第三章 [ーD






 さわさわと、梢を揺らして穏やかな風が流れてくる。


 風は白いレースのカーテンを綺麗なフォルムで揺らしながら、大切な《主》を加護するように室内の大気を循環させていく。
 その適度な潤いと温もり…そして、かぐわしい芳香から察すると、風だけではなく火・水・土の要素も含まれているのかもしれない。

 そのお陰だろうか、容態の落ち着いてきた有利の頬には心地よさそうな笑みが宿り、つい先程までは苦痛に耐えかねて流していた涙も、もう拭う必要は無くなっていた。

 コンラッドの指は有利の額に張り付いた髪を一房指に取るとくるりと回し、一方の手に持った濡れ布巾で念のため額を拭うと、そのまま髪を後ろに撫でつけてやる。
 先程まで酷い汗をかいていたのだが、今はそれも山を越えたらしい。さらりとした質感が嬉しかった。
 
 《ほぅ…》っと安堵したように一息つくと、コンラッドはそっと有利の額に唇を寄せる。

「なんとか…きつい時間は過ぎたみたいだな?」
「ああ…前回も一夜で大体変化は済んでいたからな。今度は子を宿すとあって時間が掛かっているようだが、苦しまずに済むようになったのなら…ひとまず良かった」

 コンラッドのすぐ横で、やはり甲斐甲斐しく濡れタオルを使っているのはヨザックだった。彼は有利を思うあまり半狂乱になってしまった村田を、身体を張って落ち着けさせ…有利の横に寝かしつけたのである。

『絶対に大丈夫…』
『坊ちゃんの底力を信じるんです…』

 何度も何度も…粘り強く繰り返される励ましの言葉をどう思ったのだろうか?

 初めは有利しか見えていないようだった村田が、ずっと硬直したように強張らせていた顔をふわりと緩めると、一瞬…ちいさな子どものように無防備な瞳でヨザックを見た。

 …と、思った途端…急に吸い込まれるように眠ってしまった。

 その唇が、《ありがとう…》と口にしていたように見えたのは気のせいだろうか?

 だが、ヨザックには礼の言葉などあってもなくても良いのだろう。
 彼にとっては、村田が規則正しい吐息を立てて眠れることの方が、よほど大きな喜びとなるのだから。




 有利が倒れた後、呆然として頽(くずお)れたアーダルベルトは別室に衛兵をつけて軟禁状態とし、有利の容態を気にして取り乱していたコンラートは、ギュンターが諭して共に血盟城へと向かった。

『ここでウロウロしていたからといって何になりましょう?ユーリ陛下の為に今あなたが出来ることは他にあるはずですよ?』

 ギュンターに諭されたコンラートは深く嘆息した後…冷静な眼差しを蘇らせた。
 王として、この世界の破綻を一日も早く修復すること…それが、彼が為しうる最大の貢献だと気付いたのだろう。


 

「顔色も随分と回復してきた。良かった…」

 二人とも憔悴の色が目元に残っているが、微笑みはどこか澄み渡る湖のような印象がある。

 ことに…有利を見守るコンラッドの瞳にはあまりにも大きな慈愛の色があるものだから、見る人によっては彼こそが子を産み出す母のように見えたかも知れない。
 包み込むように優しいその表情は、彼が戦場では命を奪い、全身に血飛沫を浴びる者なのだということを忘れさせるほどの…崇高な何かを持っていた。
  
『有利の中にあるのは、無垢な《命》だ』

 たとえその中に、何一つ自分の欠片は入っていないのだとしても…有利が無事でいてさえいればコンラッドに苦悩などなかった。

 きっと…大切に育むことが出来る。

『ユーリ…どうか、健やかにその子を育んで下さい…。俺は、その子ごと…丸ごと有利を護りますからね』

 微風に揺れるレースのカーテンはひらり…ふわりと翻り、コンラッドの身体を掠める時には、一瞬…大きな白い翼と見まごうこともあった。

 硝子越しにやわらかな光が注ぎ込む室内で、コンラッドはゆったりとした生成の長衣を借りている。その服の描く流線は彼の印象をやわらかく見せ、白皙の肌に刻まれた疵も隠してしまう。
 穏やかな琥珀色の瞳は蕩けるほどにやさしい色を帯びて惜しみなく愛し子に注がれ、彼独特の銀の光彩は長い睫の下できらきらと煌めいている…。

