第三章 \ーA






「…………アニシナ……」
「なんです?」
「その…もう、痛くはないのか?」
「痛いと言えば何とかしてくれるのですか?」
「………どうにもできん」

 フォンカーベルニコフ卿アニシナの額には、現在巨大なバッテン型の湿布が貼られている。
 先程、カーベルニコフ領とグウェンダルの机を繋ぐ引き出しから出てくる際に、したたかにぶつけたせいだ。

 グウェンダルは《何故わざわざ派手なバッテン型にするのだ…》と思ったが、加害者である引け目と、確かにバッテン型の方が彼女には似合っていて可愛いので文句は言えなかった。

 久しぶりに耳にした、叩き斬るかの如き舌鋒にも一瞬怯んだものの…不意に、《弟》の顔を思い出して…閉じかけた口を今一度開こうと決意した。



『コンラート…』

 彼はかつて、品の良い笑顔の下に氷のような冷静さを湛えた男だった。

 その彼がなりふり構わず兄や弟に対して《馴染もう》と努力する様は、昔の姿を知るもの…表面的な美しか理解しない者にとっては興ざめとも映るかもしれないが、グウェンダルにとっては面はゆいと同時に、えらく感動的な姿にも見えたのである。

 氷のように心を閉ざしていれば恥ずかしい思いも気まずさも感じない。だが…その代わりに、決して無くしてはならない何かを失うことになるのだと、コンラートは気付いたのだろう。

 不慣れな仕草で…けれど、心からの想いを込めて微笑む弟は、とても可愛らしかった。



 それを思い出したせいだろうか?
 アニシナに向かって掛けた言葉は、思いの外やわらかいものとなった。

「……確かに、どうにもしてやることは出来ない。だが…お前が痛がっているのなら、もう一度言おう。すまない…」

 アニシナはどう感じているのか…ぱちくりと大粒の瞳を見開いたものだから、普段は炯々(けいけい)と釣り上がった眼裂がなにやら随分と可憐に映る。

「肉体が癒されることにはならずとも…多少は気が晴れないか?」

 語尾は流石に羞恥が高まってきたせいで不機嫌そうになってしまったが、口元を覆いながらも照れたように流し目を送ると、アニシナは驚きと…《満更でもない》という表情を見せて苦笑した。

「ふふん…。グリエ・ヨザックの報告通りですね。あなたにしては随分な成長ぶりだこと!それは、獅子王コンラート陛下の影響ですか?」
「……そうだろうな…」

 更に口元が《ふにゃ度》をあげてしまいそうになって、グウェンダルは口元に被せた手を戻せなくなってしまった。
 これでは、ちょっぴりカマ臭い…。

「グウェンダル、あなた何をもぐもぐやっているのですか?歯に滓(カス)でも詰まっているのですか?それとも、私に内緒で美味しいものでも食べているのですか?大体なんです!客に茶の一杯も出ないのですか?これだから男というものは…っ!」

 アニシナの方も妙な照れがあるのだろう。
 殊更に激しい語調でバンバンと卓上を叩きながら文句を言い出した。



 さて、今現在血盟城の応接間にいるのはグウェンダルとアニシナの二人である。

 ギュンターは気を利かせて秘書官と共に執務室に残り、二人を応接間へと送り出すと、残りの作業を肩代わりしてくれている。作業とはいっても既に必要な指令は出し尽くしているので、不測の事態に際して質問事項が各担当者から上がってきた際の窓口を勤めることになる。

『良い機会です。しっかりおやりなさい?』

 年上口調でそう促す友人にジト目を送りながら、グウェンダルはアニシナを応接間へと連れてきたわけだ。



「失礼します」

 叱責の声が聞こえたせいではないのだろうが、メイドがしずしずと入ってきてお茶の用意をすませると、やっとアニシナは大人しくなった。腹ごなしをしている間だけ静かになるのは昔のままだ。

「それで…?グウェンダル。私に数十年越しの謝罪をしてくれるのでしょう?早くなさい」

 腹が満ちた途端に、アニシナは唐突な物言いで切り出してきた。

「……それなのだが、アニシナ…。気分を害さずに聞いてくれ。お前、一体何故私にああも怒っていたのだ?私はお前に何かしたか?」

 《害さずに聞いてくれ》という言葉は、何の前フリにもならなかった。
 グウェンダルの言葉を聞いた途端、《ぷぱーっ!!》…っとアニシナの怒りメーターが振り切れる音が聞こえてきたのだ。

