「大切な君の為に」C
〜青空とナイフシリーズ〜

「止せ。この近距離では狙い通りには当たらない」
「どうかしら?仕留められなくても、あなたの動きを封じれば良いだけだもの」
「ユーリに当てないだけの自信があるのか?」
コンラートは相変わらず淡々として見える。
けれど…何処か苛立ったような声に有利は目線をあげた。
コンラートはこちらを見てはいなかったけれど、その手と肩が視線を感じ取ったかのように身動(みじろ)いで、有利の身体を再び自分のそれで覆い隠そうとする。
決して、掠ることもさせないと誓うように。
『コンラッド…!』
その身を盾とするつもりなのだろうか?
かつて…コンラートの父がそうしたように。
「やめてくれよ…っ!浅葱、金が目的なのか?ボランティア活動ってのは、嘘だったのかよ!?」
「見て分からないの?支援が受けられなかったくらいで銃を抜くボランティア団体なんて聞いたことないでしょう?」
「俺を…撃つの?」
「……っ!」
浅葱は一瞬…頬を強張らせて有利を見た。
まるで、彼女の方こそ不条理な衝撃を受けて、哀しんでいるかのようだ。
《美少女って得だ》…そんなことを考えている場合ではないだろうか?
「あなたは…撃たない。だって、あなたが死んだら財産は全て日本政府のものになるんでしょう?そうはさせないわ」
「じゃあ…どうして銃を向けるんだよっ!」
「邪魔な護衛を始末したいからよ!」
「駄目だ…っ!させないっ!!」
有利がコンラートの前に出ようとするが、それは左手一本でがっちりと阻まれてしまう。
「出ないで。あなたを護るのが俺の仕事だ」
「だったら、あんたを護るのは俺の使命だ」
「足手まといです」
グ…っと喉がつかえる。
咄嗟に自分は撃たれないから、コンラートを庇って…などと思いついたのだが、考えても見れば有利が拘束されてしまえば元も子もないのである。
「ふぅん…出来ちゃってるわけだ。あんた達」
苛ついたように浅葱が口角を上げると、雲雀のようだった軽やかな声はドスの効いた声音に変化し、心なしか顔立ちまでもが変わったような気がする。
彼女は、千の仮面を持つ少女だったのだろうか?
まるで海千山千乗り越えてきた娼館のマダムのように徒(あだ)っぽい声だ。
「なら、護衛さんにも利用価値はあるわね。手足を潰して動けなくしてから、渋谷君に言うことを聞いて貰おうかしら?ねぇ…渋谷君。その男にはあなたの全ての財産をかける価値があるかしら?」
「浅葱…浅葱……っ!なんでこんなこと…っ!」
有利の声には聞こえないふりをして、浅葱は少しずつ間合いを詰めてくる。
「ふふ…《ルッテンベルクの獅子》とも謳われる男が、随分と迂闊なことをしたものね?渋谷君とそんなに離れがたかったのかしら?だけど…敵の拠点に二人して乗り込んで対決…なんて、分が悪いって思わなかったの?」
「心外だな。俺はそんなに気遣い無い男に見えるかい?敵の拠点に大切な主を連れてきて、何の手土産もないと思われているとはね…」
くすりとコンラートが口角だけで嗤えば、浅葱は一層苛ついたように歯噛みをする。
『あれ…?』
ふと、有利は気付いた。
浅葱はしきりと背後を気にしながら間合いを取っているのだ。
もしかすると、コンラートを威嚇しながらもなかなか具体的な行動に出ないのは、何かを待っているのかも知れない。
その事にはコンラートもとっくの昔に気付いていたようだ。
「待ち人来たらずかい?」
「……何よ!」
図星を指されたらしい浅葱は引き金に掛けた指を蠢かせるが、やはり撃つ気配はない。横目に如月と父(おそらく、同じ任務に就いている仲間だろう)を確認するが、彼らもまたナイフや特殊警棒を手にしたまま腰を屈めて何かを待っている。
息詰まるような緊張感が、広くもない室内に充満した。
ガチャ……
「……っ!」
は…っと喜色を浮かべ掛けた浅葱の顔が、瞬時に硬直する。
扉を開けて入ってきた者は、彼女が待ち望んでいたのとはかけ離れたものだったのだ。
「はぁ〜い、隊長にユーリちゃん。助っ人登場よーん!」
ミリタリーカラーのタンクトップにぴっちりしたジーパン姿の男は、鮮やかなオレンジ色の髪を靡かせて入ってきた。その手には…殴打されて気絶しているらしい男が二人、軽々と抱えられている。
「ヨザック!」
「はーい、愛と勇気の美青年戦士グリ江ちゃんよーん」
「その人達どうしたの!?」
「そこのオカマ儒子の仲間ですよ」
自分を棚に上げて何を言うか。
…というか、コンラートとの遣り取りで嫌な予感はしていたのだが…やはり浅葱は男なのか。
「催涙弾と防煙マスクをして待機してたんで、商談決裂って時には仲間ごとあんたらを捕獲するつもりだったんでしょうね。いやぁ…それを未然に防いだ優秀なグリ江ちゃんは、あとで隊長にしっぽりお礼を頂けると信じて良いんですよね?」
「普通に任務の範囲内だろうが」
「いやん、冷た〜い」
ヨザックは身を捩ったかと思うと…勢いよく二人の男を如月に投げつけ、怯んだ隙に一気に間合いを詰めると、袖口から滑り出した細身のナイフで斬りつけた。
ナイフの刃は、如月の両の手首を一瞬にして半ばほどまで切り裂いたろうか。
ブシュァアア……っ!
