『蒼穹の仔』−2








 《…狂人なのか?》…コンラートは一瞬、そのように疑いはしたのだが、見た感じゾイドバルドからそのような怪しさは感じ取れなかった。

 それに…彼が何を考えているのだとしても、どれほど無謀な企みに荷担することになるのだとしても、誰からも救いを得られぬまま死ぬのだと思っていたコンラートを、彼は助けてくれた。

『乗ってやるか』

 ふ…っとコンラートが薄く笑った瞬間、ゾイドバルド以下、全ての兵が頬を紅潮させて一斉に跪いた。
 一体何を感じたものやら、全員が天啓を感じたかのように頭を垂れて誓いの言葉を連呼したのである。

『シマロンの正しき血…!』
『獅子王の血筋を受け継ぐ君よ、我が忠心をお受け下さい…っ!』

 別の病室からよろめきつつ出てきたルッテンベルクの兵士達は、呆然としてその現場を見守ることとなった。なぶり殺しにされるか、虜囚として連れ去られると踏んでいた自分たちの上官が、敵国の王として讃えられる様子を…。救うことは叶わずとも、せめて共に死にたいと駆けつけた兵士達は、もじもじと恥ずかしそうに佇んでいた。

 その後、ルッテンベルクの兵士達で動きのとれる者はゾイドバルド軍に帯同して行動を起こした。

 実のところベラール王は個人としての魅力に余程乏しい男であったらしく、そもそもの来歴が百数年前にウェラー王家の転覆を謀った奸臣の家系であることも引く知られていた為か、ゾイドバルドの企ては恐ろしく順調に展開したのである。

『シマロンに真の王を!』

 その号令にいち早く賛同した将軍達を中心に勢力を広げていき、一年も経たない内にシマロン王宮を制圧すると、コンラートは正式に戴冠式を執り行い、シマロン王として即位した。ベラール王朝は取り潰しとなり、代わって興ったウェラー王朝は百数十年の《空白期》を持ちつつも、創主を倒して立国された4000年の歴史を、正式な暦(こよみ)…太陽暦として制定し直した。
 ウェラー王朝として立ったシマロンは、大戦後のゴタゴタで混沌としていた眞魔国との関係も整理し、国内に於いても分裂しかけていた小シマロン等、大小の属国が離脱するのを阻んだ。

 こうして、短期間のあいだにシマロンは巨大な力を持つ大国として再構成を果たしたのである。 



*  *  * 




「さあ、帰られよ。一人で帰られぬのであれば、我が衛兵がお送りしよう」
「は…う……っ!」
 
 コンラートに最早話を聞く気など無く、《見苦しい》とさえ感じて追い払おうとするのを見ると、使者は脂汗を垂らして身をくねらせた。
 その時…ここまで無言であった双黒が、突然片手を上げた。

「ちょっと、待つ…!」

 響いた声は容姿の通りに愛らしかったが、何かが奇妙だった。
 
「おれ、ヘンピン、のーじょー、どうなる!?」
 
 頬を紅潮させてぴんこぴんこと飛び上がりながら使者に申し立てをしている双黒は、言葉が不自由な様子だった。知能障害という顔貌ではないものの、舌や咽頭、喉頭といった構語器官の障害というわけでもないらしい。言葉を覚えたての幼児…という表現が、最も適合するだろうか?

「馬鹿者…!口を開くなとあれほど…っ!」
「そんなの、いまさら。おれ、いらない言われた。バカに見える、ありがたみナイ、もうしょーがない!」

 頬を膨らませてぷんすか怒る様子は実に生き生きとしていて、どこか動物でも見るような眼差しを送っていた人々の顔に、期せずしてくすくすとした心地よい笑いが浮かぶ。
 誰もが表の顔と裏の心情を巧みに使い分ける宮廷の中にあって、こんなにも生(なま)の感情が発露するのを見たことがないのである。しかも、この双黒という存在はつんと澄ましているときには恐ろしくなるほどに華麗な顔をしているのだが、口をききだすとなんともいえない愛嬌が溢れ出す。
 ころころと転がして、遊んでやりたくなるのだ。

