「君に嘘をついた」A













 ザザ…


 茂みが不自然に揺れた瞬間、コンラートは有利と結んでいた手を離して剣の柄に手を置く。

「おんやぁ〜…?」

 蜜柑色の髪を掻き上げながら、茂みの中から現れたのは見知った男だった。
 見知ったも何も…今朝方血盟城に入る際には同行していたわけだが、コンラートにすら気配を悟らせないこの男は、こんな時にはかなりの難物だ。

 注意深く、鋭敏に神経を研ぎ澄ましているときにはまだ良いのだが、今日は初恋のときめきに心浮き立つ乙女のようにはしゃいでいたせいか、まるで気配が読めなかった。

『見られたかな?』

 おそらく、見られたろう。
 にやにやとチェシャ猫のようたちの悪い笑みを浮かべているのが何よりの証拠だ。

 手を繋いでいたのは勿論のこと、扉を閉じざまに有利から口吻ていたのも見られていたかもしれない。

「誰…?知ってるヒト?」
「ええ、グリエ・ヨザックという男です。悪い男ではないのですが、良い男でもありません」
「どっちだよ…?」
「判別つきがたいんです。取りあえず、不用意に近寄らないようにしてください」

 コンラートの含んだような物言いに、ヨザックはにしゃりと人の悪い笑みを浮かべる。

「ひっどぉ〜い…。グリ江、傷ついちゃったー。そんなコト言う隊長には、お仕置きしちゃうぞ?」
「そうか、ではそんなことをされる前に始末しなくてはな…」

 すらりと剣を引き抜くコンラートに、ヨザックの方は笑うばかりだったが様子の分からない有利は血相を変えて飛び上がってしまう。

「そそそ…そんな物騒なもんしまいなよっ!」
「失礼…ちょっと脅したかっただけです。幼馴染みですから…あいつも分かってますよ」
「本当?」

 きょと…と愛らしく小首を傾げてコンラートとヨザックを見比べれば、毒気を抜かれたような顔でヨザックが微笑んだ。
 そういう表情をすると、野性的な容貌がえらく優しげに見える。

「お気の毒に…本当に、記憶をなくしちゃってるんですね?俺のことも…思い出せませんかね?」
「ごめんね…」
「いえ、お気になさらないでください。それより、記憶が戻らなくても仲良くして貰える方がグリ江は嬉しいわ」

 語尾にハートマークを飛ばして《バツン》とウインクすれば、迫力がありすぎる仕草に《うっ》…と有利が仰け反ってしまう。
 抗体のない者には、この攻撃は驚異だろう…。

「ふふ…記憶なんて戻らなくて、色んなコトを教えて差し上げますよ?この男の本性とかね」
「知ってるの!?」
「ええ、そりゃあ古馴染みですからね…。好きな体位とか愛撫とか、よく知ってますよ」

 コンラートの肩にしなだれかかるように腕を絡めて、婉然と微笑んでみせるヨザックに有利は真っ赤になって目を見開いた。

「ええぇぇえっ!?」
「こいつは覗いていただけで、俺とこいつがやったわけじゃありません!」
「本当!?」
「もー、ちょっと坊ちゃんをからかっただけじゃな〜い」

 ゴツンと結構な勢いで頭頂部を殴打されたヨザックは、拗ねたように唇を尖らせる。
 有利の方はと言うと、ヨザックからも《やったわけではない》という点を確認できたせいか…目に見えて安堵したように《ほぅ》…っと息をついていた。

「良かった…」
「ユーリ……」
「そ、そりゃあさ…あんたモテそうだし…魔族は寿命も凄く長いって言うし、今までつきあった人たちとかもいっぱい居るんだろうから一々焼き餅なんか妬いたら悪いだろうって思うんだけど…でも、やっぱ…妬けちゃう…」

 《ごめんね?》と申し訳なさそうに俯く有利に、ヨザックは妙なものでも見るような目を向けた。

「たぁ〜い…ちょおぉー……」

 《ナニ教えこんでんですかぁ?》…くすくすと耳朶に囁きかける男に、長兄を思わせる眉間の皺が深くなってしまう。

「少々…誤解があったんだ」
「へぇ……。ま、坊ちゃんを傷つけない程度にお願いしますよ?」
「…分かっている!」

 鋭く言い放つが、果たしてどんな行為が有利を傷つけることになるのか…それを止めることができるのかどうか、分かりかねるコンラートであった。



*   *   *


 

