「つぼみが開くとき」−1









 平らかな地面から、若芽がひょこりと頭を出す一瞬。
 硬い蕾がほわりと開く一瞬。
そんな一瞬が、人間や魔族にもある。

 《恋心》と呼ばれるものが自覚されるのも、そんな一瞬の一つだろう。

 ただ、全ての者にとってそれが幸せを約束するものかというと…一概にそうとは言い切れない。
 自戒の念が強すぎて、いましめの茨でがんじがらめになっているような男にとっては特にそうだ。

 

*  *  * 




「あ…桜?」
「いいや、アナローサの花だよ。聖都からの頂き物を植樹したんだ」

 房状に咲く淡紅色の花は、黒っぽい幹や枝と好対照を為して風に揺れる。地球に咲くという桜と同様に春を開花の季節とするから、リヒトが間違えるのも無理はない。

 15歳を間近に迎えたリヒトは、この春中学3年生になっていた。季節がこちらの世界と数ヶ月程度ずれているから、あちらでは今は《梅雨》と呼ばれる雨期であるらしい。

 リヒトは有利達と共にこちらの眞魔国へと遊びに来ており、今はレオと二人きりで散歩をしている。警備の問題で血盟城の中を歩いているだけだが、二つの世界では庭に植えている植物も少し違う。建物自体は同じだけに、部分的に違うことや季節感の相違に、リヒトは目眩に似た感覚を味わっているようだ。

「何か…いつもいる場所と同じなのに、やっぱ時々変な感じがするね」

 ぱちぱちと瞬きをすると長い睫が蝶のように揺れて、微かな影が陽に灼けた頬に落ちかかる。健康的な肌は現在象牙色の輝きを呈しているが、秋になるとスゥ…っと消えて抜けるような白さを取り戻すことを、もうコンラートは知っていた。今だって、服の下にはやはり白い肌があることも。

『風呂で何度も見てるからなぁ…』

 少し不思議なのは、一見すると有利と全く同じように生育しているリヒトの裸体を見ても、かつて有利のそれを見た時のような心臓の拍動は感じないという点だった。あの頃の有利は18歳だったから確かにまだ3年の差があるとはいえ、聞いたところでは有利が15歳の時、既にコンラッドは性欲を感じていたらしい。
 3年後にコンラートが同じように反応を示すとは、今のところ考えにくかった。

 妙なところで勘の良いリヒトが、このことに気付かないでくれればいいのだが…と願う。

 コンラートの身は、昔誓ったようにいつだってリヒトのものだ。
 けれど…性欲を感じるかどうかと言う点については、コンラート自身にもどうにもならない。セックス自体は出来ると思うのだけど、本当に《欲しい》と思って求めるのと、義務的に抱くのとでは受ける感覚が全く違うだろう。

 はらり…
 はら……

 強い風に煽られた花弁がちらちらと舞い、花吹雪のように薄曇りの空を行き来する。その数枚がコンラートのマントに落ち掛かったのを、リヒトがちょんと摘んで眺めた。
  
「綺麗…桜よりちょっと色が濃いけど、こういうのも綺麗だな〜」
「サクラという花を見たことはないけど、そちらも綺麗らしいね」
「うん。日本人は大抵桜が好きだから、凄く沢山植えてるんで、一気に咲くとそりゃあ壮観だよ?今度父ちゃんにお願いしてみようか?レオも一度地球に来てみたら良いよ!俺が野球部で頑張ってるトコとかも見て欲しいしさ〜!」
「そうだね…是非、見に行ってみたいな」

 リヒトの方はセカンドとして機敏な動きを生かし、中学校の野球部に所属している。キャッチャー志望なのに小柄だった有利はどうしても部活動では不利だったようだが、ポジションのせいかリヒトには試合出場のチャンスも巡ってくるそうだ。

 ずば抜けて才能があるわけではないようだが、やはり《人を纏める力があるようだ》というのが有利とコンラッドの弁であった。
 《親馬鹿でゴメン》と彼らは苦笑するが、コンラートだってそう思う。
 ひたすら無邪気であった小学校時代を越え、中学生になってからのリヒトは学校生活の中でよい出会いもあったのか、人柄を大きく、しなやかに伸ばしていた。

 特に、リヒトは他の部員の失敗をフォローするのが上手いのだという。庇われている相手にさえ気づかせない自然さだから、逆に恩を感じさせないのだとも言うけれど、《それで良い》とリヒトは言う。

