「時の魔法」−3






「うぁ…あ…ぁっ!」
 
 声が出せないのがもどかしそうだが、大きな掌が有利の頬を包んで、慕わしげに寄せられる。キスをされるのかと思ったが、コンラートはじっと一定の距離を保って有利を見つめていた。

「もしかして…見えてる?」
「あうっ!」

 アシカショーのように、良いタイミングで返事が来た。目線の具合から見て、コンラートは唇が読めるらしい。視覚を取り戻したことで意思の疎通が図れるようになったのだろう。

「うわ…良かったなぁ!きっとすぐに耳も聞こえるようになるし、喋れるようになるよ?そしたらたくさん喋ろうな!ここの屋敷の人たちって、なんか訳があってあんたのことちっとも教えてくれないんだ。でも、あんたが完全に元通りになったらきっと教えてくれるよな!?うわぁ…凄い凄いっ!早く喋れるようになってよ〜っ!」

 きゃっきゃっとはしゃぐ有利に、コンラートも嬉しそうにニコニコしている。すると、扉がノックされて、良い匂いを放つ昼食が運ばれてきた。今度は二人分ちゃんと用意されていて、コンラートの分は消化の良さそうなメニューになっていた。

「エーリッヒさん!コンラッドね、なんか目が見えるようになったみたいっ!!」
「なんですって!?」

 傍で聞いていたメイドも、危うくカトラリーを取り落とすところだった。廊下でそわそわと様子を伺っていたメイドや使用人達にも気付くと、有利は大きな声を上げて手招きした。

「みんな入ってきてよ!さあさあ、こんな時に遠慮なんかなしだ!みんなコンラッドが大好きなんだろ?まだ言葉は話せないみたいだけど…とにかく、三年寝太郎だか十年寝太郎だかが目覚めたんだ。おはようの挨拶はしなくっちゃ!良いよね、エーリッヒさん」
「ええ、勿論ですとも」

 俄に室内は賑やかになった。コンラートは目が見えるようになったせいか、最初の時のようにがむしゃらに有利を傍に縛り付けることはなくて、感極まって泣きじゃくる使用人達に落ち着いて会釈をし、肩を叩いて労をねぎらったりしている。ただ、有利が思ったほどにはコンラートの方に思い入れは無いようだ。随分長い間眠っていたようだから、実はコンラート自身は彼らを知らないのかも知れない。

 一方、わいわいと活気溢れる使用人やメイド達は、一緒に働いてコンラートを見守ってきたせいか、一種の連帯感を共有しているようだった。そうなるとどうしても有利は疎外感を覚えてしまうのだが、少しだけ胸が痛いくらいは仕方ないだろう。

『なんで、痛いかな』

 目覚めない主をずっと待ち続けていた人々なのだ。誰よりもコンラートの傍で喜び、再会の嬉しさを爆発させて良いはずだ。会って一週間の有利にそれを妨げるような権利などない。分かっているのに、さっきみたいに頑是無い子どものような執着をみせていたのを懐かしみ、人がましくなってしまったコンラートに切ない気持ちを抱いてしまうのはどうしてなのか。

『格好悪い…』

 なんだか居たたまれないし、お茶ばかり飲んでいたから膀胱もリアルにパンパンになってきた。少しトイレに行って、色々とスッキリしてこよう。
 そう思って部屋を出かけたのだが、後ろからヒョイと抱えられてしまう。正直、膀胱がいっぱいなので腹圧を上げないで欲しいのだが、もう覚えてしまった感触に口角が上がってしまう。

 こんチクショー。
 やっぱり嬉しい。廊下には誰もいないのが分かっているから、とても正直な思いを込めて一回《にまーっ!》と笑うと、くりんと振り返ったときには普通の顔を取り戻していた。

「コンラッド、トイレに行くだけだよ。ちゃんと戻ってくる。今日は泊めて貰うから、一緒に寝ような?」
「あう」

 こっくりと頷くコンラートはまだ少し寂しそうな顔をしていて、それが余計に嬉しくて堪らない。
 ああ…もう認めるしかない。有利はこの男を独占したいのだ。誰かに宣言する必要などないけれど、嬉しく思うくらいは良いだろう。

