「雨のちハレ」−7





 

 その後、コンラートはごく普通の男性用衣料で、そこまで価格は高くないけれど趣味の良いシャツを買ってくれた。美味しい甘味処に連れて行ってくれて、その後はそれぞれに小銭を使いながらゲームセンターで遊んだ。一度もゲームセンターに行ったことがないというコンラートにとっては全てが珍しかったらしく(大人デートではコース選択に入っていないのか?)、意外と喜んで貰えた。

 何事にもセンスの良さを発揮するコンラートはここでも非凡さを発揮して、有利が狙っていたご贔屓チームの限定キーホルダーも、クレーンゲームでゲットしてくれた。隙がないにも程がある。

 そして、夕ご飯は帰宅してそれぞれの家でとることになった。コンラートはもしかしたら晩ご飯を奢るつもりでいたのかも知れないけれど、色々とあったから、夜間に有利を連れ回すことには躊躇したらしい。

『そんな疑惑持たれたら、困るだろうしな』

 ヨザックを振ったというコンラートは生粋のストレートなのだろうから、男の子と妙な関係にあるなんて周囲に思われるだけで困るだろう。だって、そういう話題はラーメン屋でぶちかましたりすると、地獄絵図を引き起こすくらいの衝撃性があるようなのだ。(お気に入りの店だったのだが、二度と行けない)

 凄く楽しかったはずなのに、そんなことを考えながら晩ご飯を食べたら一体何処に入ったのか分からないような有様だった。勝利にも不審げな眼差しを送られたが、のらりくらりと誤魔化した。説明しようにも、自分自身の中でまだ整理がついていないというのもあるが。

 《今日は楽しかったよ》という別れの言葉と、年の割に可愛い《バイバイ》の仕草を受けた後で、不意に気付いてしまった。今回は《お礼》という名目があったけれど、二回目には何と言って誘いを掛けて良いのか分からなくなったのだ。有利がしでかした色々なヘマのせいで、コンラートは懲りているかも知れないし。

『もう、会えないのかな?』

 少なくともこちらからアプローチを掛けるのは憚られる。彼はとってもいい人だから、社交辞令であっても《いつでもおいで》と言った子に《遊ぼう》と言われて、断ることは出来ないだろうし。

『どうしよう』

 でもでも、また会いたいのだ。
 これっきりになるなんて考えたら、胸が潰れそうなのを、どうしたら良いんだろう?
 どうしてこんなに執着するのか分からない。
 いや…理由を追及しようとして、直前で意図的に目を逸らしているらしい自分が、実に自分らしくないと感じて苛々した。



*  *  * 




「ふぅ…」

 楽しい一日を終えてベッドに潜り込むと、コンラートは急に《部屋が静かだな》と思った。
 それが《淋しい》という気持ちなのだと気付いたのは、1時間ほど寝返りを打ってからだった。

『そうか。淋しいのか、俺は』

 こんな感覚は初めてで、何やら妙な具合だ。
 住み慣れた部屋が急にガランとして、しんと静まりかえった空気がもどかしいなんて。複雑な家庭環境にあったコンラートは幼少時代から一人で寝ることが当たり前で、寧ろ、付き合っている女性であっても朝まで寄り添っているのが苦痛だった。相手が寝ると身を離していたせいで、勘の良い女性からはそれを理由に別れを告げられることもあった。

『コンラッド!』

 瞼を閉じれば、耳朶に心地よい声と弾けるような笑顔が浮かび上がり、ぽんっと胸が温かくなって幸せな心地になる。
 うん、これなら淋しくない。

 知らず笑顔を浮かべて意図的に有利の姿や声を思い出していく。記憶力の良いコンラートはフルカラーで、鮮明に有利の映像を蘇らせることが出来た。掌に意識を集中させれば、その手が掠めた頬や髪の感触を思い出せるし、鼻に集中させれば仄かに香る少年の体臭を思い出す。まるでお日様にしっかり乾した布団みたいに、ほっこりとした匂いだった。セクシーとはほど遠いのに、あの首筋に顔を埋めて臭いたいなんて思った。

