『蒼穹の仔』−1







「如何です、この瞳の輝き…髪の艶!いずれも混じりっけのない漆黒ですぞ…!?しかも、色彩のことがなかったとしても、これほど可憐な容姿を持つ者はまずおりますまい…!」

 広大な謁見室には、先程から蕩々と調子の良い男の声が響いている。眞魔国からやってきたその男は、持参した贈り物が如何に素晴らしいかを、自らの手柄であるかのように語っている。

 謁見室の壁には薄灰色を基調とした大理石が多く使われ、柱材には青みがかった御影石が配されている。豪華ではあるが、やや冷たい印象も受ける色合いだ。随所に置かれた暖炉にはふんだんに薪がくべられ、座席や床の上にはふかふかとした毛皮が豊富に敷かれているのだが、広大な謁見室には冷え冷えとした大気が流れていた。冬の始まりという季節の為だけではなく、漂う雰囲気自体が冷え切っているのだろう。

 使者が必死に舌を回せば回すほど、シマロン宮廷の体感温度は下がっていくようだった。

『あれが双黒…?』
『眞魔国では高貴とされていると言っても、我らにとってはただ不吉なだけではないか』

 高い位置に据えられた王座から数段の段差を下り、謁見室の入り口まで一直線に緋地に金の縁取りをしたカーペットが敷かれており、そこには眞魔国からやってきた使者と共に、髪も瞳も共に漆黒を為すという希有な存在が佇んでいた。
 人々は殊更双黒を嬲る意図を持って…あるいは、双黒等という者には大した価値がないのだと自分自身に信じ込ませるように、侮蔑の言葉を投げかけていく。

 ただ、きょとんとしたように辺りを見回す双黒と視線が合ったりすると、幾人かの好事家達はにやけた笑いを口元に浮かべたりもした。確かに、双黒の色合いには有り難みなど感じないものの、その容貌は驚くほどに愛らしいのだ。

 少女なのか少年なのか、一見したところでは曖昧だ。身につけた衣服も中性的なデザインの長衣なので、余計にそう感じるのかも知れない。ただ、魔族年齢にして80歳、人間年齢にして15、6歳程度と思われる体躯は華奢な印象だが、そう簡単に手折れるほど繊弱という印象でもない。ふとした瞬間に見せる気の強そうな眼差しは、逆に人々の嗜虐心を買っていた。
 《お前など我らの国では家畜以下なのだ》…そう罵倒しながら嬲ってやりたい。そんな下卑た欲望を、好事家達は滾らせていた。

『いや、しかし…うむ。あの容色は…やはり、類い希なものだぞ?』
『ふむ…そういえば、生きていれば不吉でも、その身は不老不死の妙薬だとも言われている。容色を愛でることに飽きた日には、もしかすると肉の欠片として我らに下賜して下さるかも知れぬぞ?』

 自分たちが今どれほど下卑た貌をしているのか、彼らには自覚がないのだろうか?
 脂下がった顔つきはもはや、人と呼ぶ事に躊躇を覚えるほどだ。

『ふふ…陛下がたっぷりと愉しんだ後で…か?』
『不老不死の肉を生きたまま味わう愉悦など、世界の王たる我が陛下にしか許されぬことだろうよ』

 好奇心と嫌悪。
 羨望と侮蔑。

 複数の感情がぬめやかに絡み合った視線は実に不躾で、教養高いはずの宮廷人達を獣か妖怪の群れのように見せていた。
 姿形は似ているけれども、寿命や信仰対象などを異にする魔族を未だ不倶戴天の敵と見なしている彼らにとって、幾ら美しかろうとも、呪わしい黒を纏う少年が自分たちと等価の存在とは思えないのだろう。

 ただ、この宮廷内には声高に人間を優劣種族、魔族を劣等種族と位置づけられない事情もあった。その為、宮廷人達の声音も自然と囁き交わす程度のものになる。

 何故ならば、彼らが忌み嫌う魔族の血は、確実に彼らの王にも流れているからだ。それも、現在明らかな傀儡とはいえ、一応は眞魔国を治めているとされる魔王、ツェツィーリエの血が流れているのだ。だが、同時に王はシマロン建国の祖、ウェラー王家の血をも受け継いでいる。
 
 《混血》。

 それがシマロン王コンラートの背負う、巨大な運命であった。

 かつては眞魔国に於いて、《ルッテンベルクの獅子》と謳われた英雄が一体何故、人間達に奉(まつ)りあげられているのか…波乱に満ちたウェラー卿コンラートの生涯は、多くの吟遊詩人達が好んで題材とするものだ。その光輝にみちた功績と共に、なまなかな男にはとても耐えられぬであろう桎梏が、特に女性の心を擽(くすぐ)るのだろう。

