「うさぎの嫁入り」A

 







『わぁ…』

 細かな模様をなすレース地のベールをふんわりと被っているので、正確な顔立ちまでは分かりませんでしたが、微かに垣間見える長い睫や形良い輪郭、桜色に彩られた愛らしい唇…純白のドレスに包まれた細身の体躯はしなやかで、伸びやかな上肢は肘までの手袋に包まれています。

『きれいだなぁ…きっと、お嫁さんなんだな……』

 茶うさぎのお嫁さんになりたいという願いが望み薄なのではないかと思い始めたこの時に、こんなに綺麗な花嫁さんを目にするとは何と皮肉なことでしょう?

 あんなふうに綺麗だったら…せめて、雌だったら…いえ、せめてせめて…いま大兎だったのなら望みはまだあったのでしょうが、8歳の黒うさぎにとって、あと8年という月日はとてつもなく長いもののように感じました。

 だって、それは茶うさぎと暮らし始めた月日よりも長い年月なのです。

 今まで生きてきた分と比べたって、ようやく一緒というところです。

『8年もたったら…コンラッドは俺なんかよりも綺麗でやさしいお嫁さんを見つけちゃうよな…』

 そのとき、黒うさぎはどうなってしまうのでしょうか?

 

 胸は張り裂けるのでしょうか?

 涙は止めどなく流れていくのでしょうか?

 茶うさぎと…一緒に暮らしていくことは出来なくなるのでしょうか?

 

 いいえ、茶うさぎは黒うさぎを追い出したりはしないでしょう。彼はとても優しいうさぎですし、きっと彼が好きになるくらいのうさぎなら、黒うさぎを苛めたりはしないでしょう。

 ですが…そんなやさしい二羽が仲睦まじく暮らしている様子を、どんな顔をして黒うさぎは見ていればいいのでしょうか?

 茶うさぎにとっての一番がもう自分ではないのだと言うことを、朝な夕なに見せつけられながら…笑っていることが出来るでしょうか?

 

 きっと哀しい。

 きっと苦しい。

 きっと…憎い。

 

 ああ…なんという黒々とした感情なのでしょう?

 茶うさぎも、茶うさぎが選んだ雌(ひと)も、きっとこの世で一番憎らしく感じてしまうに違いない自分に、黒うさぎは慄然としました。

『俺の心はこんなに汚かったんだ…』

 いつだって茶うさぎのしあわせを願うと言いながら、それは黒うさぎが一番傍で笑っていられるという前提だったのです。

 彼の心が離れて行ってしまったら、その途端に嫌いになってしまうなんて…そんな汚い心の持ち主には、茶うさぎを好きになる資格なんて無いように思えます。

 気が付けば、再びぼろぼろと涙が溢れ出してきます。

 ごしごしと乱暴の手の甲で涙を拭っていると、カツ…っと拳が窓硝子に当たってしまいました。

「…っ!」

 物音に気付いた花嫁さんが、勢いよく窓の方を見やり…黒うさぎに気付いて目を丸くしました。

「おい…」

「……ご、ごめんなさいっ!」

 きっと、おめでたい日に知らない仔うさぎがぼろぼろ泣きながら自分を見ていたことで気分を害したに違いありません。

 黒うさぎは穴蔵に飛び込んでしまいたいような心地で踵を返すと、もと来た森の方に走り出しました。

「お…おい、待てって…!」

 随分と男勝りなお嫁さんのようです。

 まるで少年のような口調と、見た感じよりは低めの声で黒うさぎを引き留めようとしました。

 ですが、黒うさぎは花嫁さんと言葉を交わしたりすれば、きっともっと泣いてしまうと思いましたので、あらん限りの力を振り絞って走りました。

 すると…なんということでしょう!

 ちらりと振り返った先で…花嫁さんがひらりと窓から飛び出し、黒うさぎ目がけて走ってくるのが見えました。

 裾が邪魔なのか、思いっきり良くたくし上げたドレスからはストッキングと、時折色っぽいガーターベルトまでが覗いて見えます。

『ぅわわわわ!?な、なんだこのうさぎ…っ!』

 常軌を逸した行動に、黒うさぎは先程とは違った意味でドキドキします。

 そこで、一生懸命速く走ろうとしたのですが、花嫁さんはかなりの健脚自慢のようでした。あっという間に黒うさぎに追いつくと、勢いよく抱き上げてきたのです。

「やぁ〜っと捕まえた!」

「や…やめて…っ!離して下さいっ!」

 黒うさぎはやんやんと暴れますが、相手が花嫁さんでは分が悪いです。

 おかしな場所を殴ってしまって、傷でもつけたらおおごとですからね。

「まあ落ち着けって!」

 がしがしと頭髪を掻き回すと、花嫁さんはやや乱暴にではありましたが、黒うさぎを宥めようと抱きしめてくれました。

 良い香りのする花嫁さんについついうっとりしてしまうと…黒うさぎは別のことにも気付きました。

 この花嫁さんの胸は…どうやら嘘チチのようです。

 微乳なのだとしたら指摘すべき事ではないのでしょうが、どうも華奢ながらすんなりと筋肉のついた四肢の骨組みをみていると…ひょっとしてひょっとすると…という気がしてきます。

「お…お嫁さんは…雄?」

「ん?ああ…そーなんだよー。この恰好はお袋が絶対着ろってうるさくてさー。コ…いや、婿さんや、婿さんのお袋さんもそーしろっていうもんだからさ」

「は…はぁ……」

 花嫁さんが雄うさぎだったとは…!こんなに、何処に出しても恥ずかしくないような綺麗なうさぎですのに…!