 穏やかな春の風が、淡い花の香りを運んできては渡り廊下を吹き抜けていく。
 屋外に視線を送るまでもなく、強い西日が夕暮れ時であることを知らせてくれた。

「ちょっと…暑いくらいだね?」
「ええ、この季節は直射日光を浴びると暑いですね」

有利が頬の火照る理由を夕日のせいにして呟くと、コンラートはすぐに返事を寄越してくれた。
 本当は、人目を避けて繋いだ手の熱さがそうさせているのは分かっているのだけれど、口にするのは少し恥ずかしい。

 先程、ヨザックという男に会ってからは何だか《恥ずかしい》という意識が前面に出てきているような気がする。

『コンラッドって…やっぱモテたんだろうな…』

 今は有利と付き合っているらしいが、それまではさぞかし浮き名を流したのではないだろうか?
 あのヨザックという男が《好きな体位とか愛撫》を知っていると言っても否定しなかったところから見ると、結構奔放なプレイなどに興じていたのだろうか?

『凄い清潔な感じがするのにな…』

 ちらりと見上げた先で、コンラートが微笑み掛ける。
 ふわりと白い百合が綻ぶみたいな微笑みは気品があって、元王子様という肩書きも大変頷けるものであった。

 けれど、先程部屋で交わした口吻は巧みで…躰の芯がとろとろにされるみたいだったし、離れていく唇が名残惜しくて開いた瞳には、どこか妖しい魅力を纏う彼が居た。

『印象変わるよなぁ…?』

 本当は、どんな人なんだろう?

『思い出したいなぁ…』

 有利の記憶喪失というのはどうも《まだら痴呆》のような感じで、一般常識や生活一般に関することでは困らない程度理解できている。
 この国で生まれたわけではないそうだが、言葉もちゃんと理解できるし、文字はゆっくりとしか読めないものの、何故か手で触察すると意味が理解できる。

 《精神的なものがあるのかもしれませんね》…緑色の髪をした綺麗なお姉さんは、気遣わしげにそう言っていたろうか?

『精神的ねぇ…。俺って、そんな柔なタイプだったのかな?』

 関わりがあるとすれば、コンラートの弟だというあの金髪美少年に関わることだろうか?ひょっとして、彼は素敵な兄をこんな平凡極まりない少年に奪われたと思って、怒っていたのだろうか?

 でも…それで金髪君を忘れるのならともかく、どうして大切なコンラートの事まで忘れてしまったのだろう?

『弟君と階段で、なにか言い争いをしてるときに俺が落ちちゃったんだっけ?』

 ズキン……

 不意に、後頭部の痛みが強くなって目眩がした。


 《このままで良い…っ!》…


 …これは、誰の声だろう?

 思い出せない。
 ……思い出したくない?

「痛……」
「どうしました!?」

 頭を抱えて前屈みになったら、すぐにコンラートの腕が伸びて有利の身体を抱きかかえる。それは文字通り《抱きかかえる》という状態であり…所謂ひとつの《お姫様抱っこ》であった。

「わわわ…だ、大丈夫だよ!」
「いいえ…!不用意に歩かせたりして申し訳ありません!すぐ部屋に戻りますからね?」

 心配性のコンラートは人目もはばからずに有利を抱いて、早足で闊歩していくものだから…使用人や侍女達の視線を熱く感じながら部屋へと帰還することになった。

 

*   *   *




「もう平気だって!」
「そうですか?」

 コンラートの部屋に戻ると、侍女に運ばせた冷たい飲み物を飲み下して、ころりと寝台に横たえられた。
 もうすっかり頭痛はなくなっているというのに、コンラートは心配そうに頭をなで続けていた。

「頭が痛いなんて…お辛いでしょう?俺が代わってあげられたらいいのに…」
「もう…あんたちょっと過保護すぎだよー!」


 《コンラッドは、過保護だから》…


 …また、声が聞こえて頭の芯がじくりと痛んだのだけれど、それを口にするとコンラートがまた心配しそうなので黙ってしまった。

「えと…ちょっと汗かいちゃったし、夕食前にお湯借りても良いかな?」
「魔王専用浴場に行かれますか?」
「う…うん、それでお願いしマス」

 

