「雨のちハレ」−4 《お礼がしたい》 簡潔なメールの内容に、コンラートはくすりと微笑む。 今日は水曜日で、時刻は15時20分。授業中は携帯電話を学校側が管理していると言うから、6限目が終わった時点で返却されたのだろうか。 《何が好き?》と贈り物の選択に必要な情報を求められたのだが、物品で返して貰うのは心苦しい。そこで、コンラートはどこかお勧めの店でお昼御飯を奢って欲しいと頼んだ。ランチであれば、かなり気合いを入れてもそこまで巨額にはならないだろうし、その後で一緒に街を歩いても楽しい。約束したのは週末の昼前で、頑張れば前日までに仕事の山場は抜けられる。 コンラート・ウェラー28歳。この男、完全にデート体勢であることに気付いていない。 『さあ、頑張ってみようか?』 うきうきと気分が弾むのを感じながら返信を済ませると、同僚が意味ありげな笑みを浮かべて声を掛けてきた。 「よぉ、随分とご機嫌じゃねーの」 ハスキーな声音と少々悪戯めかした口調は馴染み深いもので、面白いことを嗅ぎつけるのが得意なグリエ・ヨザックが、その薄青い瞳を細めて見つめている。ドイツ本社から派遣されたコンラートに対して、ヨザックはアメリカからの派遣なのだが、学生時代に数年間を共にした仲でもある。そのせいか、会社でもかなり砕けた口調で話しかけてくる。 「また新しい恋人でも出来たのか?」 「《また》とは人聞きが悪いな」 「だってよ。あんた、基本的に長続きしねーじゃん。ま、後釜もすぐ出来るわけだけどさ」 「遊び人みたいに言うな」 憮然として言えば、にしゃりと人の悪そうな笑みを浮かべる。口の端をくいっと上げて笑う様子は、一歩間違えれば随分と酷薄な印象になるだろうに、どこか剽軽なおかしみ滲ませているのがこの男独特の風味と言える。 人をジゴロ扱いするこの男は、実際には一番コンラートの人となりを知っている。だからこその悪口でもあった。 もう一つには、最近ではあまりその気配を感じさせないものの、ヨザックとコンラートの間には人には言いにくい過去がある。 ちなみにコンラートは別段、女の子を弄ぼうなんてこれっぽっちも思ってはいないし、来る者拒まずで二股三股など掛けるような不義理もしていない。好みでない女性をスマートに振るのも上手だ。だから、付き合うと決めた以上はそれなりに好みの相手であるはずなのである。だがしかし、どういうわけだか確かに長続きはしていない。 なのに大抵の場合、付き合いが数ヶ月を経過すると女性の方から《自信がなくなってきた》《あなたにとって、私は不可欠の存在ではないのね》等と言われて別れを告げられる。コンラートとしては大切にしてきたつもりだったのに、一体何が悪かったのだろう?《それならしょうがないね》とスマートに微笑んですんなり別れているというのに、そのタイミングで号泣されるのも不本意だ。そんなことをされても、宥め賺してもう一度付き合ってもらおうなんて気分が出てくるほどお人好しではない。内心うんざりしているのを知られないように優しい言葉を掛けて、その場から離脱するので精一杯だ。 ヨザックも知っている気だての良い女性と別れた時には、呆れたように《あの子で駄目だってんなら、そりゃあんた、そもそも恋だの愛だのに向いてねーよ》なんて言われた。《間違っても、ゴム無しでやんなよ?ガキでもできりゃああんたは責任を取るだろうが、相手にとってもあんたにとっても、特にガキにとっちゃ傍迷惑なことになるだろうさ》とも真面目な顔で言われた。 『人を人格破綻者みたいに言うもんだ』 とはいえ、ヨザックが皮肉げな態度とは裏腹に、本当にコンラートのことを心配してくれているのも知っている。そうすると、コンラートの方がやはりどこかおかしいのだろうか? 『執着がないのがそんなに拙いことなのかな?』 惚れた腫れたで引き際が悪くて、別れを告げられてもしつこくつきまとってストーカーになったり、最悪の場合殺してしまうような事件が相次ぐご時世から考えれば、褒められても良いくらいだと思うのだが。 