第三章 \ーB
コンラートが白狼族の鋼に跨って訪れるのよりも数日ほど前、クライスト家の館では軟禁状態に置かれたアーダルベルトのもとを、有利が訪問していた。
* * *
その子どもは、不思議な目をしていた。
『真っ黒だ…』
《双黒》という存在をありがたがる気持ちは、眞魔国人としては異質なほどアーダルベルトには乏しかった。
暗い色合いを好まないアーダルベルトにとって《黒》とは貴色などではなく、全ての色をぶち込んだ時に出来る《最も濁った色》という認識が強かったのだ。
眞魔国を…魔族としての自分を捨て、人間の世界で過ごすようになってからはなおさらだった。
大嫌いな眞王と並ぶ存在である大賢者についても嫌悪の対象としていたから、《黒》を目の前に置かれれば言いようのない苛立ちが浮かぶと…そう、思っていた。
だが、何故なのだろう?
今…自分を見あげる子どもの瞳が、夜の帷(とばり)のように包み込むようなやさしさを湛えていると思うのは…。
『これが…ジュリアの魂を、異世界で継いだ子ども…。そして、俺が抱えていた魂を《産む》子ども…』
そう、子どもだ。
無邪気な顔をした、少年とも少女ともつかないあどけない子ども。
だが…精霊の如き愛らしさを湛えたこの子どもが、即断で決意したあの姿をアーダルベルトは生涯忘れることはないだろう。
『こいつは、勘違いだとしても…俺の中に入ってきて、命を生き始めてる…。もう、動かさないで?』
体内で増殖しようとした《異物》を排除することを拒否し、自ら女体となって子どもを宿すことを選んだ有利。そして、ジュリアの魂が別の生体内に宿ってしまったという事実をどう受け止めて良いのか分からず…アーダルベルトは数日に渡って茫然自失状態にあった。
屈強な衛兵が扉やバルコニー前に詰めて終日監視の目を緩めることはなかったが、そんなものは無意味だった。アーダルベルトは空虚な目をしたまま、どうして良いのか分からずにいたのだから。
有利がコンラッドを伴って部屋を訪れたりしなければ、自分でも一体どのくらいの時間で回復したのか…いや、生きている間に立ち直ることが出来たのかどうかすら分からない有様であった。
「アーダルベルト、いいかな?」
ひょこっと扉から顔を出した有利は、《類い希な美貌》なのは間違いないのに、何故だか不思議なほど親しみやすい表情をしているように思えた。
怯えたように後ずさるアーダルベルトをどう思ったのか、有利はゆっくりと…間合いを計りながら近寄ってきた。
傍らに控えるコンラッド…異世界のウェラー卿コンラートは微笑みながらも一瞬たりと気を緩めることはなく、アーダルベルトが不審な動きを見せれば即座に首を刎(は)ねんばかりの心構えであることが見て取れた。
コンラッドの反応は理解できる。
当然と言っていい。
不思議なのはこの子どもだ。
どうして、こんなにも邪気のない表情でアーダルベルトに寄って来るのだろう?
『もしや…』
スザナ・ジュリアであったときの記憶が、そうさせるのか?
