「仕事のお時間」B

 




 

 店に帰ると、バーグナーがたんまりと注文台の上にボンボアンの大皿を並べているところだった。

「ごめんなさいバーグナーさん!すぐに運びますっ!」

「おう、頼んだよ!」

 有利が大皿をいっぺんに二つ掴むと、その小柄な身体には負荷が大きいとでも思ったのか、客達が思わず手を出しそうになる。

 だが、平均的な眞魔国人の体格よりは華奢とはいえど、野球小僧の肉体はそうやわなものではない。余裕で大皿を掴むと、次々にテーブルへと運んでいった。

「おお…ミっちゃは意外と力持ちだな!」

「はい!ムキムキ筋肉を目指して鍛え中ですから!」

『いや、ムキムキを目指すのは止めようよ』

 客達は名付け親と同じ感慨を抱きながら、一斉に心の声で突っ込んだ。

「なんだい、バーグナー。ミツにそんな力仕事させて!」

 ひょいひょいと皿を運ぶ様子は余裕さえ見られるというのに、トイレから戻ってきたらしい青年はここまでの話の展開が読めないらしく、少々立腹気味にバーグナーに食ってかかった。

「ミツ…貸してご覧。僕が手伝おう」

「いや、いいですよ。お客様にそんなコトして貰っちゃ駄目ですって!これは俺の仕事なんですから!」

「ああ…ミツ。なんて仕事熱心なんだろう!だが、君のように美しい人が、額に汗して働くなんて、見ている僕の方が心苦しくなってしまうよ」

「はあ、どうも……」

 有利に生暖かく対応されてもめげないこの青年の名はケルン・フルスケット。貴族ではないが、富裕な商家の育ちのせいかどこか坊ちゃんめいた雰囲気を持つ男だ。もともとはこんな家庭料理屋で食事を取ることはないのだが、友人に《麗しの給仕娘》の噂を聞き、冷やかしに訪れたのだが…そのまま心を奪われてしまったらしい。

 有利が最後の皿をテーブルに置いたのを確認すると、素早く両手を掴んで距離を詰めた。

「ミツ、君はずっとこの店で働くのかい?それなら、僕は毎晩だってここに通おう!」

 熱意を込めて囁くが、有利は申し訳なさそうに肩を竦めるばかりだった。

「俺…いや、私は明日の勤務が最後なんです」

 

「ええ…!?」

 

 この言葉にはケルンだけでなく、辺りで食事をしていた客達まで目を丸くして驚いた。

「あ…明日で最後だって!?」

「はい、実は王都のお店に勤めることが決まってたんですけど、そこで勤める前にバーグナーさんに給仕として鍛えてもらう目的で、ここで働かせて貰ってたんです」

「そんな…」

 ケルンはわなわなと唇を震わせると、虚脱してしまったように椅子に腰を下ろした。

「王都なんて行くこと無いって!もうこのままこの店に勤めちゃあどうだい?ミっちゃんだって、この街が気に入ってるみたいだったじゃないか…!」

「そうだよ!そりゃあ王都の店に比べれば給料は安いかも知れねぇが、ここいらだって良いトコだぜ?なんせ、ウェラー卿コンラート閣下のお膝元なんだから!」

 引き留める客達の言葉に、有利もうっすらと瞳を潤ませて俯いてしまう。

 

『俺だって…ずっとここにいたいくらいだよ』

 

 そうだ…この街に来て、この店で働いて…どれほどこの領土に住まう魔族達が、純血・混血の区別無く領主を敬っているかを感じていた。

 まだまだ眞魔国の殆どの領地では、貧富の差が激しく、身分や純血・混血の差は身に食い込むほどに厳しいのだという。だが…この領土だけはまるで、有利が目指す国の縮図であるかのように着実な平等化が進んでいるのだ。