『レオも野球しようよ。あのね?一人じゃ出来ないことを、みんなでするのが良いんだよ』

 それは確かに、コンラートに必要な要素なのかも知れない。何でもかんでも自分の身に抱え込んでしまうコンラートは、上手く行っている時には良いのだが、行き詰まった時に上手く人に助けを求められない。一人で抱えたまま自滅してしまう傾向があるのだ。

 分かってはいるのだが…こと、大きく関わっている業務が王としての政(まつりごと)である以上、野球のように単純に行くとも思えなかった。

「そんでね?こないだの試合でもね…」

 リヒトが楽しそうに野球部の話をする。3年生とはいえ固定のレギュラーではないから出場できないこともあるのだというが、ベンチにいる時にも懸命に声援を送っているらしい。その光景を想像しようとするが、コンラッドと違って地球情報を持たないコンラートは、上手く思い浮かべることが出来なかった。

 野球自体はあちらの眞魔国で有利たちがやっているのを見たことがあるのだが、そもそも、そこいらじゅうにゴロゴロと双黒がいるのだという日本の状況が想像できない。

 有利やリヒトによると、地球では《俺たちって、平凡なんだよ?》とのことなのだか…大抵、後ろで脂汗を滲ませているコンラッドが《いやいやいや…》と呟きながら小刻みに手を振っている。おそらく、そう思っているのは本人達だけなのだろう。
 それでも、双黒と言うだけでは希少性がないのは確かだから、眞魔国にいる時とは格段にリラックス出来るに違いない。

『たくさんの双黒の中で、溶け込んで生きているのか…』

 《羨ましいな》と、素直に思う。

 混血であり、同時に王族でもあったコンラートは何処に行っても常に異質な存在であったから、全く平等な者と肩を並べるという機会が無かった。ルッテンベルク師団の連中でさえ、コンラートに対してはやはり一歩引いた所があったくらいだ。
 そこに持ってきて今は魔王陛下と来ているから、コンラートはそういった意味では何時までも孤高の存在なのかも知れない。 

「レオ」

 不意に、リヒトの手がコンラートの頬に触れた。

 ほんの少し前までは、コンラートがしゃがまないとそんな姿勢は取れなかったのに、随分と大きくなったものだ。
 リヒトにもそれが実感されるのか、コンラートの頬をもにもにとしながら嬉しそうに微笑んでいる。

「えへへぇ…あんたがそのまんまにしてても、手が届くようになったよ!もうちょっと大きくなったら、頭だって撫でてあげられるよ?」
「楽しみだね」
「うん、大きくなって…あんたが寂しい時や、辛い時には撫でてあげる。今はほっぺで我慢してね?」
「ふふ…じゃあ、辛い時にはお願いするよ」  
「今は、慰めになってる?」
「え…?」

 ふわ…っと花弁が散って、二人の間を旋回していく。花吹雪の中に溶けてしまいそうな光景の中で、リヒトは今まで見たこともないような表情で微笑んでいた。
 それは、《早く大きくなりたい》と泣いていた頃のように背伸びをしているわけではなく、ごくごく自然に、彼が生育を遂げたことを教えてくれた。

「…気にしないで。ちょっとの間、こうさせててくれる?」
「あ…あ」

 リヒトは静謐な眼差しで、やさしくコンラートの頬を撫で続ける。暖かな子どもの体温が、ゆっくり…ゆっくり、コンラートの心に染みていくようだった。
 
『この子は…』

 一体、いつの間にこんなにも大きくなったのだろう?

 平らかな地面から、若芽がひょこりと頭を出すように。
 硬い蕾がほわりと開くように…。

 違いの分からない長い時間を経て、ある一瞬に劇的な変化が訪れる。

 ドクン…と、コンラートの中で拍動するものがあった。

「コンラート陛下…!」

 遠くで誰かが呼んでいる声がする。散歩が思いのほか長くなってしまったから、定時報告をすべき官僚が焦れているのかも知れない。

 す…っと外された掌の感触を、この時ほど引き留めたいと思ったことはなかった。

「また、撫でさせてね?」
「ああ…」

 無邪気な子どもの顔に戻ったリヒトが、安堵したようにコンラートの手を掴んで、勢い良く振りながら血盟城へと戻っていく。もう、頬を撫でて《慰める》必要はないと感じたからだろうか?

