「時の魔法陣」−2








 7月1日はあっという間に過ぎてしまった。

 目覚めないコンラートを見つめ続け、時には頬やら唇やら触ったりするだけのことなのだが、何故か飽きない。
 
 コンラートが身につけている軍服は確かに毎日同じものに見えるが、いつも清潔に保たれている。…というか、そもそも何でよりによって、こんなに肩が凝りそうな服を着て眠ってしまったのだろう?コッソリ着替えさせているのでないとすれば、ここだけ時間が止まっているようだ。

 《そんな馬鹿な。きっと、俺がいない間に着替えさせてんだよ》《大体、何も食べたりできないのに点滴とか無しでずっとそのままっておかしくね?トイレとかもどうしてんの》と思うが、有利以外は触れることが出来ないという。触れたら、皮膚が爛れてケロイドが残るほどの火傷を負うのだと。
 メイドの言葉をどこまで信じて良いのか分からないが、酷い火傷をするとなると《試してみて》とは言いにくい。

 実は有利が居ないときには、ちゃんとコンラートは起きて風呂に入ったり着替えたり、時には晩酌までしてるんじゃいないかとも思うが、そんな手の込んだ詐欺に何の意味があるのだろう。よく分からないので、結局真偽を確かめることもないままコンラートを触り倒している。時々鼻を摘んで口を掌で封じて反応を伺うが、静かに呼吸が止まりそうになるので慌てて揺さぶってしまう。

 そんなこんなで、翌日以降も学校帰りから夕食前までは同じようにして過ごしていた。学生服のまま屋敷に入ると、《制服で結構です》と着替えさせられることも無かった。流石は制服。学生の冠婚葬祭は全てこの衣装で賄えるらしい。

 そして週末は、エーリッヒに勧められて泊まり込むことにした。強い調子で勧めてくる彼は、有利と居ることで劇的な何かが起こることを期待しているのだろう。
 思うように効果が上がらないと、段々焦ってとんでもないことを言い出しはしないだろうかと不安だが、今のところエーリッヒの方から具体的に何かしろとは言わない。あくまで有利から自発的に何かをすることで、変化が現れると信じているようだ。



*  *  * 




 土曜日は《何時に来ても良い》という言葉を信じて、朝ご飯を食べるとすぐさま屋敷に向かおうとした。
 母にはざっくりと週末に、丘の上の洋館で泊まり込みのバイトをすることと、そこの主が美形の寝たきり青年であることだけ言ったのだが、出かけようとすると折り紙で飾り付けをした笹と、何枚かの短冊をくれた。

「息を呑むような美形が眠りっぱなしなんて勿体ないもの!お顔を見ながら祈りを込めて、《早く目覚めますように》って書きなさい。今日は良いお天気みたいだし!窓辺にでも飾ってみたら?」

 母は若い頃の写真を見ると結構可愛いのだが、年の離れた次男をもうけてしまったせいか、強い陽射しが窓から差し込むと毛羽だった白髪や目尻の皺が目立つ。それでも同年代の中では若ぶりなのだと強く主張しているが、還暦も越えたのだから無理はし過ぎない方が良いのではないか。

「ん〜。あのお屋敷には合わないような気がするけど…」

 とはいえ鰯の頭も信心からと言うし、こういうのは気持ちの問題だろう。有利は言われるままに笹を掴むと、屋敷を目指した。



*  *  * 




「エーリッヒさん、おはようございます」
「ようこそいらっしゃいました。ユーリ様。どうぞゆっくりなさってくださいね」
「はい」
「遠慮無く、お食事もお代わりしてください」
「はい」

 照れくさそうに笑う有利は、もうコンラートの傍で自分だけ食事を採ることににも馴れてしまった。何となく《これ美味しいよ?》とか、《一緒に食べようよ》とか誘いの言葉は口にしているが、結構量は遠慮なしに食べるようになった。
今日はお泊まりでもあるし、遠慮無く食事は頂こう。

 いつものようにお仕着せに身を包んで部屋に入ると、コンラートがいつものように全く同じに見える軍服を着て眠っていた。そもそも、この人がこうして眠り続ける切っ掛けが何であったのか気になるが、エーリッヒもメイドも使用人も、欠片ほどのヒントもくれない。

