〜青桐山間道の恋人−1〜

ある女性side:1
皮膚に痛覚を与えるような寒風が吹きすさぶ、3月中旬の金曜日。
埼玉県の学生街近くにあるこの通りにも、あと1週間もすれば淡いピンクの花弁が綻びはじめ、心浮き立つ光景が広がることだろうが…街路樹には幾らか蕾らしきものが垣間見えるものの開花の気配はなく、固く閉じたまま春の訪れを待ちこがれているようだ。
そんな通りに面したカフェ《ココリナ》では、進路や就職先の決まった人達が開放感に浸る一方…残念なことに、見通しの立たない人生に暗然とした表情を浮かべている者もいる。
がっくりと籐製の椅子に腰を落とし、組んだ指に額を押し当てて飲み干したカップを凝視している女性もその一人だろう。向かいの席に人影はないが、同じく空になったカップが置かれている。中身が乾きかけているところから見て、退席したのはかなり前のようだ。
時期的に見て、就職とか転勤とか…何らかの事情で恋人と別れることになった、そんなところだろうか。
女性はなかなか綺麗な顔立ちをしているが、思い詰めたような眼差しが声を掛けにくい雰囲気を醸しだしていた。
不意に…ぽろりと涙がこぼれ落ちていく。
慌ててハンドバックを捜すが、ハンカチもティッシュも見つからないらしく、せめて鼻水が見えないようにと啜り上げる様子が痛々しい。
そこへ、そっとハンカチとティッシュを差し出してきた人物が居た。
「よかったら…どうぞ」
「……っ!」
女性は息を呑んで救い主の顔を凝視した。
柔らかい笑みを浮かべた男性はすらりとした長身の持ち主で、流暢な日本語を操るものの、明らかにその姿は西欧人のそれであった。
短く刈り詰められた襟足には清潔感があり、整った容貌にはその人格を顕すように凛とした品位が感じられる。
ブランドもののスーツやカシミアのロングコート、高価そうな腕時計といったものが彼を人生の成功者として彩っているが、さり気ない着こなしぶりや気取らぬ態度を目にすれば、彼に敵意を抱くことは困難であった。
ことに、女性にとっては失恋の痛手を吹き飛ばすくらいに強烈な魅力を放っていると言えよう。
「あ…ありがとうございます…っ!」
「いえ。お節介でなければ良いのですが」
「そんなことありません。本当に…助かります。あの…ハンカチ、洗ってお返ししますわ。良かったら連絡先を…」
「気にしないで下さい。会社の販促商品として貰ったものなんです」
言われてみれば、確かに糊の利いたハンカチに使った形跡はなく、端の方に綺麗な筆記体で企業名が縫い取られている。ティッシュの方も道ばたで渡されたものらしく、裏面に賃貸業者のチラシが入っていた。
それでも、女性は男性の連絡先が知りたかった。
つい先程、人生がこれで終わってしまうのではないかと思うほど恋人との別れに打ちのめされていたくせに、自分でも可笑しくなるくらいの立ち直りの早さだとは思うのだが…それでも、何とかこの素敵な男性との接点が欲しかった。
「でも…わ、悪いですわ。携帯の番号だけでも…」
「いえいえ、本当に気にしないで下さい」
勢いが強すぎて引いてしまったのだろうか?青年は驚いたように苦笑すると小さく手を振ってから女性に背を向けた。
思えば、今日別れた恋人も…その前に別れた恋人も、みんな女性のその押しの強さを嫌っていたようだった。
「あ…っ!」
引き留めようとするが、青年はふわ…っと春風のような笑顔を浮かべると、女性ではない誰かを見て微笑んだ。
「ユーリ!」
「コンラッド!もー来ちゃってたの?ゴメンねー」
はふはふと仔犬のように駆けてくるのは、学ランを着込んだ可愛らしい少年だった。
今時珍しいくらい手を入れていない髪は漆黒の艶を持ち、たったか走るたびに北風を受けて舞う。華奢だが律動的な体つきは、すばしっこそうな印象だ。
大粒の瞳もやはり真っ黒で、艶々としたその光沢は少年が素直な性質であることを物語っている。
一般的にはかいぐりして可愛がりたいと思うのは普通なのだろうが…女性は細く整えられた眉を神経質そうに引き上げた。
『やだ…あたし、ああいうタイプの子って男女を問わず大嫌いなのよね…』
それというのも、前に別れた恋人があのタイプの女性に乗り換えたせいだ。
《あんな子の何処が良いの!》罵声や物を投げつけて詰(なじ)る女性に、元恋人は言ったものだった。
《凄ぇ…素直で可愛いんだ》《お前とは大違いなんだよ!》吐き捨てるように言ったその男に、生まれて初めて顔面パンチをお見舞いした感触が今も拳に残っている…。
「俺の方こそ…約束していた時間よりも早く来てしまってゴメンね?楽しみだったものだからつい…」
「えへへ…俺もすっげぇ楽しみだったんだ!バイトが終わったらすぐに行こうね?わーい、温泉〜っ!中学の修学旅行以来だよ!」
瞳を輝かせて跳ね出しそうな少年を目にすると、女性はますます苛立たしげに唇を噛んだ。
『なに…あの子。この人と温泉に行くわけ?』
それは奇妙な組み合わせだった。
如何にもエリートビジネスマンといった風情の外国人青年と、中学生か高校生くらいのあどけない少年…。
その二人が連れ立って温泉に行って、スリッパ卓球などに興じるのだろうか?