「戻ってくるから、待っててね?」

 コンラートの瞳が、動揺したように揺れた。
 唇で言われている内容は分かっているはずなのに、使用人達を掻き分けて傍に寄ると、心配そうにちょこんと有利の肘をつかむ。

『う…っ!』

 ガタイに優れた軍人さん(なのか?)に、懐かしのビクター犬よろしく小首を傾げて見つめられるのがこんなに嬉しいとは…!
 恐るべし、コンラートクオリティ。

「し…しょうがないなぁ。でも、トイレだよ?マジで一緒に行くの?」

 コクンと頷いたコンラートを連れて、有利は連れションに向かった。

 よく考えてみればあの部屋にもトイレはあったのだけど、あの賑わいの中に戻っていくのもなんだったので、コンラートと連れだって行ったのは、様式一つと、壁付け排尿用便器が二つ並んだ使用人用のトイレだった。

『うぉっ!』
 
 何気なく傍らを見ると、コンラートもついでにションベンしていく気らしく、無造作に前立てをくつろげて陰茎を取り出す。その威風堂々とした大きさに、正直男としてコンプレックスを感じてしまった。

「すっげ…おっきいなぁ…」
「うぅあ」

 首を横に振っているのは謙遜しているのか。親指と人差し指を段々離していく動作で、有利のチンコもそのうち大きくなると励ましてくれた。
 そうとも。信じる者は救われるのだ。
 助かろうとする奴だけ神様は助けるとも聞くから、ひょっとして毎日引っ張ったりした方が良いのかも知れないが。

 ぷるるっと腰を振るわせて尿を出し切ってから部屋に戻ると、メイドさんがタイミングを見計らってもう一度昼食を出してくれた。わざわざ暖め直してくれたようで恐縮だ。

「さー。食べようぜ、コンラッド。って…俺、なんか無茶苦茶馴れ馴れしいね。今更だけどさ、コンラッドって呼び捨てにしちゃうの平気?」
「う」

 コクンと頷いてみせるから安心して呼び捨てにし、かつ、発音が微妙におかしいままで貫くことにした。少し舌っ足らずなせいか、《コンラート》と伸ばすのは難しいし。

 昼食の後は思い切って外に出てみた。まだ梅雨は抜けていないはずだけど、からりと乾いた空気の中を涼しい風が抜けていって、気温は高そうだけど気持ちが良い。夏の初めの、一番好きな気候だ。

「あー、ボール持ってくれば良かったな〜っ!」
「あう」

 コンラートもハッとしたように頷くと、素早い動作で屋敷の中に戻ってからすぐに出てきた。その手にあるのは、古ぼけた一組のグローブと使い込まれた野球のボールだった。誰かこの屋敷で使っていたのだろうか?

「わー、あるじゃんあるじゃん!」

 嬉々としてグローブに手を通すと、大きさはピッタリだったが、よく見ると手作りのグローブらしく、革は良いものを使っているようなのに、縫製が不思議な具合だった。野球もボールも同様で、何となくそれっぽい形になってはいるが、左右不均等になっている。

「へぇ〜手作りなんだ。珍しい」

 きっと思い出深い品なのだろう。これは丁寧に使わねばなるまい。有利はボールを掴むと、心を込めてコンラートに向かって放った。《キャッチボールはな、ボールだけじゃなくて心を遣り取りするもんなんだよ》と言ったのは父だったか。ボールが何度も二人の間を行き来するうちに、自然と笑顔が溢れて心が近くなっていくのを感じる。

 それに…また不思議な感覚が過ぎることがあった。
 こんな風にコンラートと、キャッチボールをしたことはなかったろうか?やはり手作りのグループを手にしてはいなかったか。

『コンラッドを見てると懐かしいような感じがするから、それに合わせて記憶を捏造しているのかな?』

 そもそもどうして懐かしいと思うのか。考えても分からないことは、体感していくしかない。その内なんとかなるだろうと思い直して、その後はずっとキャッチボールを愉しんだ。

 ぶっちゃけ、再試代わりのレポートに向けて勉強しないと拙いのだが、それも後回しにすることにした。何故か小学校、中学校と有利が所属する学校には必ずいる村田健先生が口利きをしてくれたらしく、かなりの危険水域にある成績はどうにかレポートで大目に見て貰うことになっている。明日は絶対に書いて、村田先生に渡さねば。なんと村田先生は溜息をつきながらも、巧みになりすぎない適度な匙加減で手直しをしてから提出してくれるのだ。

