「時の魔法陣」−5 四つの《禁忌の箱》を纏めて始末するつもりが、そのように一カ所に集めること自体が創主の策略によるものだった。RNAウイルスが寄生した生物のDNAに逆転写を仕掛けるように、四千年にわたって創主を封じてきた眞王を乗っ取り襲いかかってきたとき、有利は彼らにとっての《肉体の器》となるはずだった。 異なる四つの要素を融合し、眞王まで混ぜ込んだ法力と魔力の集合体。そんなものが地上の支配者として現出していたら、この世は地獄と化していただろう。 けれどここで双黒の大賢者と、ウィンコット家の祖先が仕掛けていた魔法陣が連動して、取り込まれかけていた有利の精神をサルベージすることに成功した。有利は長靴を履いた猫がネズミに化けた魔物を喰らったように、自分の腹の中に巨大な存在を凝縮して取り込むと、何とか昇華しようと試みた。 しかし、敵も然る者。そう簡単にはいかなかった。 有利は闘いが終わった直後から意識を失い、高熱に晒されながら刻々と小さく…子どもに還っていった。 《最終的には受精卵に戻り、精子と卵子に分離した段階で取り込んだ創主ごと存在が消滅する》 そう判断した村田はどんな贖いが必要であるとしても、断固として有利を取り戻すつもりで居た。《出来れば3歳、無理でも1歳児で若年化を食い止めるんだ!》有利としての人格が保たれる限界点がそこだと踏んでの判断だった。 魂自体はまた得ることが出来る。だが、あくまでも村田は肉体に拘ったし、コンラートもそうだった。魂には経てきた人生全ての記憶が刻まれるが、所詮記憶は記憶に過ぎない。新たな肉体を得て人生を生き始めたら全く別の人間になってしまうことを、村田は体験から知っていたし、コンラートはフォンウィンコット卿スザナ・ジュリアと有利の違いを体感することで知っていた。 肉体が消滅することは有利が死ぬということ。ならば、それを防ぐためにどんなことでもしよう。 あの時のコンラートは、地上に住まう全ての者を生け贄にしろと言われれば、苦悩しながらでも実行したのではないだろうか。だから、賭けるのがたかだか自分の存在だと知ったときには寧ろ安堵していた。 村田が設計した魔法陣の働きは、目減りした有利の年齢と同じだけの時間、コンラートの時間を削ることで成立するというものだった。有利の名付け親であり親友であり、恋人でもあるという、二人の絆が強いほど魔法陣の完成度は高くなる。だが、これはあくまで有利自身の年齢を操作する《時の魔法》であり、世界の時間を逆戻しするものではない。 極力同じ環境下で育てたとしても、時代や環境が違えば同じように育つ保証はなかった。《同じように育て》とプレッシャーを掛けることが、新たな人生にとって重荷になる可能性もある。既に彼はスザナ・ジュリアの魂を持つことで、コンラートが自分を身代わりと考えているのではないかと苦悩してきたのだから。懊悩の果てにやっと有利自身を愛してくれていることを理解したというのに、また初期化させるのはあまりにも酷い。 1歳で何とか若年化は止まった。幼い有利を渋谷家に運んだ村田は、敢えて《同じように育てようとは思わないで下さい》と頼んだ。一人の子どもとして伸び伸びと育てることが、結局は彼らしい男に育つだろうと信じたのだ。 新たな有利の人生が17歳の時点まで進んだところで、魔法陣は集結の呪文に辿りつく。7月1日から29日までの間に有利がコンラートのことを思い出せば、コンラートは失われた意識と五感を取り戻す。だが、記憶が完全に戻らなければ魔法陣は崩壊し、術に組み込まれていたコンラートも崩壊する。 魔法陣を組んでコンラートを地球に送り込んだ段階で眞魔国主力の魔力は限界にきていた。