 それは、一幅の宗教画のように美しい姿だった。

 ノックをして恭(うやうや)しく入ってきた侍女が、《ほぅ…》と、思わず息を呑んで立ち竦んでしまうほどに…。

「どうかしたの…?」

 小首を傾げてコンラッドが問うと、有利に向けられていた残照とはいえど…一介の侍女にこの面差しは眩しすぎた。
 へたへたと…腰が砕けたようにへたり込んでしまう。

「……どうしたんだい?」

 フェミニストを自負するコンラッドだったが、その前に一己のユーリスキーである彼はそれ以上動くことはなく、不思議そうにますます首を傾げるばかりだった。
 彼女を介助しに行くと、有利から離れねばならないからだ。

 そう言った意味では…彼は全くもって外見を裏切る男であった。

「あ…ああ、あの…お、お着替えを持って参りました!」
「どうもありがとう」

 にっこりと微笑んで待っていると、侍女はぎくしゃくしながらも歩み寄ってきた。

 コンラッドに手渡されたのは、真新しい寝間着であった。
 それは有利と村田の分、二着用意されたわけだが…ぴたりとコンラッドの動きが止まる。

「ヨザ…あっち向いてろ」
「向くよ。別に頼まなくても向くし、チラ見もしないから殺気の籠もった眼で見んの止めろや…」

 底光りのする瞳で笑顔を湛える男は、先程までの聖人ぶりをスポコーンとどこかのお空に放り投げてしまったようだ…。



 十分な警戒網を敷いてから有利の着替えを始めると、コンラッドは少し物思いに耽った。

『少女の身体、か…』

 有利ならどんな身体でも愛おしいのだが、今回は彼自身が望んでこととはいえ…子を産むに耐えられる身体でなければならない。
 隅々まで清布しながら細かに確認していけば、去年とあまり変わらない華奢な体格をしており、妊娠を楽々乗り越えられるほど熟した体躯とは言い難かった。

『可能な限り、安全な環境に居て貰わなくてはならない…』

 だが、有利にはまだ《禁忌の箱》を破壊するという大役がある。
 そして、出産をするとなると果たしてどの世界で産むことが望ましいのか、産前・産後のどの時期に空間を飛ぶことが最も安全性が高いのか…。

 これらについては多少流動的にならざるを得ない。

 《禁忌の箱》破壊はこちらの世界にやってきた大前提ではあるのだが、こちらの世界の連中がどれだけ踏ん張れるかで有利の負担率は随分と変わってくるはずだからだ。これに伴って、有利の出産場所も変わってくるに違いない。

 不定要素が多い中、ただ一つ…《生まれた子がどの世界に所属するかを決めるのは誰か》という点については、コンラッドなりに確信をもって有利の考えを推察している。

『ユーリなら…きっと、こう考えるだろうな…』

 《相手を想ってしているはずなのに、想う相手を一番傷つけてしまう》…そんな哀しい連鎖を、きっと有利は断ち切ろうとするはずだ。
 コンラッドには、そう思えてならない…。



*  *  *




「ん…ん……?」
「ユーリ…目が醒めましたか?」

 寝間着を殆ど着せ替えた後、寝台に再び寝かしつけたところで有利の瞼が震えた。
 コンラッドの腕から離れるのが感覚的に寂しかったせいだと思うのは、恋人の勝手な思いこみだろうか?