『勝利の奴がエロ眼鏡とか呼んでゴメンな、ムラ先。何だかんだ言って、凄い面倒見いいよな』

 あまりにも面倒見が良すぎて兄の勝利からは警戒されているが、兄の弱みも握っているようで、渋谷家に遊びに来ても叩き出されることはない。
 また、学校でも有利贔屓が酷すぎるので、たまに管理職から指導されることもあるようだが、《彼らは僕に手出しなんて出来ないよ》とケロリとした顔をしているし、実際どうにかされたことはない。

 そもそも、幾ら免許を各種取ったからといっても、有利がいるのは公立校なのだ。教員の側の希望がそんなに通るとは思えない。よほど強いコネがあるか、教育委員会の弱みも握っているのだろうか。教員より、CIAとか科学忍者隊とか、特殊組織に居た方が力を発揮しそうな人材だ。



*  *  * 




 コンラートが軍服を脱ぐのを初めて見た。
 肩幅が広くて胸筋が適度に盛り上がり、背筋の隆起もくっきりとしているが、全体的にしなやかな印象で、萎縮しているような気配は微塵もない。筋肉がつきにくい有利はその分、筋肉への憧憬が強いから、これがとても今まで長い間眠り続けていた人の身体だとは思えなかった。

 しかし、一緒にお風呂に入るということは自分も脱がなくてはならない。

『なんてこったい…!』

 銭湯に行ったり部活や合宿で裸の付き合いなんて馴れっこの筈だったのに、コンラートの凛々しい裸体を見ていると、猛烈に自分の貧弱な身体が恥ずかしい。高校生になってから鍛錬していなかったとはいっても、寝っぱなしの男に負けるなんてかなり情けない。
 躊躇する有利とは裏腹に、コンラートは妙に馴れた動作でぷちぷちと金ボタンを外して学生服を脱がせていく。

「くそぉ〜、手慣れてるなぁ。あんた、女の子の服とか脱がすの早そうだもんな」

 ぷんっと唇を尖らせて文句を言うと、コンラートは何処かが痛いような貌をして苦笑する。そしてチュっと唇にキスをして、まるで《こんなことをするのは、君にだけだよ》とでも殺し文句を吐きそうな眼差しで熱く見つめた。

 熱い。
 身体が燃えるように熱い。
 それはどうやら、コンラートの眼差しの熱さにあてられた為らしかった。

『そういえば、なんでこの人ってば俺にキスするんだろ?』

 目が見えないときならば誰かと間違えたと考えられなくもないが、今ははっきりと見えているようだから、ちゃんと有利だと分かっていてキスをしているのだろう。寝込みを襲ってキスをしておいて言うのもなんだが、どうしてコンラートは有利にキスをするのだろう?思い立ったが吉日なので、ズバリ聞いてみたのだが…。

「なあ、どうして俺にキスすんの?」
「うー…」

 琥珀色の瞳が切なげに眇められるから、それ以上は聞けなかった。
 エーリッヒもメイドも有利を特別だと言い、実際、有利がキスをしたことでコンラートは意識を取り戻し、目も見えるようになった。手の込んだ詐欺でなければそうなのだろう。大体、有利を引っかけて得られるものなどないだろうから、いい加減信じるしかない。

「なぁ…まさかとは思うけど、俺たちって…昔会ってたりする?あんたが眠っちゃう前にさ」

 コンラートは曖昧に笑っていた。肯定か否定かを表情だけで汲み取るのは難しいが、何の縁もゆかりもないのであれば、こんなにもコンラートが初対面から執着するのはおかしいのではないか。とはいえ、有利が覚えていないくらい小さい頃に会っていた上で、再会と同時にキスしたくなるくらい惚れていたのだとすれば、コンラートは変態認定をされてしまう。

『でも、ちっちゃい頃に惚れてたんなら変態だけど、もうこんなに大きくなったのにまだ惚れてるってどうなの?それは変態じゃないの?』

 そういえば、有利が男な段階で別の変態に昇格(?)するのか。
 もしかして年齢幅が少し広い、ショタホモさんなのかもしれない。
 いやいや、こんな素敵な人に向かってショタホモってどうだ?第一、惚れてると決めつけるのもどうなのか。

「こ…コンラッド…俺のこと、好き?」

 言った途端にボンっと頬が紅くなる。
 コンラートの唇が、ゆっくりと動いた。

 《…あ》
 《い…》
 《し…》
 《…て》
 《い…》
 《…ま》
 《す…》

 うぉおおおあああああああああああああああーーーーーーーーっっっ!!!