 浴室に向かう途上でコンラートは手早く侍女に指示を出し、湯上がりの着替えや飲み物の準備、夕食もコンラートの部屋でゆっくり採らせたいとの希望を出してくれた。

『やた…!嬉しいな』

 食事時には強面のお兄さんやら銀色の髪を持つ美形すぎるお兄さんに囲まれてしまうので、ちょっと緊張してしまうのだ。二人とも表情の表し方は違うけれど、有利が記憶を失っていることをとても気の毒がってくれてるようだし、余計な心配は掛けたくない。

 第一、コンラートとぴったり一緒で居られるのはとても嬉しいのだ。

「俺もご一緒しましょうか?」
「ううん…!や、ここは一つ一人で出来るもんというところをお見せしようと思いマスですっ!」

 コンラートと全裸でお風呂…恋人同士なのだから当たり前のことなのだろうが、心の準備が出来ていなかった有利は飛び上がってお断りしてしまった。

『あ…』

 コンラートの表情に、一瞬…とても残念そうな色が浮かんだ。
 きっと、いつもの有利なら拒否なんかしなかったに違いない。

『どうしよう…俺……』

 迷いながらも、やはり思い切りがつかなくて《一人で入る》と言ってしまった。
 
 コンラートは《そうですか》とだけ笑顔で答えると、念の為に浴室の安全確認だけ行ってから廊下に出てくれた。

「はぁ〜〜……」

 急に、どっと力が抜けてしまう。
 コンラートの前では嬉しくてしょうがないのに、どこか緊張していたらしい。

 きっと、ヨザックのことをきっかけにして、自分に自信がなくなってしまったせいかもしれない。

「俺…こんなんで恋人なんておこがましいよな?」

 コンラートならもっと綺麗で妖艶な女性から引く手あまただろうに、こんな十人並みの子どもを好きになってくれた上に、記憶喪失でサービス精神ゼロときては頂けないこと甚だしいだろう。

「ナニしたら喜んで貰えんのかなぁ…?」

 湯船につかり、ぷくぷくと唇から水泡を吹き出しながら悩んでしまう。
 恋人…男同士の恋人って普通、どういう事をするんだっけ?

「はぁ〜い?坊ちゃん、お悩み中かしら?」
「……っ!」

 コンラートが安全確認をしてくれたはずなのに…なんと、魔王大浴場の獅子型噴水機の影から現れたのは股間だけを布地で隠したグリエ・ヨザックであった。
 隆々とした筋肉美が眩しすぎる。

「え…わ……ぁ……っ」
「叫んじゃ駄目ですよぉ〜。隊長にバレたら、隊長の秘密を教えてあげられなくなるでしょ?」
「隊長?」
「コンラッドのことですよ。あいつの好みとか知りたくないですか?」
「し…知りたい…っ!」

 不審極まりない男の前に、有利は土下座せんばかりにして詰め寄った。
 
「俺の言うとおりにやれば、隊長としっぽり恋人生活を送れますよぉ〜?でも、坊ちゃんに出来ますかねぇ?記憶がないんじゃ、色んな技とか忘れちゃってるデショ?」
「やるよ!頑張るから教えて!」
「んー、いい覚悟ですね?んじゃ…教えて差し上げますよ。まずは風呂から上がって、衣装あわせと行きましょ?」
「……衣装?」

 少々妙な感じがするが、幼馴染みの情報なら精度は確かだろう。
 ここはひとつ賭けてみるしかない。

 有利は言われるままに湯から上がると、ヨザックの持ってきた《衣装》に目を白黒させることとなったのだった…。



*   *   *




「本当に大丈夫ですか?湯当たりしたのでは…」
「だだだ…大丈夫!」

 コンラートの部屋に戻ってくると、湯のぬくもりなどとうに抜けて久しい有利はぶんぶんと首を振った。
 有利の頬を染めさせているのは、黒衣の下に身につけている《衣装》のせいなのだ。