 いくら領主が混血だからと言って、最初からそうだった訳ではないという。

 昨日も、マロンばあさんが教えてくれた。

『混血の中にだってね、確執はあったんだよ。この土地を先代のダンヒーリー様と共に開拓した者にとっては、新たに流入してきた住民は混血とは言っても余所者に過ぎなかったし、食い詰めた純血にとっては、富裕な混血が妬ましくてしょうがない…そんな混沌とした領土に弾力性を持つ…けれども厳密な法を制定したのはコンラート様なんだよ』

 領主自慢になると語り尽くせぬほど話題はあるのか、マロンの言葉を補足するように、次々と客達は口を開いていった。

『コンラート閣下が、この地方を盛り立てて下さったんだ』

『コンラート様は、頑張ったら頑張っただけ幸せになるのが当たり前のことなんだって、あたしに信じさせてくれたのさ』

 瞳を輝かせてコンラートの為したこと、コンラートの素晴らしさを語り合う客達に、有利は誇らしさと共に恥ずかしさをも感じていたのだった。

『俺は…眞魔国国民のみんなに、こんなふうに褒めて貰えるような王様になれるのかな?』

 魔剣や魔笛といった不思議アイテムは連続ゲットできたし、有利にとっては不本意ながら、《美しい》とされている容姿は人々の賞賛の対象となっているらしい。

 だが…ウェラー領にやってきて思ったのは、《理想を追うためには基本が一番》ということだった。

 コンラートは今ではあまり領土には帰ってきていないようだが、それはこの地方の産業や行政が落ち着き、自分が居なくても回るようになっていることを知っているからだと思う。

 かつて、眞魔国の国土全体が戦争によって疲弊した頃、働き手を兵士として殆ど失ってしまった混血の民にとって筆舌に尽くしがたいほど生活は厳しく、明日の朝に食べるものがあるかどうかが一番の心配事だったのだという。

 そんななかで、コンラートは精力的に産業改革を推し進め、金に変えられる財産は全て売却して領土の育成に当てた。

 その結果が、この領土に輝かしい光を投げかけているのだ。

『きっと…凄く勉強したんだよな』

 眞魔国の穀倉地帯で多く産出されるカララ麦が根付かない土地であることが分かると、土壌の特性を調べてホキ大麦の生産を奨励し、種麦を低金利で貸し付けたり…馬格の大きな軍馬の育成のために、有力な土地の馬を集めて交配を進めたり…。

 それらを一人で背負い込むのではなく、配下や領土住民から能力の高い者を見つけ出して育てたりすることで、下地を着実に育成していったコンラート…彼は、真の意味での名領主なのだ。

『そーだよ。良い領主って、単に貧乏な人が居たらパンを恵んであげる人のことを言うんじゃないんだ。きっと、コンラッドみたいに種麦を貸してあげて、育て方を教えてあげる人のことを言うんだ』

 そうすることで民は力をつけ、いつしか他の貧しい民を救うことが出来るようになるのだ。

 救われる存在だった者が、救う者へと変わっていく。

 それは何と素晴らしいことだろうか!

『俺も…コンラッドみたいに、色んな事…知りたい』

 いままで、血盟城でやる卓上仕事は無味乾燥なものばかりだと思っていた。グウェンダルに怒られて、王様として恥ずかしくないように仕事をしようと思っても、その紙の向こうに存在する民の暮らしが見えてこなかった。

 だが…いまならもう少しましな仕事が出来るのではないかと思うのだ。

『血盟城に帰ったら、今度はもっと一生懸命書類を見てみよう。もしかしたら…俺でも、民に本当の力をつけて上げることが出来るかもしんない』

 だから帰りたい。

 でも…その事を教えてくれた親切な客達と別れたくないのも真実なのだ。

 

 

「うん…なんかここって最初から知らない場所って感じがしなかったんだけど、何日か勤めさせて貰って…色んなお話をしていくうちに、本当に素敵なところだって思えるようになったから…。本当は、帰るのがとても寂しいんです。でも…私、王都でやらなくちゃなんないことがあるから……ゴメンナサイ…」