『魔族は今でも憎いけれど、コンラート陛下は別だわ』

 コンラートが即位してから18年が経過した今、その意を明確に示すのはやはり女達だった。彼女たちの多くは、即位して幾らも経たないうちに同じ事を明言していた者も多い。

 一方、最初の内こそ《シマロンは一体どうなるのだ!?》《もうおしまいだ、魔族にシマロンは支配されるのだ》と恐れ戦(おのの)いていた男達も又、税が次第に軽減され、これまで横行していた貴族や軍人の不正、暴虐がなりを潜めていくのを見るに付け、《やはり魔族の血が流れているとはいえ、コンラート陛下には光輝燦たるウェラー王家の血が流れているのだから、やはり英明な王で在らせられる》と口々に褒めそやすようになった。

『とはいえ…魑魅魍魎跋扈する宮廷の中では、その賞賛を感じ取れる機会などまず無いだろうがな…』

 そうでなければ、今少しこの男の表情は晴れやかなものになったろうと、コンラートの傍らに控える軍務省長官、ロンメル・ゾイドバルドは思うのだった。
 ゾイドバルドは見上げるような大男で、無骨な体躯と岩を固めたような大顔が特徴的であり、白目がやけに大きな三白眼も見る者を圧倒するような威迫に満ちている。この為、気遣わしげにコンラートを見つめていても、端から見ている宮廷人からは《コンラート陛下を使って最高の権威を得た奸臣が、また何か企んでいる》と評されることが多かった。軍隊の中では極めて人気が高いこの男も、洗練された(と、自称する)文官には甚だ受けが悪いのだ。

 この国では現在宰相は立てられず、経済問題等に関しては王が自ら統制している為、軍の頂点に立つ軍務省長官は臣下の長ともいうべき存在である。実際、他の臣下に比べれば信任は篤い筈だ…と、個人的には思っている。

『あいつがどう思っているかは、今でも分からねぇが…まあ、俺との《契約》とでも考えているのかな?』

 混血とはいえ、魔族の特徴として18年前から容貌的にはちっとも変わった風にないコンラートは、相変わらず何を考えているのかも分からない。今も王座に端然と座ってはいるが、彼自身初めて目にするはずの双黒を前にしても、その表情は凍てついたように変わらない。財務に関わる書類を眺めているときと同様の冷徹な眼差しだ。

 幾多の戦場で勝利を収めてきたコンラートは、今も昔も後方から指揮を執ることは滅多になく、突撃にあたっては前線に、退却に当たっては殿(しんがり)を常に努めてきたものだから、その身には多くの傷跡が刻まれている…筈だ(少なくとも、後宮の女達はそう囁き交わしていた)。
 しかし、顔については微かに眉の端に切痕が残されているものの、奇跡的に白皙の美貌が保たれていた。彼に過酷な苦難を強いた運命の女神も、その顔を傷つけることには躊躇したかのようだ。

 どれほど魔族に対して警戒心を持つ者でも、こと、女と生まれた身で彼に冷静な対応が出来る者はまずいない。
 男であっても、この凛とした男の持つ強烈な威風に影響を受けない者はない。
 ただ、やはり男の場合は強烈に惚れ込んで跪くか、嫉妬心によって強く反発したり、膝下に服従させたいと熱望するかは対応の別れるところだ。

『俺はまあ…前者なんだろうな』

 確かに、ゾイドバルドは自らの意志でコンラートに跪いた。とはいえ、ゾイドバルドがその気になればコンラートをその場で殺すことも可能だったのである。…というか、寧ろ、そうしていれば《奸臣》《逆臣》といった汚名を着ることもなかったろう。

 ゾイドバルドはシマロン軍の要(かなめ)として長い戦歴を誇っており、幾つかの闘いに於いてはコンラートの指揮する軍と戦場で相まみえたこともある。
 だが…ゾイドバルドはある局面に於いて、絶体絶命とも言えるコンラートの窮地を救ったことがあるのだ。ちなみに、それは戦場ではなかった(戦場であれば、ゾイドバルドとてコンラートを救おうとは思わなかったろう)

 ゾイドバルドという存在がなければ、コンラートは18年前に生涯を終えることになっていた筈だ。何らかの形で生き残ることがあったとしても、シマロンに属する奴隷として扱われたろうことは疑いない。