「ほう…?口をきくなと言い含められていたのか」

 問いかけるコンラートの声は使者に対する嫌みも含んではいたが、おそらくはこの日初めてと言えるほどに楽しげでもあった。

「うん、おれ、まだコトバあんま、知らない。口ひらく、バカ見える。イラナイ言われるとこまる。のーじょー、どうなる?」

 コンラートの方を見て訴えていた双黒は、使者の襟首を掴むとゆさゆさと揺さぶりながら問いつめようとした。

「のーじょー?使者殿、この双黒が言わんとしているところを説明して貰おうか」
「それは…その…」

 使者が脂汗を垂らしながら説明した事情は、以下のようなことであった。
 


*  *  * 




 《シブヤ・ユーリ》…それが双黒の名前だった。
 1年ほど前に、シマロンとも眞魔国とも異なる、別の世界から突然《流されて》きたのだという。その真偽について問いただしたとしても、正答に辿り着くことは困難と思われたので、敢えてそのまま受け入れた。

 ユーリがこちらの世界に流されてきたとき、ウィンコット領の辺縁、バジバと呼ばれる農牧地帯に落下した。直接的には、バジバの中でも比較的大きな牧草地帯を有するアナハイムオ家の子ども達が、厩(うまや)の中で意識を失っているユーリを見つけたのだ。

 アナハイム家の肝っ玉母さん、リンドは双黒のユーリが眞魔国語を解さないことを知ると、自分の子や、近隣に住むちいさな子ども達と並べて、夫のバードナーのもとで教育を受けさせた。バードナーは戦地で脚を付け根から失っており、農場の働きをすることは出来なかったのだが、生来賢い男であった。リンドの勧めもあって、稼ぎの中から書籍を購入しては飲み砕き、自分なりの教育体系をもって子ども達に文字などの知識を与えていた。リンドとしては、愛する夫に誇りを持って生きていて欲しかったのだろう。

 そのバードナーのもとでユーリは少しずつ言葉を覚え、農地の仕事も手伝いながら暮らすことになった。一体どうして自分がこんな場所にやってきたのか知ることは出来なかったが、それでも、恩義あるアナハイム家の人々に囲まれて、身体を使って一日中働くことは楽しくもあった。

 ユーリが幾らか言葉を解するようになった頃、バードナーとリンドは改めて《どう生きていくのか》を問うた。

『ユーリ、君が暮らしていた世界では珍しくなかったと言うが、双黒というのは眞魔国ではとても希少なのだよ。君はとても可愛らしくもあるし、望めば貴族の間でも重用されるだろう。魔力持ちのヨナ婆がいうには、大きな魔力の存在も感じるというし…。君さえ望めば、心当たりのある貴族に声を掛けても良いよ』

 これまではユーリ自身の意向が分からなかったこともあり、リンド達は双黒がこの村にいることを広めないよう近隣に頼み込んでいた。彼が道理も分からないうちに、厄介事に巻き込まれてはならないと配慮してくれたのだ。

 説明を受けたユーリの答えは、《否》だった。
 アナハイム家の暮らしは楽しかったし、大体、ただ髪と目の色が黒いと言うだけで珍重されたのでは居心地が悪すぎるからだ。

『おれ、ここにいたい。いい?』
『ああ、君が望むならずっといてくれて良いんだよ』

 バードナーとリンドが請け負うと、扉の向こうから覗き見していた子ども達は《わっ!》と沸いた。彼らにとって、既にユーリは掛け替えのない家族になっていたのだろう。

 ところが、暫く経過した頃…アナハイム家には思いがけない不幸が起きた。バードナーの失われた脚の付け根に悪質な吹き出物が出来たかと思うと、それが体幹部にまで及んで命まで奪いかねない病勢となったのだ。
 医者の見立てによれば、高価な薬を続けて服用すれば完治するとのことであったが、牛馬の間にも疫病が流行っていたこともあり、この時のアナハイム家にはそのような金銭的余裕はなかった。