 《ボファアアっ!》と、顔から火炎放射器という勢いで頬が染まり、慌てふためいてしまったせいか、服の襟元をがっしりと掴むと、《あわわっ!》とか《ひえぇ!》とか喚いて、転げるようにして屋敷を飛び出していた。



*  *  * 




「あれ、渋谷。君、丘の上の洋館に泊まりに行ったんじゃなかったのかい?」
「ムラ先…っ!」

 携帯や財布も忘れて着のみ着のまま逃げ出してしまった有利が夜の街を疾走していると、半袖シャツに短パン、ハーフパンツというラフな服装の村田がサンダル履きでアイスを食べていた。コンビニ帰りのようだが、家まで我慢できなかったらしい。

 そんなところが愛嬌があると、女子達は盛んに《ムラ先って可愛いよね》と噂しているのを見たことがあるが、有利に言わせると、村田の7割は《格好良い》で出来ていると思う。イベントごとにはしゃいだり、ちょっとした失敗をして巧みに愛嬌を醸し出しているのは、頭脳の出来が秀逸すぎることで周囲の嫉妬を買わないための処世術なのではないだろうか。本来の彼は、結構物静かなタイプなのではないか。何故か《そう》なのだと知っているような気がした。

 宿題を手伝って貰っているときに何気なくそんな話をしたら、村田は複雑そうな表情で微笑んだ。どこか懐かしそうな色合いを讃えたその瞳は、ずっと遠くを見ているようだった。有利が知らない人生の深淵を、この15年ほど年上の青年は知っているのだろうか。

 ハアハアと肩で息をしていたら、ビニール袋をがさがさ言わせてラムネ棒アイスを《んっ》と寄越してくれる。言葉は厳しかったりするのに、有利が弱っていたりするとえらく優しい。だが、友達が心配したりするように性的なものを感じたことはなかった。
 とても不思議なのだけど、村田は有利に対して、家族に近いような無償の愛を注いでくれるように思う。小さい頃から知っているからだろうか?

「ムラ先…あのさ、あのお屋敷にいるウェラー卿コンラートって人のこと知らない?」
「どうして僕に聞くのかな?渋谷」
「あんた物知りだから、なんか知らないかなって…」
「僕が知っていることは数多くあるけれど、表に出して良いことはとても少ないんだ。時として、僕自身もどかしいほどにね」

 謎めいた言い回しをして、村田はガリガリ君を囓る。エーリッヒ同様、奥歯に何か挟まったような言い方が引っかかった。やはり村田は何か知っているのではないだろうか?

「知ってんだな?なあ…あの人って、どういう人なの?」
「僕の目を介したものを丸ごと信じてくれるなら、君は彼のもとには二度と行かないんだろうけどねぇ…」

 溜息混じりにガブリと大きな塊を囓り取ると、咥内に余ったのか《あうあう》と持て余している。

「君は結局、女の子と一緒なのさ。僕がどんなに言葉を尽くしても、相談をする段階で答えなんか決まってる。君は君が見たもので結論を出すからね」
「そんな…っ!」
「昔からそうだったけどね、今も…切なくなるくらいに、君は《渋谷有利》として育ったよ」

 村田は公立学校の教員なんかするには問題があるくらいに、優秀過ぎる人物なのだと噂されている。ただ、頭が良すぎるせいなのか、故意にはぐらかしているからなのか、その言葉は時として謎めき過ぎていて、有利には意味を汲み取れないことがある。
 それでも村田といると不思議な安心感があるから、はぐらかされると分かっているときでも、有利は村田のもとに相談に行くのが常だった。

「君がそんな風に育って、嬉しいけど…時々哀しい」
「ムラ先、言ってる意味分かんないよ」
「良いんだよ。多分その内わかる」
「大人になるってこと?」
「いいや、君自身の手で真実を掴むってことさ。君は、そういう男だから」

 本当に意味が分からない。お手上げ状態になった有利は、ありがたく貰ったアイスを食べながら渋谷家まで送ってもらった。レポートを書き上げるには、渋谷家に戻った方が良いだろうしと自分に言い訳をして、次の週末まで丘の上の屋敷に向かうことは無かった。
 
 エーリッヒが何か連絡をしてくるかもと思っていたが、一切そのようなことがないまま、一週間後に有利はおずおずと館に向かった。このまま週末も行かなければ間が悪くなって、二度と行けなくなりそうだったからだ。





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