 トン…っ

 眞魔国からの使者が長々と口上を垂れていたのだが、コンラートの長く形良い指が玉座を叩くと、グ…っと舌を止めてしまう。

 先代迄のシマロン王は派手好みな者が多かったので、以前は玉座にもゴテゴテと金や宝玉が鏤められていたのだが、コンラートの好みには合わなかったらしく、装飾は剥ぎ取って売り飛ばされ、今では簡素な素地に渋みのある銀と革の装飾が施されている。どこか馬具を思わせるその装丁は、騎兵術の天才たる彼に似つかわしいと言えた。
 それに、この王自体がどんな装飾も色を霞ませるほどに美しいのだから、脇に添えられるものはあくまで簡素な方が良いのかも知れない。

 《獅子王》と謳われるコンラートは、ダークブラウンの頭髪を首筋の下辺りまで伸ばしている。その髪は陽光の下では幾分色調が明るくなり、まさに獅子の鬣(たてがみ)の如く風に靡く。ただ、実は単に本人が無精なだけであることを、ゾイドバルドとルッテンベルク軍の兵士達だけが知っていた。

「わざわざお越し頂いて恐縮だが、引き替え条件を呑むことが出来ない以上、贈呈品を受け取るわけにはいかない。そのまま持ち帰られよ」

 コンラートは髪を無造作に掻き上げると、要約すれば《とっとと帰れ》といった内容の意を伝えた。使者はサァ…っと顔色を変えると、しがみつくようにして恩情を請う。

「いや…しかし、コンラート陛下…!そ、双黒ですぞ?我らは希少な双黒を陛下にお捧げして請うておるのです。どうか話を聞いて頂きたい!」

 コンラートにも、周囲の臣下達にも、使者を遣わせた眞魔国側の事情など分かり切っている。彼らは先だって国境沿いで発生した紛争に敗北し。その賠償金として、極めて戦略的に重要な領土を差し出さざる得ない状況に追い込まれているのだ。しかも、紛争の要因自体が眞魔国側からの侵攻作戦によるものとあっては、流石に言い訳のしようもない。

 さりとて、コンラートの要求した条件はそのまま呑むにはあまりにも過酷なものであったため、眞魔国摂政シュトッフェルは臣下に命じて、《お目こぼし》を請う為の贈呈品を全領土内から探し出させた。そして目を付けられたのが、この双黒の少年だったのである。ただ、発見の報告を聞いたときには眞魔国内でも《虚報、あるいは紛い物ではないのか》と疑いの声が上がった。

 何しろこの世界では髪や目が黒い事自体が非常に珍しく、両方が黒い双黒に至っては何百年かに一度という発生率でしかない。彼らに子供が生まれたとしても、滅多に黒い色素は受け継がれない。そんな子どもが生まれた場合、普通なら近隣で大騒ぎになっているはずなのだ。人間世界では忌み嫌われる黒も眞魔国では貴色として崇められるから、どんな身分に生まれたとしても重用され、豪奢な生活が送れるのである。それが魔族年齢にして80歳程度の姿で、この時期に都合良く発見されたとなっては、眉唾扱いされて当然である。

 もしも双黒と偽って髪に色粉を塗りつけ、目に色硝子を填めた偽物など用意したとあっては、今度こそ激甚な措置を執られることは目に見えていたので、シュトッフェルの部下達も慎重に検査を行ったし、国境を越える際にシマロン側の兵も髪の毛の生え際や虹彩の具合を確認している。
 しかし、やはり《元々の色彩が黒であるとしか思えない》との結論が出ていた。

 それほどに希少な双黒を連れてきたのだ。使者としては何としても思わしい成果を持ち帰らねば、主に合わせる顔がないのだろう。

 しかしコンラートの方には、使者の必死さに合わせるような必要性など微塵も感じていないようだ。

「俺がいつ、双黒など欲しいと言った?」

 普段は滑らかに回る使者の口が、コンラートの声に封じられる。殊更張り上げているわけでもないのに、コンラートの声は謁見場の隅々にまで響いた。

「エバルト地区の割譲は、我々としては最低限の条件だ。受けられぬとあれば、武力を持って切り取るが…如何か?」
「そ…そんな…っ!」

 コンラートの口調は常にないほどに痛烈であった。彼が冷淡なのは今に始まったことではないが、今は凍れる表皮の下に滾るような怒りの坩堝を感じる。おそらくは、双黒を送り出したシュトッフェルへの憎しみによるものだろう。

『あの時シュトッフェルの下した選択が異なるものであったなら、二つの国はどうなっていたんだろうな…』

 そして、コンラートはどのようにして生きていたのだろうか?
 いずれにせよ、それは平々凡々なものとはなりえなかったろう…と、ゾイドバルドは嘆息するのであった。

 良くも悪くも、この男は大きすぎる運命の元に生きているのだから…。

 

