「蒼穹の仔」−8
「陛下、打てるだけの手は尽くしました。後は…双黒の君の生命力次第です」
「分かった」
医師は無力感に打ちのめされたような表情で病室を去っていく。彼がどうにか出来たのは掌の火傷や、爪による擦過痕だけで、命を取り留める為の方策は何一つ立てられなかったのである。
法力は外傷には効果があるが、魔力のように自然治癒力を高める作用はない。
ユーリは自分自身の力を頼りに、生の世界へと戻ってこなくてはならないのである。
は…
は…
浅く速い息が続き、高い熱が華奢な身体を侵していく。コンラートは熱い手を握り締めたまま、黙然として俯いていた。執務も何もかも放り出したまま2日が過ぎたが、不思議と《政務に立ち戻って頂きたい》と訴えに来る者はいない。もしかすると見捨てられて政変でも起こされるのかも知れないが、ユーリの他は何もかもどうでも良かった。
『もう、俺は王として使い物にならなくなっているのかも知れない。ユーリ以外のことは、とても考えられる頭ではないのだから…』
後宮の火事では奇跡的に死者が出なかった。
火傷をした者は幾人かいたものの、ユーリの作り出した蒼珠に守護されて、ケロイドが残るほどの怪我をした者はいない。あのディヴァラートでさえ、ユーリは護ったのだ。ただ、発狂したらしく意味のある言葉を発することも出来なくなっている彼女が、生き残ったことに感謝を捧げるとは思えなかったが。
『この…お人好しめ…っ!』
そんな子だから惚れたのだけど、それでも、文句を言わずにはいられない。コンラートのものだと言うのなら、その命はコンラートの為に保全して欲しいではないか。
コンコン…
打ち拉がれたコンラートの耳に、扉をノックする音が響いてくる。
「誰だ?」
「マルグリットですわ。入っても宜しいでしょうか?」
「…ああ」
マルグリットは後宮では古株の部類に入る女性だ。今は三十路に差し掛かったばかりであったと思うが、穏やかな物腰はすっかり落ち着いている。結い上げた髪も美しく纏められてはいるが、男に媚びを売るような仕草は見せない。このような生業(なりわい)の女性にしては、随分と清潔感のある人だ。
後宮に入る際に何度か抱いたような気はするが、ここ近年はそんな色艶の混じる関係ではなかった。ただ、含蓄に富んだ会話を肩肘張らずに出来る数少ない女性であり、しっとりとした雰囲気を気に入って、茶飲み友達のような付き合い方をしていた。
「本日は、お願いがあって参りました」
「どうしたいだい?畏まって…」
「お暇を出して頂きたいのです」
「後宮を去ると?」
後宮に入った女性は、王が暇を出さない限りは自ら出て行くことなどできない。王の寵愛を求める立場にあるのだから、このように願い出ることも随分な横紙破りである。ただ、しきたりを重んじる彼女がこのような事を言い出す理由が、コンラートにはうっすらと理解できていた。
「愛想を尽かされてしまったかな?」
「私の諦めがついただけですわ。ええ…本当に、どうして今日まで縋り付いていられたのかと思うくらい、元々見込みなどないと知っていたのですけどね」
淡い微笑みは切なげで…それでいてどこかすっきりと晴れ渡ってもいる。
「陛下はこれまで、ずっと私のものではありませんでしたけど、誰のものでもなかったから、お側に在り続けることができたのですわ。《邪魔にならない、気持ちの良い女》…《知的な会話のできる女》…そういったものを目指して今日まで来ましたけど、それは、後宮にいなくてもできることですわ」
マルグリットがユーリへと送る眼差しは、多分に複雑な色を含んでいた。
そこには間違いなく嫉妬の色もあったのだけれど、ただそれだけではない…憧憬と、傷ついた身体をいたわる優しさも確かに滲んでいた。
「双黒の君は、あっという間に陛下のお心を掴んでしまった。そのような運命を持つ子と向き合うには、私は年を取りすぎましたし、ディヴァのように心を病みたくはないのです」
「そうか…」
《すまなかった》と言いかけた唇を人差し指で止め、マルグリットはちいさく首を振った。
「陛下の情を頂けましたひとときは、いつまでも私の宝物です。これだけは…本当ですのよ?抱えたまま、生きさせてください」
「ありがとう…」
このような感想をもって出て行く女は稀だろう。それでも…ディヴァラートのように深い恨みに捕らわれる女が居るのだとしても、後宮を再建することはせず、女達には恩給を持たせて実家に帰らせようと決意した。
マルグリットの言うとおり、もうコンラートが彼女たちを夜這う可能性は無いのだから。
たとえユーリがこのまま命を失ったとしても、それは変わらないだろう。