縁側に並んで温泉卵を頬張るのだろうか?
『羨ましい…』
ちりちりとひりつくような嫉妬を覚えて、女性は親指の爪を噛んだ。
形が悪くなるから普段は我慢しているのだが、恋人との別れのせいもあって、今日はすっかりマニキュアが剥がれて先端の形が変わっている。
「コンラッドは何か食べて待っとく?」
「ああ、少し小腹もすいたからね。それでも時間が余ったら、また手伝いでもさせて貰うよ」
「マジ?助かるよぉ〜。店長もきっと喜ぶぜ」
少年はにこにことはしゃいで踵を返すが、何の気無しに青年の指が頬を掠めると…微かにびくりと肩を震わせたのが分かった。
「あ…すまない……睫がついていたみたいだったから…」
「う…ううん!ありがと…」
少年が水を浴びた犬みたいに勢いよく頭を震うと、しゃららと音を立てて癖のない髪が踊った。
そのまま少年は従業員用のエリアに入っていき、残された青年は一つだけ開いていたカウンター席に腰を下ろすと、小さく溜息をついた。
笑顔ではあるのだが…微かに滲む困惑は何なのだろう?
先程、少年に触れた瞬間の反応が関係しているのだろうか?
女性は気になりつつも、流石に両脇が埋まっているカウンター席に食い込んでいく度胸はなく、後ろ髪引かれる思いで会計をすませた。
しかし…ふと目線を巡らせた折に、先程の少年が抱えていた鞄が床に置かれているのに気付いた。金目の物が入っていないらしい旅行鞄は、学生のものらしいおんぼろぶりで、確かに置き引きしようとも思われないだろう。
だが…この時、鞄の端に差された飲みさしのスポーツドリンクが女性の心を動かした。
『そうよ…あの子がいけないのよ』
あの時、あんなタイミングで駆けてこなければ、女性は青年ともう少し話も出来たろうし、多少迷惑がられたとしても電話番号くらいは聞き出せた筈だ。
ちらりと目線を遣れば、青年は顔馴染みらしいマスターと親しげに会話を交わしており、今更話しかけるにはタイミングが損なわれすぎていた。
『……ちょっと、恥でもかけばいいんだわ…』
ハンカチもティッシュも入っていなかったのに、女性のハンドバックの中にはある《薬》が入っていた。
本当は、今日タイミングを見計らって恋人の珈琲に入れてやるつもりでいたのに、一気に飲まれてしまったせいで入れ損ねた《薬》だ。
女性はそぅ…っと慎重に動くと、手早くスポーツドリンクの蓋を開けて点眼薬に似た形状の容器から、入っていた全量の《薬》を注いだ。
そして元通りに鞄へと戻した時に、少年が丁度戻ってきた。どうやら、お手洗いにでも行っていたらしい。
「あ…ゴメンなさい。邪魔でしたか?」
女性が荷物に触れていたのをその様に思ったらしい。少年は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げると、慌てて旅行鞄を抱え上げた。
大きめの鞄を抱っこすると、華奢な体つきが強調されて余計に女性を苛つかせる。
『なによ…。ちっちゃくて可愛ければ何でも許されると思っているの?』
実際許されないようなことをしているのは女性の方なわけだが…。
その事は棚に上げて少年を睨み付ける。
「……?」
少年は意味が分からずにきょとんとしていたが、他の従業員に呼ばれると、ぺこりともう一度頭を下げて奥の部屋に入ってしまった。
ぷい…っと女性は顔を背けると、かつかつとヒールの音も高らかにカフェを出て行く。
その様子を一瞬、青年が見送りながら、《ハンカチを貸す必要はなかったかなぁ…十分強そうな人だ》などと思っていたことには気付かぬまま…。
有利side:@
渋谷有利、高校一年生。
どうにかこうにか学年末試験も切り抜けたことで、無事高校二年生になれることも決まっている。
どうにかこうにか…とは言いつつも、実は予想以上に余裕を持ってのクリアと相成ったのは、ひとえに面倒見の良い家庭教師のおかげであった。
ドイツ出身エリートサラリーマン、コンラート・ウェラー氏は週末になると手土産を提げて渋谷家を訪れ、有利に丁寧な指導をしてくれた。
弟を溺愛している長男の風当たりだけは強いものの、美青年大歓迎な母親と、大らかな父親はもともとコンラートの来訪を歓迎していたのだが、この学年末試験の結果を知ってからは更に、下にも置かぬ扱いとなった。
このため、コンラートがある提案をした際も長男の反対はあっさりと却下され、《どうぞどうぞ》とばかりに許容されたのである。
その提案とは、《二人きりで過ごす二泊三日の温泉旅行》…普通、高校生男子とサラリーマン男性が過ごすとは思われないような内容の旅行であった。
