第三章 [ーC






 こぽぽぽ……


 良い音をさせて、白磁のポットから暖かな紅茶が注がれる。
 カップに半分ほど注いだところで砂糖を入れて溶かし、更にミルクがなみなみと足された。

「どうぞ、ユーリ」
「ありがと…」

 もともと有利はミルクティーが好きなのだが、今は倒れた直後ということで濃いブラックティーは勧められないのだろう。
 有利は良い感じに《紅茶牛乳》になったものを美味しそうに飲みくだしていった。
 暖かさという甘みといい…丁度良い頃合いなのだ。

「本当に…甲斐甲斐しいのですねぇ…」

 ほぅ…と、ギュンターは嘆息する。

 村田達が出立した後、客用寝室に横たえられた有利の横で二つの世界の違いなどを詳細に教えて貰ったのだが、その中の《有利とコンラッドは婚約者》という下りですっかり意気消沈してしまった。

 そこまで決定的な間柄では、コンラートの付け入る隙は皆無と言っていい。
 おそらく…彼自身、自分の恋心を有利には知られまいとしているだろう。

『あなたって人は…好きになる人との間にいつも障壁がありますよね…』

 不憫な教え子に涙が出そうだが、しょんぼりしていたら膝に載せていた手に、ちいさくて暖かな手が載せられた。

「ギュンター…具合悪いの?大丈夫?横になる?良かったら、このベッド開けようか?」
「いえいえいえ…!私は平気ですから!少々…そうですね、スザナ・ジュリアの魂の記憶を覗くということで、余計にコンラートが辛い思いをするのではないかと心配になったのですよ…」
「そっか…そうだよな……」

 とってつけたように叫んだものの、実はそれもギュンターの懸念事項であった。

 スザナ・ジュリアの遺志を継がなかった事実はコンラートの中で深い疵となっているようだ。
 それを抉(えぐ)るような行為が、果たして彼にとって有益なのかどうか…自信がないのだ。

「スザナ・ジュリアという女性は優しい方でしたが、同時に非常に頑固で…自分でこうと決めたら、何としても貫く女性でした。そう言った意味では、非常に昔気質の武人のような性格をしていましたからね。だからこそ、自分の死を見据えながら生きることに耐えられたのでしょうけどね」
「うん…俺だったら、どうだろうな?とても悔いなく死ぬ事なんてできないな…」

 有利の手はふわりとギュンターから離れた。
 傍らにいるコンラッドに移ったのだ。

「俺は、あなたの死後でしたら喜んで死にますけどね。…というか、指折り数えてお迎えの日を待ちそうです」

 縁側…いや、ベランダで膝に猫を載せ、お日様を浴びながら指を折るコンラッド爺さんの姿が瞼に浮かんでしまう…。
 《戦地に赴く》と言わないあたりが、有利の心情をおもんばかっているのだろう。

「連れ合いに先立たれた亭主そのものだね」
「まさにそういう関係でしょ?」

 ちゅ…っと小さな音がして、その意味に気付いたギュンターは頚まで真っ赤に染めてしまう。

「ちょ…っ!コンラッド…っ!」
「すみません…つい、癖で…」
「そんな癖あったか?つか、癖で全て処理しようとするなよ!」

 ぎゃいぎゃいと言い合うものの、声はすぐに笑いを帯びて楽しげな色を広げていく。

『なんと幸せそうなのでしょうね…』

 大賢者は可能性を否定していたけれど…それでも、ギュンターは願ってしまう。
 どうにかして時を戻し、この素晴らしい…太陽のような少年を我が国の守護神として迎えることが出来なら、コンラートの御代はどれほど輝かしいものになるかと…。

『いいえ、こんなことを思いつくこと自体が…コンラートを責めることに繋がってしまうやもしれませんね…』 

 コンラートの選択は誤りであったのかも知れない。
 だが…ギュンターには、決してその選択は責められるべきものではないと思うのだ。
 少なくとも、ギュンターは責めたいとは思わない。

 何の説明もなく、押しつけられた運命に抗ったとして何が悪いのだろう?

