「時の魔法陣」−4








 館に入ると、気配を察したようにコンラートが現れた。相変わらず耳と言葉は不自由なようだが、ばつが悪そうな顔でペコリと頭を下げる有利に微笑みかけてくれた。ただ…一瞬上げた腕はすぐに引っ込めてしまった。抱きしめようとして、躊躇したようだ。

『こないだ逃げ出したから、抱きしめたりキスしたらまた逃げちゃうと思ってんだな』

 実際、また迫られたらどう対応して良いのか分からないから、微かな距離を置いているのは良いことなのかも知れない。
 寂しいのは、寂しいけれど。

『だってあんな真剣な顔して《愛してます》なんて言われたら、どんな顔して良いか分からないし』
 
 それに、あれから一人で悶々としていたら余計なことまで考え始めてしまった。

 あの時は小さな有利に一目惚れしたコンラートが、成長した有利を《これこそ愛する人》と認識して告白してくれたのだと思って、浮かれたのとどうして良いのか分からないのとで脳が爆発してしまったのだが、コンラートの秀麗な面差しや立ち居振る舞いを思い出すに、とても幼児趣味がある変態には見えなくて、色々と考えていたら一つの可能性に行き当たったのだった。

 誰か有利によく似た人物に、惚れていたのではないのか。
 その可能性は極めて高いように思われた。

『エーリッヒさんは一目見て、俺を適格者だと思ったって言ってた。それは、あまりにも条件に合致する姿だったからじゃないのか?』

 有利がキスをしたから目覚めたのかどうかは分からないが、匂いや感触もひょっとしたら似ているのかも知れない。特に嗅覚は直接過去の記憶に結びついて、本人も忘れているような記憶を呼び覚ますという。有利が至近距離でキスをしたことで、体臭が強く鼻腔に入った可能性はある。

 コンラートとはその日から、週末ごとに会った。通っていって、土曜日と日曜日、終業式間際の三連休も、夏休みに入ってからの土日も一緒に過ごしたけれど、どこかよそよそしい雰囲気が二人の間にはあった。

 その間、ずっと胸が痛かった。誰かと似ているから愛されているのならいい、でも…深く有利を知る内に、《なんだ、全然違うじゃないか》とガッカリされたらどうしよう?そう思うと、一定のライン以上踏み込むことが恐ろしくなってきた。

 

*  *  * 




 7月29日、訪れた屋敷の中には奇妙な緊張感があった。
 誰か違う面子が居るとか、コンラートの容態が変わったとかそういうことではないのだけれど、メイド達が有利を見る目に苛立ちがあるような気がした。
 そういえば昨日帰ろうとしたときにも、《お帰りになられるのですか?》と再度確認されてしまった。それでも、《どうか泊まっていって下さい》とは頼まれなかったから、そのまま家に帰ってしまったのだけど。

「あの…来たら、拙かったかな?」
「そのようなことはありません」

 エーリッヒは穏やかに微笑んでいる。
 熟練した執事である彼だけは、最初に会った頃よりも深い落ち着きを見せているようだ。ただ…じっと目を見つめていると、微かに困ったように瞬きを繰り返す。その様子に、彼もまた内心では何かに焦れているのだと察せられた。

『今日って、なんかあるのかな?』

 街の大抵のスーパーでは肉の特売日になっているが、この屋敷の台所事情なら2割引きになるからといって、そんなに買いこむ必要もあるまい。
 強いて言えば有利の誕生日だが、それこそ関係ないだろう。普通は雇われるときにそのくらいの情報は聞かれそうなものだが、あくまで自分の意志で来ていることになっているから、結局個人情報は名前くらいしか伝えていない。

 いつもの部屋に通されると、コンラートもやはり穏やかに有利を受け入れてくれた。メイドがお茶を入れようとすると、自分でタイミングを計って紅茶を注ぐ手つきも相変わらず見事だ。茶色い帯が滑らかに曲線を描きながらカップに注がれていく様を、有利はゆっくりと見つめる。
 でも、いつも思うのだが真っ白な陶器製のティーポットと、カーキ色の軍服がミスマッチだ。お屋敷の旦那様らしく、レースのひらひらがついたドレスシャツとか着ている方が似合う気がする。

「コンラッド、軍服以外の服は着ないの?」
「あう」
「今風の服とかも似合いそうなのに。なあ、今度身体の具合が良かったら一緒に野球見に行かない?その時には普通の服着てさ」
「うー」

 困ったように肩を竦めて、コンラートが口を動かしているがよく読み取れない。《あなたに分からないと困るから》と言っているような気がするが、それは奇妙なことだ。こんな素敵な顔立ちと体躯の人なんてそうそういやしないし、上背もあるから遠くにいても絶対に分かるのに。