無意識の期待を帯び、瞳を輝かせて手を伸ばしたけれど…眼差しの意味を理解してか、有利の瞳には労りと同時に…憐憫の色が浮かんでいた。
『違う』
こいつは、スザナ・ジュリアではない。
彼女によく似た懐の深さと優しさ…思い切りの良さを持ちながらも、全く別個の生物なのだ。
それを理解した瞬間に、またアーダルベルトは怯えを瞳に浮かべたが…有利は《逃がさない》と決意しているのか、意外なほどの俊敏さを見せてアーダルベルトの懐に入り込むと、力一杯手を握ってきた。
華奢な作りをした、少女の手。
それは…拳闘で鍛えたスザナ・ジュリアの手とは全く違うものだった。
「辛いよね…?」
「…っ!」
「俺、ジュリアさんじゃないよ?俺の中にある奴も…ジュリアさんのものだった魂を受け継いではいるけど、ジュリアさんじゃあない。それを突きつけられるのは、辛いよね…?」
「嬲るつもりか…?」
苦渋と嘲(あざけ)りに満ちた言葉に、澄んだ声音が返される。
「違うって、あんた分かってるだろ?」
なんと言うことだろう…。
子どもだと思っていた相手は、アーダルベルトよりも一枚上手だ。
一体どのような経験をしてきたのかは知らないが、確か生まれ落ちてから18年にしかならないこの子どもは、アーダルベルトの傷ついた心に寄り添い…稚気を帯びた駄々すらも柔らかに受け止めて見せる。
彼は、幼い中にも確かに《王》としての度量を持つ者なのだ。
「俺はさ…辛さをどう受け止めろとか、あんたにどーしろとかこーしろとかは言わない。…言えないよ。だけど、これだけは分かって欲しい。俺は…新しい生き物として産まれてきたんだ。ジュリアさんとして扱われることには我慢がならないし、きっと…ジュリアさんもそうだと思う」
「…………」
「あんたがどう生きていくのかはあんたが決めなよ。でも…これだけは聞いて?あんたは俺が住んでる世界でも、やっぱりジュリアさんを亡くした痛みと闘うことになってたけど、それでも…人生を投げたりはしなかった。曲がりくねった道をぐるぐる回ってるように見えても、それでも…自分なりにどう生きていくかを決めて、進んでる」
「俺と同じようにか?」
「そうさ…あんたより、少し早くどう進むかを決めることが出来たみたいだけどね。俺は…」
ほわりと微笑んで、有利は言う。
「あいつのこと、結構好きだよ?」
「ほほう…」
「何で…そこでお前が相づちを打つ?」
意味ありげに頷きながら、妙〜に深い笑みを見せるコンラッドに、ついついアーダルベルトは突っ込みを入れてしまった。
「いえ?別に?《結構》がつきますからね、大丈夫ですよ?ええ…」
「大丈夫なら、何でそんなに意味ありげなんだよ…」
ぷぅ…っと頬を膨らませて有利が睨むと、愛くるしいその仕草に自然とコンラッドの眦が下がる。
「きっと…あなたのそういう反応を見たいからですよ?」
「なんだよそれ〜!もーっ!」
ぽかぽかとちいさな拳でコンラッドの肩を叩きつつも、有利もどこか照れくさそうに微笑んでいる。
『なんなんだ…この阿呆っぽい連中は……』
唖然として見守るアーダルベルトに、コンラッドはにやりと人の悪い笑みを浮かべて見せた。
「阿呆だと思ってるだろ?」
「……まぁな……」
「俺はあんたとジュリアがこういうやりとりをやっている時に、いつもそう思ってたよ?」
「そーかい……」
コンラッドの瞳は急に懐かしさを帯びて…遠く、遙かな場所へと旅立っていた友を見送った。
「…そんなあんた達を見るのが、俺は…とても好きだった」
「………そうか…」
この男は…こんなにも軽妙な男だっただろうか?
軽やかな表情は浮かべながらも、常に凍てついた感情によって沈鬱な何かを抱えているように見えた男は、異世界ではどういう暮らしを送っているのか…やけに朗らかで、独特のおかしみを持っている。
そして、とても大らかな優しさで人を包んでしまえるようだった。
まるで…かつてのスザナ・ジュリアのように。
『懐かしい…』
不意に気付いた。
今…痛みを帯びながらもどこか心地よい感傷として、アーダルベルトはジュリアのことを思い出している。
物質的には、もういない。
けれど…誰よりも…何よりも大切であったその事だけは色褪せないまま、眩く暖かな光に包まれてジュリアの思い出がそこにある。