しかも、一定量を常に魔法陣に送り込まねばならないという条件もあったから、新たな魔法陣を組み直し、コンラートを救うことは不可能だったのである。 * * * 「よくもまあ、そんな危険な賭けをしたもんだなぁ〜」 「仕方ありませんよ、時間もありませんでしたからねぇ。それより、お身体の方は大丈夫ですか?」 「うん、こうしてたら平気」 コンラートの胸にもたれ掛かったまま、有利はくにゃんと横たわっている。創主と眞王の力を昇華というか、吸収してしまったらしい有利は莫大な魔力を持っているようだが、地球では要素の祝福を得られないから、時空の壁を越えて要素の力を召還する必要があった為だ。 村田もサポートしてくれたものの、やはり再成長を果たした身体で記憶を混乱させながら実施したせいか、エーリッヒの記憶を保ったまま存在を蘇らせるのは難しかった。村田が咄嗟の判断で勧めた方法は、エーリッヒの意識を眞魔国に存在する何かに固着させることだった。眞魔国に戻ったら、おいおい安定化を図ろうと思う。 だから今のところ、有利はぐったりと脱力していても良いのだ。 たとえ、目の前に色々と問いただしたそうな顔をした連中が《デンっ!》と陣取っていたとしても…。 エーリッヒの記憶を眞魔国にあるものに固着するのも兼ねて、有利は村田とコンラートを抱えて眞魔国に飛んだのだが、遠い記憶にあるとおり眞王廟の池に突っ込んだ有利はそこで限界を迎えて気絶した。 村田はというと、こちらも身体は辛かったはずだが精神力で身体を支えてウルリーケを呼ぶと、眞魔国やこちらの世界がどうなっているのかを確認した。念の為、眞魔国内でクーデターが起きて王権が簒奪されていたり、他国に攻められていないのか最低限のところを確認したかったようだ。 意識が戻った有利がざっくりと教えて貰ったところでは、グウェンダルは有利の意志を継いで人間国家との外交を粘り強く続けているらしい。相変わらず差別問題を中心に軋轢が起きることはあるし、大シマロンが倒れて小国が群雄割拠する中で、利得を求めて擦り寄ってくる国家が多いのが実情だが、それでも大きな全面戦争が起こるような危険性は減った。 16年に渡って眞魔国を支え続けてくれたグウェンダルは、有利が戻ってきたと知るやあっさり魔王代理の職を辞し、宰相に戻ってしまった。まだ有利は未成熟だし混乱もしているのだが、《移行期間が長引くほど、馬鹿なことを考える奴が出てくる》というグウェンダルに、村田も賛同した。おそらく、有利不在中には色んな事を考えて進言してきたり、無用の疑いを起こして行動を起こすこともあったのだろう。 「おい、コンラート。少しだけ聞いておきたいことがあるんだが…」 有利不在中最大の功労者であろうグウェンダルが話しかけているのに、コンラートの方は相変わらず有利第一主義で、にっこりと微笑みながらもシャットアウトしてしまう。 「グウェン、もう少し待ってくださいね?ユーリは今記憶が混乱してるから、あまり顔を出さないでください。微妙に老け…いえ、成長なさった感じが混乱に繋がるようですから」 「コンラッド、久し振りに会ったんだからあんたは喋ってても良いよ?俺、横で寝てるから…頭痛とか、一人で我慢できるし」 「ナニ言ってるんですか。あなたという人はいつもそうだ。こないだも屋敷で、寂しいのに一人で我慢しようとしたでしょう?」 「う…」 「陛下が早く回復されるほど、俺もゆっくり兄弟水入らずの時を過ごせます。ですから回復を早めるためにも、今はしっかり甘えてくださいね?」 《甘えたいのはお前の方だろうが》《しばらく会わない間に子ども返りしおって》なんてブツブツ言いながらも、ただ視界の中にコンラートがいるというだけでグウェンダルの目元は柔らかくなる。 