「雨のちハレ」−5




 

 4つの商店街大通りが合流する中央広場、そのまたドドンと中央に設置されている噴水は、昔から有利が好きな建造物だった。一定の周期で噴き上がる水の形状が変わり、夕刻にもなると薄青い光でライトアップされる。今は燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、きらきらと飛沫が輝いていた。傍に寄っていくと、それだけでマイナスイオンとやらが体細胞を活性化させてくれるような気がするのだが、今日に限っては不整脈を疑いたくなるくらい心拍が激しい。

『あ!』

 有利としては早めに到着したつもりだったのだが、既に目当ての人物は噴水脇のベンチに腰掛けており、長い腕を伸ばして雀に向かい《チチチチ》と楽しそうに呼びかけている。

『か…可愛い…っ!』

 ズキューン…っ!と《どストライク》の剛速球が胸を貫通していく。多分、傍らで見ている人たちだって同様の心地なのではないだろうか?

 端正な面差しを綻ばせて、少し子どもみたいな表情を浮かべて雀にちょっかいを出しているなんて、外見の精悍さとのギャップ萌えが激しすぎて、心臓がどうにかなりそうだ。噴水脇で佇む人々も、待ち人そっちのけでコンラート・ウェラーをチラ見しまくっている(ような気がする)。

 しかも、有利の姿を目に留めると《あ、来た。嬉しいな》と明瞭に分かるような笑顔で、並びの良い白い歯を見せて呼びかけてくれるのだ。

「ユーリ!」

 伸びの良い声で呼ばれると、今までコンプレックスだった珍妙な名前がとても素敵な響きを持つ。有利も大好きな初夏という季節が、この名前に込められているように感じるのだ。青々と生い茂る葉の間を涼風が駆け抜けていく様子が瞼に浮かぶようだ。

 …なんて、珍しくポエティックな心地になってしまう。

「コンラッド!」

 こちらもにっこりと笑いながら駆け寄っていくと、周囲の人々が少し不思議そうな、羨ましそうな目線を送っている。

『えへへぇ〜。この人は、俺の友達なんだぜ!?』

 誇らしげに、心持ち胸を張りつつ傍に寄れば、自然な仕草で肩をぽんぽんと叩かれた。

「今日はお招きありがとう」
「えへへ。ささやかだけど、今日は俺にお礼をさせてね?」
「嬉しいな」

 コンラートは涼やかなブルーグレーのシャツに細身のネクタイを締めており、薄手のパーカーを羽織っているのが、気軽な雰囲気を漂わせている。きっと有利の服装と選択コースに合わせてくれたのだろう。こういう、自然とTPOに合わせたセレクトが出来るところも大人って感じだ。

 有利としては何かお礼の品を贈りたいと思っていたのだが、何が良いか思いつかなかったのと(レッドソックスグッズ等でコンラートを喜ばせるような一品ともなれば、例のカフェで1ヶ月は働かねばなるまい)、《物欲はないんだ》という主張に応じて、お昼を奢り、一緒に街をぶらついてちょっとした小物を買うことになった。

 昼食については小洒落たイタリアンレストランとか色々考えはしたのだが、あまり背伸びして失敗するのも嫌だ。口コミで美味しいと言われていたとしても、有利自身が食べてもいないのに行くのはオカシイかなと思ったので、間違いなく《旨い》と断言出来るラーメン屋に行くことにした。その前にしっかりとお腹を空かせておけば、絶対美味しく食べられるはずだ。懐は暖かいから、ちょっと豪華に焼き飯や餃子、杏仁豆腐などをプラスしても、3時頃に気の利いたおやつを饗することも可能なはずだ。

 お腹を空かせる為の方策としてバッティングセンターを選択したのは、単に自分の好みだけのような気もするが…まあ、同じ野球好きとしてそれほど大きく外してはいないだろう。

 徒歩で向かったバッティングセンターはまだ閑散としていたが、その中に見知った顔を見つけて吃驚した。

「八木先輩?」
「渋谷」

 ぎょっとしたように見えたのは気のせいではないだろう。あれだけ頼んでもキャッチボールをしてくれなかった八木が、誰かに連れてこられたというわけでも無さそうなのに、日曜日の朝からバッティングセンターにいるなんて、そりゃあ気まずかろう。
 何となく指摘し辛くて言を濁していると、八木の方も少々複雑そうな顔をしている。