 《あの顔は可愛かった》《この言い回しは本当に可笑しかった》《気持ちの良い匂いだった》…端から見たら不気味なくらいニヤニヤしながら思い浮かべていくと、とろとろと睡魔が押し寄せてくる。これなら、きっと良い夢が見られそうだ。




*  *  * 




 とろとろととろけていく意識の中に、ほわんと柔らかい描線の映像が浮かび上がった。そして喩えようもなく甘い、愛らしい声が響く。

『ね…コンラッド、チューして?』

 猫耳メイド服姿の有利が、上目遣いに潤んだ瞳で見つめている。長い睫を伏せると、桜色の可憐な唇をぷくんとつきだして《んっ》と小さく喉を震わせる。

 チュー。

 ここで鼠の鳴き真似をしたら引かれるだろうか?
 これはやはり、キスのお誘いと考えて良いのだろうか?

 良いのかな?
 良いんだろう、嫌がってないし。
 寧ろ、《してしてダーリン♪》とでも言いたげに、ぽっと薄桃色に頬を染めて従順そうにキスを待っているし。

 躊躇いを捨てて唇を寄せると、自分から誘った癖に息継ぎも満足に出来ない初な仕草で、《んっ》と甘い声を立てる。

 ああ可愛い。
 なんて可愛いんだろう?

 嬉しくなって唇の合わせ目から舌を挿入していくと、にゅくにゅくとした柔らかい咥内が驚くほどに心地よい。何時までも味わっていたいような柔らかさを堪能していると、恥じらうように有利の睫が震えた。

『コンラッド、俺のパンツも見て?』

 あれ?さっきまで恥じらってませんでしたか?
 そう突っ込みたいような気もするが、少し身体を離して有利を見やると、震える指先でスカートを持ち上げていくのをガン見してしまう。

 黒いニーハイの上に垣間見える白い肌の面積が、刻々と大きくなっていく。幾分内股になっているほっそりとした脚は、微かに隙間が空いて向こうが覗ける。その下肢の間が上に行くほど狭まり、そして…。

 見覚えのある黒い紐パンに包まれた股間は、淡く甘勃ちしていた。

『おちんちん…舐めて?』

 ぽっと頬を染めておねだりする有利に、コンラートは迷わず跪いて舌を伸ばした。ああ、ぷくりと膨らんだピンク色の花茎が、とっても美味しそうだ。

 ぱちん。

 大きなシャボン球が割れるような感覚と共に、唐突に目が覚めた。
 その直後、コンラートの眼前には見慣れた天井が見えた。

 今のは夢? 
 女装美少年に甘いお誘いを掛けられて、嬉々として応じる夢?

「う…」

 ひくりと口角が歪み、信じたくはないが…身じろいだ股間の濡れた感触に気付く。


「うわぁあああああああ〜っ!!」



 一人きりの部屋で、コンラートは絶叫してしまった。



*  *  * 




「うわぁあああああああ〜っ!!」



 同時刻の絶叫した有利に、隣室でPCを弄っていたと思しき勝利が気付いてすぐに駆けつけてくる。

「どうしたゆーちゃん!」
「なんでもないっ!」
「なんでもないわけあるか!ここを開けなさいっ!」
「夢見が悪かっただけだから!」

 じたばたと身じろいだ股間に濡れた感触があって、有利はじわりと目元を濡らす。
 よりにもよって、有利はコンラートをおかずにして抜いてしまったのだ。
 
『日中の穏やかそうな顔だけだったら、こんなこと無かったのかも知れないんだけど…』

 最後に怒られたのがどうやら堪えたらしい。それに釣られて、車に轢かれかけた時の怒号を思い出したのもあった。
 きりりと釣り上がった切れ長の眼差しが、コンラートを《気の良いお兄さん》ではない、怒気も感情も強く持った《男》に見せていた。ふわふわとした気配を一切消し去って、剥き身の姿を見せたコンラート・ウェラーに、有利は確かに欲情していた。しかも、抱かれる側として。

