「時の魔法陣」−1









 高校生のバイト先と言えばコンビニやレンタルビデオ、ファーストフードといったところが一般的か。
 単発に割の良いバイトがあるといえば、大抵は高い学力を求められる家庭教師なんかだったりする。お世辞にも頭の出来が御宜しくない渋谷有利の場合、その名に反して張り紙に書かれた付帯条件が有利に働いたことはない。からかわれこそすれ、褒められた記憶などあまりない名前だ。

 だから期末試験後の日曜日に、家の郵便受けに入っていたちらしを何気なく目にしたときには、ギョッとして目を剥いてしまった。

 そこに書かれていた条件は、なんと《名前がユーリであること》《染めていない黒髪であること》《男子であること》だった。見事に合致している。しかも、日給は1万2千円で、働きぶりによっては特別賞与もあるという。

 怪しい。物凄〜く怪しい。
 普通に考えたら、有利狙いのピンポイントな犯罪だ。

『でもさ、住所も連絡先もきっちり書いた上で俺を誘拐したってしょうがないよな?』

 怪しければ引き受けなければいいのだし、様子を見に行くだけでも楽しいんじゃないだろうか?勤め先である洋館はとても立派な建物で、ちゃんと手入れもされているようなのに、誰が住んでいるのか分からないことで有名だから、怖いもの見たさ的な好奇心もある。期末試験の結果如何によっては補習・再試もあり得るわけだが、あっても平日だろうし。

『どうせ夏休みも暇だしなァ…』

 政治家としての地盤を固め始めても、弟への面倒見は妙に良い兄が熱血指導してくれたおかげで入れた高校だが、ここでナニがしたいということもないまま1年と数ヶ月が過ぎた。野球を止めてしまってからというもの、他に趣味もないから、プロ野球観戦のない夏休みの日中にはナニをして良いのか分からない。無駄にバイトを組んでは小金を稼いだが、そこそこ溜めた金を使うアテもなかった。

 こっそり株投資で儲けている兄が《10倍にしてやる》と典型的な詐欺師の台詞を吐いて眼鏡を光らせるが、《人生、堅実が一番だ》と思っている有利は絶対に渡したことはない。
 特別な才覚がない有利は、大当たりしない代わりに大外れすることもない人生を歩むのだろう。男としてそんな覇気のないことではどうかな?とは思うが、取りあえず人生掛けるとしても、それは兄のマネーゲームではないと思う。

「ま、いっちょ行ってみるか」

 屋敷に出かけたのはその日の昼下がり。
 有利は半ば忘れているが、それは有利のお誕生月が始まる第一日目であった。

 

*  *  * 




 赤煉瓦造りの洋館は、ひっそりと静かな佇まいを見せている。
 壁に這う蔓草は青々としていて、植え込みに自然な感じで生やした草花も、よく見ると全体として均整が取れている。かっちりと整えられた《お金持ち!》な感じの庭よりも、自然と調和しているようで好感が持てた。

 大きくて重そうなドアには、真鍮製の古めかしいドアノブが掛けられていた。辺りを見回すがドアホンらしきものはないから、古式ゆかしき作法に則ってこれを叩くべきなのだろうと察せられる。

「たのもう〜…じゃないや。失礼しますーっ!」
「はい。いらっしゃいませ。どちら様でしょうか?」

 反応早っ!
 こんなに大きなお屋敷だから暫く呼び続けなければならないのかと思ったが、ちゃんと扉のすぐ傍に人がいたらしい。だからドアホンがないのか。でも、来客なんてそんなにあるようには見えないのに、そんな人配で良いのか?コストランニングはどうなっているのか。それとも、お金持ちは年に数回の来客の為にずーっと人を配置しておけるのか。それなりの給金は貰えるのだとしても、その仕事はベルトコンベアーに乗って流れてくるピザまんの頂点に紅い点を打ち続けるバイトと、どっちが心理的負担が小さいだろうか?