『ああ…失われた訳じゃねぇんだ……』
こうして、ちゃんと思い出すことが出来る。
ジュリアは、アーダルベルトの中に…確かに残っている。
彼女を、真に永遠のものとして自分の中に見つけた瞬間…アーダルベルトの瞳に滂沱(ぼうだ)の涙が沸き上がってきた。
悔しさではなく…。
呪詛ではなく……。
ただ純粋に慕わしく愛しいと、素直に思うことが出来る。
スザナ・ジュリアという存在が失われたことを、必死に懸命に打ち消しながら生きてきた日々が、浄化されていく…。
「アーダルベルト……」
名を呼び、有利が腕を伸ばしてアーダルベルトを抱きしめた。
コンラッドはギリギリのところで我慢しつつ剣の柄を握りしめているが、それは脅しだけで…実際は、鯉口を切ったりすることはないだろう。
だからアーダルベルトは(ちょっと慎重な動きではあったのだが…)、有利の細い背に腕を回して、その華奢な体躯を抱き込んだ。
ジュリアではないその存在を異なる者として認識しながら…全く異なる感情で、大切な者なのだと感じながら…。
* * *
泣いて泣いて…生まれて初めて、目が溶けるかと思うほど泣き続けたあげく、憑き物が落ちたようにけろりと落ち着いた。
アーダルベルトは葬式でやたらと泣く男を軽蔑してきたが、きっとあの涙は決別の為に必要なものだったのだ。
『妙にスッキリしちまったな…』
泣いている間、意外なほど気持ちが良くて有利の身体を抱きしめていたアーダルベルトは、《落ち着いた》と自覚した瞬間にベリリっと勢いよく引きはがされた。
勿論、行使者はコンラッドである。
「満ち足りたな?」
目が据わっている…。
「お…おう…!」
「では、俺に返せ…」
我慢の限界を越える一歩手前でリンボーダンスを踊っているような顔(…どういう…)で確認をとると、コンラッドは《むきゅうぅううう…》っと音がしそうな勢いで有利を抱きしめた。
「おい…抱き潰すなよ?」
「お前が言うな、筋肉達磨」
この男は、こんなに口の悪い奴だったろうか…。
暮らしぶりが違うと、ちょっと品が無くなるのか?
「なんだこの野郎!筋肉蔑視か?」
「そうだぜ?コンラッド。筋肉は大事だよ?」
「ユーリ…アーダルベルトの筋肉の方が俺より良いんですか?何でしたら、プロテインを呑みますが…」
打ち拉がれたように(何故か、冗談とは思えないほどの勢いで…)コンラッドがしょげてみせると、有利は慌てたようにぷるぷると首を振った。
「やだよー、俺…コンラッドの今の肉付きが好きだもん!しっかり実戦向きの筋肉がついてて逞しいのに、腰とか《細い〜っ!》って感心するくらい括れてるもん。格好良いよ!」
「そうですか?」
「うん!子ども産んで男に戻ったら、俺もそういう筋肉になりたいな〜」
『…………それは止めましょうよ』
…とでも言いたげな顔をコンラッドはしていたが、何故か微妙な笑顔を浮かべて頷くだけだった。
どうやら有利の方は結構な筋肉スキーだが、コンラッドとしてはそうはなって欲しくないらしい。
『まあ、そうだろうな…』
こんなに可愛らしい容貌にコンラッド級の筋肉がついたら、かなり不気味だ。
均衡というのは大切なものだろう…。
「よう、ユーリ陛下」
「陛下っていうなよ。あんたんとこの王様はもうレオなんだからさ」
「じゃあなんて呼べば良いんだよ?」
「ユーリで良いよ。あんた、あっちの世界でもそう呼んでるし」
「ああん?あっちでもこの調子なんじゃねぇか!」
豪快に笑いながら、アーダルベルトは思うのだった。
こんな風に笑える日が来るなんて、数日前までは思いも寄らなかったな…と。
えらく心が澄み渡り、視界が開けているような気がする。
ふと自分の心を見回せば、そこに何を為すべきかという事由がころりと転がっていた。
「決めたぜ。俺は…お前さんが自分の世界に帰り着く日まで、その身を護ると誓う」
凛と上げた表情は、彼本来の豪放さと誠実さを湛えていた。
「護ってくれんの?俺を…?」
「ああ、ジュリアとしてじゃない。こいつぁ…お前さん個人に、一己の《アーダルベルト》として捧げる忠誠だ」
「そっか…」
有利は納得したように、小さく頷いた。
まだ十貴族として…魔族として回帰するつもりはないが、当面はこの子どもに付き従ってみよう。
きっと面白い風景を見せてくるのではないか…。