『苦労かけたなぁ…』 創主を封じはしたものの、同時に眞王をも取り込んで魔王が姿を消してしまったのだから、陰謀説が囁かれたことだってあるはずだ。村田は魔法陣を組む合間に書面上の手続きは全て完了していたようだが、実質、眞魔国の旧体制を率いながら人間国家との協調路線をとっていくことは、生粋の純血魔族であるグウェンダルにとっては重荷であったろう。 魔族は5年でやっと人間年齢の1歳ほどの外見年齢を閲するというが、グウェンダルだけは10歳くらい年をとったように見える。厳しい執務をこなしながら、同時にコンラートと有利の年齢をリンクさせる魔法陣に魔力を注ぎ続けたのだから当然だろう。 「兄上、軍内の手続きは全て完了しました。書類の確認をお願いします」 魔王居室に入ってきたヴォルフラムは、吃驚するくらい大人びた美青年に成長していた。今ではグウェンダルの目元くらいまで身長が伸びており、コンラートとも真っ直ぐ視線が合う。ポメラニアンみたいにキャンキャン吠えて、《僕はお前の婚約者だ!》と叫んでいたのが嘘みたいだ。長く伸ばした金髪はグウェンダル同様に一本結びにしているから、広い歩幅で進んでいくと、靡いた房が陽光を受けてきらきらと輝いた。 コンラートと有利を見守る眼差しも柔らかくて、男らしい慈愛に満ちていた。色々と言いたいこともあるだろうに、黙々と仕事をこなす合間に様子を少し見るだけで構い立てたりはしなかった。 《いつか僕は、コンラートよりも佳い男になる。その時になって吠え面をかけ!》…泣きそうな顔をして、それでも笑って見せたヴォルフラムは少女のように可憐だったのに。確かに素晴らしい成長ぶりだ。 ヴォルフラムが婚約を解消してくれたのは、創主との決戦に向かう前日のことだった。それまでも薄々コンラートと有利が恋仲にあることは気付いていたのだろうけれど、いよいよ命を賭けるというタイミングで、彼は有利を解放してくれた。 魔法陣の中でも、ヴォルフラムは特にコンラートの身を護るための結界を作ってくれた。無力に眠り続けるコンラートが不埒者に危害を加えられることがないように、炎の結界を張ってくれたのだ。そしていつか、有利が触れてきたときには決して発動しないようにと組み込んでいったとき、ヴォルフラムはどんな気持ちでいたのだろうか? 今となっては失恋の傷も全て昇華して、成長の糧になっているに違いない。 『ホントに佳い男に育ったもんな。吠え面はかかないけど、惚れ惚れとはしちゃうよ』 16年経っても相変わらず鼻血を噴いて、執務室に強制送還された某王佐とは大違いだ。いや、ギュンターもグウェンダルを補佐してよく国政に尽くしてくれたと聞くし、寧ろ有利が居ない方が有能さを遺憾なく発揮していたらしいが…。 「ちょっとヨロシイでしょうか〜?」 「ヨロシイよ、グリ江ちゃん」 村田が唇の端で微かに笑っているのは、入ってきたグリエ・ヨザックが自分より若々しいからだろうか?殆ど年を取っていないように見えるヨザックは筋肉美も相変わらずで、流石に身長や肩幅は村田よりも上なのだが、きゃぴきゃぴした動作のせいか、変な角度から見るとガタイの良い女子高生と華奢な数学教師みたいに見える。 昔から二人して陰謀の相談をするのが得意だったが、今回もそうらしい。目配せを受けた村田が頷くと、それがコンラートに中継されて有利の瞼の上に掌が置かれる。 「なになに?」 「5分だけじっとしてて下さいね。すぐですからね〜」 「うん」 なんだろう?何かサプライズイベントがあるらしい。ちょっと可能性として浮かんでくるものはあったけれど、日程的に無理だよなと期待感を打ち消す。それでも、ふわりと良い匂いが近づいてきて、しなやかな掌がそっと頬に触れてくると口を《あ》の形にしてしまった。 ス…っとコンラートの手がずらされて、一人の成熟した女性の姿が現れた。