 だが、一週間もいれば少しは様子も伺える。こんな大きな屋敷に豊富な人員を割いて、有利に日給1万2千円もの給料を払おうとするだけの財源を支えているのは、《ボブ》と呼ばれる大旦那であるらしい。気さくなのか変わっているのか、使用人達に敬称を使われるのが苦手な人物のようで、屋敷の人々は有利に対しては敬称をつけるのに、大旦那は呼び捨てのようだ。

 姿を見たことはないが、その人も有利がコンラートを目覚めさせる日を心待ちにしているのだろう。

『こんなもんに願いを書くだけで効果があるなら、エーリッヒさんなんか百万枚でも書いちゃいそう』

 エーリッヒがコンラートを想う深さは並大抵の感情ではないと思う。雇用関係としての忠義というよりは、ただひたすらにコンラートだからこそ思いを尽くしているのだろう。

「ねェ、エーリッヒさんはコンラッドが目を覚ましてる時にも会ってるんだよね?」
「それは…」

 何故かエーリッヒは言い淀んだ。こんなことまで秘密なのだろうか? 

「それっていつ頃のこと?何年前からこうなの?」
「申し上げることが出来ないのです。ご了承下さい」

 困ったように眉を下げて、エーリッヒは陳謝する。もう何度目になるか分からない遣り取りは、多少バリエーションを変えて繰り返しているのだが、一度もまともな説明を受けたことがない。まるで、言ってしまったら取り返しがつかないことが起きてしまうように。

「うん…じゃあさ、コンラッドが目覚めるようにって、短冊に願いを書かない?」
「それは素敵ですね。この国の風習、七夕ですね?是非書いてください!」
「エーリッヒさんも書こうよ。5枚くらいあるんだ。他の願いも、あったら書きなよ」
「いえ、私は…」
「書こうよ。コンラッドの目が覚めたらいいなって思ってる人は、みんな書いたら良いんだ。多ければ多いほど、通じやすいかも知れないだろ?」
「いえ…こればかりは、選ばれた特定の方の祈りしか効力はありますまい。効果があるのはユーリ様の祈りだけです。どうか、私の分も多く短冊を書いてください。数が多ければ良いといわれるのでしたら、どうかお願いです。5枚ともコンラート様が目覚めることへの祈念にしてください」
「だめ。エーリッヒさんも書くのっ!誰か一人の祈りしか通じないなんてあるもんか!」
「ユーリ様…」

 そんなに頑固に言い張ることでも無いのだが、エーリッヒがあまりに自分を軽んじるのが悔しくて、有利は意固地になってしまった。子どもっぽい反応だと自覚はしているが、まだ17歳にもなっていない有利には、まだ子どもとして一本気に振る舞うことが赦されると思いたい。

「俺よりずっと、エーリッヒさんはコンラッドを大事に思ってるだろ?」

 エーリッヒは何故だか哀しそうな目をして、瞼を伏せてしまった。

「それでは、いけないのです」
「なんで?」
「申し上げることはできません」

 おじいちゃんと呼んでも良いような年頃の人に、泣きべそかきそうな顔をさせてしまった。罪悪感を覚える有利は、流石に立ち去るエーリッヒを止めることが出来なかった。

 お茶を飲んでも美味しく感じられない。後味が苦く感じるのは、決して茶葉が変わったり、煎れ方が悪いわけではなく、有利がそう感じるだけだろう。

『俺が一番コンラッドを想ってないとダメって、なんだよソレ』

 眠った姿を見ていて飽きないのは確かだが、それは芸術作品に焦がれるのと一緒だろう。起きているときに会話をしていた人を越えることなんてできはしない。どれほど自嘲してみたところで、一体何年そうしているのか分からないくらい一途にコンラートを想っているエーリッヒの方が、深い愛情を持っている。

『勝てるわけないじゃん』

 何となく、改めてそう考えたら悔しくなってきた。
 せめて短冊くらいはちゃんと書こうと思って、筆箱を開いてみるとえらく可愛らしいデザインの緑のペンが出てきた。そういえば乙女チックな母がおまじないに凝っていて、このペンもなんとか言って買っていたように思う。
 《好きな人の名前を書くと、振り向いて貰える》だったか。言った途端に父が何とも言えない顔をしたので、誰の名を書くつもりなのか聞くのも面倒になったのだが、母は自慢げに父の名を書いた紙を見せた。
 てっきり韓流スターの名前か何かだと思い込んでいたから、ちょっと意外に感じながらも、照れくさそうに父が笑っているのを見たら満更でも無さそうだった。見せてしまったらおまじないにならないと思うが、渋谷家では一応、緑のペンは効力を発揮した。