吹き出す血飛沫の角度まで計算していたかのように、ヨザックは返り血を避けると素早く項窩へとナイフを叩き込んだ。
そして、身を翻しざま浅葱の父と名乗っていた男も同様に始末をつけ、痛みに叫ぶことすら赦さずにやはり意識を奪う。
それはまるで、オレンジ色をした疾風のような動きだった。
「わ…っ」
血に対する恐怖もあったのだが、ヨザックの一連の動きの見事さに視線を奪われた有利は、叫ぶことも忘れて見入っていた。
いや、本当の意味で…魂を奪われるように見惚れたのは次の瞬間、有利の視界に映されたものであった。
コンラートが閃くような動きで跳躍すると、浅葱との距離を一気に詰めて接近戦に持ち込んだのである。
元々、浅葱は来るはずだった援軍に期待して銃を手にしていただけらしく、すぐ腿に締めたベルトケースに戻すと、今度は手首から鈎爪のようなものを出して勢いよくコンラートに向かって振るい始めた。
『速い…っ!』
元々運動神経のよい子だとは思っていたが、これは素人の動きではない。ドラマや映画などで見るよりも一層無駄のない動きは洗練された戦闘術であった。そして、そんな浅葱の技量を遙かに凌駕しているらしいコンラートの動きは、もはや芸術と呼びたいほどに美しいものだった。
浅葱の放つ斬戟をしなやかな身体の撓りを活用して紙一重で避けると、手首を一閃させてナイフを振るう。しかも、突きにしろ放物線を描くような斬戟にしろ、戻りが異様に速いのである。一撃一撃に重さがあるだろうに、浅葱が前腕に仕込んでいるらしい防具で弾く度に、それが仕込まれていない箇所を探し出すようにして的確に責めていく。
「く…っ!」
浅葱は噴き上がる汗を拭うことも出来ず、息つく暇さえ与えられずにコンラートのナイフを避け続けた。あのナイフを避けられるだけでも称賛に値するところだが、それにも限界はある。
視線でフェイントを掛けられた隙に、鋭い肘鉄を鳩尾に喰らった浅葱は身体ごと吹っ飛び、嘔吐まではいかなかったものの、流石に動きを止められて蹲ったところで首筋にナイフを宛われた。
おそらく、ほんの少し手首が返されるだけで頚動脈から動脈血が吹き出すことだろう。
「チェックメイト」
「く…そ……っ!」
憎らしいほどに余裕のあるコンラートは、冷たく呟いた。
あれだけの立ち回りを演じておきながら、息すら上がっていない。
言動の方も特に格好をつけたというより、単に客観的な事実を述べているだけ…という感じだ。
「あたしをどうする気?」
「まずは、謝って貰おうか」
「……は?」
冗談かと思ってコンラートを見やると、予想外に…顔が笑っていない。
それどころか、今やっと気付いたのだが…コンラートは今まで見たことがないほど酷く怒っているようだった。
「ユーリに、謝って貰おう」
「なに…を……」
「友人だと思わせて金を奪う。それがお前に与えられた仕事なのだとしても、赦せない。お前のしたことはユーリを最も傷つける遣り口だ」
「……っ!」
コンラートの物言いに、有利ははっと胸を突かれた。
彼が怒っていたのは…有利の心を思いやっていたからだ。
『俺が…傷つくと思ったんだね?』
きっと、もっと早くにコンラートは浅葱の正体に気付いていたのだ。けれど、それを自分から説明することで有利を傷つけたくなくて…クラスメイトまでが自分の財産を狙っているという事実によって疑心暗鬼に陥らせない為に、ギリギリまで隠そうとしたのだ。
自分が敵の気勢を削ぐことで未然に発生を防げるように…心を配ってくれたのだ。
『こーゆートコ…やっぱ、凄ぇ…やさしい』
どうでも良いことはソフィスケートされた物言いでサラサラと語れる癖に、肝心の所で説明が少ないというか…勝手に慮って手を回しすぎな気もするが、それでも…やはりこれは彼独特の優しさなのだ。
