「雨のちハレ」−1 3月も末つ方だというのにやけに寒いと思ったら、結構大粒な雪が舞っている。しかも水分と含んだぼた雪なせいか、肩や頭髪はすぐ冷たく濡れてきた。街路はすぐに斑状から全域が濃紺に染められていき、普段ならまだ柑橘色を残している空も曇天に覆われているせいで、全体的にどんよりと暗い。 「さむ…」 少し薄手のコートを着ていたせいもあって、ふるりと背筋が震える。ドイツの豪雪地生まれであるコンラート・ウェラーは寒さに強い方だと思うのだが、昨日までは春めいた気候が続いていたから余計に寒く感じるのかも知れない。 帰路につく人々もやはり寒そうで、みんな襟元を掻き寄せながら足早に進んでいく。寒さもだが、急な降雪に対して傘の持ち合わせが無いせいで、余計早足になるのだろう。 おかげで背が高くて肩幅のあるコンラートは、注意しないと行き交う人々に当たってしまいそうだ。ことに、賑わう駅ではかなり気を使う。階段を降りている時に上がる人とぶつかったりしたらおおごとになってしまうだろうから、急ぎつつも細心の注意を払わねばならない。 『訴訟騒ぎにでもなったらややこしいしな』 コンラートは優秀な商社マンであるが、部下の失敗から仕事上のトラブルに巻き込まれて訴訟問題に関わったこともある。お互い、何とかして金をもぎ取ろう(払わずに済もう)とするもので、金銭的な問題以上に精神の方がすり切れそうになる。まだ仕事だから我慢出来るが、プライベートでまであんな事に関わるのは御免だ。 ドタドタドタ…っ! ぎゃははっ! 部活帰りらしい体育会系の生徒達が、盛んに《寒い!》と叫び交わしながら階段を二段飛びで駆け上がってきた。 「うっおぉ〜、超さみぃっ!」 「トシ〜、お前体温高いだろ?もっと引っ付けよ」 「馬鹿ショータ。誰が貴重な体温をテメェなんぞに譲るかよ」 「つめてぇ〜っ!マジつめてぇぇええっ!!畜生、無理矢理にでも奪ってやるっ!」 「あ、テメ、こらっ!」 ショータと呼ばれたニキビ面の少年は、ぽっちゃりしたトシという友人に絡みつこうとして突っぱねられると、不機嫌そうに眉根を寄せて、巫山戯ながらぶつかっていった。それが連鎖して《ドン…っ!》とコンラートの背中にも当たると、淡雪が階段を濡らしていたのもあってずるりと足下が滑った。 『落ちる…っ!』 一瞬ヒヤリとしたものの、運動神経には自信がある。一瞬で距離を見極めると、数段を足で蹴って一番低い場所まで跳躍する心づもりで身構える。しかし、どこからか伸びてきた手がグイっとコンラートのコートを掴むと、遠心力を使ってブゥンと上の段に引き戻してくれた。 「ありが…」 ほっとしたのも束の間、救い主と思しき小柄な少年が、遠心力に振り回されるようにして空中に舞った。どうやら、コンラートを助けようとして腕を振り回したものの、体格差を緩衝しきれなかったらしい。 ドングリみたいに大きな瞳が印象的な、可愛らしい子だった。今時珍しいくらい手を入れていない漆黒の髪が驚愕に引きつる顔に乱れ掛かる。 少年はコンラートを助けることで、自分の身がどうなるかまでは考えていなかったらしい。華奢な手足があわあわと空を掻き、そのまま落下しかけた。 「…っ!」 咄嗟に伸ばした手がすんでの所で少年の袖口を掴む。何とか縺れるようにして落下は免れたものの、体勢を崩した少年はそのまま手摺りにぶつかるようにして尻餅をついた。 ビシャン…っ! 冷たい飛沫を跳ねた瞬間、《痛い!》とも《冷たい!》ともつかない《い…つっ!?》という叫びをあげて、可哀想なくらいの涙目になってしまう。丁度ぼた雪の溶けたものが氷水となって溜まっていた場所に尻餅をついたようだ。弾かれるように立ち上がるが、端から見ていてもよく分かるくらいお尻はびしょ濡れになっていた。 「大丈夫?」 「あ…へ、平気デスっ!」 引きつった笑みを浮かべてドタバタと駆けていこうとするが、向かう先はどうやらホームだ。これから家に辿りつくまでには幾らかの道程を経なくてはならないらしい。 「もしかして、今から電車に乗るの?」 「はい〜」 振り返った少年は人の良さそうな瞳をへにゃんと伏せて、びっしょりと張り付いているのだろうズボンを指先で摘む。このまま徒歩で家に帰るのならともかく、電車に乗っていくとなるとお尻の濡れた姿は居たたまれないだろうし、そもそもとんでもなく寒いだろう。