「その人が、お礼をしたいってヒト?」
「あ…ハイ」
「おはよう。ユーリのお友達かな?」

 コンラートが爽やかに挨拶をしながら、有利の肩を抱いてきた。心持ち顔の距離が近いのはどうしてだろう?まるで記念写真に収まるような距離感に、ドキドキと心拍が跳ねた。



*  *  * 




『ナニ。こいつ』

 八木はコンラートと有利の距離感に、妙な苛立ちを感じていた。お人好しで何にでも一生懸命で、損ばかりしている後輩。八木が何かと庇ってやらないと野球部監督からの風当たりも強いと思っていたら、案の定、卒業した翌年には殴って退部になっていた。しかし、退部になった理由が後輩に対する暴言への怒りと聞いた時には、《ああ、やっぱり渋谷だな》と嬉しくなってしまった。

 八木に無理強いをして、結果的に選手生命を断ってしまった監督からは、一度も詫びの言葉を聞いたことはない。伝え聞いたところによれば、《俺が引き立ててやってたって言うのに、八木のヤツは根性無しだった》なんて言っていたらしい。だからこそ有利があの監督を殴ってくれたことに、内心で喝采を送っていた。同じ高校に入学してきたと聞いた時には嬉しくて嬉しくて、自ら声を掛けに言ったものだ。

 そのせいか、別にクラブ活動が今現在一緒というわけでもないのに、《俺の後輩》という意識が強く、有利の方も自分を特別に慕ってくれているような気がしていた。

『幾ら人助けしてくれるヤツとかいっても、ちょっと馴れ馴れしくねぇか?』

 確かに人が良さそうな顔をしているが、見るからに遣り手のサラリーマンという風貌の青年が、お礼として助けた高校生との週末デートを取り付けるというのは、冷静に考えてどうなのか?
 こいつとのデートの為に、有利はあんなに嫌がっていた女装までしたのかと思うと、色んな意味で心配になってくる。大体、あの女装はまた可愛すぎた。有利が男だと知っていなければ、速攻で彼氏持ちじゃないかどうか確認したくなったくらいだ。

『渋谷のヤツ、人が良すぎてすぐにつけこまれるからな。俺が庇ってやんないと拙くね?』

 この青年は一見するとその手の趣味など持っていなさそうではあるが、有利はその木訥とした性格と、飾り気はないが実はかなり可愛い容姿から、特定の男達には熱烈に可愛がられる。八木の他にも有利を可愛がっていた野球部先輩連中や、現在所属している草野球チームにも、性嗜好はストレートなのに有利に対してはかなり拘りを持っている連中が居たはずだ。この青年も、何かの拍子に変な方向で関係を深めないとも限らない。

 ここは是非、先輩として有利の貞操を守ってやらねばなるまい。

「うちの後輩が危ないところを救ってくれたそうで、ありがとうございます。俺は八木って言います。渋谷とは中高通じての付き合いです」

 元野球部らしく背筋を正して元気よく礼をし、がっしりとした腕を差し出して握手を求めれば、青年の方も笑顔を浮かべて握手してくれる。

「初めまして、俺はコンラート・ウェラー。コンラートでもコンラッドでも、好きな方で呼んで?」

 名乗ってから、《助けたとは言っても、元々は俺が助けられたんだけどね》と照れくさそうに言っていた。

 うむ。言い回しといい表情と言い、これはなかなかにいい男だ。有利に対して妙に距離感が近すぎさえしなければ、八木とて素直に《いい人》認定をしていたように思う。思わず素に戻って話しかけてしまった。

「そーなんですよね。こいつってばうっかり者だから《俺が庇ってやんないと!》って思っちゃうんだけど、後から考えてみると、こいつに守って貰ったり、支えて貰ってたなーって思うことあるんスよ」
「ああ、分かる分かる。ユーリって器が大きいというか、包容力の大きさを感じる事あるよね」
「でしょー?」

 《なんだこの人。いい人だな》うっかりそんなことを考えながら頷き合ってしまった。有利の良いトコをよく分かってくれる者に出くわすと、八木はついつい嬉しくなってしまうのだ。