「この子はそんなんじゃないし、当分は誰とも付き合う気はないさ」 「子?って…おい。あんた妙齢の女性と長続きしないからって、フェチな方向に進んでんじゃねーだろうな?青少年育成条例には抵触してねーだろうな?」 「するか!」 手出しをすれば抵触するが、出す気はないので大丈夫。 …の、筈である。 『確かに、紐パンから覗く白い脚には萌えたが』 コンラートはどちらかというば、顔やら胸やら尻よりは、脚が綺麗な子が好きだ。愛情という意味ではなくとも、愛でる対象としては脚が良い。有利の脚は少年らしく伸びやかで、ほっそりとしているけれど適度に筋肉の乗っていて、踝がくっきりしている様が実に見ていて気持ちよかった。特に、腰を捻らせて横倒しになっていた時の鼠経部から腿、膝裏に掛けてラインが、小振りな尻を申し訳程度に包む黒紐パンと相まって、大層良い眺めだった。 『…て、オイ…っ!!』 《ズバァン…!》と所構わず妄想してしまう自分に、猛烈な裏拳を入れる。本格的な変態ロードに踏み込みかけて、キックターンで身を逸らした。 そんな内心の動揺も長年培ったポーカーフェイスの下にしまっておくと、大抵の者には気付かれない。聡いヨザックも多少眉を歪めはしたが、鼻を鳴らして肩を竦めると、それ以上は追求せずに離れていった。元々、何処かの部署に向かうところだったのだろう。 「ま、良いけどさ」 《良い》と言った癖にわざわざ身を捩って後ろを振り返った男は、らしくもなく真剣な顔をしてぽつりと呟く。 「マジでさ、妙な相手に手ぇ出すのだけは止めとけよ?」 「そんなリスキーな真似はしないさ」 「そうであることを祈っとくよ」 口端を歪めて大仰に十字を切ってみせるような男に、《こんな時だけ縋られても困るだろうな》と、見たこともない神に同情した。 * * * 『金、足りるかな?』 有利は財布を覗くと、心許ない札の数に溜息を漏らした。全くないこともないが、大人の男性に十分なお礼をするには些か淋しげな枚数だ。 「あー…割の良いバイトないかな」 「渋谷、金に困ってるわけ?」 即座に掛けられた言葉に、有利は吃驚して目を見開いた。校門の横で溜息をついていたら、上空から覗き込むようにして上級生が立っていた。 「ハイ。ちょっと懐が寂しいんです」 「どうせ草野球チームの運営費、自分でもっちまってんだろ?ちっとは社会人メンバーに寄付頼めよ」 にしゃりと笑う男は中学時代からの先輩で、八木和人という。かつては野球部のピッチャーで4番を務め、将来を嘱望されていた。野球推薦でかなりの学校に行けるのではないかと噂された時期もあったが、野球部の監督が指導の主体を《根性論》に置くタイプだったせいか、肩を酷使しすぎて腱板断裂を起こした。粘り強いリハビリを続ければ回復が不可能というわけでは無かったのだろうが、八木は日常生活に困らない程度まで回復すると、それ以上のリハビリは止めてしまったという。 『そこまで野球に執着あったわけじゃないし』 そうは言うものの、凛々しいマウンドでの姿は今でも有利の記憶の中で鮮やかに輝いている。万年ベンチの有利は中学時代には一度もその球を受けることはなかった。隙を突いて頼んでおけば良かったなと思うし、今でも生半可に素人に比べれば遙かに良い投球をするだろう八木と、思いっ切りキャッチボールをしてみたいと思う。 有利は八木と違って身体のどこを壊したというわけではないが、やはり八木に無理強いをした監督とは折り合いが悪く、後輩を悪し様に言われた折に殴りつけてしまったことで退部を余儀なくされた。それから硬式野球からは遠ざかっていたものの、それでも野球自体からは離れがたくて、昨年の夏に草野球チームを立ち上げたのである。 八木にも誘いを掛けているのだが、他の遊びには付き合ってくれても、野球については頑なに拒否されてしまう。元々運動神経はずば抜けているので、高校に入ってから始めたサッカーの方が面白いのかも知れない。 「運営費もいるのはいるんですけど、今回はちょっと事情が違うんです。