可能性》を摘むためだけに、有利やコンラートの想いの芽を潰して良いものだろうか? それは…あの子の自由な発想や柔軟な心というものを踏み荒らすことになりはすまいか? 『畜生…』 なんだって自分が、こんなにも心配しなくてはならないのか。 ばりばりとオレンジ色の鮮やかな頭髪を掻き回しながら、ヨザックはまた小脇に成る赤い実を口に運んだ。 * * * 「グリエ…お前、あの二人の仲を見守れ」 「……は?」 血盟場内でグウェンダルに宛われた私室に呼ばれると、拍子抜けするような指令を受けてしまった。 すぐには意図がつかめず、ヨザックは自分でも可笑しくなるくらい頓狂な表情を浮かべて沈黙してしまった。 喜んで良いのか怒ればいいのか、よく分からなかったのだ。 「……どういう顔をしている。そんな不細工な男だったか?お前は…」 「あらやだ、角度が悪かったかしら」 「…気色の悪い言い回しをするなと言っているだろうが」 苦虫を噛みつぶしたような表情でグウェンダルは吐き捨てると、疲れ切ったようにその長身を豪奢な椅子に凭れさせた。 「全く…毎度毎度、困ったことをしでかしてくれる…。あいつはヴォルフラムの婚約者ということになっているし、実際、ヴォルフラムはあいつに惚れ込んでいるのだぞ?それを…」 「でも、別れさせろとは言わないんで?」 「…なんだ?別れさせたいのか?お前は…」 迫力のある濃灰色の双弁を眇め…実に毒のある言い回しで呟くと、グウェンダルは卓上に乗せていた上等のワインを開け、無造作に…たっぷりとグラスに注いだ。 ワインの香りを楽しむタイプの彼にしては珍しい、質より量…と言った具合の注ぎっぷりで、煽る仕草も同様に荒々しいものであった。 どうやら、晩餐の席からずっと《自棄酒》が続いているらしい。 一息に強い酒を飲み干すと、《はー…》っと吐き出す熱い息と共に、勢いよく卓上にグラスが戻され、再び酒瓶が傾けられる。 「……惚れた腫れただいうものは、誰かがどうこうしようと思ってどうにかなるものではあるまい。コンラートもその辺は分かっていたのだろうに…あの男が堪えきれなかったんだぞ?今更私がどうこうできるか!」 呆れたような口調が、苦渋を滲ませたものになる。 「だが、少なくとも今…ヴォルフラムの耳にはいることだけは避けねばならん。漸く解れてきた態度が硬化しては目も当てられんからな」 グウェンダルは幼い頃…二人の弟が、周囲が呆れるくらいに仲の良い子どもだったことをよく知っている。そして…親戚筋が何事か末弟に吹き込んだことでその態度が激変し…どれほど次男が傷ついていたかも…胸を裂かれるような実感と共に知っているのだ。 コンラートに…二度と、あんな想いはさせたくない。そう思っているのだろう。 その思いはどうやら、面倒でも秘密を守らせるという事で使命感との間に折り合いをつけたらしい。 「はは…ま、そうですねぇ…」 ヨザックはにやにやと彼独特の笑みを浮かべると、勝手に食器棚から大ぶりなグラスを取り出し、酒瓶を傾けて最後の一滴まで垂らし込んだ。 「おい…」 「まあまあ…だって、正規の命令じゃないんでしょ?現金で給与を頂けないのなら、この位良いじゃないですか」 グウェンダルに負けぬ呑みっぷりで酒杯を空けると、こちらも勢いよくグラスを卓上に置いて、くるりと小気味よい動作で踵を返した。 「ご下命を果たしに行って参ります」 「覗きと間違われて斬られん程度にな…。いいか?ヴォルフラムに伝わらなければいいのだからな?」 自分から人選をし、命令を下しておいたわりに急に不安になったのは…この男が多分に《面白がり》な性質を持つことを思い出してしまったのだろう。 「へぇへ、分かってますよぉー。俺だってルッテンベルクの獅子に斬り倒されたくはないですからね」 そう言うと、窓を開けて音も立てずに枝から枝へと飛び移っていく。 特殊能力があるわけでもない混血の身で、あの身のこなしは流石と言うべきだろうが…やはり、ちょっぴり不安げなグウェンダルであった。 『余計なことをしなければいいのだが…』 嘆息混じりに立ち上がると、新たな酒瓶に手をつける。 今夜は、どうやら酒を過ごすことになりそうだ…。 |