「ユーリちゃん、あんたはこの事態をどうしたい?この連中を警察に突き出しますか?それとも…」
ヨザックが面白がるように問いかけると、有利は少しだけ小首を傾げてから…逆に質問してきた。
「浅葱さん達って、仲間とかもいるよね?規模とか…どういう組織かって分かる?」
「ま、そこそこの組織ですよ」
「浅葱さん達を捕まえたら、そういう連中って一網打尽に出来る?」
「無理ですね。指示出しをしてきた連中について俺の方でもかなり調べましたが、まぁ…上手にやってますわ。組織自体は特定できましたが、この連中が心を入れ替えて全部ゲロったところで首謀者の告発は無理ですね」
「じゃあ、浅葱さん達をいま見逃しても、別に影響はないんだよね?」
「…………はぁ?」
ヨザックは頓狂な声を上げて目を丸くしたが、上目づかいにじぃ…っと見詰めてくる有利を見ると、困ったようにボリボリと頭を掻いた。
「駄目?」
「隊長〜…あんたの雇い主はこんな事言ってますけど、どうします?」
「俺はユーリの意向に従う。ユーリの身に危険が降りかからない範囲で…ということだが」
つまり、この程度の判断であれば決して有利の身に疵一つ付けることはないと確信しているのだろうか?その事にも心を支えられて、有利は浅葱の傍にしゃがみこんだ。
罠に掛かった猛獣の仔のような気配を見せて浅葱は構える。彼女に毛があれば、きっと全身で逆立てていたに違いない。
「そういうことだから、俺達をこの部屋から出させてね」
「どういう…つもりなの?」
「さっき言ったとおりだよ」
「どうして…」
浅葱の目は、警察に突き出すと言われた方が余程楽だと言わんばかりに歪んでいた。
* * *
「どうして…そんなに気楽に構えていられるの?」
何もかも計画通りに行かなかった。
『もっと精神攻撃で痛めつけて、あたししか頼れる者がないってとこまで追いつめるつもりだったのに…!』
学校生活の中で浅葱の仕掛けた数々の罠を、有利は淡々と乗り越えてしまった。
財産を持っていることで擦り寄ってくる者、妬む者を演出し、元々は学力的にも不十分で、一般的な家庭にあったことを詰る匿名の手紙を鞄や靴箱に入れた。古典的だがそれだけに効果のある陰湿な手法を繰り返したというのに、その度に有利は《村田やコンラッドに話したらスッキリした》と言って笑顔を浮かべていたのだった。
『あいつらとの信頼関係を砕くまで、手を出してはいけなかったんだわ…っ!』
いつまでたっても自分に振り向かず、これまで信じてきた者を素直に信じ続ける有利に苛立って、焦った。
何もかも駄目だった。
こんなにも無様に失敗し、獲物であるはずの少年に情けまで掛けられるとは…随分と落ちぶれたものだ。
浅葱は悔しげに呻いたがどうすることも出来ない。
信じがたい平和的な申し出が為されてもコンラートは油断することなく浅葱の首筋にナイフを押し当てているから、息が掛かるほど近くに有利を感じていても、指を伸ばすことさえ出来ないのだ。
「いつか…後悔するわ。多すぎる金を持ってるって事はね、それだけで人生を摩耗させるものなのよ?」
「うん…俺も、そう思う。だから、今回のことをチャラにするのは、浅葱さんにヒントを貰ったっていうお礼の意味も含んでるんだ」
「ヒント…?」
「ボランティア自体は凄く意味のあることだろ?俺…そういう使い方は考えてなかったから、参考になったよ。勿論、爺ちゃんの金は全部一カ所に突っ込んじゃうと額が大きすぎてそれこそ犯罪の火種にならないとも限らないし、浅葱さんとこみたいに形だけボランティアってことになってて、実際には寄付の実体がないなんてとこあるって分かったから、まずはちゃんと集めた全額を…必要経費以外の全部をちゃんと目的通りに使ってくれる団体を調べて貰おうと思うんだ」
「………」
「教えてくれて、ありがとう」
なんて、真っ直ぐな目なのだろう?