滑らかな褐色の頬には涙の筋が流れ、アーモンド型のくっきりとした目元には次々に涙の粒が溢れる。チェリーのようにふっくらとして紅を帯びた唇は笑みを象っていたが、込みあげてくる感情に小さく震えていた。 「立派なレディになったね…グレタ」 「ユーリ…っ!」 大人びた態度を維持するのは限界にきたらしい。幼い少女のように飛びつくと、グレタは有利の頭を抱いて泣きじゃくった。 どうやら有利が到着したという知らせを聞くと、ヨザックが迅速に連れてきてくれたらしい。 「苦労を掛けたねぇ。俺がいないあいだ、外交で頑張ってくれたんだろ?」 廃国とはいえかつて人間の国家で皇女の地位にあったグレタが眞魔国で厚遇されているという事実は、外交の際に良い印象を与えたし、何より、ぴっかり君のもとで様々な国の言語・文化・風習について学習したグレタは最高の外交官となった。そもすれば強面過ぎて威圧的になってしまうグウェンダルを補佐し、朗らかな態度と人を逸らさぬ笑顔で信頼を深めてくれたのだ。 あの小さなグレタが…と、信じられないような心地だったが、あれから16年も経ったのだ。子どもが居てもおかしくないような女性に成長している。 「大変だったけど、楽しかったわ。辛かったのは…ユーリがいなかったことだけよ。たった一つのことだけど、それだけで世界が終わってしまいそうなくらい辛かった…」 「ゴメンね、グレタ。一番甘えたい時期に、お父さんいなくて」 「ううん…ううん…信じてた。必ず戻ってきてくれるって…っ!」 グレタは有利を抱き寄せるとぐりぐりと頭を押しつけるから、折角気品ある形に結った髪が崩れてしまう。前髪が降りて額が隠れると、少し昔のような雰囲気に戻る。グレタの方はと言うと、まだ有利の姿を不思議そうに眺めている。 「なんだか不思議ね。ユーリそのものなのに、こんなにちいさいんだもの」 「そういえば、立派になったな〜グレタ」 胸なんてぺたんこだったのに、身体のラインはスレンダーであるにもかかわらず、豊満な胸元は有利の顔が埋まるほどであり、青少年としては娘の身体なのにドキドキしてしまう。 「グレタ…もう結婚しちゃったの?」 「いいえ。ユーリが帰ってきてくれるのを待ってたもの」 「そうなの!?」 どうしよう。有利のせいで娘の婚期を遅らせてしまったのに、有利はというとコンラートとホモホモしい関係にあるのだ。 「だってヴァージンロードを歩くのはユーリと一緒じゃないと!ふふ。早速だけど、会って欲しい人がいるの。元気になったらすぐ会食の席を設けるわね?」 「ふひゃっ!?」 眞魔国に帰って来るなり、有利は父の苦悩を味わうことになった。 * * * すうすうと健やかな寝息を立てて眠り始めた有利を抱えて、コンラートは幸せそうに微笑む。グウェンダル達は名残惜しげに部屋を出て、やっとのことで二人きりにしてもらった。 飽かず眺める顔立ちはまるっきり昔のままだし、コンラートは16年間眠り姫よろしく寝倒していたのでその期間中の苦痛は無かったのだけど、意識を失う直前と直後に大きな衝撃を受けていたから、いまこうして平穏な時間を過ごしているのが信じられない。 創主を自分の中で昇華しようとした有利が刻々と幼くなっていくのを、コンラートは恐怖と共に見つめるしかなかった。意識は戻らず、苦悶の表情を浮かべて脂汗を流しながら、共に過ごした時間が…有利が経てきた時が喰らわれていく。その恐怖は言いしれないものだった。 《これではユーリが人柱のようじゃないか…っ!》 正円を描くあの魂を地球まで運んだのは、こんな結末のためではない。スザナ・ジュリアの死から立ち直れなかったコンラートに希望をくれたあの子を、創主を倒すための武器として育んだわけではない。 