『だからって…だからって、どうしてコンラッドにチンポコ舐められる夢とか見てんだよ!!』

 学生服をズリ下げられて、スーツ姿のコンラートに《悪い子だ》なんて言葉責めされながら、駅の階段で花茎を咥内に引き込まれるという、言い訳しようもないような淫夢を見てしまった。

 泣きたい。
 なんか号泣したい。

 どうして、なんで、真っ当な性嗜好を持っていたはずの自分が、あんな申し訳ない夢を見てしまったのだろう?

『ゴメンなさい、コンラッド…っ!』

 勝手に登場させてしまった恩人の名前を思い浮かべれば、またしてもあの精悍な青年に股間をぺろぺろして貰った感触が蘇る。薄い唇の端が淫猥に釣り上がって、紅い舌が花弁のようにちらりと揺らめいて…。

「わーっ!」
「有利ーっ!!」

 叫ぶ弟に、兄は半狂乱になって扉を叩きまくった。
 


*  *  * 




『えらい目に遭った…』

 結局、扉をぶち抜くようにして室内に入ってきた勝利は濡れたパンツ(普通のトランクス)に気付くと、《心配して損した》とばかりに鼻を鳴らして、有利を罵倒しながら出て行った。騒ぎに気付いた両親も欠伸を噛み殺しながら《ゆーちゃん、青春だね〜》などと分かったようなことを言いながら寝室に戻っていった。深夜起こしてしまったのは本当に申し訳ないので、返す言葉もない。

『俺…ヘンタイ的な形で、あの人のこと欲しいと思ってんだ』

 幾ら鈍い有利とはいえど、ここまで明確な証拠を示されては自覚せざるを得ない。何より、あんな夢を見て《気持ち悪い》なんて感慨が一切湧かず、寧ろ、股間が再び盛り上がりそうになっているところからしてどうにもならない。

 濡れてしまった下着を替えても、眠ったらまたあんな夢を見るのかもと思ったら、落ち着かなくて眠れなかった。とろとろとすると手を指で抓るという動作を繰り返している内に、夜は白々と明けてきた。

 

*  *  * 




『どうしちゃったのかな、コイツ』

 とろんとろんと眠り掛けている有利の目元には気の毒なくらいのクマがあって、村田健は眉根を顰めた。健康優良児の渋谷有利ともあろう者が、滅多に見たこともないくらい憔悴しているのだ。

 昨日は草野球チームの練習を休んで《恩返しをする》なんて言っていたが、月曜日の放課後になってこの様子と言うことは、その時に何かあったとしか思えない。

「ねぇ渋谷、昨日なにかあったのかい?」
「ないないないっ!何もないデスからっ!!」

 両手を上げてブンブンと勢い良く頭を振ると、村田は冷然とした眼差しで友人を見やった。

「その派手な反応を見て、何もないと信じるような馬鹿はいないよ?」

 眼鏡の蔓を指先で上げる村田は、国内でも有数の優秀頭脳の持ち主であるから、当然誤魔化せるはずもなかった。それでなくとも、単純をもってなる有利が誤魔化せる相手などそうは居ないのである。

 結局飴と鞭の巧みな追求を避けきれず、綺麗さっぱり自白させられてしまった。

「へぇ〜…。そりゃまた意外な」
「意外って言ってくれてアリガト」

 ここで《君ならあり得るよ》なんて言われたら立ち直れない。良い友人をもって良かったことだ。

「うう…俺もう、コンラッドのあのキレーな目を直視出来ないよっ!」
「君みたいなタイプは変に回りくどく考えると良くないよー?当たって砕けておいでよ」
「ナニ。その頭悪いヒトみたいな結論」
「君に合わせただけだよ」