『寝ちゃう。そういうバイトだったら俺、絶対寝ちゃうっ!』

 だが、流石にそんな仕事で日給1万2千円はあり得ないだろう。そう思っていたらゆっくりと扉が開かれて、落ち着いた物腰の執事が現れた。年の頃は70歳以上だろうか?日本人ではないような気がする。よく見ると虹彩が灰色だし。彫りが深くて重厚な雰囲気を漂わせた柔和な老紳士だから、イギリスが舞台の推理ドラマとかに出てきそうだ。

「こんにちは!俺、渋谷有利って言いますっ!!」

 元気よく挨拶をすると、笑い皺のある目元を細めて執事は微笑んでくれた。名乗る前から用件を理解しているように頷いていたのは、ちらしを配ってすぐ訪れたからだろうか。

「ようこそおいで下さいました、ユーリ様。私はこの館で執事長を勤めております、エーリッヒと申します。以後お見知りおきを」

 丁寧にお辞儀をしたエーリッヒは流暢な日本語で語るが、どこか声には音楽的な響きがあった。どこのお国なのかは知らないが、洋館の不思議な雰囲気にマッチングした素敵な紳士だ。
 だが、意外とせっかちな面もあるらしい。

「さあ…どうぞお入り下さい。仕事内容の説明をさせて頂きますので、早速お召し替え下さい」
「え?あの…面接とかは?せめて、本当に《ユーリ》が本名かどうか調べた方が良いんじゃないですか?」
「その必要はございません。一目見て分かりました。あなたこそ、我々の求めているユーリ様であると」

 ヤバイ。
 これは踵を返して全力疾走で逃げ出した方が良いだろうか?エーリッヒは至ってまともそうに見えるのだが、言っていることはかなり異世界からの怪電波が入っている。これで屋敷の中に入るのは、自分を特別扱いしたいお年頃の中二病患者くらいなものだろう。

「……ゴメンなさい。嘘つきました。俺、ホントは勝利って名前です。有利は兄なんで、そいつの身分証持って割の良いバイトしようとしました」
「お待ち下さい。そんな筈はありません。あなたはユーリ様です」

 いやん。
 帰ろうとしたらやんわりと肩を掴まれてしまった。咄嗟に執事の向こう臑を蹴ろうとするが、それ以上乱暴なことをされたりはしないものだから、困ったような…縋るような顔をした執事に無体なことなどできなくなってしまう。

「怪しまれるのは尤もです。不審を買うような物言いをしましたこと、どうぞお許し下さい。あまりにも嬉しかったものですから…」
「いやいやいや。そこで涙ぐまないでよ、おじいちゃ…いえ、エーリッヒさん」
「どうぞエーリッヒとお呼び下さい」
「はあ…」

 じんわりと目元を濡らしてお年寄りが微笑むのを、全力で振り払って逃げ出したら鬼畜の所行だろうか?
 しかもエーリッヒはバイトで来たのを承知の上で、有利を様つきの敬称で呼んだりする物腰の低い人だ。正直、言われるまま呼び捨てにするのが心苦しい。

『なんか…怪しい物言いをするくせに、凄ェ優しそうなんだよな〜』

 あまり人に自慢できるような特技などないが、有利は人を見る目だけはあると思う。直感的に、これは信用して言い奴かどうかというのは大体分かるし、外れたことはない。だから、この時は自分の勘を信じてみることにした。

「じゃあ、お邪魔します」
「ありがとうございます!どうぞ我が主と会われて、それからご判断ください。衣装のお召し替えも、それからで結構です」
「はあ…」

 エーリッヒがあんまり熱心に言うものだから、結局有利は屋敷の中に入っていった。何人かのメイドさんが整列して丁寧にお辞儀をしてくれる間を、ひょこひょこと米つきバッタのように頭を下げながら歩いてしまう。こういう時は鷹揚に手を軽く掲げたりしながら入ればいいのだろうが、そんな対応に練れすぎた高校生も嫌だろう。

 長い廊下の壁には趣味の良い絵画や、風合いが美しい硝子工芸品が数多く置かれていた。いずれも豊かな自然を描き出した動植物モチーフが多く、窓から覗く中庭の様子と相まって、穏やかな気持ちにさせてくれる。
 ここだけ周囲の喧噪を離れて、ゆっくりと時間が経過しているようだ。