『こ…こーゆーの……好きなんだ、コンラッド……』

 ちょっと…かなり意外な気もするが、大人の嗜好というのはえてしてそういうものかもしれない。人に言えないような秘密を、恋人なら共有出来るはずだ。

 殆ど味が分からないまま夕食を採ると、コンラートは食後に用意された酒を少しだけ口にした。
 酔う為ではなく、強い香りを持つ辛口の酒で口を濯ぐ意味があるのかもしれない。
     
「ちょっとだけ…呑んでも良い?」
「眞魔国では成人に達しておられるので問題はないですが…ユーリは成長の為に禁酒宣言を出していたんですが…」
「ちょっとだけだもん」

 駄々っ子みたいに唇を突きだして杯に寄せれば、強い芳香が鼻腔を突く。
 でも、このくらいの酒で勢いでもつけなければとてもこの《衣装》を披露出来る気がしない…。

「あ…ユーリ、そんなに?」
「ん…く……ぅん……っ!」

 勢いよく飲み下せば、食道と胃が《かぁ…っ!》と熱を持ったように感じとられ、息が縺れてしまう。

「ほら…いわんこっちゃない。お水をどうぞ?」
「んーん!」

 ふるるっと首を振って、有利はぷちりと黒衣の釦を外す。

「ユーリ…?」

 不思議そうに見守るコンラートの前で…有利は、微かに震える指を叱咤しながら全ての釦を外すと、思い切りをつけるように勢いよく脱ぎ捨てた。

「……っ!?」

 コンラートの視線が、熱い。

『どうしよう…引いちゃったのかな?』

 何も言ってくれないものだから…うるりと瞳が潤んでしまう。
 ひょっとしてヨザックに騙されたのだろうか?

 有利は黒衣の下に白いシャツを着ているが、春用の薄い生地の下に身につけた《衣装》…純白のビスチェが透けて見えてしまう。
 胸からウエスト上部にかけて縛ったビスチェは、下縁から形良い臍がちょこりと覗き、その上縁には…目を凝らせば、コンラートの視線を感じながら緊張に震える、胸の桜粒の様子も見て取れるだろう。

 浅く速い呼吸の中で上下する微かな胸の膨らみも、まごうことなき少年の身体を中性的に見せていて、酷くいやらしい気がする。

「この下着は…一体?」
「や…やだった?俺…コンラッドが喜ぶって聞いて、それで…」

 泣きそうな顔でどもってしまう有利に、コンラートが鋭く聞き返してしまう。

「誰に聞いたんです?」

 しかし、問いかけはしたものの…そういう事をしでかす者にそう当てがあるわけでもないのか…コンラートは苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。

「……ヨザックですね?あのオレンジ髪の…」
「うん…こういうの、コンラッドが好きだから着てみなって風呂で言われて……」
「くそ…!あいつめ、どこかに抜け穴を作ったな?懲罰ものだ!」

 一体ナニをする為に作ったのか気がかりなところだ。

「………コンラッドは…こういうの、嫌いだった?やっぱ……」

 しょぼんとした有利は脱ぎ捨てた黒衣をズリリ…っと引き寄せ、身体を隠そうかどうしようかと迷っているようだった。

 コンラートは我に返ったように有利に寄り添うと、宥めるように囁きかけるのだった。

「俺はユーリであればどんな姿でも好きですよ?そういう格好をされたことは今までなかったのですが…」
「やっぱ俺、騙された!?」

 《うええぇん》…と頭を抱える有利に、コンラートはわたわたと慰めの言葉をかけ続けた。

「とても素敵ですよ?でも、ユーリが恥ずかしいのであれば可哀相だなって思うんです」
「うぅ〜…衣装は好きだけど、俺が着たんじゃ駄目ってこと?嫌な予感はしたんだよ〜…だって、これっておっぱいが素敵なお姉さんならともかく、俺が填めてどうすんの?って感じだよね?だってほら、男の胸なんだから寄せてあげても限界ってもんがあるだろ?」

 涙目の有利は椅子の上に手を掛け、上目遣いと共に両腕を寄せて《きゅう》…っと胸筋を押し寄せる。
 
 途端に、コンラートは顔の下半分を押さえて悶絶してしまった。

「やっぱイタ過ぎる!?」
「ち…違……っ!」

 艶かしい眼差しを戸惑うように揺らすコンラートは、どうしたものか…黒衣を羽織ろうとする有利の腕を止めて、ふわりと胸に抱き寄せてきた。









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