 無駄にぎらぎらと光る眼鏡がちょっと怖い。

「実際問題、そのウェラーって人は幼馴染みに《抱いて》なんて言われても、ちゃんと断った上で付き合いを続けられるくらい耐性のある人なんだろ?変に遠慮してぎこちない態度になるより、正面からぶちかました方がよっぽど気が利いてるよ」
「そうかなー?」
「うん。だってね、自分の身になって考えてみると絶対そーだもん」
「自分の身って?」
「どんな理由があったって、君が僕と友達付き合いするのを止めたら…なんて考えたら、堪らなくなるもん」
「村田…」

 いつもは何を考えているのか分からないような少年なのだが、この時ばかりは艶々とした深みのある黒瞳を向けて、真摯な眼差しを向けていた。こいつは必要があれば幾らでも誤魔化すことが出来ると同時に、やはり必要があれば、恐ろしく開けっぴろげに出来る奴なのだ。

 有利にとっては大したことではないと思うのだが、公園で不良グループに絡まれていたのを助けたことは、彼にとってはとても大きなコトであったらしい。彼曰く、《あんな風に、見返りも何にも考えずに人を救おうなんて馬鹿は初めて見た》らしい。

 《そういう馬鹿が、僕は堪らなく大好きなんだってことも、初めて知ったよ》と笑った村田は、見惚れるくらいに可愛い顔をしていた。 

「その人も、このまま君と気まずくなるのはしんどいと思うし、第一、滅多なことじゃあ凹まない君がそんなに憔悴しちゃってるのは僕もしんどい」
「ご迷惑をお掛けしております」

 丁度工事現場脇に掲げられた看板の文句とポーズをそのまま真似ると、村田はくすりと苦笑して有利の頭を撫でつけた。

「取りあえず、当たって砕けたらいつでも僕のところにおいで?僕の胸ならいつでも貸してあげる」
「砕けるの前提かよっ!」

 両手を大きく広げた村田の胸にぽかりと拳を当てれば、大袈裟に痛がって唇を尖らせていた。
友人の気遣いが嬉しくて、笑いながら…有利はぽろりと涙を零した。有利がヘンタイになっても気持ち悪がるどころか、真面目に恋の相談にまで乗ってくれる友人というのはそうはいないだろう。

 でも、《当たって砕けろ》との勧めにすぐに応じるには、まだ有利は自分の心を受容しきれていなかった。

「何か…色々とすっ飛ばしてる気がするんだよね。好きとか何とか告白する前に、チンポコ舐められるとかさー。どれだけ煮詰まってんのって話で」

 友人に全てバレてしまったという安心感の為だろうか。この時、有利は周囲に人の気配がなかったこともあって、ちょっと大きな声を出してしまった。

「おい。どういう事だよっ!」
 
 ぐいっと背後から肩を掴まれた時、何が起こったのか分からなかった。それが血相を変えた八木だと気付いた時には、有利はすっかり動転してしまった。

「せ…先輩っ!?」
「チンポコ舐められたって、どういうことだ?しかも、好きって告白なしにって…コンラートさんにやられたのかよっ!?」
「…っ!」

 この時、端的に《違う》と否定すれば良かったのだ。少なくとも、主格が真逆であることだけは伝えておくべきだった。煮詰まっているのも、勝手な淫夢を見たのも全て有利なのだと。
 だが、夢の中では確かにお相手がコンラートだったこともあって、有利は顔を真っ赤にしてわなわなと唇を震わせたまま、八木の言葉を否定出来ずにいた。

 すると、思いこみの激しい八木は顔面をドス黒く染めて怒号をあげた。

「畜生…っ!あんなヤツ信じた俺が馬鹿だった…っ!!」

 ギリリと歯がみをした八木が踵を返すと、何処かに向かって疾走を始める。一体何がどうしたというのだろうか?