「あ…あの。それ…褒めすぎ…」

 年上二人に褒め殺しされて、有利は頬を仄かに染めて照れている。そんなところもまた、抱きしめたくなるくらい可愛い。

「うーっしゃっしゃ!カワイイ奴めっ!!」
「わーっ!」

 片腕で強い肩を抱き寄せて、乱暴にわしゅわしゅと頭髪をかき混ぜてやると、有利は恥ずかしがってじたばたと藻掻く。

 …と、急にコンラートの纏う空気が冷えた。

「…仲良しなんだね」
「えー?ああ、ハイ」

 同年代の中では肝が据わっていると自認している八木でさえ、思わず声が上擦ってしまうくらいの威迫を感じる。顔は笑っているのに、目が笑っていない。
 ただ、青年自身もそれを自覚したらしく、すぐに大きな掌で顔を撫でて溜息をつくと、意識的に表情を和らげた。

『あ…もしかして』

 やはりこの男、《いい人》なのは間違いないらしい。多分、有利を助けたことも本当に人助けとしてで、変な下心など持っていたわけではないのだろう。だが、有利の屈託のない態度や男気に溢れた愛らしい性格を知ってしまうと、常以上の勢いで可愛がりたくなってしまうのは、よく分かる。八木自身、《俺、もしかしてホモ?》と疑うくらい、有利に対して独占欲を覚えたことはあった。

 もしかすると、何かの拍子に良い雰囲気になった瞬間に、有利が目を閉じたりしていたらキスの一つもしていたかもしれない。ただ、その後で殴られるのは間違いないだろうし、そのせいで有利と気まずくなることを考えたら、キスなんかしなくて良かったとは思う。それ以上のセックスなんかは、流石に同じ生殖器を持つこいつに突っ込みたくはないし(勿論、突っ込まれたくもない)。

『この人もある意味、被害者になりかねないのかも』

 有利は随分とコンラートを信頼しているようだし、コンラートも有利を無茶苦茶気に入っているようだ。おそらく、八木と同じくらいには。ならば、二人が変に良いムードになりすぎて、勢いでキスなんかして気まずくなったら気の毒だ。

 八木は独自の論理展開で、《有利を救う》ことから、行動目的を《有利と、ムードに流されてホモに走りそうな好青年を救う》ことに軌道修正した。
 野球が生活の主体となっている有利に対して高いバッティング能力をアピールすることで、再び憧憬の念を独り占めしようという計画だ。そうすればコンラートの印象も少しは薄れるだろう。

 このような思考展開をする辺り、八木も有利のことを言えないほど野球主体の思考形態の持ち主である。

「なあ、渋谷。ここにいる間、俺も混ぜてよ。ホームラン数競争しねぇ?買ったらジュース奢るし」
「え?」

 これが同級生同士で遊びに来ている時なら一も二もなく同意してくれるのだが、今日は流石に接待モードなのか、青年の方を振り返って《どう?》と目線で問いかける。八木は青年の方にも挑むような眼差しを送った。

「俺、今はサッカー専門なんだけど、中学時代には野球部だったんです。多少は勘は鈍ってるかもしんないけど、結構バッティングには自信あるんですよね。あなたはどうです?」
「俺もバットを持つなんて久しぶりだからどうかな。でも、昔は結構飛ばし屋だったから、今の実力を試してはみたいね」

 にっこりと微笑んではいるが、青年の瞳にはどこか自信の色がある。律動的な動きから見て、運動神経はかなり良い方と見た。

 有利は無邪気に笑って、嬉しそうに飛び跳ねるような足取りになる。

「やた!じゃあ一緒にやりましょうよ!コンラッド、八木先輩は元々ピッチャーだったんだけど、バッティングも凄かったんだよ?スウィングがシャープで、球筋が糸を引くみたいに飛んでいく軌跡が、凄く綺麗だったんだ!」
「へぇ…」

 《コンラッド》とやらの目つきが変わった。隠そうとしても溢れ出す対抗心が、何とかして有利に良いところを見せようとしている。だが、こちとら一線は退いたとはいえ元野球部で将来を嘱望されていたのだ。未だに未練があると思われるのは癪だから、部にも草野球チームには所属していなくとも、時々こうしてバッティングセンターに通っていた。投球については以前のようなグゥンと伸びる独特の加速を感じると、肩が抜けるような感覚があるので全力で投げることはないが、バッティングについては以前通りだと感じている。

『見てろよぉ〜』

 不敵に笑う八木は、この時大差を付けて勝つ気満々であった。



*  *  * 




 カキーン
 クォーン…っ!