 いや…離れていこうとする腕に、《きゅ》…っと細い指がしがみついてくるのが、コンラッドの推測を裏付けているようで、ついつい微笑んでしまう。

「コンラッド…おはよ……。あー…なんかよく寝たー……」

 ふにゃふにゃとまだ寝ぼけ眼をしている有利だったが、目元を擦ろうとしてコンラッドに濡れ布巾を押し当てられ、やることの無くなった手が胸を掠めたことで動きが止まった。

「あ…」

 幾ばくかの間、遠くを見るような視線をしていた有利だったが…コンラッドが少し心配げに自分を見ているのに気付くと、急に安心したみたいに腕へと額をすり寄せてきた。

「大丈夫…あんたが、いるもんな…」
「ええ、います。俺が…いますよ?」
「うん…」

 コンラッドが甘く囁きながら両腕ですっぽりと包み込めば、有利はエネルギーを充填するように胸の感触を愉しんでいた。

「うん、元気出てきた…」
「良かった…」

「そりゃあ良かった」

 ちょっと下目の位置から、不意に声が掛けられる。

「村田!ありゃ…一緒に寝てたの?」
「ああ」
「俺も居るんですけどねー…まあ、良いんですけどねー…」

 むっくりと起き出した村田はヨザックが勧める寝間着を片手で押し返すと、寝台からずるりと身体を引き出していく。
 不機嫌そうな顔だが、それが本心からのものというより…気まずさを誤魔化すためのものであるのは何となく感じられる。

「ウェラー卿…」
「なんです?」
「………」

 村田は呼びかけたものの、言いにくそうにもにもにと唇を動かしていたのだが…少々ぶっきらぼうに告げた言葉は予想外のものだった。

「……僕は、今回初めて君に深く感謝してる…」
「…………はい?」

 次に続く言葉がどんな恐ろしいオチなのかと身構えてしまうのは哀しい習性である。
 だが、続く言葉もまた予想外のものであった。

「渋谷の決断を、受け止めてくれてありがとう…。君が拒絶をすれば…渋谷は一番辛い時に孤立するところだった。場合によっては、自分の想いを枉(ま)げざるを得なくなっていたかも知れない…」

 村田の眼差しは、コンラッドも有利も直視はしていなかった。
 鋭い視線は灼けつくほどに絨毯の模様を睨み付けている。

「僕は、また間違えるところだった。渋谷が大事でたまらないのに…渋谷が一番傷つくことを…やろうとした……。もう、渋谷に何も聞かせずに強硬手段をとることはしないと誓っていたのに…」
「猊下…」
「村田……」
「渋谷にも…すまなかった……」

 そして小さく、村田はヨザックにも会釈した。
 もごもごと…《君にも世話になった》とか何とか言いながら…。

「ううん…良いよ、村田…だって、俺のこと心配してしてくれたんだろ?」

 有利のやさしい声に、村田は泣き笑いに近い表情を作るのだった。

「ふふ…君ってば、そうやって受け止めちゃうんだよね。だけど…僕はそれで余計に不安になるのさ、君が…眞魔国人の持つ、傲慢さや押しつけがましさの犠牲になってるんじゃないか…そう、思ってしまうんだよ」
「でも、今度のは俺の我が侭だもん。村田がそんなに気にすることないって」

 珍しくも殊勝に過ぎる村田に、有利はわたわたと手を振る。

「我が侭かぁ…そうだね、だけど…君はその決断をちゃんと僕やウェラー卿に伝えたろ?スザナ・ジュリアにしても、以前のウェラー卿にしても…そこの部分が決定的に欠けていたと思うんだよね…」
「え…?」
「フォングランツ卿の嘆きは、以前ウェラー卿に裏切られた…と思って、実は全部自分のための行為だったと知らされた時、君が感じたやるせなさと同種だと思うんだよね。愛してくれていたのは分かる…だけど、何故その理由を教えてくれなかったのか…。他に何も要らない、あなただけが欲しかったのに…ってね」
「えーと…そっか、村田はジュリアさんの記憶を見たんだっけ?」

 