 その感覚がより強まったのは、《旦那様》の部屋に通された時だった。

「こちらが我が主、ウェラー卿コンラート閣下です」
「…っ!」

 《卿》とか《閣下》という言葉はそれこそ、ドラマとか小説の中でしか聞いたことがないからどういう肩書きなのか分からないが、イメージとしては《卿》だったらアーサー王と円卓の騎士みたいなファンタジックな感じで、《閣下》だと、急に軍人めいた感じがする。

 そしてウェラー卿コンラート閣下は、確かに《卿》と《閣下》の因子を併せ持つ人物だった。

 凛とした端正な面差しは、派手さは無いが研ぎ澄まされた刃が何の装飾も無しに《美しい》と感じさせるように、ただそこにいるだけで一種の存在感を示しているし、服の上からも分かる逞しい体躯は、職業軍人であると納得できるほど立派なものだった。
 けれど、バイト君とはいえ自室に来客を迎えたというのに、ウェラー卿コンラート閣下は挨拶どころか目覚める気配すらなかった。天蓋付きの立派なベッドに横たわったまま、微動だにしない。病気で寝ているにしてはパジャマではなく、何かかっちりとした制服のようなものを着ている。薄い上掛けから覗く襟章や肩宛からみて、どうやら軍服のようだ。

『死んではいないよな?』

 ちょっと心配になって傍に寄ってみると、ちゃんと息はしているようだ。微かに胸が上下して、高い鼻梁からはゆっくりと規則正しい呼吸が為されている。ほっと安堵して頬を撫でてみると、吃驚するくらいすべすべしていた。白人というのは東洋人に比べると、白いわりにゴワゴワしているようなイメージだったが、この人は陶器のように滑らかな肌をしている。肌があんまり綺麗だとナヨナヨした印象になりそうだが、この人はよく見ると随所に傷が刻まれているから、勇敢に戦う人でもあるのだろう。 
 
『格好良いな…』

 気が付くと、有利はうっとりと眠り続ける旦那様を見つめていた。男に見惚れるような趣味は持っていないと思っていたが、野生の獣に見惚れるように、その造形を飽かず眺めてしまう。

 どうしてだろう…。滑らかで引き締まった頬を撫でれば撫でるほど、懐かしいような気がしてくる。さっきは白人なのに滑らかなんて不思議だなと思っていたのに、指先の感触が大脳皮質とは別の所で、じんわりと染み入るように《これでいいんだよ》《この人は、こういう感触なんだ》と告げているようだ。
 いつの間にか有利の手は熱心に旦那様の顔を撫で回し、彫りの深い目元や意外と長い睫毛、薄くて形の良い唇が柔らかいことまで確認してしまった。

 随分と失礼なことをしていると気付いたのは、固唾を呑んでこちらの様子を伺っているエーリッヒに気付いたときだった。

「あ…す、スミマセンっ!旦那サマの顔撫で回したりして…っ!」
「いいえ。いいえ…!良いのです。どうぞ、お好きになさって下さい」

 エーリッヒは何故か感極まったように声を上擦らせ、皺深い目元を潤ませているように見えた。

「へ?」
「それこそが、ユーリ様の職務内容なのです。眠れる我が主を見つめ、育んでくださることこそが、日給1万2千円に相当するのですよ」
「え〜…とォ〜〜………」

 どうしよう。
 また逃げ出したくなってきた。
 背中にどっと変な汗が滲むが、大真面目な顔をしたエーリッヒが縋るようにして肩を握るから、嫌とは言いにくくなってしまう。

「ユーリ様は、ただひたすらにウェラー卿のお側で時をお過ごしください。運命の扉が開くその日まで」
「うんめい〜?」

 《運命の扉》とはまた、ご大層な語句が出てきたものである。
 この人はずっと眠り続けているのだろうか?でも、それにしては一つも延命装置なんてついていないし、長く床に就いているとは思えないくらいに逞しい体躯をしているし、肌つやも良い。
 そんなよく分からない状態の旦那様に《何か》が起こることをエーリッヒは切望して、《運命の扉》を開くのは有利だと信じ込んでいるらしい。

 えらくとんでもない話だ。
 こんな話を事前に書面で提示されたら、幾ら脳天気な有利でもホイホイ喜んでついていく気にはならなかっただろう。
 なのに…実際にウェラー卿コンラートを目の当たりにした今は、どうしてだか《やっぱり二度と来ません》とは言えなかった。

