その掌が鳴るとき しんしんと降る雪が、見る間に街を白く染めていく。 朝から随分と冷えると思ったら、ホワイトクリスマス等という洒落たものになりゆくらしい。(正確には、イブだが) けれど、村田はそのことを《ロマンチック》と喜ぶよりも、友人の身体を冷やすことを懸念した。 華奢な体つきの友人は、風呂上がりだというのに淡いブルーのパジャマだけを着て、窓辺の飾り棚の上に腰掛けたまま窓の外を眺めている。 「渋谷、またそんな薄着で…風邪をひくよ?」 「あー…ゴメン」 有利は声を掛けられても暫くはぼうっとして窓の外を見やったが…再度村田にこずかれると諦めたように首を振った。 きっと…また《思い出せない》ことを思い出そうとしているのだ。 それも、喪った家族の誰かのことではなく…自分に《名前》をくれた者のことを。 ガウンを肩口に掛けてやれば、細い身体がもう冷め切っていることに気付く。 細い襟足は白く…儚げにさえ見えて胸が痛い。夏頃にはまだ回復が不十分だったから、あまり太陽の下には出られなかったのだ。 それでも、こうして実体があるということだけでも素晴らしいことなのだと知っている。 「村田、どうかしたの?俺の顔じっと見ちゃってさ」 「んー?君は、変わらないと思ってね」 「お前が老けすぎなんだよー!」 にゃははと笑うが、開けっぴろげな彼の笑いとしては少し苦いものを含んでいる。 実際…同い年であったはずの有利と村田には、外見的に大きな差がついているのだ。 現在、村田の年齢は29歳。もう一息で三十路に掛かるという年代だ。 高校在籍中から始めていた事業は根が硬く、不況の中でも揺らぐことはないが、これ以上規模を大きくすることに興味はない。 村田にとって大切なことは、この《蘇った》友人と過ごすこと。 《死んだ》時のまま…16歳の容貌を留めた渋谷有利と、可能な限り長い時間を過ごすことだけなのだ。 事業は、それを可能にする財力だけ保証してくれればいい。 「村田…ゴメン。落ち込んだ?でも、お前は普通に成長しただけだし…それに、年相応に背まで伸びちゃってさ!細っこいのは相変わらずだけど、結構佳い男ぶりだぜ?」 憎まれ口を叩いていた癖に、村田が物憂げな顔をしているとすぐにフォローに入る。 ちっとも変わっていない…。 村田の頬には自然と笑みが浮かぶから、有利もほっとしたように微笑んだ。 有利が言うとおり、村田は自分の容貌に自信がないわけではない。 すらりと伸びた体躯は、仕立ての良いスーツを着込めば世界の要人と十分にやり合える気迫を感じさせたし、眼鏡越しの鋭い眼差と秀麗な容貌は、業界でもクールビューティーとして知らぬ者はない。 自信がないのは、有利に対してだけだ。 『渋谷は…自分を人間にしてくれた者のことを思い出そうとしている』 それが、ずっと村田を不安にさせてきた。 * * * 村田は物心ついた頃から全てを達観しているような少年だったため、《寂しい》という感情を抱いたことがなかった。 もしかしたら幼い頃には感じたこともあるのかも知れないが、思い出すことは困難だった。 その感情を、村田の中に湧き起こしてくれたのが有利だった。 損得も考えずに不良グループから村田を救い、気絶するまで公園の便所で暴力を振るわれたというのに…彼は村田を恨むことなく、恩に着せることもなかった。 興味を覚えて積極的に絡むようになってから…どんどん彼に惹かれていった。 彼と居ない日は《寂しい》と自覚するようになった。 《恋》とは違うかも知れないが、少なくとも何らかの《愛》には違いないと思っている。 少なくとも…13年前、渋谷家一同を乗せた自家用車が飲酒運転のトラックに横合いから突っ込まれて全員が死亡したとき…村田を構成する全ての因子が崩壊しかけたくらいには愛していた。 安置所の簡素な台の上で、傷だらけで息絶えている有利をそのまま焼いてしまうなんて、考えられなかった。 だから、攫った。 死体を自宅に持ち込んで、村田の信奉する《神》に祈った。 眞王…悪魔に近いその《神》を村田は崇拝はしていなかったが、その力は認めていた。いままで様々な奇蹟を起こしてきた彼なら、村田の望みを叶えてくれると信じた。 その為の代償が何であっても躊躇はしなかった。 けれど、眞王の技も完璧なものではなかった。 有利の肉体から傷は綺麗に失せたが、目を開く事はなかった。 数ヶ月経っても腐敗することはないが、息をすることも脈打つこともしない。極めて精巧に作られた人形のように、死んだときのままの姿を保ち続けていた。 