「なんたる、なんたる、なーんたるっ!」

 ノンノン(ピンク色のムーミントロール)のお兄さんもかくやという怒り方を示したアニシナは、《バーン》っと勢いよくテーブルを叩いて茶器に異音を響かせた。

「覚えてないのですか!?」
「覚えてないのではない!心当たりがないのだ!」
「心当たりさえないと!?私をあれほど怒らせておいてっ!」
「ないものは仕方がないだろう!」
「開き直りですか?」
「開き直ってでも問いただすしかあるまい!私はお前と再び友誼(ゆうぎ)を結びたいのだ!その為に必要ならば、どのような関係のもつれも解決せねばならん!」

 負けじと力強く拳がテーブルを叩けば、勢いよく躍り上がったカップから茶褐色の液体が滴となって飛び散った。

 真摯なその眼差しには感じるものがあったのだろう。
 アニシナは怒りを一時置くと、彼女にしてはゆっくりと語り始めた。
 彼女が、グウェンダルと袂(たもと)を分かつようになった理由を…。



*   *   *




 かつて、アニシナにとってグウェンダルは格好の獲物だった。

 魔力が強く、腕っ節も強い割に小さな生き物にはからきし弱かった彼は、アニシナが押していけば最後には必ず負かされていたからだ。
 どんなに悲惨な目にあっても遊びに行けば茶菓子を出して話につきあい、最終的には魔道装置に組み込まれる男を、アニシナはたいそう気に入っていた。

 だが、ただ魔力が強いだけの男をアニシナの《崇高な魔道装置》に触れさせたりはしない。
 やはり本質の部分も気高さを持った者にしか、許されることではない…と、アニシナは思っていた。

 ところが、今を遡ること数十年前…グウェンダルは大いにアニシナの失望を買うこととなったのである。

 彼は…よりにもよってアニシナの親友であった女性の死について、極めて気のない発言をしたのだ。

 その女性の名はヴェローナ卿アンシア。
 今は亡きフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナの婚約者であった女性だ。

 

*   *   *




「………待て。本当に覚えていないぞ?ヴェローナ卿アンシアの死に際して、私が何を言ったというのだ?」

 グウェンダルは困り果てて眉端を下げた。
 誤魔化しているわけではなく、本気で思い出せないのだ。

 彼女とアニシナが仲がよいということは知っていたものの、さほど面識もなかったグウェンダルにとって、彼女は《腕っ節が強いらしい女性》としか認識されていなかったのだ。

「私は一言一句、漏れなく覚えていますとも!あなたは、アンシアの死を嘆く私にこう言ったのです!《それは仕方のないことだ。命には、決められた定めというものがあるのだから》…そう言ったのですよ!」

 当時の怒りが蘇ってきたのか、アニシナはぶるぶると肩を震わせると拳を握りしめてグウェンダルを見上げてきた。
 またとんでもない発言をしようものなら、容赦なく殴りかかるという構えだ。

 しかし、グウェンダルはアニシナの言葉によって別の記憶を刺激されていた。

「《命には、決められた定め》…?それは……」
「言ってないとでもいうつもりですか!?なんなら、当時を再現させる為の装置でも作りましょうか!?」
「いや…作る必要はない。覚えている…」

 グウェンダルはそっと瞼を伏せて、目元を覆った。

「ヴェローナ卿アンシアの死は気の毒で、《定め》の一言で済まされるようなものではなかったな。誤解を与えたことは詫びる。だが、私にも弁明させてくれ。それは…お前の友に向けた言葉ではない。アリティアへの未練を断ち切る為に、私が…自分に向けて口にした言葉だ」
「なんです?その女は…」
「猫たんだ。目も開かず、乳も自力では飲めぬ仔猫時分に拾って、昼夜を問わず懐に入れて大切に育てたのに…独り立ちさせようとして野外に出したその日に、馬車に轢(ひ)かれて…死んだ……」



 グウェンダルは沢山の小動物を育み、その中で沢山の死も見送ってきた。
 だが…その中でも、アリティアの死の酷(むご)さには、今思い出しても胸が塞がれる想いがする。

 馬車の車輪に引っかけられて、一瞬の断末魔と共に絶命した仔猫をグウェンダルは救うことが出来なかった。

 事切れ、肉片に変わってしまった遺骸が…グウェンダルの掌の中でどんどん冷たくなっていったあの感覚が、今も手に残っているようだ…。

 変わり果てた姿に悄然としていたグウェンダルは、埋葬をすませた後にアニシナに声を掛けられたのだが…その時、アニシナもまた悲しみに暮れていた。
 混乱していたグウェンダルは、おそらく…《アンシア》と《アリティア》を取り違えたのだ。