「あの…俺、バイト代いりません」
「…なんですと!?」

 ぎょっとしたエーリッヒがまた有利の肩を掴もうとするけれど、それを手で制して、有利は自分に出来る精一杯キリっとした顔で、考えを告げた。

「俺は、客としてコンラッドに会いに来ます」

 口にしてみて、《あれ?》と小首を傾げる。
 《コンラッド》…それは明らかに言い間違いであるはずなのに、どうしてだが舌に馴染んでいるように思う。

「コンラッド…コンラッド」
 
 何度も呟きながら、何故このフレーズが懐かしいのか考えてみるけれど、どうしても思い出せない。
 暫く集中してみたが、ダメだ……思い出せない。
 いや、思い出すっておかしいだろう。こんな人に会ったのも、そんな名前を呼んだことなど無いはずだ。

「ユーリ様…?」
「ゴメン、なんか目眩起こしたみたい」
「…良いのです。焦ることはありません。奇跡とは…そう簡単には起こらぬものなのでしょう」

 エーリッヒは自分自身に言い聞かせるように呟いたが、顔を上げると有利を見つめて語りかけた。

「……ですが、私は既に奇跡を目にしております。あなたがこうして、御自分の意志で旦那様のもとに来られたこと。それこそが奇跡です」
「どゆこと?」
「どうぞお気になさらず。あなたはあなたの思うままに行動されますよう」
「旦那様呼び捨てにしちゃったのも?あのままで良いの?」
「ええ、どうぞお好きなようにお呼び下さい」

 エーリッヒがアブない人なのかなという疑いはあるし、有利自身にこんな期待感を抱かれる価値があるとは思えない。
 それでも、有利はこの部屋から逃げ出すことはもう無いと思うし、毎週訪れようと思っている。それは既にエーリッヒの術中に填っていると言うことだろうか?

『それでも良い。この人が何を考えているにせよ、それはきっと悪意からじゃない』

 エーリッヒは真摯にウェラー卿コンラートに忠誠を誓っているのだろう。それだけが分かっていれば、他のことはもう追求する必要はないと思った。だからこそ、ここに来ることでお金を貰うのが嫌になったのだ。
 騙されたわけではなく、買収されたわけでもないのだと確認するように、自分の意志で有利は旦那様の傍にいることを選んだ。

 エーリッヒに促されて着替えさせられたのは、どこか学生服のような印象が濃い衣服だった。上質な生地で縫われていて袖と裾が幾分広くなっているから、多少は屋敷の背景と合致してはいるが。

 コンラートの眠る部屋に戻ると、一緒に入ってきたメイドさん達がてきぱきとテーブルメイクをして、お茶菓子などをおいてくれた。

「どうぞ、召し上がってください」
「え〜?でも、俺もバイト…」
「お客様だと伺っておりますが?」
「あ、そうか」

 だったらこの衣装に着替える必要も無かったはずだが、今更着てきた服に戻すのも面倒だ。帰るまではこのままでも良いか。

 メイドさんが出て行った後、折角煎れてくれたのだしと紅茶だけは飲んだが、ふわりと鼻に抜ける芳香もかぐわしく、渋すぎないが深みのある味わいが丁度有利の好みだったので、ふーふーしながら飲む間に焼き菓子へと手を出しかけた。

「いや、ダメダメ。幾らバイトじゃないって言っても、旦那様寝かせたまんまおやつ食ってちゃ拙いよな〜。旦那様〜起きてよ〜」

 ぺとぺとと旦那様の頬を撫でるとやっぱり気持ち良いし、どこか懐かしいような気がする。今日初めて会ったというのに、どうしてこんな風に感じるのだろうか?

