「第二十七代魔王温泉紀行」C









「双黒が…二人…?」

 呆然と見開かれた何対もの瞳の先に、驚くべき人物の姿が凛然として存在した。

 水龍を従えた少年は漆黒の長髪を靡かせ、年はミツエモンよりも遙かに下であろうが…その身に帯びた風格と、炯々(けいけい)とした眼差しに秘められた威厳は遙かな高みに位する。

 ただ凶暴なだけのミツエモンとは様相を異にするその威に打たれ、宿の者達は誰もが知らず知らずのうちに膝をつき、仰ぐようにして少年…有利をみやるのだった。

 そして…そのなかの幾人かは、見知った《何か》との共通点を見いだしていた。

「あの服…ライト様?」

「馬鹿!目とか髪とか全然違うじゃない」

「間違いないったら!ライト様よ。だって、服も、あの首に掛けられたネックレスの紋章も何も、うり二つですもの」

「まさか、あの方が…双黒?」

「し、しかし…顔つきが違わないか?い…いや……基本的な造作は一緒か?」

「髪は伸びてるけど…同じよっ!」

 有利の髪はいつもの上様化に合わせて背中まで伸びている。それとともに、コンタクト

もいつの間にか外れてしまっているようだ。

 あるいは…真実一路指向の上様の意向で、故意に取り外されたのかも知れないが…。

 

*  *  *

 

「はりゃあ…久し振りですねぇ。坊ちゃんの上様化…」

「こうなれば後は見守るばかりだな。なるべく…宿に被害が出ないように……」

 ヨザックとコンラートが安堵半分、ぼやき半分といった配合の溜息を漏らす。

『…さて、俺は後は…何をしたものかな?』

 上様の出現により状況を達観できるようになったコンラートは、現在の自分たちの立ち位置や、周囲の《観客達》の様子をそれとなく観察し始めた。

 これは特に意識してのことではなく、彼の習性のようなものであろう。

 いついかなる時も、自分にとって関係のあるなしを基準とせず、《いま何が起こっているのか》《何が起ころうとしているのか》…そのような事柄についての状況把握、予兆の認識において、コンラートという男は卓越した能力を秘めている。

「……ヨザ。あの男…どう思う?」

「へぇ?」

 肩口をとんっと突かれ、ヨザックはコンラートの指し示した男に目を向けた。

 とりたてて特徴のある男ではない。よって、言われるまでヨザックの視野の片隅にも認識されていなかった男だ。

 宿泊客の一人だろうか?身なりの良い、中肉中背で白髪の紳士…そのわりに年の頃はグウェンダルとそう変わらない年代であるように見える。

 異様に白い肌からも推察されるように、おそらくは白子(アルビノ)と呼ばれる低色素症なのだろうが、黒以外の体色豊富な眞魔国においてはそれほど特異性を発揮するものではない。強いて言えば瞳が赤みを帯びた黄色を呈していることが、多少不思議な色合いに見えるくらいか。

 だが…ヨザックとてコンラートと共に死線を潜り抜け、戦後もグウェンダルの配下として生中ではない仕事をこなしてきた男だ。すぐに男の異質さに気づいた。

「あの男…驚いてないねぇ?」

 そう、その事がこの状況下では最大の《異質さ》なのだ。

  なにせ、目の前にいる二人の双黒はどんな肝の据わった者でも驚嘆するはずの存在だ。
 しかも、魔王だと思われていた一方の双黒が掣肘され、別の双黒が物々しい様子で仁王立ちになっている…。そのまま人に話せば小説…というよりはおとぎ話のように荒唐無稽な展開に、眉唾扱いされることは疑い得ないような状況を目の当たりにして、《驚いていない》。

 それは…彼がなにがしかの事情を既に認識していたからだとしか思えない。

「目を離すなよ。何か…あの男は知っている」

「俺があいつから目を離さないあいだ、あんたが主に何を見ているか聞いていいかい?」

 真剣な眼差しのコンラートをからかうように、悪戯っぽくヨザックが問えば…男はしれっとして答えるのだった。

「当然、ユーリだ。護衛として、他に俺が見るべきものがあるか?」

「へぇへ…羨ましいこって…」

 くすくすと漏らすヨザックの笑いは、鉄面皮を呈したコンラートの頬壁に当たっては跳ね返されるのだった。

 

*  *  *

 