 スザナ・ジュリアが思うように生きたのだとすれば、コンラートにだって思うように生きる権利があるではないか。

『きっと…スザナ・ジュリア自身そう考えていたのではないだろうか…?』

 彼女は独特の価値観を持つ女性だったが、それを信じない者に強要したり責めたりすることも無かった。
 揺るぎない《正義》というものが、時として流血さえ呼びかねない軋轢を生み出すと知っていたからかも知れない。

 だから彼女は胸を張り、持論を天下に公開したのだ。
 それに対してどのような風当たりがあり、批判の声が上がったとしても悠々として構えていた。 

 だからこそ彼女は多くの者に愛されたのではないだろうか?

 大地のように峻厳で、懐の広い女性であったから…。


「…んっ!?」

 
 突然…有利の声が高く跳ねた。

「どうなさいました?」
「何か…近づいてる……」

 言われてみて、ギュンターも気付いた。
 何か大きな魔力を持ったものが接近しつつある。
  
「何でしょう…?禍々しい気配は感じられませんが…」
「来る…っ!」
「何が来るんですか?要素なのですか…?」

 こんな時、コンラッドは話題に参入できなくてもどかしそうだ。
 しかし、どのようなものが入り込もうとも有利を護るという気概にかわりはなく、油断無く立ち上がるといつでも抜刀できるように構えを取る。


「来た…っ!」
 

 《それ》は、思いがけない方角から来た。

 天井を直角に突き破り、寝台の天蓋を抜け…コンラッドが止めようとする手を擦り抜けて……


 …有利の腹部を、直撃した。



*  *  *




「はぅ…っ!?」

 寝台の上で華奢な体躯が跳ねる。

「な…に……?」
「ユーリ…ユーリ…!?」

 衝撃は数秒で過ぎた。
 寧ろ、怖いくらいに何も起こらない。

 有利が寝間着の蒼い服をぺろんと捲って腹部を見ても、可愛いお臍が見えるだけでいつもと何も変わらない。
 視覚的には何も起こっていないに等しいのだが、何かが…間違いなく先刻、有利の体腔内に入り込んだのだ。

「な…何だったんだろ?今の…」
「ギーゼラを呼びましょう!」
「うん…」

 慌ただしくギュンターが呼び鈴を鳴らして侍女を呼びつけると、スカートを捲り上げて彼女は疾走した。
 ギーゼラもまた、侍女を置いていく勢いで客用寝室に駆けつけた。その速度は足音でドップラー現象が起こるほどだ。
 
「何があったのですか!?」

 ギーゼラは息を切らすこともなく有利の脇に駆けつけたが、急いで来て貰ったにもかかわらず何も起こっていないので逆に申し訳ない。

「えーと…急いできて貰って申し訳ないんだけど…」

『何か起こったら連絡する…』

 有利がそう言いかけた瞬間…《何か》は起こり始めた。

「ん……?」
「どうしました、ユーリ…っ!?」

 顔色を蒼白にさせてコンラッドが腕を伸ばしてくると、有利はそれに凭れるようにして身体を寝台に横たえ、海老のように背を丸めて呻(うめ)き始めた。

「お腹…痛い……。ど…したんだろ、急に……」
「見せて下さい!」

 ギーゼラがコンラッドを突き飛ばすほどの勢いで有利の脇に行くと、掌を腹部に翳して体内の様子を伺った。

「…っ!腹腔内に、激しい炎症が起きています。一体どうして…」
「理由の詮索は後からにしてくれ!一刻も早く治癒を…」
「待って下さい…これは…免疫力を高めたりすると、余計に逆効果になりかねないのかも…」
「どういう事だ!?」

 その時、ドウ…ゴウ…っと客用寝室のベランダに巨大な獣が複数飛来しては、落下傘部隊よろしく男達を降ろしていった。

 その中の一人が勢いよく硝子戸を開くと、留め具が外れそうな勢いで駆け込んできた。

 激しく動揺したこの少年は…村田健ではないか。

「僕に見せろっ!!」

 フェミニストを自負しているはずの村田が、珍しく前後の見境を無くしているらしい。ギーゼラを荒々しく突き飛ばすと有利の腹に手を翳し、血走った目をなおも開大させた。

「くそ…っ!殺してやる…っ!!」
「落ち着いて下さい、猊下…!どういう事ですか!?」
「こんな奴に同情した僕が馬鹿だった…!記憶なんか見るんじゃなかった…!こんなことなら…フォングランツの馬鹿息子ごと仲良く葬ってしまえば良かった…っ!」