「コンラッド、起きてよ」

 ヅクン

 どうしてだろう?胸の奥が疼くように痛い。
 懐かしさと哀しみと慕わしさといった感情が満ちてきて、有利は慌てて目元を押さえた。自然に涙が溢れてきて、気が付くとコンラートの頬にぽたぽたと落ちかかっていったのだ。

「あ…はは。ナニやってんだろ?何か俺、情緒不安定だ」

 滑らかな頬を伝う涙が、つるる…っと滑ってコンラートの唇に流れ込む。これがお話ならこういった刺激で目覚めたりするのにな、なんて都合の良いことを思う。特に子ども向けのアニメなんかだったりすると、主人公が名前を呼んで号泣すれば必ず応えてくれるものだ。
 あるいは、お伽噺が題材だとキスで目覚めたりする。だけど後者はお姫様に対して王子様がやることだから、有利がしても効果は無いだろう。

「ゴメンね、コンラッド」

 頬を袖で拭おうとして、流石にあんまりかなとハンカチで拭う。仄かに微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか?

『綺麗な唇』

 薄くピンクがかったオークルというところか。赤みが強すぎず弱すぎず、男性のそれとしては理想的な色合いだ。有利は結構日焼けしているのに、何故か唇と乳首の色素が薄くて、淡いピンク色をしているのが子どもっぽいから羨ましい。
 指先でふにふにしてみるとやっぱり気持ち良くて、つつ〜っと指を這わせてみればつるつるしている。本当に、ずっと眠り続けているのだとすれば不思議なくらいの質感だ。
 
 しばらく時間を忘れて見守っていたら、《くくゥ〜っ》とお腹が鳴り始めた。どうしよう。やっぱりおやつを貰おうか。悩んでいると、タイミングを見計らったようにメイドがドアをノックして入室し、少し困ったように小首を傾げた。

「メニューがお気に召しませんでしたか?新しい紅茶をお持ちしましたので、よろしければお菓子も種類を変えましょうか?涼やかにジュレなどは如何でしょう」
「ああ、良いです良いです。コンラッドが寝てんのに俺だけ食べんのも…」
「まあ」

 ちょっと驚いたようにメイドが目を見開くから、馴れ馴れしく唇を弄っていたのに今更のように気付いて、慌てて飛びすさる。メイドは落ち着いた雰囲気の綺麗な人だった。20代半ばくらいだろうか?

「あ…ご、ゴメンなさいっ!」
「いいえ。違うのです…どうぞ、ユーリ様は思うようになさってください。ただ…私には出来なかったことですから、羨ましかっただけなのです」

 エーリッヒとは違って、メイドや使用人はこの人も含めて日本人で、有利が住んでいる街から通いで勤めている。躾教育も行き届いているらしく丁寧で品のある言葉遣いをする人から、そんなトキメキに満ちた告白を聞くとは思わなかった。

「奥ゆかしいんデスね」

 きっと触れたくて、でも、有利と違って眠ってる人に悪戯なんか出来ないからと、自分の理性を持て余しているのだろう。けれど、尊敬を込めて向けた眼差しから、メイドは視線を逸らした。

「そうではないのです。私は…恥知らずな女ですわ」

 己を恥じるように朱唇を噛むと、メイドは右手の人差し指を掲げた。指の平には、完全に治ってはいるようだが酷い火傷を負ったようなケロイドがあった。

「立場も弁えず、コンラート様に触れてしまった代償がこれです」
「え…?」
「これまでこの館に勤めたメイド…時には、男の使用人も、数多くがコンラート様に惹かれ、深く眠っておられるのを良いことに触れようと試みたと聞きます。事前に執事長エーリッヒ様から、《決して触れてはならぬ》と厳命されていたにもかかわらず…思いを封じることが出来なかったのです。私が知る中で最も無惨な傷を負ったのは、顔の下半分が焼け爛れた娘でした。唇を重ねて、王子様を目覚めさせる姫を気取りたかったのでしょうが、代償は高くつきました。可哀想に…元通りの顔には戻らないと診断されて、二度と館に立ち入ることはありませんでした」
「なんでそういう注意早めに言ってくんないの!?」
「ユーリ様だけは、結界をもろともせずに触れることが出来るのだそうです」

 《あなたは特別なのです》…と、メイドが呟く。

 それは甘く響く魔法の言葉だ。
 同時に、特別な存在ではないことを日々噛みしめて15年を生きてきた有利にとっては、戸惑いを覚える言葉でもある。

 信じたい。
 信じたくない。

 有利は自分が、逃れがたい網の中にいることを知った。




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