「耳と声が不自由だから、はぐれるの心配してるの?大丈夫だよ。俺、ちょっとくらい離れたって、あんたのことは絶対分かるもん」
「……っ…」

 琥珀色の瞳が一瞬揺らいだようだった。
 すぐに動揺は消えたけれど、それは収まったからと言うよりは無理矢理押さえ込んだように思えた。そんなに不安や驚きを引き出す申し出だったろうか?やはり長い間眠りつつけていたから、外の世界が怖いのか。

「俺、結構目は良いんだよ?特にあんたなんて目立つもん。どんなにはぐれたって見つけるよ。約束する」

 こくんと頷くコンラートの前髪が、吹き込んできた風を受けて揺れている。7月も下旬になるとかなりの暑さなのだが、この部屋には冷房が入っていないから、開放された窓から自然風が入ってくるのだ。

『俺が冷房嫌いなの、話したこと無いよな?』

 そこまで気を使われていると思うのは、自意識過剰だろうか? 
 
 静かにお茶を飲んで、有利が一方的に学校であった面白い話などを語っていく内に尿意を催した。
 コンラートに《一人で行きたい》と言い含めてトイレに行くと、途中で何か言い争うような声が聞こえてきた。エーリッヒとメイドの漆原らしい。漆原は最初の日に火傷の痕を見せてくれた女性だ。

「エーリッヒ様、何故ユーリ様をもっと強く引き留めてくださらないのですか?」
「ユーリ様がここに来て下さるのは、契約ではないからです。あくまでご自身の意志で来られている以上、こちらから来訪頻度を指定することは出来ないのですよ」
「ですが、コンラート様がお気の毒ではありませんか。あんなにもユーリ様の来訪を待ち望んでおられるというのに…っ!ユーリ様が飛び出されてからのコンラート様は、再び昏睡状態に陥られるのではないかと思うくらい憔悴なさっておいででした」
「コンラート様が再びあの状態に戻られることはない」
「何故お分かりになるのですか?私、以前から不思議だったのです。何故あのような状態でコンラート様を放置しておられたのかと。医師を呼ばれたこともないのでしょう?」
「医療で解決できる問題ではないからね。万が一知られたりすれば、良くて見せ物扱いです。《現代の奇跡、栄養の補給もなしに生き続ける美青年》…とね。それに、あなたも知ってのとおり、コンラート様に触れられる者などいませんよ、ユーリ様を除いてはね」
「だから、それが分からないというのです!どうしてあんな子どもだけが…」
「言葉を慎みなさい…っ!」

 平手で打ったりしたわけではないのに、《ビン…っ!》と劈くような叱責がエーリッヒの口から放たれると、漆原は腰を抜かしたようにくなくなとへたりこんでしまった。

「失礼。女性に声を荒げてしまうとは…私も修行が足りません」
「も…申し訳ありません。私こそ…出すぎた口を……」
「分かってくれれば良いのです」

 紳士らしい様子に戻ったエーリッヒに手を取られて立ち上がると、悄々として漆原は謝罪した。気の強そうな女性だが、よほどエーリッヒの叱責が堪えたらしい。

「ウルシバラ、人には役割というものがあります。私は、自らに科せられた責務を果たすことでコンラート様のお役に立ちたいと考えております」

 《君はどうですか?》と直接聞くことは無かったが、決意を込めた眼差しを受けると、漆原は自らを恥じるように自然と頭を下げていた。

 有利は意図しないこととはいえ、盗み聞きしてしまったことを恥ずかしく思った。《自らに科せられた責務を果たす》それは口で言うのは易しいが、全うすることのなんと難しいことだろう?そして、有利の役割を喉から手が出るほど欲しいと思っている人はきっと大勢いるのだ。

『恥ずかしい』

 ちっぽけなプライドに拘って、有利はあんな素敵な人を傷つけるところだった。
 誰かの代わりにされているからなんだ。
 《なんか違う》と思われたとしても、その時はその時ではないか。自分のことばかり考えて、ちっともコンラートのことを考えていなかった自分が恥ずかしい。

『俺はコンラッドに何が出来るだろう?』

 あの人はどうしたら笑顔になってくれるだろうか?
 それは、彼が求めるだけまずは触れさせてあげることではないのか。その上で彼が自分を選んでくれるかどうかだ。

『自分が選ばれないからって、俺は自分からゲームを投げだしてた』

 中学でクラブ顧問と喧嘩をして野球そのものを止めてしまったように、大好きなものから手を離した。《お前なんかやめちまえ》と言われたから。
 コンラートから手を離した。《要るのはお前じゃないよ》と言われたような気がしたから。