「やらなくてはいけないことだって?飲食店ですることなんて、ここでも王都でも変わらないだろう?」

「それは……」

 ケルンに詰め寄られて、有利は困ったように眉根を寄せた。

「笑顔で料理を運ぶ…それがどうしても好きだというのなら、頼む…ミツ!俺のために食事を運んでくれ!」 

「…は?」

「俺と結婚してくれ!必ず幸せにしてみせるから…!!」

 突然のプロポーズに、有利はしんみりとしていた気持ちが空の彼方に吹っ飛んでいくのを感じた。

「え…?」

「結婚してくれ、ミツ!」

「嫌です」

 漸く発言の意図に気付くと、今更ながらに有利は明確な拒絶を示した。

 当然である。

 何が哀しゅうて、男の嫁になどならなくてはならないのか。

 男の婚約者が居るだけで、この手の冗談は十分である。

「い…嫌……!?」

 ここまではっきり断れるとは想像していなかったのか、ケルンは膝から崩れてしまう。

 この様子に、廻りの客達は上機嫌で囃し立てた。

「馬ー鹿、お前みたいな親爺の金がかりの奴がミっちゃんのハートを射止められるもんかい!」

「いいぞお、ミっちゃん!」

 ケルンの方はまだまだ諦めきれないのか、涙ぐみぐみながら有利の裾に取り縋ってきた。

「な…何故だミツ!他に心に決めた者でもいるのか!?」 

「そうだ、フルスケット商店の馬鹿息子!いい加減惨めったらしくミツに取り縋るのは止めておけ!ミツはお前なんぞじゃあ足下にも及ばない、素晴らしい伴侶のもとに嫁ぐことがきまっとるのだ!」

 銅鑼声で囂々(ごうごう)と叫んだバーグナーに、ケルンは歯噛みして食ってかかる。

「バーグナー…お前、知っているのか?ミツの思い人を…っ!」

「ふふん…まあ、その方からミツのことを重々頼まれているのでな。勿論知ってはいる。だが、その方のお立場もあるのでな…いま口にするわけにはいかない」

 

 

『バーグナー…お前、一体何の話をしているんだ?』

 もう皿洗いどころではなくなったコンラートは、一体この事態がどういう方向に流れていくのかと、はらはらしながら見守っている。

 どうもバーグナーの様子がおかしいと思ったら、有利をコンラートの嫁候補だとでも思いこんでいたのだろうか?

『全くあの親爺と来たら…早とちりも良いとこだ』

 苦笑してしまうが、正直そう悪い気はしない。

『嫁…か』

 有利はそのままの彼が一番可愛いから、別にスカートなんて穿かなくても良い。ただ、白いエプロンは個人的にツボ所なので必ず身に纏って貰って、フライ返し片手にコンラートに笑いかけて欲しい…。

『あなた、ご飯にする?お風呂にする?それとも…お・れ?』

 …………物凄く馬鹿馬鹿しい想像なのに、激しく萌えてしまった自分が猛烈に恥ずかしくて、コンラートは大きな片手で口元を覆った。

 

 

 さて、自分の妄想で思考が回転してしまっているコンラートとは別に、ここにももう一人妄想力大回転な人物が居た。勿論、当店の主人バーグナー・ドンクである。

「ま、とにかくお前じゃあ逆立ちしたって敵わないようなお人さ。剣の腕はすごぶるつきだし、若い頃は褥の方でも夜の帝王の名を恣(ほしいまま)にしたって噂だ」

『待て、バーグナー!』

 今すぐ行って、あの親爺の口を封じてやりたい…。

 コンラートのことを賞賛するつもりなのだろうが、有利の前で滅多なことを口にするのは勘弁して貰いたい。

「そ…そんなのミツの幸せに結びつくとは思えないじゃないか!房事に長けていることを自慢する者などろくな者であるはずがない。しかも、《若い頃は》と言ったな?…ということは、年寄りなのではないのか?」

