「大切な君の為に」B
〜青空とナイフシリーズ〜










「渋谷ってさぁ…もう、浅葱に告ったの?」
「ぐふ…っ」

 休憩時間にパック牛乳を飲んでいた有利は、谷重の言葉に吹き出しそうになる。
 危うく、鼻から牛乳を実戦するところだった…。

「な…何を!?」
「またまたぁ…しらばっくれちゃって!お前と浅葱、良い感じじゃん」
「そりゃ…良い子だとは思うけど……」

 ちらりと周囲を見回すと、同じクラスの1/3は選択授業で別教室に出向いているので浅葱の姿はない。
 少しだけほっとしたものの、やはり声は潜めてしまう。

「でも、別に俺達なんでもないんだぜ?」

 確かに他の女子よりは格段に話は合うし(この学校の女子は成績が良かったり家柄が良かったりするせいか、良くも悪くもお高くとまった子が多いので…)、趣味も合うのでCDの貸し借りもしている。
 そろそろシーズンオフに入ってしまう野球も、その前に観戦に行こうね…等と約束もしている。

 けれど、やはり《仲の良い女子》以上の存在ではないのだ。
 きっと相手もそうなのだと思う。

『もしも…コンラッドと出会っていなかったらどうだったんだろう?』

 《もしも話》というのはえてして無意味なものだが、それでも少し考えてしまう。

 だって、まさかこの自分が男を好きになるなんて考えても見なかったのだ。
 権現氏の財産を受け継がなければコンラートに会うこともなく、いつか気になる女子に出会って交際して…あるいは、見合い話を勧められて《まあ、いいかな?》と思う人と結婚するんだと思っていた。

『そうだったら…どうだったんだろう?』

 コンラートの顔を思い浮かべると、基本的には人形のように整った…その分、冷たい印象の顔が思い浮かぶ。
 けれど、次の瞬間にはそれがほわりと綻んで柔らかく微笑んでいる顔が思い浮かぶ。

 けど、実際には数えるほどしかそんな顔見てはいないから、《コンラッドの印象》というよりは《有利が見たい顔》なのかもしれない。

『ちらっとしか笑わないもんな。エッチなコトしてるときでさえ、どこか冷静な気がするし…』

 どうして…あんなに無愛想な人が好きなんだろう?
 幾ら際だった美形だとは言っても、そもそも有利は面食いではなかったはずだ。

 ぼうっとして考え事をしている間に授業は終わった。
 当てられなかったのは幸いだ。
 当てられていたら、いつも以上にどうにもならなかったことだろう。

「どうしたの?渋谷君、変な顔して」
「浅葱さん…」

 教室に戻ってきた噂の主が、困るくらい近距離に顔を寄せてくる。
 嫌というわけではないのだが、仄かにシトラス系の香りが漂う女の子の気配があまりに接近していると動悸が激しくなってしまう。
 この反応は生物としてのそれであり、恋心との相関性はない…と、思う。

「そうだ、渋谷君…今週末暇?」
「うん、多分何もないと思うけど?」
「じゃあ、ボランティア手伝ってくれない?」
「ボランティア?」



*  *  *




 浅葱が言うボランティアとは、青年海外協力隊を支援する募金活動だった。 
有利は距離を置いてコンラートに護衛して貰いながら、百貨店の前で声を張り上げることになった。

「募金にご協力お願いします!」
「上水道の整備されていない発展途上国に、井戸を掘る為の募金にご協力下さい!」
「焼き畑を減らし、健全な農地運営を行う為の募金にご協力下さい!」

 残暑厳しい中ではあったが、そこは草野球で鍛えた発汗機能である。
 適度な汗をかきつつ水分補給をすれば、他のボランティア達がぐったりしている中でも平気な顔をして声を上げられる。

「凄いね、渋谷君。君の笑顔、威力があるわ〜」
「俺のって訳じゃないだろ?」

 きょとんとして首を傾げると、熱くなった頬に冷たいペットボトルを押し当てられる。

「飲んで。おごり!」
「サンキュ」

 ベタベタしていない浅葱の態度は心地よく、口を付けたスポーツ飲料も甘さ控えめで有利好みの味だった。

「ねぇ、この後も時間ある?」
「あるけど…」
「会って欲しい人がいるんだけど、良いかな?このボランティア団体の責任者で如月って人なんだけど、凄くいい人でね?渋谷君も会って話してみると面白いと思うんだ」