 えらい物言いをぶちかましながら、村田はコンラッドに掴まれた腕を荒々しく振り解くと、殺気の籠もった眼差しで掌を掲げる。

「渋谷…君の腹の中に入った異物を殺すんだ!君も集中しろ…!」
「な…にを……っ!?」

 痛みに呻く有利は脂汗で既に全身が濡れている。
 腹部には次第に熱感さえ感じ始め、どくん…どくんと脈打つような感触がある。

「君の中で成長しようとしている奴がいる…。このままじゃあ、君は腹腔内出血を起こして、苦しみながら死ぬぞ!」
「そ…な……どぅ…して?」

 潤んだ瞳は朦朧とし始めて、村田の切羽詰まった口調について行けない。

「どういうことなんだ!?」

 コンラッドはギーゼラの腕を掴むと縋り付くような眼差しで訴えかけた。
 何かただならぬ事態が起こっているというのに、コンラッドでは有利の体内で何が起こっているのか全く分からないのだ。

「ユーリ陛下の腹腔内で…《何か》が増殖しようとしているんです。陛下の免疫系はそれを異物と認識して攻撃を仕掛けているのですが…その《何か》は魔力壁を展開して身を守り…攻撃側との間で激しい炎症を起こしているのです」
「《何か》だって…?」

 コンラッドの顔色が一層青ざめる。
 この展開は…まさか……。

「猊下…まさか……」
「口にしたら殺すよ、ウェラー卿…っ!」

 叱責が本物の殺意を込めて叩き込まれる。
 村田は、本気だ。

 もしも有利を喪うようなことがあれば、彼は関わった者達全てを虐殺する気かもしれない。
 その果てに…自分の命を断つのかも…。

 しかし、その遣り取りと止めるように有利の手が動いた。
 村田の強張った手に震える指先を絡め…きゅ…っと優しく握る。

「村田…教えて……本当のこと……」
「……駄目だ!」
「ね…これ……こっちの世界の、俺の中にはいるはずだった…魂だろう?」
「違う…っ!!」

 激しく叫びながら、村田は恐ろしげな形相を浮かべてみせる。
 けれど…その奥底にある恐怖を見つけ出して、掬い上げるようににっこりと有利が微笑んだ。

「村田は…やさしいね?俺に、何も知らせずに…俺が、くるしむのが嫌で、黙ってるんだろ?でも…狡い。お前だけで、罪を背負っちゃうなんて…狡い……。ね…俺…お前の、ともだちだろ?」
「君こそ…狡い…っ!」

 唇を血が出るほど噛みしめて、村田は眼鏡を外す。
 視界がぼやけて、友人の姿が不鮮明になってしまえば意志を無視することが出来ると信じているかのように。

 けれど、有利はなおも笑う。

 視界に入らなくても、声が伝わるように…。

「笑うな…っ!こんな時に…君が死ぬかも知れない時に…僕らのために笑ったりするな…っ!」
「お袋が言ってた…《笑う》って言葉には、《幸運を開く》って意味もあるんだって…。人は、しあわせだから笑うだけじゃない…笑うことで、しあわせになろうとする時もあるんだって…」

 痛みは激しさを増しているに違いない。
 それなのに…苦痛と戦いながら有利は微笑み続けた。

「だから、笑うんだ…!ほら…大丈夫。俺…笑えてる。だから…本当のことを言って?俺の中…どうなってるの?」
「う…うぅぅ〜…うーっっ!……っ……」

 ぼろぼろと涙を零して、《大賢者》が《少年》に変わっていく。

 《魔王》ではなく、ただひとりの《ともだち》を救いたい…ちっぽけな高校生が、そこにいた。

「僕は…弱い……っ!スザナ・ジュリアみたいに、非情に思い切らなくてはならないのに…っ!」
「俺は…お前がそういう奴だから…大好きなんだよ。村田…ね……大好きだよ?」
「この…狡い…甘えんぼめ……っ!」
「ごめんね…」

 《はぁ》…っと、息をついて…一瞬、有利の表情が笑みを浮かべることが出来なくなる。
 素のままの苦痛に満ちた表情を眼にした途端、村田は堰を切ったように語り始めた。

「……こちらの世界の魂が、君の腹腔内のミュラー管…子宮・卵管の元となる器官に入り込んだんだ」
「あの…俺、男…」
「胎生期には誰の身体にも男性器になるウォルフ管と、女性器になるミュラー管があるんだ!胎生6〜7週以降に精巣からの男性ホルモンを受ければ、ミュラー管は退縮する…。だが、全くなくなるわけではないんだ…!」
「村田…言葉が難しいよ村田……」