『年寄り…』

 コンラートは無駄に若いだけのケルンの物言いに、びしりとこめかみに血管が浮かぶのを感じた。いま彼の表情を目にする者がいれば、彼の兄との相似性を指摘することだろう。

「年寄りなもんかい。そりゃあ…ちょっとミツとは年が離れてるかも知れねぇが…だが、わしは似合いの夫婦だとおもっとる!こう…背がすらっと高いウェラーの旦那に、すっぽりと抱きしめられたミツの姿なんてもうもう…絵物語みてぇに素敵なお姿さ」

 バーグナーの言いようにぱかりと口を開いていた有利は、一体どういう事なのかと厨房の方に目線を送り、《犬神家の一族》よろしく逆さまにひっくり返っているコンラートを見た。

 ある意味、お宝映像だ。

「う…ウェラー卿だと!?」

 ひくりとケルンの喉が鳴り、信じがたいと言いたげに頭(こうべ)を震った。

「そ…そんなこと信じられるもんか!ミツ…本当のことなのか!?」

 《違う》と言いかけたミツの言葉を塞ぐように、バーグナーの銅鑼声が響く。

「俺の口がすべっちまったせいで申し訳ない…。ミツ、お前さん自分の家が破産したしたことで、ウェラーの旦那に引け目を感じてるんだろう?だから給仕娘になるなんて嘘を付いて、花嫁修行をしてたんだろう?だが、恥ずかしがる事なんてないんだ…ウェラーの旦那は心の広いお方だ。お前さんに財産なんかなくても、身体一つで嫁に来てくれりゃあなんにもいらないってお方だ。お前さんは俺の教えてやったボンボアンの作り方だけしっかり覚えてりゃあ、いつだって花嫁衣装を着て良いんだからな?王都の新居で幸せに暮らすんだぞ?そんで、時々は旦那にくっついてウェラー領に帰ってくるんだ。そしたら、ボンボアンがちゃんと作れているか俺が確かめてやるからな」

 本家本元も吃驚なトルコ行進曲に、有利は突っ込む隙もなくぱくぱくと口を開閉し続けていた。

『い…一体…何でそんな話に!?』

 向こうでひっくり返りっぱなしのコンラートは知らない様子だし…これは全部、バーグナーの妄想なのだろうか?

『俺がコンラッドの嫁なんてそんな……』

 有利はいつか、気の強くて…でも時々甘えてくれる可愛いお嫁さんと結婚式を挙げるつもりなのだ。

 屈強で常に甘えさせてくれて、時々甘えてくれる可愛いお婿さんを貰う予定はない。いや、この場合は有利が貰われるのか?

『でも…家に帰ったらコンラッドがいてくれるってのは何か幸せかも…』

 

 

 野球を終えて汗だくの有利に、甲斐甲斐しくレンジで温めたおしぼりなんか渡してくれて、すかさず野球道具を手に取ると、有利が風呂に入っている間に丁寧にグラブを磨いてくれるのだ。

『グラブはキャッチャーの命ですからね』

 なーんて言いながら…。

 そんでもって、風呂上がりの有利によく冷えた珈琲牛乳を手渡してくれるのだ。

 そしてベランダに出て星を見ながら、二人並んで腰に手を当てごいっごいっと勢いよく珈琲牛乳を飲み下すのだ…。

 ああ…なんて幸せな生活…。  

 

 