肉体が駄目なら精神だけでも…と、陶器製の人形に魂を吹き込んでみたが、それは一晩だけ人がましい姿をとったものの陶器めいた顔に血の気はなく、村田のことを思い出すこともなかった。 切れ切れの記憶の欠片を披露しては、《俺…どうなったのかな?》と不思議そうに小首を傾げる有利に、村田は何と声を掛けて良いのか分からなかった。 欠けている分の記憶を教え込むことは出来るが、そうして得られた《知識》で、本当にこの人形は《渋谷有利》になるのだろうか? 自分自身で思い出さなければ、《有利に似た何か》になるだけではないのだろうか? 事実、その時の有利は《渋谷有利》としての記憶の欠片は持っていたものの、物事の感じ方が以前と違うようだった。何に対しても強く表出していた感情が薄ぼんやりとしたものになっていて、《笑うべき所》《哀しむべき所》だということは分かっても、そのままの感情を湧き起こすことが出来なかった。 それが…堪らなく辛かった。 思い悩む間に時間は過ぎ、《なあ…あんたは誰?俺はなんていう名前だっけ?》という、彼の過去に関わる問いの全てに答えなかった。 彼の肉体が人形であり、死んだ子どもの魂と融合したものであるということだけは教えたが…後は一切押し黙ったままの村田を、彼は《人形師》と呼んだ。 そして翌日…12月25日には、有利は依代として使った人形の姿に戻ってしまった。 『俺の力だけでは駄目だな。この子は、闇の力で成り立つには陽の因子を持ちすぎている』 眞王の呪術的な力だけでは、《渋谷有利》にすることは不可能なのだと告げられたとき、村田は他の何に縋り付くべきなのかと問うた。 『なら、どうすればいい?』 眞王は告げた。 無作為に抽出した地点に人形である有利を送り、そこで所有者となった者の願いを叶えさせること。 《祝福》という形の福運を積んでいくことで、有利は有利になれるかもしれないと…。 村田は最初、反対した。 有利を手放す事が単純に嫌だったし、そんな奇蹟を起こす人形を手に入れた者が、有利をどうするかが心配でもあった。 それでも、有利が有利としての自分を取り戻してくれることは抗いがたい誘惑で…結局、《祝福》を与えた瞬間に村田の元に戻ってくるよう、強く呪術を掛けることで妥協した。 そして翌年、不安の中で待ち侘びる村田の元に有利が帰ってきた。 まだ村田のことは思い出せないようだったが、《俺、ちゃんとプレゼント渡せたよ!》と、嬉しそうに微笑む表情はもう陶器のそれではなく、生きていたときの有利そのものだったから…村田は、そのまま突っ伏して泣いた。 ああ…有利が、彼として本当の意味で蘇ってくれるのなら、孤独にでも耐えよう…! だから、どうか彼にこそ祝福を…! 眞王ではない何か清らかな存在に向かって、村田は心から有利の幸せを祈らずにはいられなかった…。 有利は11月までの時期を村田のもとで人形として過ごし、その間は一言も喋ることはない。更にアドベントシーズンを迎える時期になると、村田は引き裂かれるような痛みを覚えながらも…祈りを込めて有利を送り出した。 そして、25日なると帰ってきた有利を抱き留めて、朝まで二人きりのパーティーをした。 《祝福》をどんな子に与えたんだとか、どんな望みだったんだとか…何を思いだしたとか、賑やかに話して聞かせてくれる有利はとても愛らしく、村田はその数時間だけを楽しみに一年を過ごしているようなものだった。 しかし…村田が26歳になった年、有利は…帰って来なかった。 24日から25日にかけての夜、ひりつくような焦燥感に駆られながらも《帰ってくる》と自分に言い聞かせ、キャンドルを新しいものに付け替えたり飾り付けの歪みを直していた村田だったが…結局、夜明けの光を浴びながら有利が帰ってこなかったことを認識せざるを得なくなったとき、打ちのめされて膝をついた。 『どうなっている!?』 悲鳴混じりの声で眞王を罵倒したが、感情的になる村田に辟易したように眞王は嘆息を漏らした。 『どうやら、あの子はうっかりミスで《祝福》を与え損ねたらしいな』 眞王にはその場所も特定できるようだったが、有利を回収することには難色を示した。 『俺は無作為に送り込んでいるが、無意味に送ってる訳じゃない。全てあの子に欠けているものを蘇らせるためにしていることだ。無理矢理連れ戻せば歪みが出るぞ?』 そう脅されれば反論することは出来なかった。 『どうか、無事に帰ってきてくれ…っ!』 一日千秋の想いで待ち続ける村田だったが、翌年も有利は戻ってこなかった。 けれどさらに翌年…思わぬ形で有利は《還って》きたのだった。 