 自分のポジションで懸命に頑張っている人たちを置いて、もう逃げ出したりしない。

「コンラッド…っ!」

 部屋に飛び込んでいくと、コンラートが驚いた顔でこちらを見ている。
 笑って。
 笑ってくれ。
 大好きなあなたに、幸せになって欲しいんだ。

「コンラッド………」

 傍らに寄ってちゅっと頬にキスをするけど、拒絶された記憶が枷となるのか抱き寄せてくることはない。ただ驚いたように目を見開いて、おずおずと有利の肩の少し外に手を構えている。

 だから有利の方から抱き寄せて、耳元に囁いた。耳はまだ聞こえないかも知れないけれど、有利が何かすることでコンラートに反応が起これば良い。

「好きだよ。大好き…。初めてあんたが眠る姿を見たときからずっと、俺はあんたのことが大好きだ。ううん…あの時とは、また違う《好き》なのかもしれない。誰かと共有できない《好き》になっちゃった。だから、怖くなって逃げ出したのかも知れない。こないだは、ゴメンね。色々と…怖がってたんだ俺は。だけどもう逃げないから、お願い。俺をあんたの好きにして?」

 つっかえつっかえでも思いの丈を伝えると、ゆっくりと有利の背中にコンラートの腕が回される。感触を確かめるように、匂いを嗅ぎ取るように擦り寄るコンラートの、さらさらとした髪が頬に触れた。

「ユーリ…」

 声が聞こえた。コンラート自身驚いているように、戸惑いながらも続けて言葉は紡がれていく。

「…っ!」
「ユーリ。ありがとう…ございます。愛してます…永遠に、あなただけを」

 微かな掠れが喋るごとに消えていき、喉を流れる声が滑らかさを取り戻していく。ああ…この声を有利は覚えている。大切な宝物のように、舌の上で転がして紡がれるこの言葉。

 《ユーリ》と、かつてのコンラートは自分を呼んではいなかったか。

『かつて…って、いつ。いつ…?』

 分からない。
 それでも込みあげる懐かしさは有利を包み込み、気が付けば頬を涙が伝っていた。

「愛してるんだ、コンラッド。ずっと…」

 ずっと前から。
 いつ?いつから…?
 《どぼん…っ!》と、記憶の海の中に投げ出されたような心地がした。 
 
 視界いっぱいに、突然開けてきたのは屋敷の中の光景とは違っていた。
 赤黒く染め上げられた空と、破壊された石造りの建物。群雲の中からは紅い閃光がいつくも跳ね飛んで、こちらを威嚇するようにべろりと真っ黒な舌が伸びていた。大量の砂を被ってザラザラとした肌合いの感覚と、喉を灼くような瘴気の匂いをリアルに思い出す。
 
 これは何だ?

 砂まみれになったカーキ色の軍服をどす黒い血で染めながら、コンラートが立っている。左腕を押さえて苦悶の表情を浮かべた彼は、脚も傷つけられているのか動けないようだった。よく見ると、透明な鞭のようなもので全身をがっしりと捕らえられている。そうだ、彼がついてきてしまうことを恐れて、有利が拘束した。

 そんなコンラートの前に膝をついてキスをしてから、有利は彼に背を向けた。
 向かう先にあるのは怖気を震うような瘴気の塊。あれが何なのか有利は知っていた。勝機を見いだすにはその中に入っていくしかないことも知っていたけれど、同時に、行けば自分という存在が失われるかも知れないことも知っていた。

 歩調を合わせて一緒に進んでくれたのは、漆黒の衣装に身を包んだ…ムラ先?
 そうだ、村田先生だ。
今よりもずっと若い。まるで有利と同い年くらいの村田だ。
 コンラートに向けるような恋情とは違っていたけれど、有利にとって村田はとても深い絆を持った大切な人だった。とてもとても、信頼していた。
 あの時、握っていた手が震えていたのを覚えている。それは彼個人の恐怖ではなく、有利を失うことへの恐怖だった。それでも、一緒に進んでくれたことを感謝している。

 《さあ、行こうか。陳腐な言い方だけどね…終わりの、始まりだ》

 進んでいった有利はそして、どうなったのだろうか?

「君は責務を全うしたんだよ。戸惑い、苦しみ藻掻きながらも結局逃げなかった。君は…いつだってそうして立ち向かうんだ」

 瘴気は消え失せて屋敷の様子が元通りになっているのに、まるで有利が思い浮かべていたことが分かるみたいに切なげな顔をして、村田が立っていた。学校で身につけているような明るい色のスーツではなくて、喪服のように真っ黒な服を着ているからいつもと印象が違う。秀麗な顔立ちが引き立つような出で立ちは、白昼夢の中で見た姿によく似ていた。