個人的にお礼をしたい人がいるんですけど、週末に約束したら、所持金が不十分かなって思っちゃって」 「へえ」 八木はキャッチボールにこそ付き合ってくれないものの、有利のことは結構可愛がってくれる。入学式の時にも、自分から《覚えているか?》と気さくに声を掛けてくれたのである。今も、物憂いげにしていたのを気に留めてくれたのだろう。 掻い摘んで事情を説明すると、《なるほどね》と納得したように頷いていた。 「約束ってのは、日曜日なんだな?」 「ハイ」 「じゃあ、土曜日に数時間やって2万円の仕事紹介してやるよ」 「えっ!マジですか!?」 ぱちくりと目を見開いてしがみついていくが、それにしたって実入りが良すぎないだろうか? 「専門的な知識とかがいるヤツじゃないですよね?」 「そんなもんをお前に期待してどうするよ」 「ご尤も」 こくりと頷く頭をくしゃくしゃと撫でて、八木はやや気がかりな事を口にした。 「知識はいらねーよ。素質は必要だけど」 「素質?」 有利が相当な自信家であれば、《野球か?》と目を輝かしたろうが、自分の選手としての能力がごく平凡なものであることは十分自覚している。野球にお金を出すことはあっても、お金を貰えることは一生ないだろう。それでも、好きだから良いんだけど。 「細身で脚が綺麗で、女顔。でもちょっとやんちゃな感じで、まるっきり女に見えるって訳じゃないヤツ」 「…………」 むすぅっと頬を膨らましたら、実に面白そうに指先で押された。兄にも言われるのだが、有利の怒った顔というのは余計にからかいたくなる何かを含んでいるらしい。 「俺の親戚が秋葉原に《男の娘カフェ》ってのを作ったんだけどさ、その宣伝ポスターを萌え絵じゃなくて実写画像で作りたいらしいんだよ。店員使って撮ることにはなってるんだけど、ちょっと華がないらしくてさ、可愛い子がいないかって相談されてたんだ」 「し…写真…?」 「がっつり化粧するから、まず分かんないって」 「う〜…」 「結構良いマンションで暮らしてる実入りの良さそうなリーマンに接待するんだろ?2万くらいはやっぱ、いるんじゃねーの?」 「うぅ〜」 それは確かに魅惑的な金額だった。だがしかし、秋葉原と言えば兄のテリトリー(?)だ。うっかり出くわそうものなら、何を言われるか分かったものではない。 「やっぱり俺…」 「無理か?あぁ〜…困ったな。やっぱ他の奴当たるしかないかぁ〜」 有利が眉根を寄せて断ろうとすると、八木は残念そうに肩を落とした。親戚によほど強く頼まれていたのだろうか? 「あの…その親戚の人って、なにか恩義でもあるんですか?」 「んー…まあ、な」 八木は幾分苦笑しながらも、目元を眇めて街路を見やった。何か思い出を辿っているのかも知れない。 「その親戚って奴さ、今まで順風満帆の生活送ってたんだ。良い大学出て、良い会社入って、ぶいぶい言わしててさ。でも、なんかの拍子に女装に填ってから生き方を変えちまったら、途端に親族中から総スカン喰らって、《居ない者》として扱われてんの。俺だってそういう趣味があるわけじゃないけど、なんかそういうのって、自分に重なるトコもあってさ」 「先輩…」 八木は周囲から、ピッチャーとしての才能をかなり買われていた。期待され、大きな故障をしてからも、《リハビリに努めれば、また速球派に戻れるから》と発破を掛けられてきたようだ。本人にとっては、それは不本意なものだったのだろうか? 「俺だって、野球は嫌いじゃなかったよ?だけどさ、まるで野球無くしたら価値がない人間みたいに言われて、そっくり故障する前の状態に戻れって言われるのがしんどかったんだ。そんな時に、あの人だけは《和人が選んだら良いんだよ》って言ってくれたんだ。そしたら、凄い気が楽になってさ…」 しまった。 そんなほろりと来そうな口調で言われて、《へぇ》の一言で終わらせることが出来るようなら、これまでの人生これほど躓いてない。 有利はひたひたと押し寄せるような、悪い予感の波に晒されていた。 