マルグリットは静かに退室しようとして、扉を開けたところで《あ》とちいさく声を上げる。どうやら、今宵は千客万来のようだ。
「お邪魔してもよろしいかな?」
「…!」
扉の前に佇んでいたのは軍務省長官ロンメル・ゾイドバルドであった。《とうとう来たのか…》と、寧ろ得心いくような想いがする。
マルグリットと入れ替えるように入室した彼は、一礼してコンラートの勧めた席に着く。
「時間制限が来てしまったのかな?」
「何のことです?」
「腑抜けになった王など、もう要らないだろう?」
大胆な政略で人々を驚かせたこの男が、とうとうコンラートを見限ったものと思いこんでいたのだが、ゾイドバルドは眉根を顰めて、巌のようにゴツゴツとした頬を撫でつけていた。見ようによっては、好きな子から《キライ》と言われた悪戯坊主のようだ。
「…俺は、一体いつまで陛下からそのように思われなくてはならないのですかね?」
「…違うのか?」
「違うと主張したいですな。今も…そして、18年前だって…俺は、計略だけで選択してきた訳じゃあない」
「…」
ゾイドバルドは所在なげに手を伸ばすと、汗ばむユーリの額に手を当てる。一瞬、触れられたくなくて手を伸ばしかけたが、傷ついたような男の横顔を見ていると、そうすることはできなかった。
「この子を羨んでいるのは、後宮の女だけではありませんよ。俺だって…いい加減認めてはくれませんかね?あの日…あなたがベラールを斬り殺した瞬間、俺の頭にあったのは、あなたを傀儡にして王権を奪取することなどではなかったと」
それでは、何だったというのだろう?
期待してはいけないと思うのに、ゾイドバルドの横顔に刻まれた皺を見ていたら、どうしてもおめでたい発想が浮かんでしまう。それを証拠づけるように、ゾイドバルドは重々しい口調で語を連ねた。
「…俺はね、ただ、あなたを死なせたくなかった…ただ、それだけだったんですよ。ベラールの護衛がふるう剣先を、あなたの背に食い込ませたくなくて、反射的に抜いた刃で手首を斬り落とした後、一斉に巻き起こった闘いの行方など、考えちゃあいなかった。今のあなたと、何ら変わりはなかったんですよ」
「そう…なのか?」
驚くべき告白に、コンラートは言葉を失ってしまった。侠気の存在は感じていたけれど、それは騎士道を重んじる彼の性格から来ているものだと思っていた。常に冷静な彼が、我を忘れて反逆するようには見えなかったからだ。
見た目でずっと誤解していたのだとすれば、随分と長い間、傷つけていたのかも知れない。
「ええ、そうですよ。俺だけじゃあない…俺の配下達だって、同じ気持ちだったんでしょうよ。あなたという存在があまりにも鮮烈で、ただただ、死なせたくなかった。《こうなったら王にしてしまえ》なんて思いつきは、我ながら良くもあの時節に出てきたものだと感心するくらいですよ」
《すまない》と言いかけて、先程マルグリットと交わした会話を思い出し、息をついてから言い直してみた。
「ありがとう…ゾイドバルド。いや…ゾッド」
「ええ、その名で呼んでください。親しい仲間が呼ぶように…」
そういえば、まだ即位していなかった時期にはそのように呼んでいたのだ。名はロンメルというのだが、響きが好きなのと、疫病で親族を全て失っている為か、姓を略して呼ばせていた。
今更改めて言うのも憚られるが、実は独白の形で彼のことを思い出すときには、結構その名で想起していたものだ。
「今も…俺の為に来てくれたのか?」
「そうですとも。ちっとも信じてくださらない陛下の為に、色々と奔走したことを自慢したかったんですけどね」
「す、すまない…」
拗ねてしまったらしいゾイドバルドへと素直に謝れば、巌のような顔が笑い皺を刻んで相好を崩す。そうしていると、決して《奸臣》等とは呼ばれないだろう柔らかな表情になる。彼は本来、そのような男であるのだろう。
「ご安心下さい。この子が目を覚ますまでの間、持ちこたえられないような国ではありませんよ。18年かけてあなたが育んだ国だ。信じて、たまには自分の心のままに過ごしてください。それだけ、申し上げに来たのですよ」
「ありがとう」
拙い、泣きそうだ。
ユーリと出会ってからというもの、やたらと涙腺が緩くなっているような気がする。
ゾイドバルドが退室してからも、暫くの間…コンラートは自分を巡るシマロンの…そして、残してきた眞魔国の人々について考え続けていた。
『俺は、自分を不幸な男だと思いこんでいたのだろうか?』
こんなにも深い愛を多くの人から得ていると、どうして気付かなかったのだろう?