*  *  * 




『血によって購(あがな)われた戦の賠償を、王個人への贈呈品で誤魔化そうとするか。相変わらずだな、あの男は…!』

 シュトッフェルが直接送り込んできた《贈呈品》…確かに、平均的に美麗な者が多い魔族の中でも群を抜いた美しさだが、愛でて愉しむというような心境にはなかった。寧ろ、背後にあの男が居るのだと思うだけで、唾棄したくなるのを堪えなくてはならない。

 手心を加えて欲しいと言うほかに、何らか思惑でもあるのかと思って謁見室まで入ることを許したものの、これほど不快な思いを味わうくらいならば門前払いしておけば良かったと後悔する。

『母上…何故こうまでなっても、あの男を信任なさるのですか…!』

 眞魔国の影の支配者たる眞王にしてもそうだ。四千年を閲してきた歴史在る国の権威はこの18年間ですっかり薄れ消え、今では世界随一の大国シマロンに対して恩情を請うまでに落ちぶれている。国内では内乱が相次ぎ、その背景には国の枢要であるはずの十貴族の影すらちらついて、如何に現王室の信頼度が失墜しているかを伺わせた。なのに、眞王廟はあの大戦以後、意味のある告示を発していない。

 コンラートの異父兄であるフォンヴォルテール卿グウェンダルや、博識をもって知られる師父、フォンクライスト卿ギュンターは摂政シュトッフェルに忌避されている為、相変わらず閑職に回されているという。

 軍事に関しては異父弟フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムの叔父、ヴァルトラーナが一手に握っており、それなりの成果はあげているようだが、彼は短期決戦時の攻撃はともかくとして防衛に関しては隙がありすぎる。シマロンだけではなく、他の小国からも国境を攻められ、じわじわと版図を減じている状況だ。

『辛いものだな…衰え行く故国を、攻める立場で見守るというのは』

 この18年間、一時として故国を忘れたことはない。今でもシマロンなど捨て置いて、困窮を極めている眞魔国を救いたいという熱情は持っている。
 しかし、様々なしがらみがコンラートの心身には茨のように絡みついていた。
 特に…軍務省長官ロンメル・ゾイドバルド、この男を裏切ることは、武人としての矜持を踏み躙ることになる。

『ゾッドにはゾッドの思惑があるのだろうが、俺はあの時示された信頼を裏切ることは出来ない…』

 彼はコンラートを利用したのだろうとは思う。それでも…利用する為に一か八かの賭けに出た彼には、そうすることによって大きな負債を被る危険性の方が高かったのだ。全てを失うかもしれない中で信じてくれた男は、彼とルッテンベルクの仲間達だけだった。

 瞼を閉じれば、昨日のことのように蘇ってくる映像がある。



*  *  * 




 あれは…アルノルドで奇跡的な勝利を得てから、一週間後のことだった。アルノルドにほど近いザイウォンの野戦病院に運び込まれたコンラートは病床で意識を取り戻し、戦況が好転したことを知った。このまま行けば、眞魔国に有利な条約が締結されるだろうと専らの噂であった。

『やり遂げた…』

 失った仲間はあまりにも多く、コンラート自身も大きな傷を負ってはいたが、それでも一定の満足感はあった。長かった大戦には苦いながらも終止符が打たれ、暫くの間は平和が訪れるだろう。死線を越えてきた混血魔族にも、ある程度の権威回復は望めるに違いない。辛うじて生き残ったルッテンベルク師団の兵士達だって、望めば下級貴族の娘とだって結婚が出来るだろう。
 コンラートは隣の病床で昏々と眠る部下の顔を見ながら、少し微笑んだ。まさに彼が、その具体例だったからである。今までは両親の頑なな反対を受けていたと言うが、きっと説得できる。

 そう信じていた。
 翌日、あのような事態が起こるまでは。

 《シュピッツヴェーグ軍がアルノルドを越えて陣営を突出》

 ルッテンベルク軍の奇跡的な勝利で何故満足できなかったのか。ショピッツヴェーグ軍は無謀にもアルノルドを越えて軍を進め、そこで致命的な大敗を被るのである。突破口を開いたシマロン軍は、残存兵力の全てを擲って眞魔国領土に侵攻してきた。