 軽快な音を立てて次々と白球がライナー性に飛んでいく。目指す先は一直線に高台に掲げられた的。それも、先程から10球連続で綺麗に中央を射抜いている。

「コンラッド…すげぇ…っ!」

 瞳をきらきらと輝かせて握り拳を握った有利は、先程から身じろぎも忘れたようにコンラートを見つめている。そう、コンラートの振り抜くバットは見事なホームラン性の当たりを繰り返しているのである。

『機械の癖を読んでるだけなんだけどね』

 昔から器用なコンラートは、野球好きの取引相手を接待する際に完璧に狙った場所へ打てるように通い詰めた時期があった。おかげで、今でも少し機械の癖を読むと思った場所に打つことが出来る。勿論、人間のピッチャー相手ならここまで出来ないだろうけれど。

「………」

 先鋒を務めた八木もかなりの打率ではあったのだが、ここまで完璧なバッティングとはいかなかった。引っ込みがつかないのか、先程から唇を噛んでこちらを見やっている。ただ、その瞳には子どもらしく純粋な対抗心が溢れていていた。

『ちょっとスレた格好はしてるけど、結構ユーリに近い子なのかもな』

 こうなると大人げないバッティングを見せたことが申し訳なくなってくる。そういえば、昔はピッチャーをしていたそうだし、お詫びにキャッチボールで良いところを見せて貰おうかなんて考える。

『いやホント、何でこんなに大人げなく張り合ってしまったんだろう?』

 自分でも恥ずかしくなるくらい、八木が有利と親しげにしている様子に嫉妬してしまった。《変に誤解されないように》と、意識して直接的な接触を避けていただけに、抱き寄せてわしわしと頭髪をかき混ぜている八木が赦せなかった。

『いやホント…それって、体育会系の先輩後輩の関係なら当たり前の行動だろう』

 カキーンとまたいい音を立てながら、背筋に冷たいものが滴っていく。何故そんな反応をしてしまったのかを深く追求すると、色々と諸問題出てきそうな気がしたのだ。

「…あっちの方でミットとボールも借りられるらしいから、キャッチボールでもする?」
「いいねーっ!」

 コンラートのお誘いにぱぁっと顔を輝かせた有利だったが、ふと気遣わしげに八木の方を見た。

「先輩、キャッチボール良いですか?」
「…良いよ。このまま、勝ち逃げされたくねぇし」
「…っ!」

 あ。
 今、激しくムカっと来た。

 八木が承諾した途端、有利は太陽が輝くみたいな笑顔を浮かべたのだ。まるで、ご贔屓の選手がチャンスの際に、久しぶりに代打出場した時のファンみたいだ。おそらく、八木は中学時代以降には滅多に投球をしていなかったに違いない。

『それがこのタイミングで投げようと思うとは、やっぱり俺に対抗心を持っているのか?』

 有利の様子から見て、別に先輩後輩以上の関係があるとは思われないが、やはりコンラート同様常ならぬ拘りがあるのは感じ取れる。

『…頃合いが難しいな』
 
 投球になれば、コンラートは球速はともかくとしてコントロールはかなり悪い。剛速球でビーンボールを投げて、バッターが死にかけたこともある。八木が元々どういうタイプのピッチャーだったのかは分からないが、有利が憧憬を込めて見つめるくらいだからかなりのものだったのだろう。

「やった!俺、初めて八木先輩の球受けられるんですね!」

 きらきらと瞳を輝かせている有利に対して、八木の方は少し苦笑気味だ。バッティングでの惨敗を挽回する為に引き受けはしたものの、最盛期のピッチングを知る…しかも、その当時の自分に憧れていた相手の前で、今の姿を見せることに不安があるのかも知れない。

「…あんま、期待すんなよ?」

 くしゃりと有利の頭髪をかき混ぜた手に、今度はあまり嫉妬はしなかった。少年の態度に痛々しさを感じてしまったからだろう。

 

*  *  * 




 すぅ…っと息を吸って、溜めて、吐いて。
 初めて公式試合に出た時のように、空気が凛と張りつめるのが分かる。

『なーに、緊張してんだか』

 自嘲の声はすぐに聞こえなくなった。目の前で有利がキャッチャーミットを構えているのを見やると、安定したその姿勢に意識が集中する。

『お前…ずっと、練習してたんだな?』

 今でも小柄な有利は、中学時代にはもっと華奢だった。内野でも目指せばまだ良かったものを、何故だかキャッチャーというポジションに拘ってしまった彼は一度として公式戦に出たことがない。だが、いつも誰よりも熱心に練習に取り組み、試合の時だって真摯な眼差しでメンバーを応援した。

 きっと、監督を殴って退部になってからも練習だけは続けていたのだろう。不定期な草野球チームの中にあっても、こつこつと、ずっとずっと。

『良い構えだ』

 どんと構えたその姿勢は安定していて、小さな筈の身体が随分と大きく見える。一球緩い球を外角に投げてみたら、滑らかに下肢が動いて正面で受け止める。

 ズバァン…っ!