 従者二人の心配を余所に、怒り心頭に達しているらしい上様有利は驚愕に顔を引きつらせているミツエモンにびしりと指を突きつけていた。

「貴様…余の名を騙るは言うに及ばず、宿の美食と名湯をふりぃぱす…あまつさえ、望まぬ相手に無理強いしての淫行三昧、並びに我が民を暴虐の顎(あぎと)に掛けんとする暴虐ぶり…もはや赦してはおけぬ…!血を流すは本意ではないが、おぬしを…斬るっ!」

 朗々と響く声はその語調の強さもさることながら、衝撃的な内容で宿の者達を驚愕させ、そして…ミツエモンの心を打ち砕いていた。

「我が…民……だと?」

 その言葉の意味するもの…そして、それを立証するかのような見事な双黒に、ミツエモンは毛足の長い絨毯を掻きむしった。

 ミツエモンは宿の者達とは違い、有利の威に触れて平伏しているわけではない。

 彼を支える要素の力が今や有利の独占するところとなったことで、立つ力を失ってしまったのである。

「貴様が…魔王だとでも言うつもりか!?笑わせるな…っ!」

 

「まだ分からぬか、このしれ者がっ!」

 

 有利の大喝が轟けば、ミツエモンはびりりと肌合いを震わす波動に吹き飛ばされそうになってしまう。

 魔力の格が…違いすぎるのだ。

「この後に及んでまだ余の顔を思い出せぬとは笑止千万抱腹絶倒鼓腹撃壌、呆れて物が言えぬわっ!」

 

 言ってるし。

 

 しかも、その四字熟語群はちょっと楽しそうだ。

 

「まだ分からねば教えてくれよう…。我こそは天知る地知る己知る…チルチルミチルはポテンシャル、赤坂原宿六本木やってきたのは港町、いま横須賀で評判の俺の名前は横須賀ロビン…もといっ!渋谷有利…っ!第二十七代眞魔国国王、渋谷有利である!」

 

 おおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっっ!!

 

 もしや…とは思いながらも、二人の双黒という信じがたい存在を前にして戸惑っていた人々が一斉に歓声を上げた。

「やっぱり…あの方が陛下なのよっ!」

「偽物魔王の化けの皮を剥がし、正義の鉄槌を振り下ろしてくださるのだっ!」

「おお…なんとありがたい…なんと素晴らしい…っ!陛下のご尊顔を仰ぎ見ることが出来たばかりか、このような辺境の温泉宿にさえ降臨なさって、その威光をあまねく照らし下さるとはっ!」

 沸き立つ人々を余所に、ミツエモンは地の底に叩き込まれたような心地で唇を噛みしめ…自分自身の血の味に苦鳴を上げるのだった。

『双黒だと?』

『陛下…だと?』

 く…っと喉奥に込み上げてくるのは、怒りを越えた笑い…自分自身への嘲笑だった。

『結局俺は、魔王でも何でもなかった…マントの男にただ吹き込まれただけの、数日間の記憶しか持たぬ無力な男というわけだ』

『馬鹿馬鹿しい…なんと、下らない…っ!』

 自分自身が何者であるか分からないミツエモンにとって、《魔王陛下である》というレッテルは、疑わしい物ではあっても縋り付くしかない唯一のカードであった。

 それが…根底から否定された今、ミツエモンにとって自分自身を成り立たせる要素など何一つない。

『斬られてしまえば良い』

 この《魔王陛下》…こちらも本物であるかどうかは分からないものの、少なくとも…彼自身はそうであることに確信を抱いているだろう人物に、斬られてしまえばいいのだ。

 こんな、寄る辺ない浮き草のような存在など、生きていることに何の価値もないではないか。

『斬れ…はやく、斬れ…っ!』


 侮蔑するような宿の者達の視線が痛い。

 くすくすと笑み交わす嘲笑が苛立たしい。


 針の筵のようなこの環境下に身を置くくらいなら、今すぐ消えてしまいたいとミツエモンは祈った。

 見上げれば…ライトと呼ばれていた筈の少年が音をたてんばかりの勢いで腕を上げ、勇ましいフォームで振り下ろしている。その動きに合わせて、美しくも凶暴な様相を晒す水龍が、ミツエモンめがけて襲いかかってきた…。

「成敗…っ!」

 

 斬られる。

 

 鋭い声音に貫かれながら…ミツエモンは思った。

 誰も愛すことなく、誰にも愛されることのなかったこの存在は、何と空しいものであったのかと。

 

 そのことが…少し、寂しかった。

 