 気丈なリンドが涙を滲ませて苦悩する姿を、ユーリが傍観できようはずもなかった。

『いま、おれ、恩、かえすとき!』

 ユーリは自分の身を、貴族に《売る》ことを望んだ。リンドもバードナーも反対したが、バードナーの命には代えられないと、ユーリは強く希望して、近隣の有力者の家にも直接頼みに行って、出来るだけ自分を高く買ってくれそうな貴族を捜して欲しいと頼んだ。

 そして有力者の老人が探してきた《買い手》が、丁度コンラートへの贈呈品を血眼になって探していたシュトッフェルの部下だったのである。

 ただし、シュトッフェルはアナハイム家に対してまだ金を支払ってはいない。万が一ユーリが差し戻された場合、無駄金になると踏んで、確実にユーリが役に立ったと分かってから支払うと約束したのだ。おそらく、ユーリが少年であったことから、男色家ではないコンラートが断ることも想定していたのだろう。

 そして今、懸念通りの事態に陥っているのである。



*  *  * 




「ねえ、きんぱつオジサン、カネぜんぶくれる?」
「きんぱつオジ…こ、この…っ!閣下に対して無礼な…っ!」
「だってオジサン、なまえ長い、おぼえるナイ」
「どれだけの阿呆だお前は…!」
「アホ、ない。おじさんの名前ながい、わるい。アホいうほう、アホ!」
「なんだとーっ!?」

 漫才のような掛け合いに、堪えきれずに貴婦人方までもがくすくすと笑みを零す。田舎の子どもみたいに開けっぴろげな物言いが、彼女たちには新鮮なのかも知れない。

「ほほ…では、私が買って差し上げましょうか?」
「いや、私が…」
「先に目を付けていたのは私だ!陛下が要らぬのであれば、是非我が元に…!」
「君なら幾ら出す?」
「そうだな、私なら…」

 今度は、先程からねっちりとした眼差しでユーリを狙っていた好事家の男が声を出す。そうすれば次々に競りの声が上がって、期せずして謁見場は競売の席と化したかに見えた。

 トン…!

 コンラートの指が玉座の肘掛けを叩くと、シン…っと水を打ったように場が静まりかえる。特に狂乱ぶりを見せて欲望を露わにしていた男は、このような場で自分の嗜好を露見させたことに羞恥を覚えているようだ。

「使者殿。その双黒…俺が買おう」
「…は!では…」

 歓喜を示しかけた使者の顔に、コンラートは鋭い一瞥を加えた。

「勘違いするな。エバルト地区の割譲は当然の権利…それを放棄する気はない。だから、双黒が自らの価値として提示した医療費を、継続して必要なだけ、アナハイム家に直接支払い続けると言っているのだ」
「そ…そそそ…そのような…っ!」
「《双黒を掌握していなかった迂闊さを呪え》と、シュトッフェルには伝えるが良い」

 哄笑するコンラートに、同座した宮廷人達も同調して嗤う。
 憤怒に顔を赤黒く染めながらも、使者は衛兵達に羽交い締めされるようにして、他の贈呈品と共に謁見場から連れ出されていった。

 ぽつんと取り残されたユーリは、きょとんとしてコンラートを見上げている。

「おうさま、おれ、かった?」
「買った。だが、飼うつもりはない」
「んんん?」

 意味が汲み取れないのか、ユーリは困ったように首を捻っている。

「お前は男だろう?抱くことも出来ない子どもを飼う気はない。養い主の薬代は間違いなく支払ってやるから、使者と共にバジバに帰れ」

 コンラートとしては、恩情を示したつもりであった。
 アナハイム家以外に頼る縁(よすが)を持たぬ子どもを無償で返すというのだから、ユーリとしては喜悦して頭を垂れるべきだと思っていた。

 ところが、ユーリは恐れ畏まったりはしなかった。

「それ、こまる!おうさま、おれ、かった!だったら、おれ、ここで恩かえす!」
「…お前に、何が出来るというのだ?」
「ええと…馬、せわする。フンとか、そうじ」
「…お前がか?」
「うんうん、のーじょー、はたらく。がんばる」

 大粒の瞳を輝かせて、どうしてそんなに訴えるのだろう?
 こんなに殺伐とした宮廷のなかにあって、彼の上にだけ広々とした蒼穹が広がっているかのようだ。

「……」

 トン…っ!