 デートのお誘いかと思って少々身構えたのだが、それは自意識過剰というものだったらしい。

「良いよ」

 笑って了承したのだが、これが思わぬ揉め事の種になるとは…この時は全く思いもつかなかったのだった。



*  *  *




「じゃあ、この車に乗って?」
「え?」

 ボランティア活動が終わった後、約束通り浅葱についていくと…黄色いワゴンカーが待っていた。運転席からは穏やかな笑みを浮かべた男性が手を振っている。親しげな様子から見て、美保の家族だろう。

「えっと…あれは、お父さん?」
「うん、如月さんとパパは友達なの」

 足を踏み出しかけたものの、急にコンラートの事が気に掛かる。
 
『どれほど親しい友人であっても、俺の傍から離れて一人で付いていかないで下さい。特に、ゴンゲン氏の財産を受け継いで以降の友人は注意が必要です』

 浅葱に《付いてきて》と言われたときには、近所の喫茶店か事務所で話すとばかり思っていたから軽い気持ちで了承したのだが、車で移動するとなると話は別だ。

「浅葱…その、俺な?お恥ずかしい話…ボディガードの人がいるんだよ。んで、その人の傍から離れちゃ駄目だって言われてるんだ。その人…連れてっても良い?」
「え…?」

 気恥ずかしさを押し殺して言ってみたのだが、浅葱の纏う気配が目に見えて不機嫌なものになってしまう。
 アーモンド型のくっきりとした瞳が釣り気味になり、それでいて目元に濡れたような潤みが浮かぶのが、《気の強い子の虚勢》という有利好みの反応で…本当に困る。

 コンラートを好きになっていなければ、このときめきを恋と捉えていてもおかしくはなかったろうな…と、何処か冷静に考えていた。

「…渋谷君…私のこと信用してないの?」
「そういうわけじゃ…」
「だって、そういうことでしょ?私が信用できないから、私が紹介する人だって信用できないんでしょ?」
「おいおい、美保…渋谷君も困ってるじゃないか。なあ渋谷君、そのボディガードの人ってこの辺りにいるのかな?」

 美保の父という男性が人の良い笑いを浮かべて仲介してくれたので助かった。

「はい」
「すぐに連絡がつく?」
「は…はい」

 有利がポケットから携帯電話を取りだしてコンラートに掛けると、多少不審げな声ではあったが、同行を認められたということで断るようにとは言わなかった。



*  *  *




 車に乗ると、微妙な空気が流れた。
 浅葱美保がビシバシと火花が出るほど厳しい視線をコンラートに送ったからだ。

「……コンラートさんて、渋谷君と仲良いんですね」
「そうだね」

『ああぁあ…っ!』

 コンラートは商業用の笑顔を浮かべているが、返事は端的だ。
 浅葱の複雑な心境を踏まえた上でやっているとしか思われない…。しかも、助手席から浅葱が振り向いているのを分かった上でぴとりと有利に肩を寄せる。

 途端に、ビシ…っと浅葱のこめかみに怒り筋が浮かぶのが分かった。
 
『この人達…天敵?』

 そういえばコンラートは結構な負けず嫌いであり、浅葱も多分同じような性質の持ち主だ。浅葱の場合は別に恋心とかそういうものではないだろうが、きっと先程の《信用問題》でコンラートにカチンと来ているだけに対抗意識が強いだろう。



*  *  *





『もう…何なのこの子っ!?』

 浅葱は地団駄踏みたいような心地で、苛立ちを押し隠すのに必死であった。
 これまで、彼女が狙って落とせなかった男などいなかったのだが、この渋谷有利という単純そうな少年は、予想外の頑なさで浅葱の誘惑を裁ち切ってきたのだ。

 裁ち切る…というは適切な表現ではないかも知れない。
 実際の所、おそらく有利はそれを誘惑と感じていないのだ。

 確かに何を美しいと感じ、魅力を感じるかは人様々である。だが、その標的の嗜好に完璧に合わせていくのが浅葱の得意とするところであった。
 時間を掛けてリサーチした結果からも、絶対に浅葱は有利のタイプの筈なのだ。

 溺れるように愛することはなくとも、素朴な愛情と信頼を抱くはずなのである。

 ところがどうだろう?
 有利は浅葱の仕掛ける誘惑の全てをスルーしてきた。

『きっと、こいつのせいだ…!』

 コンラートが姿を現して有利と目線を交わしたときに、嫌な予感がしたのだ。
 浅葱が得るはずだった感情を、このコンラートという男は得ている。

『どうして…?こんな男、この子のタイプじゃないはずよ?』

 整った顔立ちはしているが、つんと澄ました表情は陶器人形のような冷たさを持っている。
 こんな男の何処に、有利は惹かれたというのだろうか? 