 何故なら、二人…いや、一人と一匹の死には、どちらにもフォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルとフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナが関与していたからだ。

 いや、《関与していた》という言い方は公正さを欠くことになるだろう。
 彼らは別に、故意に死を招いたわけではないのだから。

 全ては、巡り合わせの拙(まず)さだったのだ。

 アリティアを轢(ひ)いた馬車にはシュトッフェルとヴァルトラーナが乗っていた。
 彼等は死んだ仔猫に汚物を見るような目を向けたけれど、グウェンダルの飼い猫であったことは理解したのか、おざなりながら詫びの言葉は口にした。

 グウェンダルにとってはどれほど空虚に響いたとしても、詫びは詫びだ。それを理由に、更に彼らを断罪するわけにはいかなかった。猫なのだから、彼らに轢かれなかったにしても他の理由で絶命する可能性だって多々あったのだから。

 だから、傷つきながらも立ち直ろうとしていたグウェンダルは、憤りを口にするアニシナに例の言葉を伝えたのだ。自分に言い聞かせるように…生きとし生けるものには運命があり、アリティアは死すべき定めを免れ得なかったのだと。

 だが、アニシナにとってアンシアの死は《運命》で片づけられるようなものではなかった。

 何故なら…ある宴の席でアンシアはシュトッフェルの怒りを買って居丈高に叱責され、ヴァルトラーナとも仲違いをしてその場を飛び出したのだ。
 なまじ、腕が立つことを過信していたせいもあったろうし、ヴァルトラーナの指示で付き従っていた護衛隊が疎ましかったせいもあるのだろう…僅かな侍女のみを連れて自領に戻る途上、アンシアは人間の率いる盗賊隊の襲撃を受けて惨い最後を迎えることになったのだ。
 非力な侍女達を逃がして敵の矢面に立ったアンシアは必要以上の陵辱と、残虐極まりない扱いを受けて絶命した。

『アンシアの死について、ヴァルトラーナは責任転嫁をしています!』

 おそらく、あの時…ヴァルトラーナが唯ひたすらに人間を呪い、自分の責は認めようとしなかったことにアニシナは怒りを感じていたのだろう。

 何故あの時、シュトッフェルは公衆の面前でアンシアを辱めたのかと…!
 ヴァルトラーナはシュトッフェルの与えた辱めからアンシアを救わなかったのかと…!
 せめて、距離を置いてでも警備隊を付き従わせなかったのかと……。

 ヴァルトラーナにしても言い分はあったろう。
 彼はどれほど激しい喧嘩を繰り返そうともアンシアを愛していたし、その死を誰よりも深く嘆いていた。
 
 ただ、一瞬…アンシアの誇りを護ることと十貴族としての体面を天秤に掛けたとき、微かな差で後者に重きを置いてしまったのだ。
 それが、本当にとても小さな…そして、決定的に運命を分かつものであったことを、グウェンダルはコンラートの語った話から推測することが出来た。
 彼の話では時系列において数十年のギャップがあるようだが…あちらでもやはり、宴の席でシュトッフェルのやりようを非難したアンシアが叱責されるという事件が起きているが、ヴァルトラーナは同胞ではなく婚約者を護ることを選択した。

 こちらの世界では、その遣り取りが未だシュトッフェル、ヴァルトラーナ両名の結束が硬い時代に起きてしまったのだ。ユーリ陛下の存在によって、大きく世界観が変わっていたあちらの世界とでは条件が随分と違ってくるが、そうなのだとしても…ヴァルトラーナの決断が、そう単純に為されたものだとは思わない。

 きっと…非常に微妙な均衡の中から選び出した選択だったのだ。
 そしてそれは最悪の結果を招いた。

 グウェンダルがアニシナと袂を分かつことになったのも、アニシナの怒りを理解できず…その時に限って理由を問いただすことも面倒で、ズルズルと疎遠なまま今日まで来てしまったせいだ。
 ヴァルトラーナほどの悲劇は引き起こさなかったにせよ、長い経過を考えればアニシナの能力が生かされなかったという点で、大きな損失になっているのだろう。



「アニシナ…双黒の魔王が君臨する世界では、ヴェローナ卿アンシアは生きているそうだ」
「なんですって…っ!?」

 グウェンダルの語る異世界の歴史にアニシナは瞠目(どうもく)し、その世界で自分がどれほど生き生きと、眞魔国の命運を握る働きを示してきたかを教えられた。

「双黒の大賢者は言われた。お前の怒りを解き、力を借りることがこの世界を救う為の大きな要素となるだろうと。だが…私は、その事がなくともお前とは誤解を解いておきたかった。ずっと…そう、思っていた」
「……」
「お前はどうなのだ?」