『全て、君がいたから気づけたことだ…ユーリ』
生きて欲しい。
生きて…コンラートの言葉を聞いて欲しい。
もう、ユーリ無しでは生きていけなくなってしまった男の告白を、どうか受け止めて欲しい。
祈りを捧げながら握った手を額に押し当てていれば、伝わる熱が互いの細胞を繋ぐようだった。コンラートの中に内在する全てを持っていって良いから、どうか生きて欲しい。
そう強く念じていると、ひくん…と、蝶のように長い睫が瞬いた。
そして…ゆっくりと開かれていく。
「ユー…リ……」
ほわんとした様子の漆黒の瞳は最初の内、焦点が合わない様子だったが、コンラートの呼ぶ声に誘われるようにゆるゆると首が回ると、心配で泣き出しそうな顔が見えたのか、ほわ…っと白い花のような笑みを浮かべた。
「コンラッド…」
「痛いか?苦しくはないか…?」
「よく、わかる、ない…」
まだ実感がないのか、そんなことを言っていたユーリだが、身じろいだ途端に苦鳴をあげた。
「あたま、いたい…」
「動かないで、ユーリ…。君は死にかけていたんだ」
「んん?…きみ?」
吃驚したみたいに聞かれると、えふんえふんと咳払いをして、無意識に口にしていた呼び方を改める。どうも、慌てるとユーリを《君》と呼んでしまうらしい。
「気にするな。お前はまだ本調子ではないんだ。全く…人間の土地であれほどの魔力を使うなんて、無茶としか言いようがない!主人を残して死ぬとは、不孝にも程があるぞ?」
「ゴメン、おうさま」
「名で呼べと言ったはずだが?それに…謝ることはない」
しゅん…と萎れてしまうユーリに、今度は別の意味で慌ててしまう。コンラートは優しく手を伸ばすと、少し窶れた頬を撫でつけてやった。
「ゆっくり眠っておいで?元気になるまで、傍にいてやるから」
「しごと、へいき?」
「ああ、王様とは、意外と暇でも回るものらしい」
《死ぬほど働いている臣下がいる》という前提に立った発言ではあるが…。まあ、18年間殆ど休み無く働き続けてきたのだ。この辺で長期休暇をとっても、失脚はしないだろう。
『《俺の為に頑張れ、ゾッド》…なんて言って遣ったら、意外と喜ぶんだろうか?』
そんな風にして人に甘えたことなどないから、言った途端に赤面してしまいそうだ。
とはいえ、そういえばユーリに対しては結構な甘え方をしている気がする。ついでのように聞いてみたら、《うん》と言ってくれるだろうか?
「しっかり眠って腹が減ったら、今度は俺が食べさせてやろう」
「うん!」
「暫くして、元気になったら遠乗りに行こう」
「うん!」
「そして…近いうちに、結婚しよう」
「う?」
流石に《うん》と言いかけて、疑問の形に首が曲がる。
「けっこん、なに?」
どうやら、そもそも《結婚》と言う単語を知らないらしい。
「俺と生涯共にいると誓うことだ」
「へー」
「誓うか?」
「うん」
にぱりと笑って、ユーリは請け負う。
良く状況が飲み込めていない子に対して、ちょっと詐欺紛いのような事をしている自覚はあるが、まあ良いだろう。元気になったら、コンラートの妻になるということが、どういうことかしっかりと身体の芯まで教え込んでやる。
「よし、約定を結んだからな?破ったら許さないぞ?」
「やぶる、おしおき?」
「ああ…こってりとお仕置きしてやる。生涯をかけてな」
「ふぅん。でも、こわい、ない。やくそく、まもるから」
「そうか…」
斜に構えることなくふんわりと微笑めば、ユーリはこの上なく嬉しそうに笑ってくれた。
重態でなければ、即座に体の芯まで色々教えてやりたいところだ。
* * *
ユーリが食事を摂り、寝台の上で長座位を取れるところまで回復した頃、コンラートは執務室に天蓋付きの寝台を移動させて、ユーリをそこで養生させることにした。もはやこの少年を寵愛していることを隠すこともせず、堂々たる態度で《それがどうした文句があるか》と主張して見せたのである。
平行して後宮の女達を家元に戻すことも告知されたが、これには予想以上に抵抗らしい抵抗も見られなかった。マルグリット以降にも何人かがユーリのお見舞いに来たのだが、その時にも感情の色には多少の差異があれど、殆どが諦観を込めて二人の様子を見守っていた。
一人では思い切れずに病室を訪ね、そこで初めて《ああ、もう終わりなのだ》と感じ入った者もいた。