『そ…そこだけは俺と一緒なんだ…』

 ちょっと勇気づけられたような気がします。

「変に思う?」

「う…ううん?」

 だって、とっても似合っていますし…花嫁さんは恥ずかしそうではありましたが、この日を迎えたことをとてもしあわせに感じているようです。周りのうさぎ達だってこの恰好をすると良いよと言ってくれたのなら、なんのおかしな事があるでしょう?

「おかしくなんかないよ。とっても綺麗」

「そぉ?」

 花嫁さんがほわりと照れくさそうに微笑むと、華が綻ぶような雰囲気が漂います。

「えへへ…俺、この恰好は恥ずかしいんだけど…結婚できんのはすんげぇ嬉しいんだ。だって、コ…婿さんと結婚する日をずっずーっと待ってたんだもん」

「長いこと待ってたの?」

「うん、結婚しようねって約束してから、9年だよ」

「9年!」

 なんということでしょう。偶然というのはあるものです。

『俺とコンラッドが約束した日から、成兎するまでの年月とぴったり一緒だ!』

 黒うさぎは激しく興味を引かれました。

「ねぇねぇ、相手のうさぎはあなたと同い年?」

「違うよ。ずっとずっと年上」

「へぇぇ…っ!ねぇ、それじゃ…いままで不安に思ったことはある?」

「そりゃあ何度だってあるさ!自分がいつまで経っても仔うさぎなのが腹立たしくって、悔しくって…そいつが綺麗な雌うさぎと少し話をしているだけでも、ぷくーっとほっぺを膨らましてたもんさ」

「そうなんだ!」

「最初はね、そういう自分が汚いな…って思って、恥ずかしかった。だけど、もーちょっとすると、それはもうしょうがないんだって思うようになったんだ」

「しょうがないの?」

「それだけ好きなんだもん。大事なのはさ、そういう気持ちをどうやって自分で処理するかって事だと思うんだ」

「しょり…?」

「片づけるって事だよ。嫉妬しまくって、自分も相手も傷つけたりしたら、そりゃあ良くない。汚いし情けない。でも…そいつを好きだって気持ちを大事にして、そいつに相応しいうさぎになれるようにって頑張れたら、素敵なうさぎになるための力になるだろ?」

 

 ぱぁ…っと、胸の中があたたかくなってきます。

 

 花嫁さんが微笑みながら口にする言葉の一つ一つが、仄かなひかりをたたえて胸に火を灯すのです。

 素敵なうさぎになるために、この花嫁さんだって頑張ったのです。

 なら、どうして黒うさぎにできないということがあるでしょうか?

 茶うさぎを思う気持ちで、最初から負けてしまったのでは悔しいではありませんか。

「がんばったら…俺も、素敵なうさぎになれるかな?」

「なれるよ。絶対、なれる。少なくとも…大好きなうさぎに好きでいて貰えるくらいには…ね」

「それで十分だよ」

 黒うさぎはにっこりと微笑むと、目尻に残った涙をすっかり拭い去りました。

「よーし、元気出てきたな?それじゃあ、少しお茶を飲んでこっちから帰りな」

 花嫁さんが指で指し示した方角は、有利が来たのと丁度逆の方角でした。

「え…?そっちは俺が着た道とは違うよ?」

「大丈夫。こっちから帰れるよ。とにかく真っ直ぐ真っ直ぐ行くんだ」

 花嫁さんは軽やかな動作で窓からひょいっと部屋に戻ると、水差しから硝子杯へと冷たい水を汲んで、黒うさぎにくれました。

 飲み込む液体は身体の隅々へと染み渡るようです。一気に元気が出てきました。

 黒うさぎは硝子杯を花嫁さんに返すと、言われたとおりの方角に足を進めました。

 この花嫁さんは、きっと嘘は言わないと思ったのです。

「お嫁さん、お幸せに!」

「うん、お前さんも頑張れよ!良い嫁さんになれるようにな!」

 《あれ…?》…と、黒うさぎは首を傾げました。

 黒うさぎは、あの花嫁さんに自分のことをそんなに話したでしょうか?

 不思議に思いつつも、黒うさぎはとこてけと歩いていきます。早く早く…茶うさぎに会いたいのです。

 たったかたと駆けていく後ろで、花嫁さんが誰かと話をしている声が聞こえました。

 お婿さんでしょうか?とてもやさしい…どこか、懐かしいような気がする響きの良い声です。     

  その声を聞いていたら、ますます茶うさぎに会いたくなりました。

 

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