「でも、良いんだ。確かに生理的に嫌とかだと、しょうがないし。他を当たってみるよ。それこそ、《お前が選んだら良いんだ》って話だしさ」 良い笑顔で爽やかに言われては、有利には《やっぱりやらせて下さい》と言うほかなかった。 * * * 「すっごい似合ってるぅ〜っ!」 「は…はあ……」 賞賛の言葉を浴びせられながら、有利は力無く溜息をついた。きっちり顔の毛剃りもした上で丁寧に化粧を施され、猫耳と大きな鈴のついた首輪をつけたメイド姿は、どういうわけか男の娘カフェ《るるな》の店員達に馬鹿受けであった。八木の親戚だという店長、江原幸司も先程から《きゃあきゃあ》と黄色い…いや、茶色い歓声をあげている。 ふわふわとペチコートでかさ上げされたスカートは膝上15pくらいで、黒いニーハイとの間にちらちらと白い生足が覗いている。これは所謂、視覚の暴力ではないのだろうか? 『こっちの世界のヒト的にはOKなのかな?』 そういえば、《華がない》と言われていた店員達はその形容通りの容姿なのだが、それでも本人達は満足げだ。30代後半と思われる店長の江原も、ゴスロリ風の衣装を纏ってはいるが、元々はスポーツマンだったのか、かなりごつい。正直言って、全体的にガチムチ体型の人が多い。 その中で言えば、有利は華奢なだけマシなのだろうか? 「可愛い可愛い〜っ!」 「食べちゃいたいくらいよぉ〜んっ!」 オカマさん軍団…いや、彼ら曰く《男の娘》達に頭からバリバリと喰われそうで、ひくりと頬が引きつった。 それでもどうにかこうにか撮影を済ませると、もう夕方の6時になっていた。丁度カフェの方も店開きの時間を向かえるところで、有利以外のメンバーは次々に配置についていく。そんな中、窓辺で作業していた店員が《あっ!》と声を上げた。どうやら、建物と建物の間の空間に連絡帳を落としてしまったらしい。しかも、会員が個人情報を書き込んだカードホルダーだ。 「やだ!どうしよう〜っ!」 顔色を変えて店長が叫ぶが、覗き込んだ窓の向こうには、えらく狭い間隙しかない。もういっちょ狭ければ、逆に誰の手にも触れずに朽ちる可能性もあるが、中途半端な幅が災いして、何かの拍子に風で大通りの方に吹き飛ばされる可能性があった。個人情報を流出させたとなったら、店として信用問題に関わる。そもそも、来ていること自体を知られたくない客も多いだろうし。 「どーしよ。この幅…取りに行けるかしら!?」 「あたし達じゃ無理よ!何か、物干し竿がなんかで取り出せないかしら?」 「通りから伸ばすって?高飛びの棒でもないと無理よ!」 騒ぎを聞きつけた有利がひょいっと窓から覗いてみると、確かに狭いが、通れないほどではないと察する。 「あの…俺、行きましょうか?」 ガチムチシスターズの歓喜は、有利にとっては結構しょっぱいほどであった。 「良いのぉ〜?」 「ユーリ君ってば、超優しい〜っ!」 「惚れちゃうかもっ!!」 ぎゅおっと抱きしめられると、そのまま窒息死しそうになる。むちむちお姉さんならともかくとして、がちむちお兄さんの硬い胸板で窒息死するのは頂けない。 這々の体で逃げるようにして屋外に出た有利だったが、これからがまた難儀だった。 何とか隙間に入り込んでカードホルダーを拾い上げることには成功したものの、あと少しで脱出できるというタイミングで、スカートを引っかけてしまったのである。 「わ…わ!」 通りを歩く人々は、顔を真っ赤にしてあたふたしている有利を面白そうに眺め、からかいの声を上げていた。 「お、仔猫ちゃんが捕まってるぜ?」 「助けてやれよー」 ニヤニヤと笑いながらも満更でもなさそうだった男達だったが、店先に置かれた看板の《男の娘》という単語にぎょっとすると、かなり引いたような苦笑を浮かべる。 「えー?マジ?男かよ」 「あっぶね。俺らの方が捕まるトコだったよ」 「自作自演〜ってヤツ?」 不本意な物言いにぷくりと頬を膨らませれば、男達は急に変な顔をした。 「ぅお…」 「なんだよ。やっべ…目覚めちゃいそうな感じ?」 