 うーんうーんと呻きながら有利は正直なところを明かすが、非常事態に言葉を噛み砕くことは難しい。

「とにかく、君の身体にはミュラー管がある。だが、勿論そこは退縮して繊維化していた…。困った魂は、あろうことか…君の子宮を形成する細胞の一部に取り憑き、そこで卵割を始めたんだ…。その瞬間、きっと君の免疫系はその細胞を癌細胞が何かだと思ったんだよ。必死にキラー細胞が攻撃を仕掛けた。だが、魔力壁にやられて返り討ちに遭い、そこへ応援に駆けつけた好中球やマクロファージが襲いかかり…激しい炎症反応が始まったんだ……」
「み…ミクロの決死圏…?」

 はぁ…はぁ…と、荒い息づかいで眉間に皺を寄せる有利に、普段の村田なら《君は一体幾つだ》と突っ込めただろうが、流石にそんな余裕があるはずがない。

「分かっただろう?頼む…その細胞を、殺させてくれ…っ!」
「やめろぉお…っ!」

 白狼族に蹴り飛ばされてベランダの外に落ちていたアーダルベルトが村田に取り縋ろうとするが、二人のヨザックがダブルラリアートでカウンターに仕留める。
 だが…地に伏してもなお、這いずるようにアーダルベルトは寝台に寄ろうとした。

「頼む…殺さないでくれ…っ!ジュリアを…二度も殺すな…っ!」
「ジュリアじゃない…もう、ジュリアじゃないんだアーダルベルト!」

 コンラートがアーダルベルトを組み敷き、押さえ込む。
 その瞳には涙があったが、迷いの色は存在しなかった。

「猊下…早くお願いします。その細胞を殺して、魂を抜きだして下さい……っ!ユーリの身体にこれ以上負担が掛からないうちに…っ!」

 コンラートは、迷い無く有利を選んだ。

 だが…これには有利自身が拒絶を示した。

「また…操作するの?」

 そこには、怒りが込められていた。

「ユーリ…?」
「もう…嫌だよ。こいつは、勘違いだとしても…俺の中に入ってきて、命を生き始めてる…。もう、動かさないで?」
「何を言ってるんだ!死ぬ気か!?」
「死なない…!」
 
 有利は懸命に手を伸ばし、瞼を閉じて呼びかける。

「胡蝶…来て?」


 ザ…
 ザァアァァ………っ! 


 鮮やかな紅色の蝶が一斉に、カーテンを煽りながら室内に入り込んできたかと思うと、有利の身体を取り巻き始めた。
 そしてその内の一羽が…有利の唇に恭しく沿わされる。

「胡蝶…お願い。前にやったみたいに、俺の身体を作り替えて…?命を…産み出せる身体に……」
「な…っ!」

 確かに一年前…有利は火の妖怪《煌姫》の配下であった紅蝶によって、女性体に変えられたことがある。だが…果たしてそ変化が体内機構にまで及んでいるのかは不明だ。

「危険だ…!産むだって…?そんな…耐えられるかどうか…」
「やってみなきゃ分かんないよ」
「そんな…」

 村田はもはや大賢者としての判断は出来ず、怯えた子どものように有利に取り縋ることしかできなかった。

 そして有利は手を伸ばす…最愛の男へと。
 最も赦しを請わなくてはならない男へと…。

「コンラッド…お願い。俺の我が侭を…赦してくれる?」
「ユーリ…っ!」

 辛い決断を強いていると分かっているのだろう…。
 だからこそ、赦しが欲しかった。

「俺…産みたいよ…。俺の子どもだか兄弟だか分かんない奴だけど…俺を選んでここまで来たんだ…。ほっとけない…」
「く……っ!」

 決断を先延ばしにすることは出来なかった。
 中途半端に引き延ばすことは、有利の命を縮めることに繋がる…。

 コンラッドは跪くと、絞り出すように苦鳴を上げながら…有利の手を握った。

「産んで下さい…ユーリ…!あなたの子なら…俺の子も同然です…っ!命を賭けて…俺もお守りします…」
「あり…がとぉ……」

 コンラッドの言葉を受けて、有利はにっこりと微笑むと…静かに瞼を閉じた。



 その身体にひらひらと紅色の蝶が舞い…煌めく鱗粉が大気を染める。
 渋谷有利の肉体を、再び女性体へと変えるために…。 





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