『…て、なんで俺そんな具体的な妄想展開してんだよっ!』

 有利が夢想空間に胸をときめかせている間にも、目の前ではバーグナーに言い負かされた形のケルンが、悔しそうに歯噛みして床を蹴り続けていた。

「くそう…くそ…っ!ウェラ卿コンラート閣下だと!?」

「はぁ…そりゃあ諦めるしかないぜケルン。コンラート様の奥方になるんじゃあ、お前なんか出る幕はねぇや」

「なんだと!?」

 目を血走らせて激昂するケルンは、彼なりに真剣な想いを抱いていたのかも知れない。

「ミツ…お前はどうなんだ?本当にコンラート様を愛しているのか?家が破産した後でコンラート様が庇ってくださったというのなら、そのことへの感謝を愛と間違えているんじゃないのか?コンラート様は確かに素晴らしいお方だが、下半身の方はかなり緩めだと伺ったぞ!?お前と結婚してくれたとしても、きっとすぐに浮気されるに違いない!」

「え?やっぱ夜の帝王ってウワサ本当なの?確かにヨザックもそんなこと言ってたけど…」

「ああ、絶対されるぞ!何しろコンラート様は酔った勢いで一晩に百人の娼妓を抱き、《百人斬り》の呼称で花街では知らぬ者とてないお方なのだ。そんな方のお相手をミツのような華奢な子一人で出来るわけがないだろう?抱き潰されてしまうか、飽きられるかどちらかだ!」

『無茶苦茶言うなーっ!』

 ケルンの言葉の前半については、確かにそれほど事実と違うわけではない。

 基本的に酒に強いタチのコンラートは、深酒をしても滅多に酔いつぶれることはなかったのだが、ある日ヨザックに妙な薬を盛られ、異様に興奮してしまったことがある。

 そのままヨザックとそう言うことをするのも腹立たしく、さりとて女一人相手ではそれこそ抱き潰してしまいそうだったので、花街に駆け込んで馴染みの娼妓主に事情を話したのだ。

 《ウェラー卿が媚薬を盛られて、来る者拒まずで抱いて下さるってよ!》その噂は花街中に駆けめぐり、我も我もと瞳を輝かせた女達が集まってきて、そのまま乱交と相成ったのである。

 普通、一人の男に娼妓達が拘束されてしまっては商売あがったりだと怒鳴り込まれそうなものなのだが、《国の英雄がピンチだ》と聞いては、どの娼妓館でも仕方がないと諦めてくれたようだった。

 そんなわけで、止める者もないまま展開された艶夜の後…朝が昼に変わる頃になってコンラートが目覚めると、大広間には色とりどりの薄布と噎せ薫るような性の香りが立ちこめ、うっとりと蕩けるように横たわる女達が屍のように犇(ひし)めいていたのだった……。娼妓主が気を利かせて事前に精子抑制剤を飲ませていてくれなければ、この一晩だけで相当数の隠し子を持つことになったろう。

 確かに、百人いたかも知れないし、居なかったかも知れないのだが……。別にコンラートが望んで、女性一人一人の価値を認めないような抱き方をしたわけではないので赦して欲しい(←誰に対しての言い訳だ)

『と…とにかく!俺は誰でもやらせてくれればいいという訳じゃない!』

 後半部分に特化してコンラートは否定のシグナルを有利に送り続けた。

『俺はもしもあなたと結婚したら、あなた一本です!花街になんて二度と脚は踏み込みませんっ!』

 別に有利と結婚の約束をしているわけでも、そもそも恋人同士というわけでもないのだが、ブロックサインのように必死でシグナルを送り続けると、有利は少々胡乱な眼差しで唇を尖らせてきた。

『怒ってますか!?』

 コンラートの口角が引きつってしまう。

「百人斬り…へぇ〜……お盛んだったんだ。さっすが夜のて・い・お・うー」

 じっとりとした視線が何を意味するのか分からないまま、有利はぷくぅ…と頬を膨らませて厨房に目線を送った。

「ミツ!そんな僻(ひが)みっぽい男の言う事なんて気にしちゃあいけないぞ!運命の女と出会うまでの男の乱行なんて、その女に快楽を捧げるための練習に過ぎないんだからなっ!」    