 そこで、村田はスザナ・ジュリアの記憶について有利とコンラッドに語り始めた。

 絶望的な戦場へ向かうコンラッドを護ることと、異世界の魔王を護り育むことの出来る資質を見込んで魂をコンラッドに託したこと…。

 彼女は彼女なりの深い愛で、アーダルベルトを愛していたこと…。

 それらは、語られるほどに切なくて…有利はアーダルベルトを責めることが出来なくなるのだった。



「うん…俺、あいつの気持ち…分かるな…。俺だって、コンラッドの魂を他の誰かが持っていこうとしてたら…どうするだろ?」
「愛している者の魂は、心や真の存在とは違うものなのだと言われても…そう簡単に切り分けできるものではないよね」
「でもさ、だからってジュリアさんを責めることもできないよ…。だって、自分の魂で作られた魔王が創主に対する切り札になるんなら、大事な人ごと世界を護るために渡したいって、やっぱり思うだろうな」
「じゃあ、ウェラー卿に内緒で死を迎える?」
「え……?」

 ぱちくりと目を見開いた有利だったが、暫く考えてから口を開いた時には明瞭な言葉が綴られた。

「ううん…俺は、分かって欲しい。どうしても俺の存在が眞魔国を護るために必要で、俺って存在が無くなっちゃうんだとしたら…俺、コンラッドには一番に分かって欲しい」

 きゅ…っと、有利の手がコンラッドの手の甲を掴み、その上にコンラッドの一方の手が重ねられる。

 それが勢いによる言葉ではなく、実感を込めた想いだと分かるからこそ、脳裏に浮かぶ想像が辛いのだろう。

「ユーリ…それは多分、ジュリアも同じだったのかも知れません。だが、ジュリアにはそれがタイミング的に難しかった…。今聞いた話を総合すると、ジュリアが眞王に会って自分の魂が死後どのように扱われるかを知ったのは、俺がアルノルドに出征した後です。魔石を俺が受け取ったのが、出征直前でしたからね。たしか、あの時期はアーダルベルトもまた別方面の戦場に駆り出されていました。俺達に真意を直接伝えることは難しい…かといって、書簡などを使って偽造でもされたら困る。眞王も半ば創主に侵されていて、完全に信頼することは出来ない…。そんな中、彼女はたった一人で…当時自分が持ち得た力と知恵の限りを尽くさねばならなかったのでしょう…」
「ジュリアさんが戦場で無茶な治療をしなかったら、伝えられてたのかな?」
「それも…今となっては分かりません。また他の因子が絡んでいたかも知れませんからね?彼女は戦場にいた…。そこで流れ矢に当たったりする可能性だってあったのですから…」
「そっか…」

 ふるる…っと寂しげに首を振るコンラッドに、有利はきゅうっと抱きついた。

「そうだよね…先のことなんか分からなくて…でも、精一杯その時代を生きた人に《こうしてたら良かったのに》なんて、したり顔で言ったり出来ないよね…」
「ええ…俺達だってそうだったでしょう?間違って失敗して…。昔の自分に《何でこうしなかったんだ!》《何でこんな事したんだ!》と罵倒してやりたいことだらけだ。でも、力の限りやってきたこと…生きてきた証は、こうして花開いている…」
「うん…そうだよね」
「あれほど辛かったジュリアの記憶がこうして解きほぐされた今だからこそ…俺は強くそう感じます。あなたに会うことの出来た幸福を…彼女に感謝することが出来る…」