駅の電光掲示を見れば気温は0度を示している。このまま時間が経てば、風邪を引いてしまうかも知れない。 あの騒々しい学生達に文句の一つも言ってやろうと辺りを見回せば、とっくの昔に彼らの姿は消えていた。おそらくは後に起こった騒動など知らぬまま、きゃっきゃっと笑いながら帰路に就いてしまったに違いない。 『ついて無いな』 その感慨は自分というよりは、庇ってくれた少年に対するものだった。怪我がなかっただけまだマシと思わなくてはならないのかも知れないが、それにしたって、この季節にお尻が濡れているのは何とも辛いことだろう。 最終的にはコンラートが助けたにしても、この子は身体を張ってコンラートを助けようとしてくれたのだから、何とかしてこのしょっぱい状況を少しでも心温まるものにしてあげたい。 少々お節介と思われるかも知れないが、コンラートは申し訳なさそうに誘いかけてみた。 「あの…もし良かったら、着替えを貸そうか?家がすぐそこなんだ」 言ってからふと脳裏を過ぎったのは、ここのところ連日のように報じられている性犯罪に関するニュースだった。サラリーマン風の男が親切を装って男子中学生や高校生をホテル等に連れ込み、性的な悪戯をするというものだった。もしかして、その犯人として疑われたりはしないだろうか? ところが、ぱちくりと目を見開いた少年はきらきらと澄んだ瞳をコンラートに向けてくれた。その瞳には、一片の疑いの色もない。 「え?良いのっ!?」 『いや、君。ちょっとは疑おうよっ!』 自分で誘っておいて何だが、無防備すぎる少年に突っ込みたくなってしまう。この場合の突っ込みは当然、漫才におけるそれに相当し、間違ってもこの子にナニを突っ込みたいと言っているわけではない。 『当たり前だ!ナニ言ってるんだ俺っ!!』 動揺しているらしい自分にセルフ突っ込みを入れながらも、表情は穏やかに保てるポーカーフェイスに乾杯しつつ、コンラートは歩きにくそうにしている少年を自宅に案内した。 * * * 渋谷有利は往々にして《ついていない》ことが多い。 今朝方の星座占いでは《今日は最高の運勢。運命の人に出会えるかも!》なんて言うから期待していたのだが、あちこちで何かにぶつかったり転んだりしていた。最高の運勢でコレでは、最低の時には一体どうなるというのか。 『最後の締めに、お漏らしみたいなズボン濡れかぁ〜』 華麗にサラリーマンのお兄さんを助けたところで終わっていたらまだしも気が晴れたろうに、こんな間抜けなオチとは切ないことこの上ない。しかし、助けたサラリーマンは親切な人だった。このまま電車に乗ることを覚悟していた有利に、着替えを提供してくれるというのだ。 《無縁社会》と呼ばれる世知辛いこのご時世に、何とも義理堅い人が生き残っていたものである。 『外国の人かー。でも、日本語上手いな』 仄かに異国の人らしいイントネーションも入るけれど、丁寧な物言いはとても好感が持てる。最近は男子狙いの変質者もいるとは聞いたが、《この人に限ってそれはナイな。なんせ相手も俺ですし》と安心しきっていた。自慢じゃないが(本当に)彼女居ない歴16年を誇る(誇りたくない)渋谷有利は、学校でもそんなに目立つ方ではない。行きずりの変質者もきっと見過ごすことだろう。(実は根強い男子ファンが居るのだが、保護欲を刺激された一部の熱烈な連中が、学校では頼みもしないのに護ってくれていることを有利は知らない) ところが、青年が入ろうとしたマンションを見上げると、有利は驚きのあまりジリリと後退してしまった。 「え?こ、ここっ!?」 「ああ。近くだろ?」 「いや、驚くトコそこじゃないから!」 確かに近かった。駅から1分も歩かないうちに着いたそこは、見事に駅の真ん前にあるマンションだった。振り返ればまだはっきりと駅が見えるくらいだ。立地条件が素晴らしい上に真新しいそこは、きっと不景気な今時でも《億ション》と呼ばれるのではないだろうか? 「な…なんか、濡れた格好で入るの悪いような…」 青年に貰ったハンカチで拭ってもぽたぽたと落ちていく水滴が、折角綺麗に清掃された大理石様のマーブル模様を汚していくようで、気が引けて仕方がない。けれど、青年の方は苦笑しながら有利の手を引いた。 「ナニ言ってるんだい。濡れたから来たんだろう?」 