「……でも、そういう人って結婚してからそんなに変わるもん?俺は結婚するまではそういうことしたくないよ」

「ミツ…やはり君は僕の思ったとおりの人だ…!」

 《処女です》と告白しているような有利の発言に、ケルンは勢いを取り戻して手を握った。

「いや、だからってあんたと結婚したいわけじゃないから!俺はとにかく、明日には血盟…いや、王都にかえんのっ!コンラッドのことなんか関係ないからっ!」

 ぷーっと頬を膨らませたまま、有利は大股に歩いて厨房に向かうと、盆の上にぎっしりと素焼きのコップを載せ、みちみちと白湯を注いで屋外に向かっていった。

 

*  *  *

 

 《フォルクラント》の美人給仕が今日限りで王都に行ってしまうらしい。

 しかもそれは、王都の館でウェラー卿コンラートと新婚生活を送るためらしい。

 そもそも《フォルクラント》に勤めていたのは花嫁修業として、将来、奥方生活を送るべくウェラー領の生活を見ておきたかったためらしい…。

 

 

 噂は縦横無尽に広まり、有利が給仕を務める最終日の夜には、悲喜こもごもの表情を湛えた客達が《フォルクラント》に詰めかけた。

「ミっちゃん、領主様のお嫁さんになるって本当かい?」

「嬉しいねぇ…また、こっちにも寄っとくれよ?英雄閣下の嫁となると色々気苦労も多いかも知れないが、俺達はあんたの味方だからな!」

「ええと…あの……それはバーグナーさんの勘違いなんですよ!」

 有利は暖かい声を掛けられるたびに必死で訂正するのだが、客達は一様に生暖かい眼差しを浮かべると、《全て分かっているよ》と言いたげに微笑むのだった。

「まあまあ、今更俺達に気を使うこと無いって!」

「そうそう、王都の連中に知られると困るってんなら、絶対秘密にするからな!」

 

 

 説明する相手が十人を超える頃には、有利の方もすっかり諦めモードに入ってしまった。

「幸せになるんだよ、ミツ」

「はい…何とかまあ……やっていきます」

 疲れ切ったように、とにかくこくこくと頷くという動作を繰り返しているところに、この日最大の波が襲いかかってきた。

  

 ガラガラガラ……

 

 場違いなほど華やかな六頭立ての馬車が店の前につけられると、淡い桜色を基調としたふわふわしたドレスに、鮮やかな生花や豪奢な装飾品で飾り立てた若い娘が降りてきた。

 《何て可愛い…》という感想を抱いたのは、どうやら有利一人であったらしい。ここ数日有利を見慣れたせいで目が肥えた連中は、娘の容貌よりも、その険しい表情の理由の方に興味がいくようだ。

 明らかに感嘆の吐息を待っていたらしい娘は鼻白んだように形良い唇を引きつらせると、綺麗な菫色の瞳を勿体ないくらい歪めて有利を睨め付けた。

「お前がミツか?」

「えーと、そうですけどもあなたは?」

「お前のような嘘つき娘に名乗るべき名など持たぬ!」

 びしぃっ!と音がしそうな程勢いよく突きつけられた扇に、有利は吃驚してきょん…っと目を見開いてしまう。

 その小動物めいた愛らしさに、菫色の瞳を持つ娘はいっそう苛立たしげに歯噛みするのだった。

「お前、ウェラー卿コンラート様のもとに嫁入りするなどいう図々しい嘘をついたそうね!」

「俺が言い出した訳じゃないんだけど…」

 ちいさく言い返しても聞いてはくれそうにない。 

「お前達もお聞きなさい!」

 娘はバッ…と扇を広げると、しなやかに手首を返して扇を持つ掌を床面に向け、居並ぶ観衆に向かって《平伏せ》とでも言いたげにゆっくりと巡らせていく。

 

「このアンダルシア卿メリエールこそが、コンラート様の婚約者なのです!」

  



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