第三章 [ー魂の告げるもの





 リィン…
 リィィン……


 さわさわと芝草が揺れ、夜気を震わせて虫達が囀(さえず)る。
 大地には生気が満ちあふれ、要素の声を聞く力を失った男にすら自然界で鳴動するものの存在を伝えてきた。

 クイ…

 夜風に吹き付けられた野草が鼻先を掠めていくが、払う素振りも見せず、瓶を傾けると直接口の中へと酒を流し込んだ。
 結構な量を用意された酒瓶も、これで終わりだ。
 
「くそ…」

 振っても雫すら出なくなった瓶を勢いよく投げつければ、野草の中に隠れてた岩に当たったのか、思いのほか大きな音を立てて粉々になった。

「……っ!」

 千々に割れた破片が月光を弾き、風に巻き上げられて宙を舞う。
 その様が…胸の中にある大切な《瓶》と重なって、男は怯えたように胸元を掴んだ。

 …ちゃんとある。
 大丈夫だ。
 割れてない…。

 その事に安堵している自分を、一瞬の後には嫌悪して…男は腹立たしげに大地を殴りつけた。

「くそ…っ!」

 武張った顔立ちながら、偉丈夫の雰囲気を持つ男は魔族の中にあっても《美》を主張できる存在であった。
 だが、かつては気品に満ちていた面差しは頬がそぎ取られたように窶(やつ)れ、目尻の皺は深く…笑みによるそれではなく懊悩によって刻まれたものなのだと知れる。
 険しい目つきは追いつめられた獣のように荒んでおり、無闇にぎらついては辺りを睥睨(へいげい)していた。

 《何もかもが憎くて堪らない》…その目は、そう語っているかのようだ。

 フォングランツ卿アーダルベルト。
 眞魔国を出奔し、時には人間の盗賊団に混じって祖国に刃を向けたこともある男だ。

 だが、近年はそのような嫌がらせに近い行為ですらやる気が起きず、人間の小国間で生じる争いに傭兵のような形で参入しては日銭を稼ぐという有様であった。


『ジュリア…』
 
 コンラートとの剣による闘いに敗北しながら、見苦しく跪いてまで自分の掌に納めたかった魂を…アーダルベルトは今も抱いている。

 けれど…あの日から過ごしてきた時間は間違っても《幸福》などと呼べる日々ではなかった。

 ジュリアの魂を受け継ぐはずだった《次代の魔王》は結局出現せず、相も変わらずツェツィーリエが魔王として君臨し、実権は摂政シュトッフェルが握ったままの眞魔国…。
 
 いや、そんなことは大した悩みではなかった。どうせ見捨てた故郷なのだ、どうせなら衰微してしまった方が《だから見捨ててやったんだ》と侮蔑することも出来る。

 アーダルベルトを苦しめた根元は、あろうことか…手にしたジュリアの魂だったのである。

 喜ぶことも怒ることも哀しむことも…微笑むこともない魂。
 《それ》が微塵もジュリアを感じさせないことであることが、日々眺めるごとに突きつけられるのだ。

『これはジュリアだ』
『いいや…もう、これはジュリアじゃない』

 そんな問答を、一体もう何億回繰り返してきたのだろう?

 この先も繰り返すのか?
 生き続ける限り…永遠に?

 いや…それよりも先に、魂が消えてしまうかも知れない。
 瓶の中で貴石に封じられた魂は、相変わらず正球の形状は留めたままだが、少しずつ…確実に輝きを失っているのだ。

 完全にこの瓶の中から消え失せたとき、アーダルベルトは正気を保つことが出来るだろうか?
 今からでも大気中に放出すればいいのだろうか?
 いや…風雨に晒されて、痛めつけられて…苦しんで消えたりしたらどうする?