「それはそうなんだけどー」 「遠慮しないでおいで?」 「う…うん」 こくんと頷くものの、有利が怖じ気づいているのは見え見えだったから、青年は困ったように肩を竦めた。 「ああ…でも、俺のことが不審だったらしょうがないかな?最近は変質者も多いって言うし」 「そんなことナイよ!あ、あんたはいい人だろ!?俺がビビってんのは、ここがあんまりキレーだからだよっ!汚したら悪いと思ってんのっ!!あんたが怖いんじゃないよっ!?」 疑っていると思われたのが心外で拳を握って力説したら、青年は何がツボに填ったものか、大きな手で口元を覆うと《ぷーっ!》勢い良くと噴き出した。 「な、ナニ笑ってんだよっ!」 「いや…初めて会った子に《いい人》って認定して貰えたんで、なんだか嬉しくて」 この人は笑い上戸なのだろうか?くつくつと込みあげてくる笑いをどうしても止めることが出来ないらしく、うっすらと目元に涙まで浮かべて受け続けているから、大真面目な有利の頬は真っ赤に染まってしまう。 「も〜。それ笑うトコじゃないから!」 地団駄踏むようにして苦情を申し立てれば、少し笑いを収めた青年が、今度は真面目な顔をして響きの良い声で囁く。 「感動したんだ。本当だよ?俺、感動すると笑っちゃうんだ」 「ホント?」 「本当だよ。ね、目を見たら分かるでしょ?」 言われて瞳を覗き込むと、吃驚するくらい綺麗な琥珀色をしていた。薄暗かったから先程まではよく分からなかったのだが、マンションのエントランスで目にした瞳は澄み切っていて、切れ長の眦は凛としている。精悍さと気品を絶妙に織り交ぜた造作は秀麗で、怒ったりしたらきっとかなり怖い顔になるのだと思うが、今は暖かみのある色合いが瞳に湛えられているおかげで、全体的に優しげな印象になっていた。 「わ…キレー〜。目に銀色のきらきらしたのがあるね?」 「ああ、遺伝らしいね。父も祖父も、こういう目だったと聞いたし」 過去形で語られる言葉に、おそらく父親ももう亡くなっているのだと知れる。しかも、《聞いた》と伝聞形で言うくらいだから、記憶にないくらい以前のことなのかも知れない。爽やかな好青年な上にエグゼクティブな上流階級の香りがするが、それでも、やはり色んな事を乗り越えてきたのだろう。 『ちょっとぶつかっただけの俺に、こんなに親切にしてくれるくらいだもんな?』 操作パネルにタッチしてエントランスの解錠を行っている青年は、エントランスの間歇照明を受けた横顔が、月のように綺麗なシルエットを描いている。 『綺麗な人だなー。でも、全然なよっとはしてなくて、格好良いの』 男に対して抱く感慨ではないと思うのだが、《こうなりたい》という憧憬からくる想いなら問題なんだろうか?気が付けばうっとりと青年を眺めている自分に戸惑いつつも、彼から目を逸らすことが出来なくなっていた。 * * * 「さあ、どうぞ遠慮しないで?」 「お、お邪魔しまーす」 《しないで》と言われてもそう簡単にはリラックス出来ないのか、少年はぎくしゃくとしたぎこちない動作で玄関に入ってくる。元々物がないから散らかりようがないのだが、先週末に思い立って大掃除をしていて良かった。埃一つ無いすっきりとした室内に、少年はまたまた吃驚して感嘆の吐息をついた。 「すっごいキレーな部屋!でっかいし…。うわぁ〜CMとかドラマでしか見たことないよ!うわー、靴箱の戸板まで木目がキレー!」 「そう?」 コンラートは少年を怯えさせないように戸口の鍵を閉めずにおいたのだが、少年の方はと言うと《退路を断たれる》という恐怖など無いのか、入るなり室内装飾の方に気を奪われていた。何だか無防備すぎるこの子の将来が心配になってしまう。 「ええと…。念のため、鍵は掛けていないから心配しないでね?変なコトしないから」 「そりゃしないでしょ〜!」 《あはは》と屈託無く笑う少年は、よほどコンラートを信頼しているのか、元々警戒心が極端に薄い子なのかよく分からない。だが、《誰にでもこうなの?》と聞くのは失礼な気がして、口にしかけた言葉はごくりと飲み込む。 少年は玄関で濡れた靴下を脱ぐと、申し訳なさそうにぺたりと素足で上がった。フローリングにぺたぺたと残る足跡が、コンラートのそれよりも随分と小さくて可愛い。すぐにタオルを出してやると、歩いても足跡が残らなくなったので残念に思ったくらいだ。 