ナニにだ。 突っ込みを入れたいが、ビルの谷間に挟まったままでは無理だ。 「しょーがねーなぁ、助けてあげちゃおっかな」 「可愛くお礼とかしてくれるかもしれないしぃ〜?」 「ねえねえ、後でポーズとって《お礼するにゃん》とか言ってみそ?」 親切心だけとはとても思えないような顔つきで近寄ってきた男達は、問題のスカートを乱暴に鷲掴むと、何故か引っかかりを外すのではなく、スカートの裾を持ち上げるという暴挙に出た。ニーハイ上の絶対領域が広がり、剥き出しの白い肌が男達を更に調子づかせる。 「ちょ…止め!」 「うっわ。脚細っ!」 「仔猫ちゃんてば、どんなパンツ穿いてるんですかぁ〜?」 紅くしていた頬を青ざめさせて藻掻くが、余計にスカートは釘か何かに引っかかってしまうし、通りへの出口を男達に塞がれているのでそちらに進むこと自体が出来ない。 『どうしよう〜っ!』 涙目になってジタバタしている有利の耳に、ハスキーな男性の声が聞こえてきた。 「おいお〜い。仔猫ちゃんを苛めるもんじゃねーよ」 見上げた先には、えらく鮮やかな蜜柑色の髪が見えた。ただ、ちらちらと頭の上部が見えるだけだから、表情は分からない。それほど怒っているような口調ではないが、どこか威圧するような強さがある。 「や、俺らは別に…」 そそくさと男達が立ち去ると、一足遅れて八木や店長達も駆けつけてくれた。騒動の内容が聞こえていたのか、顔が真っ青になっている。 「渋谷!」 「あ、ゴメンなさい。スカート引っかけちゃって…」 「破けても良いから出ておいで?ゴメンね、怖かったでしょ?」 結局、少しスカートを破きながらも有利が出てくると、様子を伺っていた蜜柑色の髪をした青年も軽く会釈をして立ち去ろうとした。派手な容姿のわりに身なりはきちんとしていて、遣り手のサラリーマンみたいに見える。ただ、仕立ての良いスーツの下には屈強な肉体が隠されているように見えた。さり気ない動きにも隙が無く、《知的な獣》といった印象がある。 「あ…あの、ありがとうございました!」 「大したコトしてないわよぉ〜ん」 駆け寄って正面からきっちりと頭を下げると、がっちりとした身体からは信じられないくらい軽やかな声が響いてくる。 甘いというか、ふわふわと鼻に掛かるような声に有利は激しい違和感を覚えた。 「…え?」 「あら、仔猫ちゃんてば良い色の口紅してるじゃない?マキ○ージュの春の新色、bQ23かしら?ふふ、グリ江にはちょっと可愛すぎだけど、あなたにはお・に・あ・い」 色づいた唇に人差し指を押し当ててそう囁きかける青年は、どうやら《男の娘》属性であるらしい。だからこそ助けてくれたのだろうか? 「ああ!あなたは…っ!伝説のグリ江姐さんではっ!?」 店長が思わず女言葉も忘れて瞠目しているところから見て、どうやら名の知れたオカマ…いや、男の娘であるらしい。 「あらヤダ。昔の癖が出ちゃいそうで困るわぁ〜」 くねくねと身をくねらせる青年は店長や店員同様、かなりのがちむち加減だが、顔立ちが整っている分、化粧をすればある種迫力のある美女(?)に仕上がりそうだと思えたので、有利は思ったままを口にした。 「好きなら、やったら良いのに」 「あら。そぅお〜?グリ江、美しくなりすぎて怖いのよ」 「あはは!」 軽やかな口調に乗せられるように屈託のない笑いを見せれば、青年も楽しそうに笑った。 「うふ、良い子ね。グリ江、気に入っちゃったわ〜。仕事がひけたら遊びに来ようかしら」 「是非来て下さい。でも俺は、今日だけのバイトなんで、何か別にお礼をしなくちゃですけど」 「あら、そうなの?」 青年は少し考えると、懐から携帯を取りだした。 「折角だから、ツーショット写真お願いしちゃおうかしら。本当はあたしが全力メイクしてる時にやりたいんだけどね」 「写真…」 少々躊躇するが、店の宣伝ポスターにまでなったのに今更個人的な写真を断るなんてオカシイだろう。有利は精一杯の笑顔を浮かべると、店長が構える携帯に向かってポーズを取った。 |