「先輩、先輩…っ!?」

 高校に入ってからサッカーで下半身を鍛えた八木に、有利の脚は追いつけない。基本的に運動が嫌いな村田などもってのほかだ。ぜはぜはと息を切らしながら数百メートル後方から追いついてきた時には、八木の姿は消えていた。どうやら駅に入ってしまったらしい。

「八木先輩…。どうしたんだろう?」
「十中八九、大勘違い大会だね。全く、君の先輩らしいよ。きっと、さっきの会話の一部だけ聞いて、ウェラー氏が君に性的な悪戯をしたなんて思いこんじゃったんだな。しかも、告白もナニもすっ飛ばして、悪戯目的で触れたと思ったんだね〜」
「ぎょへーっ!?」

 やりかねない。
 あの人は実にいい人なのだが、有利と良い勝負に思いこみが激しく、ちょっととんちきな所がある。

「あの人、ウェラー氏の居場所とか知ってるのかな?」
「知らないはずだけど…」

 言いかけて、はっと思い出す。そういえば、八木は今日私服を着ていなかったろうか?時間帯から言って、彼は今日学校を休んだに違いない。きっと、コンラートが勧めた治療院に行ったのだ。もしもそこで良い結果が出たりしたら、義理堅い八木のことだ、きっと直接顔を合わせて礼を言いたいと思うだろう。その為に、コンラートの知り合いらしいトレーナーから住所を聞き出したりしていたら…?

 可能性の話ではあったが、八木が迷い無く駆け出したこところからみて、確率は高いような気がする。

「コンラッドが危ない!」

 八木は結構腕っ節というか、脚っぷしが強い。柔軟な下半身から繰り出される蹴りで、半端なヤンキーなどまとめて3人伸したことがある。勢いに乗ってコンラートを蹴りつけるようなことがあったらただではすむまい。それに、人の良い八木は殴ってから自分の勘違いに気付けば、激しく自分を責めることだろう。

「コンラッド、八木先輩…っ!」

 有利が慌てて駆け出そうとすると、《ぽっ…ぽぽ…っ》と冷たいものが頬に触れる感触があって、見る間に地面の色が変わっていく。切羽詰まった状況の中、空まで泣き出してしまったようだ。

 焦る有利の目の前で、タクシーが停車した。どうやら、ぜいぜいと息を切らしていた村田が、いつの間にか停車させたらしい。

「乗って」
「俺、金ないっ!」
「奢るからっ!」
 
 村田にがっしりと腕を掴まれて、半ば強引にタクシーの中と引き込まれた。
  


*  *  * 




「おこんばんわぁ〜。仔猫ちゃんとのデートは楽しかったかしら?」
「……………ヨザ」

 げんなりしながら見つめた先には、艶やかなドレス姿のヨザックが佇んでいた。久方ぶりのギラギラとした女装姿に、睡眠不足の脳がハレーションを起こす。週末までに仕事の山を乗り越えたおかげで少し早く抜けさせて貰えたというのに、どうしてこんな負荷が掛かるのか。後少し進めば自室に戻れるというのに、マンションのエントランスでとっつかまってしまった。

 不意に降り始めた雨でぐっしょりと濡れたシャツやズボンが張り付き、余計に鬱陶しい気分が絡みつく。相手がヨザックでなければ、罵声の一つも投げつけてそのまま部屋に強行したかも知れない。

「お前、仕事は?」
「年休取っちゃった」

 ぺろりと紅い舌を出すと、何しろ口が大きいので可愛いと言うより喰われそうな感じがする。鮮やかな色合いのドレスを身につけていても、いや、身につけているからこそ、この男は肉食獣のような様相を呈する。

「なんかさ、昨日のあんた達見て吹っ切れたみたい」
「…どっち方向に?」

 聞きたいような、聞くのが怖いような。
 首筋にするりと腕を回してきた男を振りほどけなかったのは、薄い色合いの青瞳が真摯な眼差しを向けていたからだ。

「ずっとさ、あんたのこと忘れられなかった。《可能性なんて無い》って自分に言い聞かせてたのに、あんたがいつまで経っても誰のモノにもならなかったから、いつか、もしかしたら…なんて、世界の天使グリ江ともあろう者が惨めったらしい執着続けちゃった」
「ヨザ…」
「だけどさ、あんた…昨日、初めて見るような顔してた」