そんな期待までしてしまう。
『期待してるぜ?坊や…』
今は女性体であることなど意に介せず、アーダルベルトはそう心に思うのだった。
* * *
そして数日の間、アーダルベルトは軟禁を解かれて客人として扱われるようになった。 忙しい合間を縫ってやって来たギュンターが、そのように取りはからってくれたのだ。
『フォングランツ卿アーダルベルト、私はあなたのした事を許した訳ではありませんよ?罪のない辺境の民を死地に追いやり、グランツ家を誹謗中傷の的にしたのはあなたの振る舞いの結果です』
ギュンターはぴしゃりとアーダルベルトの鼻っ柱を折って見せたが、最後に優しく微笑みかけることは忘れなかった。
『けれど、償えぬ罪は無いと信じております。その者に、償おうとする意志がある限り…ね?』
麗しのフォンクライスト卿は、存外に愛嬌のある言い回しをする男であったらしい。小首を傾げて語尾を上げる口調はえらく可愛らしい。
四角四面な真面目教官としてしか見ていなかったアーダルベルトにとって、それは新鮮な驚きであった。
まこと人生とは不思議なもの…。
生きていく限り、良くも悪くも予想外の驚きが待っているものだ。
この館に住まうクライスト家の面々も、最初の内こそアーダルベルトのことを《魔族の恥さらし》と蔑視していたようだが、有利やコンラッドが拘りなく接する姿を見たり、真実をそのまま教えられたわけではないにせよ何やら止むにやまれぬ事情があったのだと察すると、それ以上は追求することなく冷静に振る舞ってくれた。
時折…言葉は掛けずとも黙礼を送ってくる表情には、以前のような険は無い。
今宵も内々の夜食会に招いてくれたほどだ。
* * *
「ユーリ陛下、どうぞもう一皿お召しあがりください」
「んー、もうお腹いっぱい。ご馳走様でした!」
館の主フォンクライスト卿オルトゥースが三皿目のケーキを取り分けようとすると、有利は両手を合わせて恐縮しつつ、お断りした。
単に満腹というのもあるのだが、オルトゥースは《流石ギュンターの親戚》というべきか、その愛は熱く激しくしつこい。
お言葉に甘えて色々して貰うと、有利の方が困ってしまうほどなのだ。
「ユーリ陛下がおいでになってからというもの、お爺さまったらすっかり陛下の虜(とりこ)になられて…。ふふ、実の孫娘よりも大切なご様子ね!」
「お前は育ちすぎて可愛げがないからな」
「まぁ!」
くすくすと呆れたように笑うのは孫娘のフォンクライスト卿リネリアだ。
孫娘とはいっても、オルトゥースがかなりの老齢であるためリネリア自身もギュンターと張る年齢であるらしい。
「その点、ユーリ陛下は本当にお可愛らしい…。何でもして差し上げたくなるのは道理というものだ」
オルトゥース翁はすっかり開き直りの姿勢を見せている。
「本当に良くして頂いて…結局長逗留になっちゃったし、すみません」
「何を仰いますやら…お気になさいますな!」
オルトゥースはかっかっかっと黄門様のように闊達な笑いを放った。
なかなかに、憎めないキャラクターである。
* * *
「おや…」
ふと、コンラッドが天上を見上げた。
有利も釣られて顔を上げると、ぱぁあ…っと表情が朗らかなものになる。
「レオーっ!丁度いいところに来たねぇ。夜食みんなで食べてるところなんだ!一緒に食べようよ!」
立ち上がってブンブンと手を振る有利の姿を愛おしげに見守りながら、オルトゥースは思った。
『この方の無邪気さは、世界を明るくする力を持っている…』
きっと、強い魔力よりも何よりも…この力こそが世界を救ってくれるのではないだろうか?
見上げた空では、銀色の獣に跨った若き王が目をまん丸にして有利の姿に驚いている。どのようなものかは測りかねるが、きっと大きな悩みを抱えてここまで来たに違いない。
『どうか…彼の心にも光を与えて下さいますように!』
眞魔国の未来を担う獅子王が本来の力を発揮するためには、光が必要だ。
それをこのちいさな少年王に期待することは、端から見れば負担過多と映るかも知れない。
だが…オルトゥースは思うのだ。
それが負担であるか、不幸せであるかを決めるのは他の誰でもない…当人だけなのだと。
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