 頭を垂れ、打ち拉がれるミツエモン。

 だが…その身体はいつまで経っても切り裂かれることはなく、ふと…奇妙に思って顔を上げてみると、水龍は消え去り…長髪の少年もいなくなっていた。  

 代わりに立っていたのは、疲れ果てた…けれど、優しい眼差しを持った少年だった。

「…ライト?」

 そう。もう…髪は長くはなく、眼差しの鋭さも、他を圧する威光も発してはいない。

 小柄で愛らしい容貌を持った、少年だった。

 髪も瞳も目を奪われるほどに真っ黒で、吸い込まれそうなほど澄んだ色合いを呈している。そしてその瞳は、蔑みでも恐怖でもない…やさしい色合いをもってミツエモンを見つめていたのだった。

「ミツエモン…ほら、立ちなよ。んで…ちょっとは反省したならさ?迷惑掛けた人達に謝ろう?」

 どよどよと周囲でも戸惑うような声音が上がった。

「……何故、斬られないのだ?」

「あんなに膨れあがっていた魔力をどうしてお納めに!?」

 宿の者達も痛快な一撃を期待していたらしく、少々肩すかしな展開に唇を尖らせているようだ。

「俺を斬ることは、簡単だったはずだ」

 この周辺一帯を飲み尽くすほどの魔力を、少年は持っていたはずだった。

 強い魔力を持つミツエモンだからこそ、少年の力が自分のそれよりも遙かに巨大なものであることを感じ取っていた。

 しかも、その力は殆ど頂点まで集約されて…叩きつける瞬間を狙っていたはずだった。

 ぶつけずにいなされた力は何処に行ったのか。

 おそらくは…この少年自身が中和してしまったのだ。自分自身にも大きな負担を掛けながら…。

「俺ね…この国で、王様やってるんだ」

「…分かっている。さっき言ったではないか」

 何を今更と言いたげに喉を唸らせれば、嫌みというわけではなかったのか…少年は困ったように眉根を寄せた。

 つぶらな瞳が眇められる様子に、ミツエモンは初めて《いけないことを言ってしまった》…そんな後ろめたさを感じた。

「俺は、この国の中で…暴力でものごとが解決するような仕組みにはしたくないんだよ。だから、あんたが俺や宿の人達を力で蹂躙しようとしたことは許せない。だけど…同じことを俺自身がしてしまうことは、もっと許せない」

「その割には、先程の様子は斬る気満々だったではないか」

「うん…俺は未熟者だからさ、自分の意志じゃ上手く魔力を使えないんだ。怒りが頂点に達すると、さっきの《上様》が出てきて《成敗》してくれる。だけど…その間、完全に意識が飛んでる訳じゃなくて…どこかで普段の俺が状況を見てるんだ。そしたら…あんたが、凄く哀しそうな顔をしているのが分かったから。だから…このまま上様に斬らせたくなくなったんだよ」

「そんなこと…頼んでなどおらぬ…っ!」

 跪いたままのミツエモンに有利が手を差し伸べると、弾かれたように…どこか、怯えたようにさえ見える様子でミツエモンは有利を睨め付けた。

「哀しそうだと…?この俺が!?馬鹿にするのもいい加減にしろっ!同情など強者の驕りに過ぎぬ…っ!お前がこの俺に為すべきことは、俺の存在を消すことだ!暴力でものごとを解決したくないだと!?そんな幼稚な成り立ちの国などあるものか…っ!」

「ミツエモン…」

「その名を呼ぶな…っ!真の名を知らぬ俺に、お前自身が、お前の名…それも、仮の名で呼びかけるではないわっ!」

「………」

 しょんぼりと俯いてしまった有利の姿が、雨に打たれる紫陽花のように寂しげで…ミツエモンは得体の知れない痛みを感じて胸を掻きむしった。

 その痛みは…傍らから射殺しそうな眼差しを浴びせてくるダークブラウンとオレンジ髪の男のそれよりも鋭く、ミツエモンの心を抉った。

 それが《罪悪感》という名の感情であることを、ミツエモンはまだ知らない。

「見るな…そんな目で、見るな……っ」

 腕が空を掻き…狼狽えた心を見せたくなくてただただ叫ぶしかない。

 その時、びくん…っとミツエモンの肩が跳ね、か…っと眼球が落ちんばかりに瞼が開大された。

「おい…ミツエモン、どうしたんだよ?」

「う…ぁ……っ」

 頭を抱えてうずくまるミツエモンの肩に手を置き、有利が傍に膝をつく。

「ミツエモン…?どうかしたのか?」

『な…んだ?これは……っ!』

 ミツエモンの頭蓋内に渦巻くのは、彼が知らないはずの…しかし、思考の奥底深くに楔(くさび)のように撃ち込まれていた、ひとつの《指令》であった。

 