 理由の分からぬ苛立ちを感じて、コンラートは再び肘当てを指で叩打するのだが、宮廷内では《黙れ》を意味すると知られている動作にも、ユーリはケロッとして佇んでいる。知らないのだから仕方ないにしても、コンラートの眉根に皺が寄っていることに何の頓着もしないというのは如何なものか。

「馬は俺にとって宝だ。お前などの手には触れさせることは出来ない」
「えー?」

 しょぼんと落ち込んだ顔を見たら、また胸の中が疼くのを感じる。元気なら元気で、落ち込んでいたらいたでコンラートの心を乱す子だ。

「気が変わった。お前は…後宮に入れ」

 ざわ…と辺りの大気がざわめいた。コンラートがそのようなことを言い出すとは想定していなかったのだろう。
 それに、女性達の中には一瞬にして顔色を変えた者も多かった。後宮に生きる女達にとって、毛色の違いすぎる新参者は警戒の対象でしかないのだろう。

「こーきゅー?」
「俺の為の女達が暮らす離宮だ」
「おれ、そこ、何する?」
「お前はそこで、俺が気まぐれにやってくるのを待って生涯を過ごせ」

 おそらくは、それがこの少年にとって最も辛い暮らしであるに違いない。蒼穹から切り離されて檻の中に閉じこめられてもなお、笑っていられるかどうか試してやる。
 何に対する異種返しなのか分からないまま、コンラートは呆然としているユーリの顔に、闇い悦びを感じるのであった。



*  *  *  




『何だか、えらいところに通されちゃったなー』

 後宮というのが、王様が愛人を集めて住まわせている場所だと理解したのは、部屋に通されてからだった。
 臨時に設けられたとはいえ、それは十分に立派な部屋であったが、どうみても女性の為の部屋であった。天蓋付きの寝台にはふんだんにレースが使われ、白を基調とした部屋材は柔らかな流線を描く藤蔓で飾られている。漂う香りはデパートの化粧品売り場によく似ていて、少し息が詰まる。耐えられなくなって窓を開けると、冷たい風が入ってきて室内の空気を入れ換えるが、同時に格子が填められていることにも気付かされた。

 あの王様が女を逃がさないようにこんな仕掛けを作るようには見えなくて不思議に思っていると、格子や窓枠は随分と年季が入っているようだ。どうやら、あの王様が就任する前からこの建物はこういう形で存在しているらしい。

 そういえば部屋数の割に妙に静かだったのも、実は住人が異様に少ないのではないだろうか?
 前の王様は随分なエロ親父だったと言うから、昔は沢山用意していた部屋が、今では大量に余っているのでは無かろうか?

『色欲満々ってタイプじゃないもんな〜』

 それにしても困った。
 無償で返されたのでは気が済まないと思って残留希望を出したのだが、これではどう考えても窓際族だ。男の身でうっかり後宮に入ってしまったこの場合、一体どういう形でチーム…いや、王様に貢献すればいいのだろうか?どうせあの王様はこの部屋に来る気など無いのだろうから、このままでは食費・光熱費を浪費するだけの厄介者ではないか。

『あーあ…野球中継もない国に来て、一体俺ってばどうなっちゃうんだろうな〜』

 野球中継以前に、そもそも野球を知る者もいないのだから切なくなってしまう。ごく一般的な男子高校生だった渋谷有利が、何の因果で後宮暮らしなのだろう?