「ウェラーきょーコンラートさんが、一日も早く目覚めますように…っと」

 一枚仕上げて眺めてみると、何だかちょっと違和感がある。大体、《卿》なんてつくから仰々しいのだ。字に自信がないからひらがなだし。

「コンラッド、早く目を覚ましてよ!(怒)…と」

 ちょっと怒りマークもつけて笹に飾ると、今度はしっくりきた。
 そうそう。こんなに人をやきもきさせて、なんだってこの人は寝っぱなしでいるのか。早く目覚めて貰わないと困る。

「寂しいよ〜コンラッド」

 耳元で囁いてみる。全く、この人は耳の形まで綺麗だ。カーテン越しの陽を浴びて、ぽわっと産毛が見えるのがちょっと可愛いような気もする。

「コンラッド…目を覚まして?」

 エーリッヒ達が求めているからとか、そんな理由ではなくて、ただ有利が会いたいのだ。
 琥珀色の宝石のような瞳に、銀の光彩が跳ねるのを。
 《ユーリ》…耳朶に響く、低くて甘いあの声を。

 本当にその声が聞こえたような気がして有利はそっと口元に耳を寄せるが、微動だにする気配もない。《ちぇっ》と舌打ちした有利は、ちゃんと目覚めなかったお仕置きをしてやろうと思った。
 かつて同じ事をした娘が顔の下半分を焼かれたと聞いたときには酷く恐ろしかったが、有利がこれだけ触れて平気なら、唇だって大丈夫かも知れない。万が一崩れたって、男なんだから大したことではないし。しばらく口が痛くてご飯が食べにくいくらいだろう。

 そっと唇を寄せて重ねてみると、そういえばこれが初めてのキスなのだと思い出す。ファーストキスが眠れる館のご主人様だなんて珍妙な経歴が出来てしまったが、感触は気持ち良いし、凄くドキドキする。

 痛くない。
 熱くない。

 火傷の話が本当かどうかはちょっと怪しいけれど、それでも拒絶されなかったという事実は有利の気持ちを高揚させた。
 《すはっ》と息継ぎをしてもう唇を奪おうと思ったのだけど、薄く開けた唇の間から、つるりと薄い舌が入り込んできたので吃驚してしまった。

「ん…むっ!?」

 気が付くと視界が反転して、有利は天蓋ベッドの天井を向いていた。尤も視界の中央にあったのは近すぎて焦点が合わない、コンラートのドアップだったけど。

「んんんんーーーーーっっ!?」

 喉を鳴らしてジタバタと藻掻くと漸く離してくれたけれど、ぺたぺたと有利を触るコンラートは、目の焦点がこちらを向いていない。どうやら、見えていないようだ。発する声も《うー》とか《あー》とかいう呻き声のようなもので、想像していたような甘い声ではなく、嗄れた老人のようだった。

「コンラッド、目が覚めたんだね!良かった!エーリッヒさん達に知らせないと…」

 離れようとする有利を狂おしく抱きしめて、怯えるようにコンラートは頭を振る。少し長めのダークブラウンの髪は、頭を振るたびにシャララといい音を立てた。

「うー、あーーっ!」
「離れるのヤなの?」

 ちいさな子どもにするように撫でてやると、ふにゃんと柔らかい表情になって幸せそうに微笑む。その様子があんまり可愛かったものだから、有利はキューンと胸が弾むのを感じた。

「ふわぁあ…。なんだよチクショーっ!あんた相当寝こけてたんだから、いい年なんだろ?なのになんなのその可愛さ〜。格好良い上に母性本能まで擽るって、どんだけモテる気だよ〜」

 うっかり母性をくすぐられていることに釈然としない気持ちを抱きつつも、有利はコンラートの頭を胸元に抱き寄せるとかいぐりかいぐりして撫で回し、すりすりと頬を寄せる。コンラートの方も嬉しいのか、盛んに抱き返してはチュっチュっとキスの雨を降らしてくれた。
 幸せな気持ちでそんな行為を享受していた有利だったが、自分たちの姿が壁に掛けられた大鏡に映っているのを目にすると、ギョッとしたように我に返った。ガタイに優れた軍人さんに抱きしめられているのが美少女なら問題ないが、男子高校生となると大問題だ。