『おっ』

 純粋に面白くなって、速度を上げて今度は内角を攻める。中学時代は変化球にはあまり手を出さなかったから球種は少ないけれど、その分、コースを狙うのには長けている。有利の方も一通りの球を見ると頷いて、嬉しそうにサインを出してきた。求められた場所にどんぴしゃりの球を投げると、にしゃりと嬉しそうに破顔する。

 嬉しくて嬉しくて堪らないという顔で。

『お前、そんなツラで俺を見てくれるのか』

 嬉しかった。
 ああ、こんなにも自分は投げることが…野球が大好きだったのかと思ったら、暖かい水に浸されたみたいに細胞が潤っていくのが分かる。

 調子に乗って、最盛期のようなフォームで全力投球をした。

 ズバァン…っ!

 勢い良くミットを鳴らした球に、《来たぁ!》と言う顔をして立ち上がる有利だったが、こちらを見てはっと顔色を変えた。肩の痛さに眉根を寄せているのが分かってしまったのだろう。

「せ…先輩!」

 そんな顔をするなと言いたいが、疼くような肩の痛みは一番悪かった時期より軽いものの、《やっぱり駄目か》という落胆に結びついて、八木を責め立てる。有利の前で良いところを見せようと思ったのだが、やはり上手く行かなかったようだ。

「やべ。やっぱちょっと痛ぇや。悪い、渋谷。俺はこの辺で帰るな?」
「先輩…」

 泣きそうな顔をして八木の肩に触れようとする有利の横から、コンラートが腕を伸ばしてきた。そして、妙に馴れた手つきで八木の肩を掴むと、巧みな動きで緩やかに肩を動かす。幾つか検査法のような手技をすると、一本の腕で上腕を固定しながら、一方の手でゆるゆると肘を動かす。

「痛い?」
「いや…」

 弾こうとした腕が動かない。殆ど肩は動かしていないのに、関節包の中がゆるゆると解れていくような感じがする。病院でやって貰った関節包内運動法よりも遙かに滑らかで無理のない手技を受けると、吃驚するくらい短時間で肩の痛みが取れた。

「スゲェ…痛くない」
「良かった」

 ほっとしたように息をつき、コンラートは懐にしまっていた名刺入れから一枚取り出す。そこに書かれていたのは彼の名前ではなかった。どうやら、スポーツトレーナーの名刺であるらしい。

「あのね、ヤギ君。良かったらここに行って御覧?俺がさっきやったような手技を、もっと上手くやってくれるから」
「え…?」
「君の投球、とても良かった。今の君にとってはサッカーが一番なんだとしても、あれをこのまま埋もれさせてしまうのは勿体ないなって思うんだ」

 にこりと微笑む表情には屈託がなくて、あの監督や、当時かかっていた病院の先生みたいに高圧的なものではない。
 その口調は何処か、《お前が選んで良いんだよ》と言ってくれた伯父さんに、少し似ていた。

「…頂きます」

 まだ行くかどうかは分からないけれど、この人の親切心を無碍にするのは躊躇われた。名刺を受け取ると、自分の財布に収めようと屈んだところで、何だか目元が熱くなった。

 この人は、いい人だ。

 子どもみたいに対抗心を燃やしたり、大人げなく有利に引っ付きたいなんて欲望を燃やしていたとしても、有利が笑顔になる為なら気にくわない相手にも真摯に対応する。そういう人なんだろう。

「あの…」
「なに?」

 有利には聞かれないようにそっとコンラートに顔を寄せると、憮然とした表情にはなってしまったけれど、ぼそぼそと囁くことは出来た。

「渋谷を、大事にしてやって下さい」
「…は?」

 ちょっと勢い余って変な表現になったようで、コンラートは目を点にしてぱかんと口を開けていた。惚けた顔にも一種独特の愛嬌があるのは、美形の強みか。

「信じてますから」

 《ナニを?》と言いたそうな顔で冷や汗を垂らしているコンラートを背に、八木はにしゃりと笑って手を振ると、二人からゆっくりと離れていった。






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