これまで微動だにしなかった有利の肉体の上に、極めて人に近い形を持つサンタ人形の有利が被さったかと思うと、眩い光を放ちながら融合したのである。 あの事故から10年以上に渡って微動だにしなかった肉体が、生命を取り戻した奇蹟の瞬間だった。 《はふ》…っと愛らしく息をつき、まろやかな頬に生気が戻る。 胸が上下して、命の鼓動を刻み…清生の息を換気する。 『渋谷…渋谷……っ!』 抱きしめて止めどなく涙を零す村田に、有利はきょとりとしながらも精一杯腕を伸ばしてぽむぽむと背を叩いた。 『村田…どうしたの?』 『どうしたもこうしたもあるかい!渋谷…君が、帰ってきてくれて…こんなに嬉しいことはない…っ!』 『シブヤ…て、俺の名前?』 不思議そうに…ぽんやりと呟く有利に、村田は意図を掴みかねて困惑したが…すぐに事情を察した。 『誰かが…渋谷が人間になることを望んだんだ…!』 眞王の反魂の術には限界があり、儀式に荷担した村田に《祝福》を受ける権利は発生しなかったから、《渋谷有利が蘇る》というプレゼントを受けることは出来なかった。 あのまま《祝福》を与え続けた有利の未来図は、《渋谷有利》としての全ての記憶を取り戻しはしても、相変わらず一年に一度しか人がましいものになれない人形として存在し続けることだった。 いつか村田が死ぬときには、孤独を味合わせないように…姿が変わらぬ遺体も人形も、共に入滅させるつもりでいた。 そうなったら今度こそ有利は真っ当な形で生まれ変わらせてあげよう。もう、有利としての記憶はなくても、新たに初期化された人格として開放してあげようと…そう思っていた。 しかし、思わぬ形で有利は蘇ることになったのだ。 生前の…人間としての姿を取り戻しはしたが、相変わらず記憶は断片的な状態のままらしい。 村田のことは思い出せたようだが、自分の名前は思い出せない。 それでも…何故か彼は自分の名は《ユーリ》なのだと誇らしげに告げたのだった。 『名前を貰ったんだ』 嬉しそうにそう話したのに、名前をくれた人物の事を思い出そうとして…有利は蒼白になった。 思い出せない…らしいのだ。 どういう加減なのかは分からないが、人間の身体と人形が融合したときに記憶も混合し、妙な変化を起こしてしまったらしい。どちらも部分的には思い出せるのに、肝心な部分に限って思い出せない。 ぽろぽろと涙を零しながら、有利は泣いた。 『どうしよう…どうしよう。俺、その人に…色んな…大事なものをたくさん貰ったんだ。なのに…思い出せない…!』 真っ黒な瞳が生まれたての仔犬のように濡れる様が可哀想で…愛おしくて、村田はただ抱きしめて慰めることしかできなかった。 『大丈夫だよ…渋谷。僕がいる。僕は…ずっと君といるから…!』 『村田…』 泣きじゃくる有利に囁きかけながら、村田はそれが…彼にとって大した慰めになるものではないのだと気付いた。 少なくとも、失ってしまった《誰か》の代わりになることは出来ないのだと…。 それでも、村田は嬉しかった。 有利が戻ってきてくれたというその事だけで、彼の心が誰のものであっても…村田は幸せなのだと気付いたのだった。 * * * 「なあ、マジで俺…来年から高校行けんの?」 「行きたいって言ってたろ?ああ…渋谷、食べ物を口にしたまま喋るのは感心しないね」 「ゴメーン」 クリスマスのご馳走を食べながら、有利は頬に食べ物を含んだままでまだ信じられないという顔をしている。 「戸籍や学歴、過去の手配はバッチリだよ。後は…春までに色々とリハビリして貰うことになるけどね。主に、脳内の」 「う…っ!」 蘇ってからの有利は、流石に暫くの間歩くことも出来ないような状態だったが、村田の雇った医療団の助力と、一年に及ぶリハビリのおかげで身体の方は随分と回復してきた。もう走ったり、野球をしたりする分には以前通りの動作が出来るようになった。 あまり長時間に及ぶと息が上がってしまうが、それはこれからゆっくりと体力作りをしていけばいい。 問題は、頭の中身の方である。 それでなくても学力的には問題があったというのに、斑痴呆状態の脳内を再編成して、一般常識を含めた平均的高校生の思考を取り戻すためには、体力以上に大きな課題があるのだ。 「あーあ…村田、お前の勉強に関する脳味噌だけ俺に移植してよー」 「できたらそうしてあげたいんだけどねぇ…眞王にもこればっかりは無理みたいだね」 「うう…実は29歳のなんちゃって高校生だしな…」 「《渋谷、お前本当は何歳?》