世界なんか滅びたって良いから、ただ有利に幸せになって欲しかったのに。 村田から最後の手段を教えられて実行しようとした有利は、留め立てするコンラートを拘束して創主のカオスの中へと入っていった。黒々とした触手に絡めとられる姿に、どれほどの恐怖を味わったか…昨日のことのように覚えている。 だからコンラートと有利をリンクさせる形で魔法陣を組み、有利の若年化を阻止しようとする話には一も二もなく飛びついた。16年経って有利がコンラートを思い出せなくても、それはそれで良いのではないかと思っていた。意図したことではないとしても、有利の生命を眞魔国のために利用するだけしてしまったのだ。再成長を果たした有利がどんな選択をしたとしても、文句を言う筋合いはない。そのことは村田とも確認していた。 魔法陣そのものであるエーリッヒという老紳士(実のところ、コンラートが彼に会うのは目覚めた日が初めてだった)は、村田から《決して渋谷に事情を話したり、直接的な依頼をしてはいけないよ》と言い含められていたそうだから、有利を洋館に招き寄せて陣を完成されるためにかなり苦慮したようだ。 『キスで目覚めさせてくれたときには、あんまり期待してなかったから余計に我を忘れてしまったんだよな…』 まるで嬉しすぎて失禁してしまう仔犬のようにはしゃいでしまったから、《俺のこと、好き?》と聞かれたときには村田の言いつけを忘れてしまった。真っ赤になって逃げ出した有利を引き留めたかったけれど、あくまで有利の意志でなければ陣は完成しない。 《もし無理強いをして渋谷をレイプなんかしたら、その瞬間に最も残酷な死を遂げるように呪いを掛けておいた》 眠る前に、村田から聞かされた言葉が思い出されて、コンラートは四つん這いになって落ち込むほか無かった。 毎週末訪れてくれる有利との時間を一分一秒を貪るように味わい、それ以上期待しないようにと努めて意識した。特に、あのまま有利が記憶を取り戻さないのであれば、30日以降どうやって誤魔化して貰おうかと、そのことばかり考えていた。コンラートが死ぬのは構わないが、また有利を傷つけるようなことがあれば死んでも死にきれないからだ。 「ユーリ…」 数週間ほど人魚姫のように声を失ったままだったが、今となってはそれで良かったと思っている。そうでなかったら、《ユーリ》と口にしてしまったら、きっと堪えきれなくなっただろう。ユーリに愛を告げてしまったら、目の前で無惨な死を遂げてしまったかもしれない。 「ん〜…コンラッド?」 「すみません、目が覚めてしまいましたか?」 「んーん。平気。結構寝てたかな?」 「1時間くらいうとうとしただけですよ。朝まで眠ってください」 「でも、頭痛が治まったんだ。もう少し起きてても良いだろ?キスとかしたいし」 「ユーリ…」 「え…エッチなことも、そのうちしような?」 「はいっ!」 有利の華奢な身体にはコンラートの雄蕊は大きすぎるのだけど、丁寧に解してからだけば快楽を拾えるようになっていた。…が、それは以前の成長過程上のことだから、今の有利はまるっきりの処女なのだ。 「また一から解してあげますからね?」 「手間かけさせちゃうな〜」 「ナニ言ってるんですか。二度もユーリのバージン頂けるなんて光栄です」 「バージン言うな!」 ぽこんと鼻面を叩かれて、コンラートはくすくすと込みあげてくる笑いの波動に包まれていた。思いっ切り笑って一緒にシーツの上を転げ回って、悪戯めかしたキスをする。 そのキスが深みを増していくのを止める者は、今は誰もいなかった。 * * * 血盟城には優れた執事が居る。 