「いやいやいや…ちょっと待て、何か俺、とんでもない方向に道を踏み外してないか!?」
「あう?」

 きょとんとしたように見開かれた瞳は、相変わらず正確に有利の顔を見ることはない。こんなに綺麗な琥珀色なのに、やはり見えていないのだろうか。

『あれ…?銀のキラキラしたの、ないな』

 なにをもって銀色の煌めきが瞳にあるなんて考えたのだろうか?目が輝くなんて、少女漫画みたいではないか。

「どうなさいました?ユーリさ…」

 扉を開けて入ってきたメイドは短い叫び声を上げて立ち竦み、すぐ駆けつけたエーリッヒも目覚めたコンラートを目にすると、絶句してまじまじとこちらを見つめている。抱きしめられているのが恥ずかしくて身を離そうとするが、頑是無い子どものように《う〜》と唸られ、目元に涙まで滲まされると拒絶しきることはできない。

「コンラート様…ああ、コンラート様……っ!この日が、やっと…やっと……っ!」
「ありがとうございます、ユーリ様!」
「は…はぁ……」

 コンラートに抱きつかれたまま、有利はおざなりな挨拶しか出来なかった。とにかく恥ずかしくて頬が真っ赤に染まってしまうのだ。油断すると顎を取られて熱烈なキスをされるから、余計に恥ずかしい。

「こ、コンラッド…やだ、恥ずかしいからっ!人が見てるしっ!」
「う?」
「言葉を失っておられるのですか!ああ…おいたわしい!瞳にも光を映しておられない。まだ、幾つかの感覚は奪われたままなのですね?」

 エーリッヒが悲痛な声をあげるが、有利には聞こえていない。《思わず口にした》という風情のエーリッヒはメイドに肘を引かれると、会釈して部屋を出て行った。

「ユーリ様、どうぞそのままコンラート様とお過ごし下さい。昼食はこちらに運びますので」
「えーっ!?」

 放置された有利はそのまま暫くベッドの上でゴロゴロしていたが、途中で《くきゅー》とお腹が鳴ってしまう。どうやらコンラートは耳は聞こえずとも身体に伝わる振動は察知できるらしく(触覚はあるということか)、身体を離して唇に指を当てた。

「くー?」
「うん。お腹空いた。なー、昼ご飯までにおやつ食べない?」

 言葉の意味は通じないようだが、無理に引き剥がそうとせずにくっついたまま移動していくと、有利の意図を察して優雅に腰掛けた。一つ一つの所作が気取っているわけでもないのにビシリと決まっていて、小憎らしいばかりだ。
 …というか、いま初めて気付いたのだが、コンラートはずっと膝丈のブーツを履いたまま寝ていたらしい。蒸れなかったのか?水虫は大丈夫か?後で脱がせて確認してみよう。

 手を引いて卓上に何があるのか触らせると、コンラートはすぐに配置を理解して、カップを口に運ぶと少し冷めた紅茶を飲む。それでも香りは十分にあるせいか、満足そうに息を吸い込んでいる。どうやら嗅覚はありそうだ。

 有利が特に美味しいと思った焼き菓子と、イマイチだったイチジクのコンフィグとやらを渡すと、後者の時に微かに眉を顰めていたので、味覚もあるとみた。そうすると、今無い感覚は視覚と聴覚と、言語能力か。有利が逃げ出さないと分かってからは紳士的な態度でいるから、知的レベルは問題ないだろう。素人考えだからいい加減な診断だけど。

 
「そういえば、急におやつとか食べて大丈夫だったのかな?ずっと絶食してたんなら、お粥さんとかから始めた方が良かったんじゃ…」

 急に心配になってくるが、コンラートもその辺は弁えているのか、有利に勧められた焼き菓子を二種類、時間をかけてゆっくりと食べると、次のを欲しがったりはしなかったし、気分が悪くなったような様子もない。

「とにもかくにも、目が覚めて良かった。みんな喜んでたね?」
「ぁう?」
「へへ…みんなとか言っちゃったけど、俺も凄い嬉しいんだぜ?なんでかなぁ…まだ会ってから一週間しか経たないのにさ、あんたのことが大好きになったみたいだ」

 その瞬間…閃くようにしてコンラートの唇に笑みが浮かんだかと思うと、硝子玉のようだった瞳が、突然強い意志と知性を持った琥珀色に変化した。音がしそうなくらい鮮烈に、銀の光彩が跳ねる。瞳の中に星のような光があって、それが明かりの具合で輝いて見えるらしい。

 コンラートの瞳が有利の姿を捉えると、その瞳いっぱいに涙が溢れてきて、次々に頬を伝っていった。





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