 返事が来ないことに焦れて声を荒げて不機嫌そうな眼差しを送ると、アニシナがカチンと来たように両手を腰に掛けた。
 
「あなたには、気にくわない面も多々あります。尊大で、上から見下ろす態度などが特に気にくわない!」
「身長差があるのだ!仕方あるまいっ!!」
「そういう問題ではありません…!」

 また下らない喧嘩が生じかけたが、意外なことに…先に態度を軟化させたのはアニシナの方だった。

「…よしましょう。私は、その気にくわないところを全部ひっくるめたより、あなたの美点を気に入ってもいます」
「……そうか…」

 グウェンダルもアニシナも、もう一言何か…《ちょっと心温まる言葉》を口にしようとしたけれど、互いにここが限界と悟ったように口を閉じてしまった。

 その代わりに…二人はその日、夜遅くまで茶菓子を摘みながら会話をした。
 時には喧嘩をしながらも、笑ったり嘆いたりしながら…会話をした。

 そして、口にはせずとも心から思ったのだった。
 
 
 目の前に座っているこの相手が、やはり得難い者であるのだと。
 その相手がいなかった日々が、自分にとって…とてもとても、辛い時間だったのだと…。
 

 

*   *   *




 宵闇の空を、月光を弾きながら銀色の獣が飛来していく。
 鋭利な刃物を思わせる月は明るさに乏しく、その代わりに星々が至近距離にあるかのように強く輝いている。

『まるで…あの時のようだ』

 レオンハルト卿コンラート…獅子王と呼ばれるようになった男は、感慨深く空を見上げた。

 眞王に異空間へと放り出されたあの時は、こんなふうに生き生きと吹きすさぶ風は感じられなかった。
 ただ周囲を巡る光が飛ぶように過ぎ去っていくことだけが辛うじて変化を感じさせるのみで、それ以外はどこに向かっているのか…進んでいるのか戻っているのか、上がっているのか下がっているのかすら分からなかった。

 そんな中で、唯一のぬくもりであったグリエ・ヨザックの体温が失われていくのを、刻々と感じ続けていた。

『嫌だ…っ!』
『……怖い…っ!!』

 あんなにも恐ろしい想いをしたのは初めてで、コンラートは泣くことすら出来ずに硬直してヨザックにしがみついていたものだった。

 生まれて初めて自分がとてつもなく無力な存在であり、運命と巨大な力に翻弄されるちいさな生き物に過ぎないのだという事実を叩きつけられ、打ちのめされていた…。

 腕の中にある友の命すら救えずに、自分は何処に流されていくのか…。
 この移動に果たして終わりはあるのかと、恐ろしくして堪らなかった。

 
 そんなコンラートに、光が訪れた。


 力強い…天空に広がる星々の輝きにも勝る光が、コンラートの存在ごと心を照らしてくれた。

 その後、異空間を飛び続けたよりも恐ろしい事実…自分の決断が世界を滅ぼしかけたという衝撃にも見舞われたが、その時にもまた彼がコンラートを照らしてくれた。

 今もコンラートの決断の報いをその小さな躰に一つに引き受けて、惨い運命に立ち向かおうとしている渋谷有利…。

『どう詫びることも出来ない…。詫びる資格すらない…!』

 あれほどの光をくれた彼に、どうしてコンラートは何もしてあげられないのだろう?
 なんと無力な存在なのだろう…!

 またしても深い落ち込みの淵へと落ち込んでいくコンラートの前で、急に眼が暖かな光を捉えた。

「……っ!?」

 その光は、クライスト家の邸宅に溢れていた。

 広いバルコニーの中に沢山のテーブルを並べ、ぎゅうぎゅうと犇(ひし)めき合うようにして夜食を採っているのはクライスト家の人々、有利、コンラッド…あろうことか、アーダルベルトと使用人達までもが椅子を並べて和気藹々(あいあい)と菓子に手を伸ばしているではないか!

 思わず…ぽかんと口を開けていたら、不意にコンラッドの視線が送られ、それに誘発されたように有利達の眼差しがコンラートへと向けられた。


 ふわぁ…っと蕾が開くような微笑みを乗せて…。  


「レオーっ!丁度いいところに来たねぇ。夜食みんなで食べてるところなんだ!一緒に食べようよ!」



 立ち上がり、両手を振ってコンラートを歓待する有利の眼差しに、《惨い運命》を思わせる影はミジンコほども無かった…。

 



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