 《双黒の魔王を拉致せよ》

 

 邪魔の入らない場所へと連れ去り…そして、絞れる限りの精液を採取すること。

 それが…ミツエモンに科せられた《指令》であったのだ。

『そうだ…俺は………』

 ミツエモンは、ある男に《作られた》生き物だった。正確には…生き物たちの一人だった。

 その男は、強い願望を抱いていた。

 《完璧な双黒の生き物を自分の手で作り出す》

 そのために、男は自然界に存在する黒を纏う生き物と自分の精液を混ぜ合わせ、熟成し…人工生物《ホムンクルス》を作ろうとしたのである。

 だが、彼の作るホムンクルスは決まって短命だった。突然に体中の細胞がぼろぼろと崩れだし、材料であった精液に戻ってしまう。

 そして、死ななかった場合は更にたちの悪い《もの》へと変わり果ててしまうのだ。

 組織がアポトーシス(細胞死)の選択を免れた場合、えてして辿る経路…癌化を起こす。

 漆黒の…魔族としては獣性が強すぎ、獣としては人がましい、厭うべき存在…《できそこない》に変わるのである。

 ミツエモン達ホムンクルスにとって、《できそこない》に変わることは絶対的な恐怖であった。ある意味では、崩れて死んでしまうことよりも恐ろしい未来だったのである。

 彼らは作られた生き物ではある。

 だが…それでも、彼らには魔族としての独立した個性…意志があったのである。  

  《できそこない》に変われば、それらは全て抹消されてしまうようだった。友と呼んだ者に噛みつき、暴力を振るわれれば恭順して地べたを這いずり回る下等な生物…そんなものにだけは決して変わりたくないと、ホムンクルス達は祈るようにして日々を過ごしてきたのである。

 毎日が、恐怖と隣り合わせだった。

 先程までお喋りをしていた友人が突然動きを止め、縋り付くように伸ばされた腕がもろもろと崩れていく…。

 そんな同胞を弔いもないまま機械的に焼く行程…。息が詰まるような悪臭。

 奇怪なできそこないに変わり、四つん這いになって生肉を囓る元同胞…。

 いつかは自分もそうなるのではないかという、慄然とするような恐怖…。

 苦しさに、組織崩壊も変化も起こしていないにもかかわらず、狂を発し…やはり処分されてしまった者達もいた。

『いつまで続くのだろうか?こんな日々が…』

  答えられる者など居よう筈もなかった。

 

 

 そんな折…ミツエモンは創造主たる男から、ある指令を託された。

『これはお前にしかできないことだ、21号…いや、ミツエモン』

 創造主はホムンクルスを通し番号でしか呼ばない。だが…この時初めて彼は《ミツエモン》という名を貰ったことに驚喜した。

『何事なりと!』

『うむ…実は、この地方のどこかに、近日中に魔王陛下がおいでになるという情報を得たのだ』

『魔王陛下が…!?』

 ミツエモンも噂には聞いていた。彼らのような《紛い物》とは違う、正真正銘の双黒…。創造主たる男が求めてやまない存在である。

『そう、魔王陛下…魔王陛下だ…っ!』

 普段は柔和な紳士のような…それでいて、氷のような冷徹さで崩れたホムンクルスや《できそこない》を処分する男が、異様なほどの熱情を込めてそう叫んだ。

『ああ…双黒の陛下…っ!私がどれほど彼を求めているかお前に分かるか?色を持たず生まれてきた私とは両極の存在…。だからこそ惹かれ合う運命だとは思わないか?』

 追従(ついしょう)の言えないミツエモンは戸惑ったように固まってしまった。

 正直なところ、強く同意するべき根拠を持たなかったのである。

 生まれ落ちた瞬間から全ての知識を有するとされるホムンクルスだが、純粋な生き物である彼らは教科書的な知識しか持たない。いわゆる、処世の技が未熟なのである。

『……まあいい。とにかく、陛下は好奇心旺盛な方だ。現に、以前スヴェレラで《偽物魔王》が現れたときも僅かな手勢のみで赴かれたという。このたびも、再び《偽物魔王》が現れたと聞けば必ずそこを訪れるはずだ』