とかナチュラルに言われちゃうね」 「お前の専売特許だったのに…」 「譲ってあげるよ」 何気ない会話が、輝く光の粒のように愛おしい。 『このひとときをくれたのは、名も知らない…渋谷の《名付け親》なんだ』 偶然にしては出来すぎだと思うのだが、奇しくも《ユーリ》という真の名を言い当てた名付け親は、今どうしているのだろう…。 有利を失っていた期間の村田を思えば、その喪失感を簡単に我が事として感じられる。 それに…有利を取り戻した直後には、唯ひたすら彼を奪われることに怯えていた村田だったが、こうした穏やかな暮らしの中で少しずつ思い出し始めたことがある。 村田は…こんな風に自由に喋り、動く彼が大好きだったのだ。 決して物言わぬ人形のような…ひたすら村田に依存し、何もかも支配できてしまう存在を愛したわけではない。 『もう、譲らなくてはならないんだろうか』 いや、《譲る》という言葉自体が適切ではないだろう。 死した肉体を蘇らそうとしたのは村田だが、それを本人が望んだわけではない。 ただ、共に生きたいと願う村田の利己的な望みを叶えただけの話だ。 もう…有利は、自由な個体として幸せを求めて良いのだ。 不意にその事が、ストンと胸の奥に落ちた。 ずっとずっと不安で…直視しないようにしてきたその事を受け入れられたのは、ある種クリスマスの奇蹟と言えるかも知れない。 「ねぇ…渋谷。君に名前をくれた人のことを、捜してみようか?」 「え…?」 有利は吃驚して、苦労して捕まえた人参のグラッセをころりと卓上に取り落としてしまった。 「ああ…!三秒以内はセーフだよね!?」 「どうだろうね…その法則が今の高校生的にセーフかどうかは僕もわからないな」 「いやいや…それにしたってどういう風の吹き流し?前はあんなに嫌がってたのに…」 「吹き回しだね…。ま、明日はもうクリスマスだろ?夜中にたたき起こして言うのもなんだから、今プレゼントしとくよ」 「マジ?」 結局人参を口に収めてしまった有利は、もにもにと滋味に溢れた風味を味わった後で心底嬉しそうに破顔したのだった。 「えへへ…良かった。でもさ、何で今までは《駄目》の一点張りだったの?迂闊に切り出せないくらい険悪だったし…」 「………」 その心情は、村田にもなかなか説明し辛い。 有利を他の誰かに奪われたくなかった等とは口が裂けても言えないし、今現在の想いが以前よりも軽いものになったとも思われたくない。 寧ろ、より深く…強いものになったからこそ、思い切ることが出来るようになったのだが、それを噛んで含めて説明してやるには気恥ずかしさが先に立つ。 嫌がらせ目的でやるなら別だが。 「ま…季節性の盛り上がりによるものだよ」 「そーなの?」 小首を傾げて、有利は瞼を閉じる。 今度は止められることなく、思い出そうとしているのだろうか。 「会えるかな…」 「捜すさ」 「うん…ありがとうね」 「…会いたいかい?」 「うん………っ」 有利の声が微かに涙を含み、服の袖口でごしごしと目元を拭う。 「でもさ…俺、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、大事な人のことまで忘れちゃうなんて酷いよなぁ…」 「僕のことだってずっと忘れていたくらいだからね」 「ゴメンて…」 「全くね。再会できても覚えていないんじゃあ、相手の人も呆れちゃうかな?」 「そう…だよな…?」 ふる…っと堪えきれない涙を滲ませる有利に、村田は内心大いに動揺してハンカチを目元に沿わせた。 「嘘だよ…。君が君でいてくれたら、きっと喜んでくれる」 「そうかな?《こいつ馬鹿で恩知らずだー》って、呆れねぇかな?」 「呆れたって、きっとまた君を好きになる。君は…そういう奴だからね」 「好き…?」 頬を上気させてはにかむ姿はこの上なく愛らしく、村田は自分が結婚できないのをこの友人のせいにした。 『……基本的に、ちっちゃくてふわふわしてて可愛い子が好みなんだけど、いつも渋谷基準で選択しちゃうからなぁ…。とんでもなくジャンル違いの子とかの方が寧ろ良いのかも…』 《大きくてごつごつしてて可愛くない》のとか? そういうジャンルを好きになるのは難しそうだ。 そんな事を考えながら村田がぼんやりしていると、不意にドアの鈴が鳴った。 ドアホンはちゃんとついているのに、クリスマス用の鈴を振るっているらしい。 「どなた?」 「サンタです」 不審極まりない発言は、外国人男性のものらしかった。 《絶対開けない》という決意を村田が堅めかけたとき… 雷に撃たれたような表情で、有利が立ち上がった。 |