 息が掛かるくらい間近で、友人の瞳がひかる。それは微かに、濡れているようにも見えた。微かな歪みをもつ笑顔は痛みに耐えながらも、どこか嬉しさをも感じているようだった。

「あの子が、あんたの心を浚ったのね?」
「…馬鹿言え!」

 認めたくなくて顔を逸らそうとすれば、膂力に長けたオカマは両頬を掌で包むと、馬鹿力で正面に戻す。ギギギギギ…っと頸椎の軋む音が骨伝導で聞こえた。

「馬鹿はあんたよ。女装趣味だって知っても、引くどころか助長するみたいに服まで勝手やめろうとしてたじゃない」
「…見てたのか!?」
「盗み見は詫びるわ。だけど、乙女心だもん。赦してよ」
「調子の良い時ばかり使われる乙女心ってどうなんだ」
「誤魔化さないでよ。ね…お願い」

 何重にもかさねられているのだろう付け睫がばさりと揺れて、きらきらと鱗粉が舞うように見えた。色づいた瞼が、まるで熱帯の蝶か蛾のようだ。綺麗だとは思ってやれないが、これほど丁寧に自分を飾る立てたいという衝動は、友人にとっては大切なものであるに違いないと思う。

 コンラートに告白して、振られてからというもののこのような格好をしていなかったのが、今日この時に再びがっちりと身を飾ってきたのは、この男なりの区切りなのかも知れない。彼が本来好む姿で、新しい人生を歩み出そうというのか。

「もう、グリ江は吹っ切る。あんたが決定的に他の奴のモノになっちまえば、吹っ切れる。あの子なら、恨まなくて済む。だからあんたも腹を括りなよ」

 艶めいたグロスは毒々しいまでに唇を輝かせるが、浮かべた笑みは初めて見るくらいに清楚な印象だった。《乙女心》というのも、あながち存在しないわけではないらしい。

 だが、ヨザックの心理安定の為に青少年を巻き込んで良いわけがない。  
 
「あの子は…駄目だ」

 琥珀色の瞳が細く眇められて、絞り出すような声が漏れる。
 大地に叩きつけられる雨の音が《ダダダダ…っ》と煩いくらいに響いてくる。コンラートの心境もまた、天以上に荒れていた。何とか胸の中に収めていようとした想いを暴かれては、無理もないことだと思う。

「どうして?」
「男の子だぞ?それも、幼気(いたいけ)な高校生だ」

 叩きつけるような声は、コンラート自身を責めた。
 有利にただならぬ好意を抱いていることは自覚している。あの淫夢が《たまたま》見たというようなものではなく、自分の心の中に確実に存在する欲望が露呈したものだということも。
 だが、だからこそ暴露することなど出来なかった。

『コンラッドなら大丈夫』

 生まれたてのヒヨコが母鶏を慕うかのような純粋さで向けられた瞳に、《喰いたい》なんて気持ちで臨めるものか。
 
 だが、一方で彼を手放してやることも出来なかった。コンラートは何かにつけて理由を付けては、有利を構い、大きな悦びと引き替えに胸を引き裂かれるような罪の意識を感じるだろう。

「…今になって、お前の苦しさが分かる」
「馬鹿ねぇ。今更?」

 くすりと笑ったヨザックが、優しく《これであんたも人並みに、誰かを愛するようにはなったってわけね》なんて言うから、涙が出そうになった。
 認めることは苦しかったが、それでも、誰かに分かって貰うことは嬉しいようだ。

 たとえ、がちむちのオカマであったとしても。

 この状態の二人を見る者がいれば、間違いなく《リーマンとオカマの熱愛発覚》と認定されたろう。それは分かっていたが、初めて感じる恋の痛みと、それを感じ続けていたらしい友人への共感から、コンラートはすっかり身を委ねていた。

 まさにその時、ややこしい誤解に憤然としている八木が飛び込んで来るとも知らずに。






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