『怖い…』

 その恐怖を、アーダルベルトは誰とも共有することが出来なかった。

 当然だ。
 彼自身が全て切り捨ててきたのだから。

 そんな自分が嫌で堪らないのにどうにもできない。
 その彼を一体どうやって見つけ出したものやら…数日前、あの男はふらりとやってきた。




『よう…グランツの旦那。随分と落ちぶれたナリだな?』

 オレンジ髪が鮮やかなその男は、その印象を華やかに演出する事も押さえることも自在なようで、人間世界の酒場だというのに咎められることもなくアーダルベルトの横に座った。

 片目に眼帯をしていたが、間違いなくグリエ・ヨザックだった。

 からかうような口ぶりが腹立たしくて、剣の柄へと手を掛けたものの…抜くことは出来なかった。
 一つには、ヨザックが荷袋の中から示して見せたものが、近年では金を積んでも手に入れることの出来ないほど上質な酒だったせいであり…するりと懐に入ってきた彼が囁いた台詞のせいでもあった。
 
『ねぇ旦那…スザナ・ジュリアが死に際して何を考えていたか知りたくはないかい?』
『…っ!』

 皮肉を言うことも拒絶することも出来なかった。
 本当に彼が真実を知っているかどうかということよりも、何らかの形で今の自分に終止符を打ってくれる存在が欲しかったのかも知れない。

 スザナ・ジュリアの魂を抱きながら何一つ充足するものを得られず、腑抜けのようになった自分をどうにかしたかった。
  
 だからアーダルベルトは誘いに乗ったのだ。

『眞魔国に里帰りしなよ。そこで秘密が明らかになる…らしいぜ?』

 誘われるまま、アーダルベルトは眞魔国の国境を越えた。
 銀色の空飛ぶ狼という初めて目にする獣に驚いたアーダルベルトだったが、真に驚くべき光景を目にしたのは眞魔国に入ってからだった。

 人間世界よりは幾らかマシという程度であったはずの眞魔国を天上から見渡すと、見渡す限りの平原には目にも鮮やかな緑野が広がり、風は旨しく芳醇なかおりさえ漂わせて流れていく…。
 水は滔々と清らかに流れているし、田畑には豊かな実りが溢れ野山の果樹は艶やかに房を為している。

 ここ数年に渡って饐(す)えた臭いしか嗅いでいないアーダルベルトにとっては、居心地が悪くなるほどの清冽さであった。

『何があったんだ…?この国に…』
『異世界の魔王陛下がもたらした奇蹟だよ』
『なんだと…!?』

 道すがら、ヨザックは自分とコンラートが辿った数奇な運命について語り始めた。

 眞王の怒りを買い、空間の狭間に投げ出されたところを救われたこと。
 救い主である異世界の第27代魔王は、ジュリアの魂を受け継ぐ巨大な魔力の持ち主であったこと。
 優しい心根を持つその少年王はこちらの眞魔国が崩壊の危機に立たされていることを知り、《禁忌の箱》を破壊するためにやってきた上、人々を飢餓から救うために実りの魔力を使ったこと…。

 ガツン…と、横殴りに頭蓋骨を殴打されたような感覚があった。

 ぐらぐらと脳漿が揺れているように感じるのは、決して飛行する獣に跨っているせいではない。先程までは微塵も感じなかったのだから…。

 アーダルベルトは激しい目眩と吐き気に襲われ、不本意ながらヨザックの腰にしがみづかざるを得なかった。

『ジュリアの魂を受け継いだ魔王が…自分の世界で《禁忌の箱》を破壊し、更に俺達の世界にまで来たと…?』

 それでは、あちらの世界では魂はアーダルベルトに渡らず、コンラートの手で異世界に運ばれたというのか…?
 こちらの世界の崩壊は、アーダルベルトのせいだというのか?

 ジュリアの遺志を…無視したから?