 浅葱は長い睫を伏せて、有利を想う。
 不意に脳裏に浮かぶのは、屈託のない有利の笑顔だった。


『浅葱って、良い奴だよな』


 にぱ…っと笑った顔が、本当に素朴で可愛くて…彼の好み通りにしているはずなのに、仕事としてそうしているだけの筈なのに…ふと気が付いたら、彼の喜ぶ顔が見たくて行動していたことがあって、愕然とした。

 莫大な財産を得たと聞いていたから、さぞかし調子に乗っているか、あるいは周囲の変化に猜疑心を募らせているかと思ったのに…彼は等身大のまま生活していた。
 戸惑いがないわけではないだろう。けれど…精一杯自分らしく、それらを受け止めようとしていた。

『俺ね…権現の爺ちゃんが本当に大好きだったんだ。だから…期待に応えたいなって思うんだ。爺ちゃんが、俺なら面白い使い方が出来るって信じてくれたんなら、精一杯良い使い方をしたいな…って思うんだよ』

 静かに決意を語る横顔は、予想外に男らしくて…とても綺麗だと思った。

 だから、彼が納得する形で財産を放出して貰うつもりだった。
 騙されたなどとは思わせずに、合法的に…。

『この男が余計なことをしなければ、渋谷君はそうしてくれる筈よ』

 仕事を終えたら、また《転校》という形で離脱して他の業務に就くことになるけれど…それはしょうがない。
 姿も性格設定も、時には性別すらも変えて業務に就くのだから、有利との関係もそこで終わりだ。

 それを考えると胸がツキリと痛むのは、浅葱もまだ幼さを残しているということだろうか。

『気持ちよく仕事をさせてよ…!』

 勝手な理屈ながら、浅葱は真剣に想った。



*  *  *




 有利達が通された事務所は清潔で簡素な造りであり、紹介された如月という人物は如何にもボランティアに熱心な好人物という感じだった。
 有利に色々と活動内容を語った後、如月は居住まいを正した。

「お恥ずかしい話、ボランティア活動にも資金がいるんだ。申し訳ないんだが…君が受け継いだ権現氏の財産の一部を、寄付して貰うことが出来るだろうか?」
「いいですよ?」

 有利がさらりと言うと、コンラートの眉が跳ねる。だが、彼の業務は有利の身を守ることであって後見人というわけではないので、あからさまに怪しいというのでなければ留め立てすることは出来ない。

「本当かい?渋谷君…!」
「ええ、弁護士の甲田さんに相談してこちらの業務内容を調べて貰ってからですけど」
「……っ!?」

 有利の発言が予想外だったのか、如月の表情が一瞬強張った。

「信用しては貰えないのかな?」
「いえ、そういう訳じゃないんです」

 誤解はして欲しくなくて、有利は真摯な眼差しを向ける。

「これが俺のお金なら…俺が稼いで得たお金なら、今説明して貰ったような内容で《信じる》ってことだけで小切手を渡せると思います。だけど、これは爺ちゃんのお金だから…出来る限りちゃんと調べてからでないと渡せないんです。ですけど、本当に今話してくれたような内容が本当だって分かれば、必要な額を寄付させて貰います」
「ふむ…そうか、年の割にしっかりしているんだね。いやぁ…良い少年じゃないか、美保ちゃん」
「はい」

 頷き合う二人は笑顔を浮かべていたが、やはりどこか…強張っているように感じる。

「ねぇ…渋谷君、ちょっと良い?」
「ん?」

 手を取られて有利は席から立ったが、その後をゆっくりと追おうとしたコンラートに、浅葱はしかめっ面をして見せた。

「ちょっと…遠慮してくれます?私、少し渋谷君と話したいだけなんですけど?」
「俺は護衛としての任務を果たすだけだよ。空気のようなものと思っていただければ結構」
「あら、空気は聞き耳なんて立てないわよ?年頃の男女の会話を盗み聞きしたいなんて…コンラートさんって結構オッサン?」