『まあイイや。あんまり深く考えてもろくな事ナイよな』

 最近はなるべくそう思って、前向きに生きようと心がけている。

 ただ…この世界にやってきた当初は、夜になると酷く寂しくて涙を流した事も多々あった。その度に、理由も聞かずにアナハイム家の子ども達は手を握ってくれたものだ。大好きなあの人たちの元に帰してくれるというのだから、王様はきっと良い人なのだと思う。
 でも、その人に幾ら《いらない》と明言されても、やはり恩は恩だ。何とかして返すまでは、絶対に帰れない。

『綺麗な人だったなぁ…』

 でも、ちっとも幸せそうでないと思うのはユーリだけだろうか?

『一度で良いから、腹から笑って貰えないかな?』

 ばふっと枕に顔を埋めながら、ユーリは無理矢理に瞼を閉じた。眠らなくては力が出ない。力を出して、生きていくんだ。

 明日起きたら、具体的にどうやっていくか考えよう。

 …ぐう。



*  *  * 




『あの子は…どうしているだろうか?』

 執務を終えて自室に戻ってくると、コンラートの脳裏には双黒の少年の姿がぽわんと浮かんだ。からりと晴れた空が似合うあの子を侮辱したくて、《後宮に入れ》と臣下達の前で明言したのだが、ユーリはよく分かっていないような顔でこっくり頷いてしまった。

 後宮の意味は説明したつもりだったが、ひょっとして理解していなかったのだろうか?
 
『くそ…っ!』

 ガウン姿で酒を呷(あお)っても、酒精には無駄に強い体質が祟って全く酔えない。気分が乗らないときには大抵そうなのだ。
 さりとて、女達のもとを訪ねる気にもならなかった。

 元々、後宮の女達はコンラートが望んで集めたものではなかった。シマロン王宮を制圧した際に、後宮には1000人近い美女達が居たが、全員に金を持たせて郷里に戻している。コンラートの代に入ってから後宮に収められた女達は、臣下や属国からご機嫌伺いの品として勝手に送りつけてきたのだ。
 養う金も勿体ないが、叩き返せば送った側との間柄が複雑になる。
 結局、ご挨拶程度に1、2回抱いて終わりというのが大抵のパターンであった。おかげで《コンラート陛下は新物好き》との不本意な噂が立ってしまっている。

 ただ、あからさまに年が若すぎたり、性について特異な躾を受けた者などは相手にしきれないので、丁重に断っていたのだが、今回のことで《男もいける》等と思われたら困ったことになりそうだ。

「隊〜長〜、あんたナニ悶えてんですか」
「ヨザ…窓から入る癖はどうにかしろ」
「まだ入ってねーよ」

 コンラートの部屋の窓には、自衛の意味で後宮と同じように格子が填められている。それも、特殊な法石を埋め込んであるから下手に外から触れると火を噴くのだ。別にコンラートは外してしまっても良かったのだが、暗殺者だけではなく、夜ばいを掛けてくる不埒者を一々相手にするのも面倒なので、結局そのままにしている。
 面倒くさいが、一応はヨザックのために開けてやった。

「よいしょっと。お、良い酒呑んでんじゃないですか」
「勝手に注いで呑め」
「へいへいっと…」

 氷を入れることもなく強い酒を原液で呑んでも、グリエ・ヨザックは顔色一つ変えない。コンラートと同様に、肝機能が極めて高いのだろう。ただ、酒を旨そうに呑むという点では随分と違うようだ。