『だが…だが、俺は…っ!』

 あの時…ジュリアの死を待望していたかのように魂を抜いた眞王を、赦すことが出来なかった。
 真実を知った今でも、その怒りが変わることはない。

 こうして無惨な結果の違いを見せつけられてもなお…ジュリアの決断を肯定することも出来ない。
 
『お前は、どんな想いでコンラートに魂を託したんだ?』

 悔しい哀しい腹立たしい…。
 複雑に絡み合う負の感情がどろどろと粘性の質感を持ってアーダルベルトの神経を蝕んでいく。

『…降ろせ!』
『こんな所でかい?』
『そうだ…。俺は王都には嫌気がさしてるんだ。一歩だって脚を踏み入れたくねぇ…。俺に用があるってんなら、先方からこっちに来させろ』

 王都に向かう平原のど真ん中で、アーダルベルトは降下を指示すべく剣先をヨザックへと突きつけた。彼の方はある程度その行動を読んでいたのか…さして驚いた風もなくゆったりと構えている。
 おそらく、アーダルベルトがどんな行動に出たとしても《真実を知りたい》という欲求に耐えきれるはずはないと踏んでいるのだ。

『分〜かったよー。そうギラギラしたもん、突きつけるもんじゃないぜ?』

 軽口を叩きながら獣を降下させたヨザックは、アーダルベルトを降ろすと幾らかの糧食を置き、再び銀色の獣に跨り王都に向かった。
 




 そして置いて行かれたアーダルベルトは一人…最後の酒まで開けてしまったことで、酔いが醒める瞬間に怯えていた。

 冷静になりたくない。
 何か理不尽なものに怒りをぶつけ続けていたかった。

 そうでなければ、浸ってしまう。
 この緑濃き世界に…。 
 
 そんなことをすれば、自分が犯した罪の重さに押し潰されてしまいそうだった…。



*  *  *


   

『やだ…』

 汗ばんだ肌が気持ち悪くて身を捩る。
 闇の中に引きずり込まれていくような感覚が、悪い夢に苛まされているのだと理解できたが逃れることは出来なかった。


 ズルル……
 ズル…


 どろどろとした触手が腕に…下肢に絡みつき、身動きできない有利に囁きかける。

『お前はね、作られたものなんだよ?』
『創主を倒すための作られた、紛い物なんだよ?』
『本当なら普通の男として暮らすことが出来た魂は…ほら、ご覧?干涸(ひか)らびて死んでしまった…』

 生まれ損なった仔猫の死骸が薄闇の中に転がっている。
 あれは…有利が生まれた病院の裏道なのだろうか?

 本当は健やかな赤ん坊の身体にはいるはずだった魂は、スザナ・ジュリアの魂に突き出されて…あんな所に入ったのだろうか?

『やだ…』
『やだよぅ…』

 啜り泣く声を塞ぐように触手が喉元に絡みつき、ゆっくりと締めあげていく。

『レオは正しかったんだ』
『人為的に魂をすり替えるなんて、やってはならないことだったんだ』

 囁きは毒のように耳朶へと注がれ、有利の心を浸食していく。


 けれど…不意に、力強い響きが闇を切り裂いた。


『あなたは…俺の、大切なユーリです』


 否定や拒絶を受け付けない、揺るぎのない声。
 それだけは何が揺らごうとも決して崩れることはないというように、確信に満ちた声が陰湿な触手を断ち斬るべく響き渡った。

『どんな魂を受け継ごうと、あなたはあなただ…!』
『自分で考え行動し…すくすくと育ったあなただから、俺が愛したんですよ…』
『愛してます…愛しています……っ!』

 迷子になった子どものように、しゃくり上げながら有利は叫んだ。

『本当に、俺がマチガイで生まれた子でも…好き?』
『あなたという存在が生み出される限り、間違いなんて存在しません。俺の大切なユーリ…俺の言葉が信じられない?』

 寂しそうに囁かれれば、慌てて有利は否定した。

『ううん…違う…違うよ!コンラッドの言うことなら、俺…信じられるよ…!』

 そうだ…この人は、《コンラッド》だ。
 世界に唯一人の…少しずつ違う平行世界に何万人いるのだとしても…このコンラッドは唯一人のコンラッドだ。


 大好きな…誰よりも大切なコンラッドだ。


 彼がいうなら、それは本当のことなのだ…!