 しかも、この失態を全軍に伝えるべき伝令機関がまともに作動していなかった。あるいは、自軍の失態をシュトッフェル自身が隠蔽しようとしたのではないかとも疑われている。

 結局コンラートが事態を掌握したのは、ザイウォンがシマロン軍の管制下に落ちてからだった。
 《野戦病院にウェラー卿コンラートがいる》それを聞きつけたシマロン王ベラールは軍勢を固めて直接ザイウォン入りを果たした。眞魔国の英雄を虜囚とすることで、更に士気を挙げようとしたのだろうが、これには流石にシマロン軍の将軍達も難色を示した。直接交戦した結果であれば、敵将を虜囚とするのも当然のことであるが、今回については中立地とされる野戦病院に収容されており、戦闘力を失った状態なのだ。しかも、戦場でのコンラートは勝利者だったのである。

『国際法に抵触するのではないか』
『いや、そもそも騎士道に悖(もと)る行為ではないか』

 その声は特に、シュピッツヴェーグ軍を撃破したゾイドバルド軍の中から強く出ていた。しかし、ベラール王とその側近達は《兵力を要さずして敵将を手に入れられるのだぞ?》《ザイウォンは我らの手に降ったのだから、野戦病院とてその範疇から外れるものではない》と強弁した。

 護衛に剣豪を揃えているという慢心もあったのだろう。ベラールは直接野戦病院に乗り込むと、帯剣しながらも単身で彼を迎えたコンラートに、殊更嬲るような声を掛けた。

『ふふ…噂通りの容色ではないか。抵抗せねば悪いようにはせぬ。のう…剣を置いてこちらに来い。我が元で飼ってやろうぞ』

 にやつきながらそう求めるベラールの前で、ゆっくりとコンラートは抜刀した。
 もはや、何もかもがどうでも良いと思った。
 無能な伯父の為に最後まで生涯を狂わされたことも何もかも、失ったものの数など数えても無意味だと思っていたから、せめてこの瞬間に可能なことをやるしかないと腹を決めていた。

 一人でも多く斬り殺して、ここを戦場に変えてやる。
 野戦病院で戦わずして捕らわれるなどという、無様な生き方をするつもりはなかった。

 何一つ自由にはならなかった生涯の中で、最期くらいは選びたい。
 ただ、そう願いながらの抜刀であった。

 しかし、ベラールの方はそれでも慢心しきっていたらしい。アルノルドで大量の出血をし、一時は臓腑が腹からはみ出ていたほどの重傷だったのだから無理も無かろう。《立っているだけでも立派なものだ》と、まるで幼児が玩具の剣を持って大人に立ち向かうのを褒めそやすように、きゃっきゃと甲高い笑い声を上げていた。

 今でも…あの時、身体と剣が動いたのが不思議でならない。
 自分自身、あれほどの働きが出来るとは考えていなかったのだ。

 ベラールの哄笑を聞き終わる間もなくコンラートの脚は大地を蹴り、護衛兵の剣先を奇跡のような間合いですり抜けていくと、一気にベラールの首を半ばほども切り裂いていたのである。

 一瞬にして血の華が天井へと噴き上がり、コンラートと周囲を血に染めた。

 けれど、それが最後の力だったようだ。
 コンラートはベラールを踏みつけるようにして着地をすると、そのまま膝を崩してへたりこんだ。もう後ろを確認する気もなかった。きっと幾つもの剣がこの身に突き刺さり、引き裂き、原形を留めぬほどの嬲り殺しをされるのだろうと予測していたからだ。

 だが、背後では盛んに剣戟の音が響いていたものの、いつまでもコンラートの背に刺さることはなかった。

『どうしてだろう…』

 ぼんやりと考えていたら、突如として肩を抱かれて立ち上がらされた。咄嗟に嫌々をするように顔を顰めたものの、その男は許さず、《前を向いていてくれ、凛として…な》と囁きかけてきた。

『あんたは誰にも頭(こうべ)を垂れるなよ。俺の王になるんだからな』

 笑い含みの声が、どういう意図で掛けられているのかすぐに理解することは難しかった。それでも、反射的に表情を作ることには長けていたから、コンラートは下肢に再び力を込めると男の手を振り払って立ち上がり、毅然として前を向いた。

 そこにあったのは…ベラールの側近達が斬り殺され、幾人かの男達が動揺を瞳に浮かべつつも、敵意は込めずにこちらを見ている姿だった。
 コンラートを支えていた男もすぐに跪くと、騎士の礼を取って口上を述べた。


『ウェラー卿コンラート閣下…シマロン建国の祖、ウェラー王家の血筋を引く君よ。今ここに、シマロン第13軍団長ロンメル・ゾイドバルドの忠誠を受けられよ。そして、シマロン王座に就くことを心に決めて頂きたい…!』






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