「…かぁあ…っ!やっぱ佳い酒だぜっ!!」
「気に入ったのなら、もう一本持って行け」
「おお、流石は大国の王様、太っ腹だねぇ〜」

 ヨザックはケラケラと笑った後、口元に微かな苦みを滲ませる。

「…眞魔国にいた頃からは、考えられねぇな」
「嫌みか?」
「いいや、隔世の感があるだけさ」

 もう一杯注いで飲み下すと、ヨザックは腰を降ろしてコンラートに語りかけた。

「あの坊やなら、すかすか健康そうな寝息立てて眠ってたぜ?このクソ寒いのに、部屋の窓を開けてさ」

 別に聞かれてもいないのに、そんな事を聞かせるこの男は、相変わらずお節介な気質であるらしい。

「何故?」
「さあね。ただ、匂いが嫌いみたいだったから、焚きしめられた香が嫌だったのかもな」

 後宮の建物は先代王の建てたものをそのまま使用しているから、どうしても部屋数が余ってしまう。今回については急遽入らせたこともあり、風を通していなかったこともあって、女の部屋独特の臭気がまとわりついていたのかも知れない。

「どうする気だい?あの子」
「それは俺が考える事じゃない。馴染んだ家に帰してやるというのに、ここにいると言い張るんだからな」
「健気な子だよな…何とかして、あんたに恩を返したいのさ。宮廷じゃあ滅多に見られない気質の子だぜ?」
「どうしろと言うんだ」
「別に…ただ、あんたが気にしてる風だったから教えてやっただけさ」
「俺は気になど掛けていない…!」

 机に拳を叩きつければ意想外に強い音が響いて、部屋の外から衛兵が声を掛けてくる。
 《気にするな。何でもない》と返して溜息をつくと、コンラートは深くソファに腰掛けた。カラダの力を抜いたしどけない姿にヨザックがのし掛かってくるが、彼が無理強いをするような男でないことは知っている。単に、《俺は変わらない》ということを示したいだけなのた。

 いつものように鼻面へと裏拳を入れると、コンラートは苦笑して窓を指さした。

「俺はもう寝る。酒を持ってとっとと帰れ」
「ちぇ。つれないの」

 舌打ちをして立ち去ろうとしたヨザックだったが、振り向きざま、思わせぶりな一言を残すのは忘れない。

「あの坊や、女達の《城》で何日もつと思う?」
「すぐに音を上げるだろう。泣いて謝れば、元いた場所に戻してやるさ」
「そう出来ないくらいのトコまで追い込まれたらどうする?」
「…」

 後宮に於ける女達の嫉妬は、時として男の想像を遙かに越える。コンラートの代になってからは死者こそ出ていないものの、記録に残る先代、先々代の後宮では、王の寵愛を受けた寵姫が浚われ、酸鼻を極める拷問を受けて惨死した例が幾つも見られる。

「あんたは後宮に目を遣ること自体がないが、あそこに巣くう女達は常にあんたの愛に飢えている。変わり種の男の子なんて入れられたら、どんな扱いを受けるか分からないぜ?」
「…ヨザ、何が言いたいんだ?」
「気になるなら、後悔がないように行動しなよ。このままじゃあんた…王とは言っても、この国の奴隷みたいだぜ?」

 《生きることを楽しめよ》…去り際に見せたヨザックの声と顔があまりに真摯であったことが、余計にコンラートの胸を締め付けた。如何なる時も共に在ってくれた男は、全てを得たかに見える男の孤独を、誰よりも深く理解しているようだった。

 そうだ、コンラートは何もかも手に入れたように見えて、本当に欲しいものは何も握ってはいないのだ。

『だが、王とはそういうものではないのか?ヨザ…』

 大国を統べる王が個人として幸せであった例など、歴史上それほど多く存在するとは思えない。誰よりも高みに立つ者は、共に飛ぶ者を得られないものだ。

 半ば無理矢理に枕へと頭を埋めて眠ろうとするが、浅い夢の中に広がっていたのは見渡す限りの草原と、蒼穹の下を疾走する双黒の姿だった。コンラートに背を向けてどこまでも走っていく少年は白いシャツに生成の短パンを穿いて、伸びやかな素足のままで走っていく。

 自由な風を浴びる彼が羨ましくてコンラートも走ろうとするのに、ぴくりとも動けない。

 そんな、縁起の悪い夢だった。 






→次へ