 理屈ではなく心で感じ取れるその事実が…すぽんと腑に落ちた。

『うん…うん、俺…良いんだよね?渋谷有利でいて、良いんだよね?』
『勿論ですとも!ああ…可愛い俺のユーリ!あなたを生み出した全てのものに俺は感謝したい…!』
『コンラッド…コンラッド…っ!』

 駆け寄り、抱きしめてくれる腕に縋り付けば…疎ましい触手はからからに干涸らびて千々に砕けてしまい、星屑のように闇の中に散らばったかと思うと…ふわぁ…っと世界は光に包まれて、後にはほわほわとした芝草が湧き出すようにして生え出てくる。


 二人を祝福するように…。


『俺、生きる…!渋谷有利として、生きるよ…!』

 世界中の誰に後ろ指を指されても、もう惑わない…。
 だって、有利にはコンラッドがいるのだから…!


 何があっても見守ってくれるコンラッドがいるのだから…っ!!
 

 世界が更に眩(まば)い光に包まれたと思った瞬間…有利は自分が覚醒していくことに気付いた。



*  *  *




「ユーリ…」
「コン…ラッド?」

 目元をやさしく拭われて、有利は現実世界に戻ってきたのだと…睡魔の顎(あぎと)を逃れて、恋人の腕の中に戻ってきたことを理解した。

「コンラッド…っ!」

 感極まって抱きつくが、自分の腕はまだ小刻みに震えていて力が入らない。その分、コンラッドが身体全体を使って抱き込んでくれた。
 すっぽりと、包み込むように…。

「ユーリ…ユーリ……」

 囁き声は蕩けるように優しくて…耳朶へと注ぎ込まれるたびに有利の頬には赤みが差し、唇も血の気を蘇らせていくのだった。
 何とか平時に近い脈拍数と落ち着きを取り戻すと、有利はコンラッドにしがみついたまま問いかけた。
 その体勢であれば、どんな現実も受け止められると思ったからだ。

「コンラッド…俺の魂…もともとの魂って、どうなったの?」
「そのことを気に病んでおいでだったのですね?」

 コンラッドは少し安堵したように息を吐いた。
 彼には想像もつかないようなことで有利が痛手を受けていたら、なんと答えようと色々考えていたに違いない。

「このことがユーリの心を安心させることが出来るのかは分からないけれど、ジュリアの魂が入るまで、あなたの体内には何の魂も入っていなかったんですよ?ですから、《もともとの魂》というものは存在しないんです」
「え…?」

 きょとんと見上げる顔を掌でそっと包み込み、コンラッドは唇を軽く頬に寄せてキスを落とすと、また説明を始めた。

「通常、卵子と精子が結びついて受精卵になったものが卵割を繰り返して絨毛と呼ばれる突起を出し、これが子宮壁にしがみついた時に妊娠が成立しますが、どの地点で魂が宿るかについては個人差があるようです。ですから、ミコさんの了承をとったうえで妊娠以前から卵管・子宮部分に防御壁を展開し、受精卵に魂が入り込まないようにしていたんです。ですから、その措置を執らなかったこちらの世界では別の魂が入ってきたはずですが、それが果たして、我々の世界でユーリの中に《入ったかもしれないもの》と同一であるという保証はありません。二つの世界は少しずつ条件がずれることがありますからね」

 有利が誕生するまでの間、育児書のみならず妊娠のメカニズムを細胞学のレベルまで学習してしまった男の発言は、有利の脳味噌にはちょっとレベルが高かったのだが…何とか意味は分かった。

 人生、大切なのはそこである。

「ええと…ゴメン、言葉が難しくて分かんない部分もあるんだけど…つまり、ジュリアさんの魂は、誰の魂も蹴り飛ばしてないってこと?」
「そうです」
 
 最も大切な点に対して、コンラッドは力強く頷いた。

「そっか…そっかぁ…!良かった…!」
「そんなに心配しておられたんですね?」
「うん…だって、誰かに操作されたことで受けられたはずの愛情とか色んなものを奪われた奴がいるんだとしたら…やりきれないじゃん?」
「そうですね…」