どうしてこの瞳を、護り育む側に回れなかったのだろう?
穏やかな夜のようなやさしい瞳に垣間見える傷ついた色が、自分がつけたものだと知っているから…余計に胸が震える。
『悔しい…っ!』
そんなことを考えさせる渋谷有利という存在が憎かった。
これまでの生き方を全て否定させるような存在が、心底憎かった。
「馬鹿…お人好しの変人…!」
「そうかも…」
「そうなのだとしても、お前がユーリを悪罵して良いという理由にはならない」
苦笑する有利とは対照的に、コンラートは《すぅ》…っと琥珀色の瞳を眇めると、首筋に宛ったナイフはそのままに、もう一方の手首からナイフを取り出すと浅葱の唇へと押し当てた。
「その唇、抉り取ってやろう」
《肩に綿埃がついているから、取ってあげよう》…そんな事を言う程度の口調で押し当てられたナイフは、そのまま鼻の下の付け根から唇を抉ろうとする。
向けられた瞳は憎しみに染められ、平静を装うその仮面の下で、煮え立つような怒りが渦巻いていることを知る。目線だけで人が殺せそうな鋭さだ。
この男は有利の肉体を傷つけられること以上に、心を穢そうとする者に憎しみを抱くのだろう。
『ああ…この男も、この子に惚れさせられちゃった口なんだわ』
元々この手の少年を好きというタイプではあるまい。
おそらくは浅葱と同様、抵抗して…自分の中で打ち消して、そういう思いではないと繰り返し自分に言い聞かせてきたのに、最後には防波堤が決壊したのだろう。
その事を理解した途端、急に…憑き物が落ちたみたいに有利への憎しみが抜け落ちた。 寧ろ、笑いたいような心地になって、実際…くすくすと笑みを零してしまった。
「……どうしたの?」
「ううん…。こんな狂犬みたいな男を懐かせられるんだもんね…。渋谷君には敵わないなって思ったの」
《狂犬》と呼ばれた男は唇をへの字に枉げたが、取りあえず唇を抉ろうとした方のナイフは下げてくれた。
「野球…一緒に見に行けなくて残念」
どうしてそんなことを口にしたのか分からなかったが、言ってみて…本当に残念だと思っていることに気付く。
監視つきではあったかもしれないけれど…それでも、有利と親しい女友達として、年頃の少女のようにはしゃいで野球を見るのはきっと素直に楽しかったことだろう。
「どうして?手を引いてくれるなら別に行けるじゃん」
「馬鹿ね…そこまで図太く生きられないわよ。大体、この男がいつ唇を抉ろうかとナイフをちらつかせているのを横目で見ながら観戦なんてゴメンだわ」
「そっか…」
「ちょっと…残念そうな顔なんてしないでよっ!またあたしの唇が存亡の危機に立たされてるじゃない!」
またしても眼を眇めてナイフを突きつけてくる男に、本気で声が焦った。
大人げないことに、この男…本気で嫉妬しているらしい。
「今回は、諦めたわ」
今回のみと条件付きのような言い回しになったせいか、有利の眉がへにょりと下がった。
「また…俺を狙うの?」
「どうかしらね…」
浅葱はくすりと苦笑する。
「その時に、あなたが今のあなたのままなら…あたしは何としてもその任務は御免被るわ」
《唇が惜しいもの》…そう呟いて、浅葱はスカートをたくし上げて腿に装着していた小型銃をコンラートに取らせ、足首や手首に仕込んでいた暗器も手渡した。もう戦意を削がれているし、コンラートが透視するほどの正確さで仕込んでいる器具の方へと目線をやるから観念したのだ。
「あなたは、きっと変わらない。だから…きっと会うのはこれで最後だわ」
その言葉は本心から出たものだった。
鮮やかに微笑んでそう告げたとき、少し寂しそうに有利が瞬きしてくれたのが嬉しかった。
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