たくさんの《さようなら》がコンラートに向けられたが、憎しみを抱かれなかったのはいっそ不思議なほどである。やはり、超常的な力とはいえ、炎に捲かれて死ぬはずだったところをユーリに救われたという思いは、何らかの形で感謝を抱かずにはいられなかったのだろう。
感謝と言えば、平身低頭せんばかりにして示したのはレイチェルとヘイスナーである。彼らはサマンサから重々言いつけられていたのにも関わらず、ユーリを救うどころか足手まといにさえなってしまったことをえらく恥じて、執務室に入って来るなり土下座しかけたのである。
けれど、ユーリは詫びるなんてもってのほかだと、返って驚き慌ててしまった。そもそもレイチェルを危険な目に遭わせてしまったのは、自分のせいだと言うのだ。最初にディヴァラートに目を付けられる切っ掛けを作ったのもユーリだし、ディヴァラートの不審な行動を咎めて襲われたのも、ユーリを思いやっての結果なのだと。
『双黒の君…!』
瞳を潤ませてお辞儀する二人に、ユーリはすっかり恐縮してしまった。
ユーリが元気を取り戻して行くに従って、執務室を訪れる面々も彩り豊かになっていった。王が執務しているその横でお見舞いを受けるのも、最初の内は気兼ねであったものの、その内、みんな馴れ切ってしまったのである。
特にルッテンベルク軍の面々はコンラートに対する親しみも強いから、殆ど毎日のように見舞っては、《お菓子だ玩具だ》とユーリに買い与え、すっかり執務室の様相を変えてしまった。ここが冷気を感じるくらいに殺風景なところであったなんて、今となっては誰も信じないだろう。
また、本来なら王の前に直接出て行くことなど考えられないような身分の者までが呼ばれていた。ユーリが世話になった掃除婦のマナに病状を伝えたいと言うので、コンラートが自ら招いたのである。
マナは精一杯の一張羅を着て執務室にやってきてお茶を振る舞われたのだが、最初の内は常時小刻みに震え続けていて、とても生きた心地がしなかったらしい。それでも幾度か訪問していく内にゆっくりと馴染んでいったらしく、漸く笑顔を見せるようになっていた。
『ユーリ様のおかげで、こんなに間近で陛下の御尊顔を拝見できましたわ。ああ…生きていて良かった』
と、小娘のようにはしゃいで囁きかけるようにさえなってきた。
清らかな水紋が澄んだ泉の上に広がるように、ユーリという存在がシマロン王宮の中にゆっくりと染み渡っていく。
そしてユーリがすっかり元気を取り戻し、掌に巻いていた包帯も取れた頃、コンラートはひとつの決断をした。
『眞魔国を訪問する』
それは突拍子もないような発言に思われたが、コンラートは臣下達に向けて丁寧な説明と事後策を授けていった。
『眞魔国との間には一定の平和が維持されているとはいえ、常に不信感が横たわり、ちいさな火種によって両国全体が発火しかねない。それを未然に防ぐ為、俺は故郷である眞魔国との間に、強い信頼関係を築きたいと思う。我が無辜の民を、一人として無駄死にさせぬ為にな』
《故郷》…その言葉をコンラートが公式の場で口にするのは初めてのことだった。全ての者がそうであることを知りながら、そうであるからこそ…互いに口には出来なかったことだ。
穏やかな眼差しで臣下達を見つやる王に、彼らは涙さえ滲ませていた。
誰もが王の真意を感じ取っていた。これまではどれほど《偉大》と讃えられ、大きな戦果をあげようとも、どこか寂しげな気配を漂わせていたのは、彼がいつまで経っても故郷から心を離せない故であった。
彼は王であって、王でなかったと言っても良い。
それが今、敢えて公然と眞魔国を《故郷》と呼ぶことは、今はシマロンが住まう場所なのだと認識しているからだ。
今、初めて…コンラートはシマロンの王となったのだ。
《君たちの忠誠を、俺は信じている》…笑みと共に力強く言われて、意気に感じない者などこの場には居なかった。
『王よ…我が王よ…!』
『どうか、無事にお戻り下さい…!』
『もはや、我らの頭上に頂くは、陛下以外の御身など考えられませぬ…っ!』
椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がり、男達は目に涙を浮かべて騎士の礼をとる。
既に儀礼として、大臣として就任した折りに示してはいるのだが、今この時に改めて誓いたかったのだろう。
こうして、コンラートは眞魔国との会談に臨むことになる。
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