「ご苦労だった、エーリッヒ」
「私も、責務を全うできましたでしょうか?」
「ああ、とても良い働きだった」

 傍らで満足そうに頷いているのは執事のエーリッヒだ。何故かキラキラとした光に包まれながら、その姿が薄くなっていくような気がするのは白昼夢の続きなのだろうか。クルクルと螺旋状に回転しながら宙へと広がっていくのは、精密に描かれた呪文のようだった。クルクルクルクル…ほどけていく度に、エーリッヒは足の爪先から順に分解されていくようだった。

「エーリッヒさん…?」
「エーリッヒ?」

 コンラートも驚いているようで、二人して立ち上がると駆け寄っていくのだが、老執事は嬉しそうに微笑みはしたけれど、触れることは出来なかった。映写機から投影された映像のように、二人の手は執事の姿を空過してしまう。

「ウェラー卿コンラート閣下。あなたのお側にお仕えすることが出来ましたこの15年、とても楽しい日々でした。最後の一ヶ月弱の間には、こうして眼差しを受け止め、声を交わすことも出来ました。奇跡が成就する瞬間を見守ることが出来ましたこと、ユーリ様に深く感謝致します」
「ナニ言ってるのエーリッヒさん、か…身体が消えちゃうよ…!?」
「責務を全うした証です。哀しまれることはありません。元々、私はこの為に作られた魔法陣なのですから」
「どういうことだよ、村田…っ!?」

 腕組みをした村田は無表情に佇んでいる。
 高校生のように幼さを滲ませていた姿と、今の不貞不貞しいまでの大人の姿が二重に見えるが、これは単に感覚だけの問題のようだった。有利の記憶の中にある姿が今の記憶と混乱を起こしているのだろう。

「エーリッヒは僕とツェリ様と、フォンビーレフェルト卿、フォンヴォルテール卿、フォンクライスト卿、フォンカーベルニコフ卿が作り出した魔法陣だよ。創主を封じる代償として、君が《年齢》を喰われていくのを食い止めるために、ウェラー卿の年月を糧として作り上げた魔法陣だ。もともと肉体を持った存在じゃない」
「そんな…っ!」

 村田が言っている言葉の意味が、今度は理解できる。記憶を辿れば、ほのめかすように謎めいた言葉の数々も殆どが解きほぐされていくだろう。

 今の有利の中には平凡な男の子として育った渋谷有利としての記憶と、やはり平凡に育ちながら、16歳の誕生日を目前にして異世界《眞魔国》に運ばれ、そこで第27代魔王として君臨した記憶が同居していた。多少の混乱はあるが、脳が破裂するほどではない。多分、人格を二分するほど二人の間に明確な違いがないからだ。

 異文化交流の失敗でヴォルフラムを婚約者にし、魔王として至らぬ能力をグウェンダルやギュンターに補って貰い、精神と肉体を護衛長たるコンラートに守護されていた。《禁忌の箱》を人間によって解放されない為、そしてなにより世界平和の中での眞魔国繁栄という有利の願いを叶えるために、コンラートは一度袂を分かつていたけれど、やはり有利のために戻ってきてくれた。

 あの時の歓喜を、今でも覚えている。
 直前まで有利を裏切る形で敵の臣下に収まっていたコンラートだったが、我が身を文字通り盾にして有利を護ると、命を捨てる覚悟で闘った。
 おそらくは有利の最期の時も、同じような選択をしたのではないだろうか?

「コンラッド…あんた、俺の為になにをしたんだ?」
「俺は何もしてません。ホントですよ?信じて下さい」
「目が泳いでるよコンラッド」

 襟首を掴んで追求しようとするが、その間にも静かにエーリッヒが消え失せようとしている。取りあえずコンラートは元通りになったのだから、こちらを先に何とかした方が良さそうだ。

「魔法陣だってんなら、もう一回組み直してくれよっ!」
「僕の力だけじゃ無理だ」
「じゃあ俺がやるっ!やり方教えてくれよムラ先っ!」
「ふふ…。君ってそうだよね。どんなに苦しんでも、結局レポートを《代わりに書いてくれ》とは言わない」

 村田が有利の手を取って肩を掴むと、コンラートが少し複雑そうな顔をした。二十歳を少し過ぎたくらいの容姿であるコンラートに対して、地球で人間として生きてきた村田は30代半ばの落ち着いた大人の男になっているから、そちらの記憶と昔のあどけない頃の記憶があるのがやはり不思議だった。

「借りるよ、ウェラー卿。どうやら我らの魔王陛下は、無事に魔力も取り戻されたようだしね」
「よろしくお願いします、猊下。エーリッヒの人格を保つ為に、俺が必要ならばまた使って下さい」
「いらないよ。渋谷の力だけで十分だ」

 くすりと笑って、村田が有利の力を引き出していく。
 かつて魔王と共に在り、双黒の大賢者として眞魔国の双璧であった頃のように。




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