広い城内の采配を全て取り仕切る老人は、長い間不在であった第27代魔王が帰還された時に任用されたから、かれこれ100年の務めになるだろうか? けれど任用時、既に真っ白な頭髪と品の良い笑い皺の持ち主だった老執事エーリッヒは、100年が経過した今も全く姿が変わらない。魔族は長寿ではあるが、これほど老齢に見える者が全く同じ姿であるというのは少々不思議なことではあった。 けれども老執事はあまりに血盟城の背景に溶け込んでおり、今となっては彼が居なければ城内の運営が立ちゆかないほど信頼を置かれているから、誰も不審を口にすることはなかった。行事関係の企画・運営に携わっているフォンクライスト卿ギュンターも老執事を信頼しており、毎年魔王陛下の誕生日をお祝いする式典についても早くから相談をしていた。 特に、誕生日の祭事前に城内の使用人達がお祝いをする企画では、常に代表者として贈り物に関わっていた。毎年毎年多少はアレンジを加えるのだが、必ず入っているのは使用人達の似顔絵集だ。陛下へのお祝いの言葉に加え、名前と出身地、好きな言葉などを入れた冊子をことのほか気に入られて、《毎年作ってよ》と求められている。絵が得意な者が描いた陛下や夫君であるウェラー卿の似顔絵もお好きで、《気取った肖像画よりもよく似てる》と、やはり喜んでくれた。 今年はメイドとして城に上がったばかりの娘が恐縮しながらも似顔絵の任を受け、生き生きとした姿を描いていた。 魔王陛下は腰まで長く伸びた髪を一本に束ねた様子が、パッと見だけは宰相閣下によく似ている。魔力が強すぎるのか、未だに愛らしいような外見を保っている陛下は、どう見繕っても20代の半ばくらいにしか見えないから、少しでも威厳を出そうとしているのかも知れない。 ウェラー卿も若々しいがこちらは年相応に渋みを増しているから、精悍な横顔に見惚れる者の数は若い頃よりも多いほどだ。若い時分よりも髪を短く刈り詰め、前髪がアップになっているから秀でた額に刻まれた傷口もはっきりと見て取れる。 画集の絵ではお二人が様々なポーズを取っているのだが、中には出来の問題で献上するのはどうだろう?というものがあるので、エーリッヒは製本前のチェックも任されていた。 「む…」 茂みの影でキスをしている陛下とウェラー卿のイラストに苦笑してしまう。これは製本はせず、巻いてリボンをつけてウェラー卿にだけ差し上げるとしよう。未だに恥ずかしがり屋の陛下に、公的な場で差し上げるものではない。 最後のチェックとしてパラパラと紙を捲っていけば、その一枚ごとにこの城で過ごす日々を再確認するようだ。 『何という幸せだろう?』 魔法陣の効力が成就した段階でエーリッヒの存在意義は失われていたというのに、陛下はこんな取るに足らない存在を保つために力を尽くしてくれた。一国の要所である血盟城を構成する要素の中に、エーリッヒを組み込んでくれたのだ。 あのような方と結ばれていた魔法陣であったことが、エーリッヒにとっては強い誇りとなっている。 来年も再来年もそのまた先も、あの方のお誕生日をお祝いできるのだ。 この上ない幸せを、エーリッヒだけでなく多くの者が感じていることだろう。 取るに足らない自分が念じるなど僭越でしかないかも知れないが、それでもエーリッヒの口元は今年も祈りの言葉を紡いでいた。 「第27代魔王陛下、シブヤ・ユーリ様…どうか、その御身に祝福があらんことを…!」 晴れ晴れと澄んだ夏空を風が渡り、華やかな飾り付けを施した木々が揺れる。 全ての要素がエーリッヒと同じ祈りを捧げているかのように。 おしまい あとがき 久し振りのコンユ話でしたが、やはり創主を絡めちゃうと話の構成が難しくなりますね〜(汗)分かっていて何故やった私。 眠れる屋敷のコンラートが有利のキスで目覚めるのをしたかったという、ただそれだけです。 今度はもっと気楽なパラレルとかにしようと思います。 |