その申し出をされた瞬間、有利の頬が微かに緊張したのをコンラートは見逃さなかったが、柔らかい笑顔を浮かべつつも提案を下げることはなかった。
また、有利も拒否はしなかったし、はしゃいで喜びを表したりもした。
この均衡を崩したいのは、有利とて一緒なのだ…。
『多分俺…甘え過ぎなんだ』
コンラートは優しい。
しかし、幾ら優しい恋人でも1ヶ月以上お預けを喰らっては焦れてきて当然だ。
そう、コンラートは優秀な家庭教師というだけでなく、有利にとっては出来たての恋人という立場にある。
いまから丁度一ヶ月前…偶然通学電車の中で出会い、本来ならばそのまま擦れ違うだけの人だったはずだ。
それが…《白鷺線の怪人》と呼ばれる痴漢に媚薬を盛られた有利を、コンラートが介抱したことで思わぬ展開を迎えたのだった。
二人とも、本来は男性に対して性的な興奮を覚える気質ではなかったのに、思いがけず濃厚なセックスを展開せざるを得ない状況に追い込まれ、その中で互いの気持ちを確認し合ってしまった。このため、二人の付き合いはそのままセックスを伴うものとして維持されるかに思われた。
実際、薬が抜けた直後にはコンラートに触れられることがとても心地よく、《男同士》という抵抗感など殆ど感じずに、布団の中でごろごろと仲良しの仔猫のように睦まじくしていたのだが…いざ日常生活の中に戻ってみると、有利は急に恥ずかしくなってきたのであった。
『俺…凄っげぇインランな女みたいに乱れてた……』
コンラートの爽やかな笑顔だとか、胸に染み入るような物言いだとかを思い出すたびに彼の存在感がちかちかと綺羅星のように瞬き、自分の身はというと、相対的に酷く汚らしいもののように感じ始めてしまった。
コンラートは好きだと言ってくれたのに…こんな風に自分を卑下すること自体が愚かなことだと頭では分かっているのに、有利はそう感じることを止められなくなっていった。
では、会わないようにすればいいかと言えばそういうわけでもなく、彼に会えない学校生活は息をするのももどかしいくらいで、彼が迎えに来てくれる放課後が待ち遠しくて…胸が潰れそうなくらい切なくなってしまう。
本気で恋をするなんて初めてのことだったから、自分の気持ちをどうコントロールすればいいのか分からなくて戸惑うばかりだ。
週末になって、コンラートが家に来てくれるともう嬉しくて嬉しくて…。
自分でもちょっと可笑しいんじゃないかと思うくらいはしゃいでは、兄に小突かれたりしたものだった。
それなのに、コンラートの指が少し触れただけで有利は緊張してしまう。
『あん時も…酷いコトしちゃったよな……』
《学年末試験に向けて集中補習》という名目で、週末に泊まり込みでコンラートのマンションを訪れてた時…当然彼は有利も求めてくるものと期待したのだと思う。
それなりに勉強もして、結構良い線いけるという確証も得られてほっとして…余裕が出てきた時にコンラートの長い指が頬に添えられた。
ゆっくりと寄せられてくる端正な唇を、緊張しきって受け止めて…次第に息が上がるほど激しい口吻になって、とん…と肩を押されて絨毯の上に横たわった時……
有利の視界には、以前見たのと同じ光景が広がっていた。
コンラートに腰が蕩けてしまうくらい抱かれて、ベッドまで行き着く間さえ我慢出来ずに繋がり続けたあの日と同じ光景が見えたとき、有利は恐怖に身体を引きつらせてぼろぼろ泣きだしてしまったのだった。
『ゴメンね…ゴメンね……』
訳も言わずにしゃくり上げる有利を、コンラートは戸惑ったようにあやし続けていたけれど…結局、諦めたように溜息をついて…有利をベッドに運んでくれた。
セックスのためではなく、寝かせるために…。
お人形遊びをする子どもではないのだから、同じベッドの中にいて苦しくないはずはないのに…コンラートは宥めるように髪を梳いて、有利が寝付くまで話しかけてくれた。
『こんなんじゃ駄目だ…!』
鬱々と考えていた割には学年末試験の成績は良くて、その《ご褒美》という形で招待して貰った温泉旅行。
立場が逆だろうと最初は遠慮していたのだが、今回に限っては押しの強いコンラートの態度から、彼が何を求めているかが分かった。
単純に《寝たい》というのではなくて、このままコンラートとそういう意味で付き合っていけるか、《試してみないか?》ということなのだと思う。
だから有利は頷いたのだ。
今度こそ、失敗しないように。
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