 コンラッドの琥珀色の瞳にはさざめくような銀の光彩がちらばり、有利の心を眩しいような光で満たしていく。


「コンラッド…」
「ユーリ…」


 大気が、何かキラキラしいもので満たされていく…。

「ハイハイそこ、キックオフらない。もしくは、ときめきメモリ合わない!」

 村田に突っ込まれるまでコンラッドと有利の見つめ合いは続いた。
 最近、どうも習慣づいているらしい…。

「全く…君達は鬱陶しいくらいに熱々だね!」
「鬱陶しいは余計だよっ!」
「あはは…っ!」

 村田は笑った。
 
 大賢者として嗤うのでも、怯えた少年として痙笑するのでもなく…夏の空のようにからりとした、彼本来の…等身大の表情で笑ったのだった。

 その表情に、有利もふぅ…っと肩の力を抜くのだった。

 多分、横で静かに見守っているヨザックもそうなのだろう。
 彼が村田を見詰める眼差しは深く…とてもやさしいものだった。



「そーいえば、俺の腹の子って落ち着いたのかな?もうエンショーだか何だかは起こんないのかな?」

 ふと、有利は寝間着越しにお腹を撫でつけて不思議そうな顔をした。
 まだぺたりとへこんだままの腹の中に、赤ん坊がいるなんて不思議でしょうがないのだ。

「ちょっと見せて…?」

 村田はぺたりと腹の上に手を当てると、瞼を閉じて気配を探る。

「うん…落ち着いてる。君の体内も受け入れ態勢を取って攻撃を止めているし、魂の入り込んだ細胞も正常な卵割速度になってるね。子宮壁の状態も良い…。どうやら、免疫寛容を得たらしい」
「ナニ、そのメンエキカンヨーって」
「母胎が胎児を異物と認識しないようにするシステムのことだよ。正常な妊娠時にはこれが成立する。逆に、成立しないと流産・死産につながってしまう」
「え?赤ちゃんが攻撃受けることもあるの!?」
「君のがまさにそうだったろ?」

 確かに、有利の身体は自分の体細胞の一部であるにもかかわらず、魂が入り込んで卵割を始めた細胞を攻撃してしまった。それが、激しい炎症を引き起こしていたのだ。

「じゃ、今はそれが収まってるんだ」
「君が体内の細胞に呼びかけたんじゃない?」
「あー…そういえばそうかも…」

 言われてみれば、小難しい仕組みは分からないものの、《落ち着けーっ!》《攻撃すんなっ!》と、自分の免疫系に指示し、卵割中の細胞に対しても《怖がらなくても良いからなー?》《俺が護ってやるから、落ち着け?よーしゃっしゃっしゃっ!良い子だね〜っ!》などとムツゴロウさんのように語りかけた気がする。
 あれでお互いの細胞が落ち着いたのだろうか?

 頭の中で順繰りに整理をつけていると、村田が気づかわしげに囁きかけてきた。

「ねぇ…渋谷。妊娠・出産ってのはやっぱり大仕事だよ?今からでも…」
「ヤダっ!」
「最期まで聞けって!渋谷がそれだけ語りかけられるのなら、卵割中の細胞を今の状態に留めて共存することだって出来るんじゃないかな?これなら、殺すわけじゃない。君の喜びや楽しさを、その細胞も共有することになるだろう…」
「それは…」

 有利は男の身体に戻り、二つの魂を宿したまま生活するということだろうか?
 丁度、水蛇の上様と共存していたように…。

 暫くの間、有利は頭を捻って色々と考えてはみたのだが…やはり顔を上げた時にはすっきりとした顔で笑っていた。

「ううん…。俺、こいつを産んでやりたい」
「渋谷…」
「こいつがどんな子として生まれてくるのかは分からないけどさ?でも…きっと、俺とはまた違った感じ方をする別人として生まれるんだと思う。その可能性があるのなら、俺は…一人の子どもとして産んであげたい」