『まさか、偽の魔王役を…俺が?』

 ミツエモンは不安だった。

  人の気持ちをくみ取ったり、場に合わせたりすることが苦手なホムンクルスである彼に、その役割は荷が勝ちすぎるように思えたのである。

『案じることはない。お前の記憶をいっとき封じてしまおう。下手に演技をしたり、魔王であるとの記憶を入れてしまうと矛盾が出るからな』

『記憶を…?』

 ミツエモンはまだ生まれ出でてからこの日までの僅かな記憶しかなかったが、それでも彼というものを形成する礎(いしずえ)…記憶を失うことに恐怖を覚えた。

 しかし…創造主に創造物が逆らえるはずもない。

『お前の中核を為す我が成分に、ひとこと魔力を用いて語りかければどうなると思う?』

『…!』

 《塵(ちり)にかえれ》…その一言が、ミツエモンの生命と存在とを一気に無に帰してしまうのである。

 不承不承従うこととなったミツエモンは、暗示にかけられ…薄れていく意識の中で創造主の熱い言葉を聞いた。

『陛下にまみえたら…必ず、褥(しとね)にお誘いし、取れる限りの精液を絞ってこの魔石に封じ込めるのだ。その精液こそ完璧なホムンクルスのもととなるだろう。おお…魔王陛下にうり二つのホムンクルスを手に入れることができたら…一度でもあの美しいお身体を抱くことができたなら…私はその場で胸を突かれて死んでも良いっ!』

 創造主は魔王陛下に恋い焦がれ…彼に似たものを生み出しては男女の別なく抱き、抱かれていた。ミツエモンも例外ではない。

 それでは…完璧なホムンクルスを手に入れたら、創造主はもうミツエモンのような紛い物に用はなくなるのだろうか?

 

 寂しい。

 

 遠くなっていく感情のひとかけらが、痛切にそう叫んでいた。

 

『あの方は…魔王陛下に似た究極の双黒が欲しいのだ』

 

 だが、身分ある創造主は己の保身にも気を使う男であった。

 魔王陛下に直接不埒なまねをすれば、奇跡的に一度は思いを達したとしても…勇猛果敢かつ、主の身に関することではどこまでも残忍になれるという噂のウェラー卿コンラートによって、生まれてきたことを後悔するような目に遭わされることだろう。

 だから…隙をついて精液だけを手に入れようとしたのだ。

 その後下手人であるミツエモンがどうなろうと、精液が手に入りさえすればどうでも良かったのだ。

 つまり…ミツエモンの生命は、どちらにしても時間の問題ということになる。

 

 

「おい…大丈夫か?」

  懸命に呼びかけてくる声…汚れた者達の事情など知るよしもない少年の声が、痛いほどにミツエモンを刺した。

 ミツエモンを生み出す根幹的な理由となった少年。

  そして、彼のためにミツエモンは滅びを待つこととなっている。

 彼を創造主の思惑通り浚うことができれば、いっときの生命を保持できるだろう。だが、おそらくは《兄》とされていたレフト…ウェラー卿コンラートと思われる人物が、時を置かずしてミツエモンを殺傷するだろう。世慣れないミツエモンが上手く逃げおおせることが出来るとは到底思えないし、保身に熱心な創造主が庇ってくれるとも思えない。

 しかし、創造主の意に反して彼に手出しをしなければ…その時は、この場で確実にミツエモンの生命は絶たれる。

『そうだ…あの方は、きっと今もこの情景を見ておられる』

 創造主はミツエモンを信頼してなどいない。

 きっと、ここに至る経緯の全てをそしらぬ顔で見守り続けていたに違いないのだ。

『どうすればいいのだ…っ!』

 呻吟するミツエモンの額に、ぺたりと冷たいものが押し当てられた。

「具合…悪いのか?取りあえずちょっと休んでから話する?」

 額に当てられていたものは濡れたハンカチ。

 当てていたのは…ライト、いや…魔王陛下だった。

 つぶらな漆黒の瞳に心配そうな色合いを湛え、心から労るような思いを滲ませている。

『どうして…』

 陛下…魔王陛下……っ!

 この国に住まう者が焦がれて止まない存在。

 この方は、どうしてこんなにも穢れなく…うつくしい心を持っているのだろうか?

 それは彼が双黒であることよりも、もっと希少な要素なのではないだろうか?