 そういえば、無意識の内に鬱屈していた心の中の痼りが、ほわりと緩んでいるのに気付く。

『俺は…今、何を感じたのだろう?』

 一つの予感は疼くような期待と共に、大きな不安をも投げかけてきた。



*  *  * 




「う…ぁ……っ…」

 は…っと硬直したまま目が覚める。全身にびっしょりと汗を掻いたコンラートは、荒い息をつきながら額に張り付く前髪を掻き上げた。

「…度し難いな」

 どれだけ不幸体質なのかと、自分で自分に突っ込みたくなる。
 あれほど心配していたことが解決したのに…リヒトを、今までとは違う意味で愛している自分に気付いたというのに…《大人》として彼を認識した途端、コンラートを襲ったのは、《失ったら今度こそ絶望する》という確信だった。

 もしかすると、リヒトを心の何処かで遠ざけていたのは、このような感覚を味合わないよう、無意識のうちに《ちいさな子ども》として対象外に置こうとしていたのかもしない。

 それでも…彼は入り込んできた。

 おそらくはコンラートの卑怯な逃げを本能的に察知しながら、責めることなく…幼い身体の精一杯で、コンラートを癒そうとしてくれた。

 だがそれは、コンラートがリヒトを《祝福する存在》だからだ。
 一度でも死を不可避のものとして受容したことが知られたら…。

「……っ!…」

 ここ数週間続いている胃痛が、ギリ…っと心窩部に差し込んでくる。万力で締め上げられているような感覚は心臓の痛みさえ疑わせるが、医学書に照らし合わせてみると、おそらくは精神性の胃潰瘍だろうと思われた。

 心理的にどれほど追い詰められても、生活に影響させたことなど殆ど無かったのに…。
これが、《恋》というものの脅威なのだろうか?

 成就すればあちらの世界のコンラッドのように理性が崩壊し(←失礼)。
 成就しなければ心を砕く。

 《恐ろしい》とさえ感じた。

 コンラートは硬く瞼を閉じたまま、無理矢理寝台に身を横たえる。仰臥位や腹臥位は苦しくてとてもとれないから、気が付くと円弧型になって横寝をしていた。見る者によっては《赤ん坊のようだ》と思ったかも知れないが、コンラートにそこまで自分を客観視する余裕はない。

『リヒト…どうか、俺に失望しないでくれ…』

 痛い。
 苦しい…。

 噂に聞いていた《恋の痛み》というのは、こんなにも強いものだったのだろうか?



*  *  * 




 は…っと意識が覚醒した時、コンラートはまだ自分が眠っているのだと思った。まだ幾らか霞んでいる視界の中に、半泣きになったリヒトの顔があったからだ。
 良く笑い、良く泣く子ではあるが、そもそも今コンラートの傍にいるはずはないのだ。

「リヒト…」
「レオ!血を吐くなんて…一体どんだけ無茶な仕事してんだよ…っ!!」
「え?」

 両頬をがっちり掴まれ、叱られなければ、コンラートは夢だと信じてリヒトにキスくらいはしていたかも知れない。
 やや覚醒してきた視界の中には、リヒトだけでなく蒼白な顔色のグウェンダルやギュンターの姿があった。

「すまない、リヒト…私が無理をさせすぎたのだ」
「違うよ…。絶対、グウェンが止めてもレオが無茶を通したんだろ?」

 苦渋を呑むような顔をしてグウェンダルが詫びると、よくよく事情を飲み込めているらしいリヒトはぷくっと頬を膨らませた。
 
「私達は席を空けるから、暫く傍についていてくれるか?ああ…コンラート、言っておくが3週間は絶対安静だ。その間はリヒトに目を光らせて貰うから、絶対執務室には足を踏み入れるなよ?」
「は…あ?」

 きょとんとしてグウェンダルを見上げていると、余程気の抜けた顔になっていたのか…厳と引き締められていた顔が否応なしに崩れかける。
 グウェンダルは泣き笑いのような表情になって、くしゃりと髪をかき混ぜた。