 《おいおい…》と有利が止めようとするが、オッサン呼ばわりされたコンラートは表情を変えることなく、淡々と反論した。

「男女…?」
「……っ!?」

 くす…っとコンラートが嗤うと、浅葱の表情がさ…っと変わる。有利の方は意味が分からなくて呆けるばかりだ。
 浅葱は笑ったり怒ったりすることはなく、伺うような眼差しをコンラートに向けた。

「どういうこと?」
「別に?それより、ユーリを連れて行って何を話すつもりだい?」
「今ここで言えるようなことなら、わざわざ別室に連れて行ったりしないわ」
「内容はこの際、関係ないんじゃないのかな?穏健派の策が外れたら、強硬な手段に出るつもりか?」

 コンラートは猫科の獣を思わせるしなやかさでするりと浅葱と有利の間に割ってはいると、雇い主の華奢な身体を囲い込むようにして壁と自分の間に挟み込んでしまう。

『コンラッド…?』

 ちらりと垣間見えた琥珀色の瞳には、やはり獣性を感じさせる光が宿っていた。
 彼は…戦闘態勢に入っているのだ。
 でも、どうして?

「このまま引き下がれば、追求はしない。だが…手出しをしてくるようなら容赦はしない」
「何を…っ!」

 き…っと浅葱が眦を吊り上げるが、如月と浅葱の父は…どうしたものか、先程までとは人が違ったような目つきで首を振っている。
 人の良さそうな膜が剥がれ落ちた後には、ぎらつく爬虫類のような眼があった。

 それを見る有利の心には、どこか《やっぱり》という印象がある。
 どうしたものか…彼らの言っている内容は素晴らしいし、口調や物腰などは完璧な紳士ぶりであったにもかかわらず、何か妙な引っかかりを感じてしまい、彼らに言われるがまますぐに確約…という心境にはなれなかったのである。

 それが自分の財産に対する執着なのではないかという疑問も掠めたが、やはり権現に対する誠意の方が勝った。そしてそれは、どうやら疑念通りであったらしい。 

「美保ちゃん、無理強いはよくないよ。これはあくまでボランティアの為の依頼だからね。渋谷君の財産を私有化しようというわけじゃないんだ」
「そうだぞ、美保…。渋谷君だって弁護士さんに話を通すと言っているだけじゃないか」

 言っていることは物わかりの良い、理知的な大人のそれである。
 なのに…どうしてだろう?椅子から立ち上がった彼らは隙のない動作でコンラートとの間合いを詰めているのである。

「止まれ」
「おいおい…護衛君、心外だな…」
「そんなに尖るものじゃない…よっ」


 ヒュン…っ!

 
 煌めくものが如月の手首から閃いたかと思うと、大気を一閃してコンラートの首筋を狙う。
 有利は恐怖と衝撃に息を呑んだが、コンラートは紙一重で刃先を避けると素早く手刀を打ち込んで如月の手から刃を落とす。

 カツン…っ!

 物騒な煌めきのもとは、細身のナイフだった。コンラートはすかさず靴で横蹴りにして刃を壁際に飛ばすと、組み手を取ろうとして突っ込んできた如月の手首を掴んでぐるんと宙に回転させる。

 ドォン…っと如月の背が頑丈なデスクに当たって跳ねるが、向こうも鍛練を積んでいるらしく、素早くデスクの向こうで体勢を整えた。

「動くな…っ!」
「あ…さぎ……?」

 小型の拳銃を構えてこちらに向けている少女に…有利は息を呑んだ。
 浅葱が…友人だと思っていた少女が、妙に堂に入った体勢で銃を向けているのだ。

「どう…して?」
「渋谷君こそどうして?あんなにあんたが頑固でなければ、私だってこんなことしなくても良かったのに…っ!」

 迸るような絶叫が、泣くような声に聞こえたのは気のせいだろうか?
 こんな事になってもまだ、彼女を友人だなどと思っている…甘い心が聞かせる、幻聴なのだろうか?



 無機質な銃口を見詰めながら、有利は呆然と立ち竦んだ。
 




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