 有利はまだぺたりとした腹を撫でさすりながら、くすぐったそうな…はにかむような顔で微笑むのだった。

「ね…?お願い」
「うん…渋谷がそう言うのなら、僕は君とその子を護るよ…」

 友人の許容に力を得ると、有利は暢気ともいえるほどの朗らかさではしゃいだ。

「へへ…。でも、どんな子なのかな?女の子かなー、男の子かなー…」
「なに言ってるんだい。男に決まってるだろ?…というより、容貌的には君と瓜二つになるんだよ?」
「えー?なんで?そりゃ俺の子かも知れないけど…親子でも瓜二つって意外と少ないぜ?」
「正確には親子じゃないからだよ。君の場合、君自身の体細胞が卵割して胎児ができつつあるんだから、22対の常染色体は情報をシャッフルすることなく正確に君と同一のDNAを持つし、1対の性染色体の組み合わせはXYなんだから基本的に男だよ。まぁ…希にY染色体に異常が起こって機能しなかったとしたら女になることもあるらしいけど、その場合はXOになるわけだから、ターナー症候群っていう染色体異常症になっちゃうね。症状は出ないこともあるらしいけど、発症すると先天性の心疾患や低身長、無月経なんかを引き起こすよ?」
「ゴメン…話が難しい……。俺のケースって、そんなにレアなの?普通の妊娠とどう違うの?」

 大量の《?》マークを飛ばす有利に、村田はざっくりと説明してくれた。
 そのざっくりも有利の脳には負荷が大きかったのだが、大体こんな感じらしい。



 通常、配偶子(女性の卵子と男性の精子)は通常の体細胞の半分の染色体を持つ。減数分裂という特別な分裂をするので、そのようになるらしい。卵子と精子が合わさった時に、体細胞と同じ数の染色体になるようにするらしい。

 卵子は常染色体22本と性染色体Xを一本持つことになる(これは、女性の性染色体がXXだからだ)。
 これに対して、精子は常染色体22本と性染色体Xをもつものと、性染色体Yをもつものの二種類がある。

 精子と卵子が合わさって受精卵が生まれるのだが、精子がXを持つかYを持つかでまず性別が決定される。

 更に、お互いの22本の常染色体はそれぞれに身体の様々な色・形・仕組みの情報が詰まっているので、互いのどの情報を採用するかは千差万別の組み合わせがあり、多種多様な子どもが生まれてくることになるし、兄弟も見分けがつかないほど似ていることは少ない。当然、DNAの配列も異なる(ちなみに、DNAというのは遺伝情報の設計図であり、染色体というのはそのDNAが安定しやすいように蛋白質に巻き付いているものなので、機能的にはほぼ同じものと考えて良いそうだ)。

 ただ、唯一の例外が一卵性双生児である。この事例が、有利の例と最も似ているかも知れない。
 これは一つの卵子に一つの精子が合体して、一つの受精卵が生まれたにもかかわらず、受精卵の多胚化(二人分、分裂しちゃう)ことにより誕生する。なので、DNAの配列は全くの同一である。

 なお、二卵性双生児は二つの卵子が同時に誕生し、そこにそれぞれ一個の精子が合体するので、《同時に生まれた兄弟》と呼ぶべきものであり、DNAの配列は異なる



「おお…脳がウニになりそう…」
「……………そんなに難しい話だった…?」

 一生懸命、有利のレベルに合わせて噛み砕いたつもりの村田は不満げだ。

 女体変化の時よりも苦悶の表情を浮かべて悶絶する有利だったが、おおよその話を飲み込むとやっと落ち着いてきた。

「うーん…じゃあ、俺は自分で異世界の俺を産むようなもんなのか。18年の時間差攻撃で…」
「そう…だねぇ…」
「どしたの?複雑そうな顔して…」
「生まれてくる子…やっぱり、大変なんじゃないかな?君の相似形として生まれてくるんだよ?こっちの世界で、君という存在を切望している者は多い…。でも、同じDNAを持つとは言っても…」
「うん、この子は…俺に似るかもしれないけど、やっぱり違う存在だよね」

 きっぱりと言い切ると、有利は村田とヨザック、そして…コンラッドを見詰めた。


「俺…この子をね……」


 その日、有利は三人に語った。
 生まれてくる子を、どう育てていくかについて…。

 その答えに三人は思ったのだった。


『ああ…渋谷らしいや…』
『坊ちゃんらしいねぇ…』
『やはりそう来ましたか、ユーリ…』


 有利の答えはつまり、そういうものであった。

 



→次へ