「…心配、掛けさせおって」

 どうしよう…リヒトとはまた別のベクトルで、兄が愛しすぎる。
 有無を言わさず抱きしめたくなるではないか。

 リヒトにお粥のようなものを食べさせて貰いながら聞いたところによると、コンラートは朝方起きようとして、そのまま血を吐いて倒れていたらしい。衛兵からの知らせを受けて駆けつけたグウェンダルは真っ青になって医師を呼び、精神性の胃潰瘍と知ってから《根本的な治癒》の必要性を感じたのだそうだ。

 グウェンダルは眞王廟を通じて異世界の有利に連絡を入れ、無理を承知でリヒトを送るよう頼んでくれた。

 思い返してみると、今までリヒトがやってきた時にもグウェンダルは何をおいても二人きりの時間を作ろうとしてくれたように思う。
 おそらく、昔彼自身が言っていたように、《お前だけのユーリ陛下を作ってやりたい》という気持ちの表れだったのだろう。

 コンラートが自覚する前から、彼はリヒト以外にそんな存在は現れないと認識していたのか。

『ありがとう…兄さん』

 ぱく…っとリヒトの差し出す匙を口に含みながら、兄に対する感謝が沸き上がってきて瞳が潤む。
 
「あぁう〜…レオ、どうしてあんたってばそんなに色っぽいの?」
「ん…?」

 匙を銜えたまま不思議そうに小首を傾げると、何故かリヒトが寝台の脇で悶絶していた。

「無自覚かよ…タチ悪いな……」

 ブツブツとぼやきながら頭髪を掻くリヒトは、妙に男臭く見える。
 まだまだコンラートに比べれば…有利と比べてすら華奢な体躯だというのに、これまでの人生で経てきたものが余程充実していたのか、リヒトは実年齢よりもおませさんに見えた。

「お代わり食べられる?」
「君が食べさせてくれるなら」
「語尾にハートマークをつけんな!襲いたくなるじゃん!」

 《いっそのこと、襲ってくれたら良いのになぁ…》なんて、狡い大人は考えてしまうのだった。
《リヒトの方から無理矢理》という状況なら、やってしまっても良いのかと。

『いかん、レイプ願望の魔王陛下ってどうなんだ!』

 体調不良のせいか、発想が危険水域に達していることを自覚すると、コンラートは頭をふるふると振って精神を引き締めようとした。
 すると、じぃ…っとそんな様子を眺めていたリヒトが大きな溜息をつく。

「もー…。良いよ、無自覚に誘ってくれてもどうしても。俺はどんなあんただって好きだからさ」
「リヒト…駄目亭主と連れ添ってしまった女将さんみたいな慨嘆をするね」
「パパと父ちゃんみたいなもんだろ。だったらいーじゃん。お互いは幸せなんだし」

 そんな喩えが定着している両親ってどうなんだ。

 結局、二、三口食べたところで苦しくなったのを察したのか、もうそれ以上は勧めずにコンラートを横にしてくれた。完全に平坦に寝ると胃液が逆流してくるからと、上体の下に幾つもクッションを置いて、その横に添い寝をしてくれる。

 何とも至れり尽くせりである。

「リヒト、3週間も俺と一緒じゃあ日本での生活が大変だろ?2、3日で帰っても…」
「ダーメ。あんたが良いって言っても、俺とグウェンとお医者さんがみんな良いって言わなきゃ、ワーカホリックのあんたは開放してあげない」

 悪戯めかして笑うと、リヒトはきゅうっとコンラートに抱きついてきた。

「だから…お願い、いっしょにいて?本当に元気になるまで…とても離れてなんかいられないよ」

 大人びた顔をするかと思えば、やはりこんな風にあどけない子どもの仕草もするのだ。不安げな表情は、断固としてコンラートが却下すれば、やはり受け入れるしかない子どもなのだと自覚しているようだった。

「今は3年の夏休みだから部活もないし、横で受験勉強させてよ。家でやるより、あんたに良いトコ見せようとしてた方が頑張れるからさ」
「うん…」

 そこまで言われては、もう抵抗することは出来なかった。
 コンラートも腕を回してリヒトを抱き寄せると、ほわりと髪の香りが伝わってくる。

「花の香りがする…」
「きっと、ここまで来るときに転んで、桜に似た花の吹きだまりに突っ込んだからだよ」
「是非見たかったなあ…」
「…爆笑させてあげたかったよ」

 ぷくっと頬を膨らませるリヒトを抱きしめながら、暫くの間コンラートは花の香りを楽しんだ。

 芽吹き始めた蕾のかおりを、確認するように。





→次へ