「確か、洗濯に失敗して小さくなってしまった服を捨てずに取っておいたはず…。ああ、あった」 クローゼットを開くと、あまり着ない内に縮ませてしまったセーターとウールのズボンが発見された。 「後は下着と靴下っと」 「パンツは良いですよ」 「いや、着ていないやつがあるんだ。確か…これかな?仕事で試供品として貰ったのをそのまま放り込んでたんだよ」 まだ未開封の包みを出すと、面に印刷された《男性用下着・サンプル》というラベルに、少年も納得した。靴下も同様に《サンプル》と書かれており、コンラートが穿くには少しサイズが小さかった。 「服は切って食用油の処理に使おうと思ってたやつだし、下着と靴下もどうせ貰い物だから返さなくて良いよ」 「え〜でも、悪いな」 少年は《貰って当たり前》という価値観の持ち主ではないらしく、へにょんと眉を下げて唇を尖らせた。そうすると、アヒルみたいにぷくっと唇が尖って、何とも可愛らしい。 「そうだ。油の処理に使うつもりだったんなら、固めるテンプルお返しに持ってくるよ!」 「ああ、それがありがたいかな」 それならそれほど高価ではないから、使わなくなった服の代価としては丁度良いだろう。交渉成立して安心したのか、少年は遠慮無く服を受け取った。 しかし、鞄をフローリングに置いてからちょっと考えるような顔をすると、少しもじもじしながらベルトに手を掛ける。 『あれ?ここで着替えるのかな?』 風呂場で着替えるよう勧めても良いのだが、何となく言いだし損ねてしまった。少年の方は先程から盛んにコンラートを《いい人》と認定しているせいか、人前で着替えることに軽い羞恥を覚えつつも、《警戒してなんかないよ》ということを示したいのか、敢えてこの場所で着替えようとしている気がする。 『身体を張って信頼を示してくれてるなー』 コンラートは人に警戒心を抱かせないことで定評があるが、ここまで《信じている》とアピールされると、申し訳ないような気がしてくる。コンラートとて聖人君子ではないから、今まで色々と美味しいシチュエーションの時には便乗したりしているのだが…。 『いや、別に今は便乗しようとか思ってないけどねっ!』 またしてもセルフ突っ込みを入れながら(脳内ではマイクを挟んで二人のコンラートが立ち、頭を掻くボケのコンラートに苦笑した突っ込みコンラートが裏拳を入れている)、コンラートは敢えてポーカーフェイスのままその場所に残った。少年が信頼してくれるというのなら、信頼に足る人物であると証明しなくてはならないような義務感を覚えたのだ。 「…っ!」 するんと学生服のズボンだけ降ろすと、少年の下肢は思いがけないほどの白さと、しなやかさを持っていた。間違いなく少年の脚なのだが、均整のとれたラインと、恥ずかしそうに少しもじもじしている様子が、学生服の上着だけ着ているせいもあって悩ましい。 更に青色のトランクスがするりと降ろされると、流石にコンラートは視線を宙に泳がせた。 『が…学生服の上だけ着てて、ノーパンの状態って…』 いや、女の子ならともかく男の子なら別に問題ないだろう。こんなポイントで頬が染まるほど動揺している自分こそ問題だと、また《突っ込みコンラート》の激しいハリセンが後頭部に飛ぶ。 「あ…こ、珈琲飲める?」 「ハイ。あ、お気遣い無く」 「折角だから飲んでいって?一杯煎れるのも二杯煎れるのもそんなに変わらないし」 「じゃあ、ご相伴にあずかります」 着替えながらぺこりと頭を下げる少年から意識的に目を逸らして、コンラートは瞬間湯沸かし器に水を仕掛けてスイッチを入れる。その行程に1分弱掛かったから、着替えが早いコンラートは自然と《もう着替えは終わっただろう》と見越した。 そして視線を少年に戻すと…。 「…っ!?」 少年はまだ着替えの途中だった。 決して少年の起挙居動作が特に鈍かった訳ではないと思う。 問題があったのは少年ではなく、下着の方だった。 『なんで紐パンーっ!!!???』 そう。 少年があからさまに動揺しながら、耳朶も頬も、首筋さえも真っ赤にして穿こうとしているのは、魅惑的な黒い紐パンだったのである。 ぇえええええええええぇぇぇぇぇぇっっっっ!!!!???? あまりの衝撃に、脳内ではボケコンラートのみならず、突っ込みコンラートまでが両手で頬を包んで仰け反っていた。 |