『……出来ない…っ!』

 ミツエモンには、出来ない。

 この少年の瞳を恐怖に強張らせながら、辱めることなど出来ない。

 傷つけたくない…。

 その途端、彼の中には強い後悔の念が溢れてきたのだった。

 やるせない苛立ちを紛らわすために宿の青年を力づくで犯し…止めようとしたその父親を傷つけてしまった。

 父親にとって、ミツエモンには敵わぬと分かっていても息子は傷つけさせたくない存在であったのだ。

 

 《すまなかった》

 

 …それは、ミツエモンが生まれて初めて学んだ贖罪という感情だった。

『詫びを…言わなければ……』

 魔王陛下にも、あの青年や、父親にも…。

 

 そう思い、顔を上げたミツエモンの前で…突然、魔王陛下…有利に向かって、無数の影が飛びかかってきた。

 

「……っ!?」

「ユーリ…っ!」

 飛来してきた影はすんでの所でコンラートの剣に斬り捨てられ、ぼとぼとと床に叩きつけられた切片が、黒っぽい血が瓦礫とともに絨毯を汚した。

 

 黒い影…それは、人間ほどの大きさもある奇怪な生物であった。

 

 かさついた肌は蜥蜴のような風合いの黒い粘膜で、ぬめぬめとしたいやらしい形状をしている。そしてなによりも厭わしいのは…その顔立ちが獣とも人ともつかぬ形状をしていることだった。

「これは…?」

 驚いている間もあればこそ…次々に襲いかかってくる影に、ヨザックも参戦して斬りつけていく。

 最小限の動きで匕首をふるい、喉筋に当てた刃を翻す手で切り裂けば…漆黒の血飛沫が鮮やかな抽象画を壁面に描く。

「……っ!」

「ち…っ、きりがねえぜ隊長!」

 最低限の動きで致命傷を与えていく二人の男達はあっという間に返り血に染まり、凄惨な容貌へとその印象を変えていく…。だが、それでもなお怪物達は無謀とも言える来襲を繰り返した。

 

 

 びしゅ…っ!

「…うわ…っ!」

 頬に飛んできた血飛沫に、有利は反射的に叫び声を上げてしまった。

 人ではないと分かっていても、次々に溢れる血液に有利が怯えたような表情を浮かべれば、過保護な名付け親はさり気なくその広い背中の影で凄惨な情景を覆い隠すのだった。

 お忍びのための旅装はどす黒い血に染まり、広い背中にも毒々しい色彩を添えている。

 その様子が、まるで彼自身からの出血のように見えて…有利は真っ直ぐに見つめ続けることに困難さを感じてしまった。

「お嫌でしたら、目を閉じていて下さい。すぐに始末します…!」

 まるで主の思念を呼んだかのようにコンラートが言うが…。

 

「駄目だよ…っ!」

 

 有利は泣きそうな声で鋭く叫んだ。

 血を厭い、戦闘を避けようとする自分を怯懦と誹らないでいてくれる彼らを、せめて見守らなくてはならない。

 我が身を呈して闘ってくれる戦士達の姿を…。

「闘ってくれるあんた達の姿…ちゃんと、見せてよ…っ!」

「ユーリ…」

 ひたむきな有利の眼差しに、コンラートは思わず息を呑む。

「おーい、隊長…状況分かってます?」

 淡々と謎の生物を血祭りに上げながら、ヨザックは呆れたような声音を滲ませた。

 隙さえあればピンク色のオーラを醸し出す主従コンビが、我が主と友ながら…いや、そうであると思えばこそ…どうにも痒(かゆ)かったのである。  

「分かっている…っ!この連中、有利だけを狙っているんだっ!」

「へぇー、そういうトコだけはちゃんと見てんのね」

 照れ隠しもあってか、固い声で答える男にヨザックは苦笑する。

「なあ、いっそのことあの白子野郎とっ捕まえちゃどうだい?」

「捕らえるほどの証拠はない」

 憮然としつつもそう返すしかない。

『ちぇ…何か証拠はないかねぇ?』

 ヨザックは闘いつつも油断なく目線を送ってはいるのだが…慎重な達らしいアルビノの男は動く素振りもない。

 ただ、その黄色い瞳に深い興味を湛えて…嘗めずるような眼差しで有利を見つめているのは確かだった。

『くそ…坊ちゃんが目減りするじゃねぇか…っ』

 苛立たしげに舌打ちをして、ふと気付くのだった。

 これではまるで、どこかの過保護な名付け親のようではないか?

『やれやれ…毒されちまったのかね?俺もさ…』

 間違いなくそうであろうことを、意外と心地よく感じている自分が何よりも気恥ずかしかった。

 

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