 眞王のしたことは、有利の住まう世界では結果的に《大多数にとっての幸福》に結びついた。
 だが…だからといってこの方法が素晴らしい遣り口であるとはとても言い切れない。

 多分に非人道的な手法であることは間違いないのだ。

「魂を人為的に遣り取りすることには、俺も抵抗がありました。特に、大切な友人であったジュリアが、何故自分の命と引き換えに次代の魔王を生み出そうとしたのか…何故、俺にもアーダルベルトにも真実を話してくれなかったのかについては、未だに理解できない部分も大きいんです」
「そうだよね?なんか…ジュリアさんについて知ってる人の話を色々聞くと、あの人って眞王に言われたからって、有り難がって何でも聞いちゃうタイプには思えないんだよ。しかも…あの頃の眞王に、直接会ってるってウルリーケは言ってたよね?」
「そう…ですね……。聡明な彼女が、狂い掛かっていた眞王に気付かなかったなんて…。ちょっと信じがたいですね」
「うん…なんでだろう?」


「知りたいかい?」

 
 声にはっとして戸口を見やれば、村田が立っていた。
 その背後にはコンラートやグウェンダル、ギュンターにヨザック…それに、ギィも増えて有利を心配そうに見詰めていた。

「村田…知ってるの?」
「僕も知らない。だが…知る方法はある。こちらにあるスザナ・ジュリアの魂を覗くんだ。記憶の襞に刻み込まれた、記憶をね」
「今はアーダルベルトが持ってるんだろ?見つかったの?
「王都に呼びつけるつもりだったんですがね、ちょいと途中で駄々を捏ねまして…平原のど真ん中に陣を張って、俺達が来るのを待ってます」

 ギィが眼帯を弄りながら説明すると、有利は寝台の上でぴょこんと跳ねた。

「俺も行きたい…!」
「いや、君はこのままフォンクライスト家の邸宅で待つんだ。もう頼んであるから、必要な物は揃っている」
「えぇ〜?」
「聞き分けてくれ。僕にも、魂が本来はいるはずだった君の肉体にどう反応するか分からないんだ」

 彼にしては珍しく、それは真実であるらしい(←失礼な…)。
 眉間に寄った皺は本物で、果たして自分の興味を満足させるために、そのような行動を取ることが正しいのかどうか迷っている風だった。

「どーゆーこと?」
「スザナ・ジュリアの魂には、間違いなく君の身体に入り込むようにナビゲーターのような機能が付いていた。それが…成長しきったとはいえ、君に対して発動するのを恐れているんだよ」
「今の…俺の魂を跳ね飛ばして、こっちの魂が入ってくるって事?」
「跳ね飛ばす心配はないと思う。複数の魂が共存することも可能だからね。ほら、君だって上様と十数年に渡って共存してたろ?」
「あ…」

 水の妖怪である水蛇の上様は、有利が幼い頃に忠誠を誓って自ら共存し、有利を護り育むことを選んだ。だから、有利が危機に立たされたときしか彼の意志は発現しなかったのだ。

 今では彼が体内に共にあるのを有利が嫌がったので分離しているが…それと同じ事が、二つのスザナ・ジュリアの魂でも起こるということだろうか?

「既に弱っているだろうこちらの魂は、最後の持ち主であったスザナ・ジュリアの意志を多少は残しているかも知れないが…未練なく死んだという彼女が、君の中に入ってまで自分の精神を発現させるとは考えにくい。だが…そうなると、こちらの魂は可哀想すぎるだろう?」
「あ…そっか。俺の中でずーっと、押さえ込まれて眠りっぱなしになっちゃうのか」
 
 それでは、瓶の中で封印されているのと変わらない。
 可能であるならば、まだ何の魂も入っていない身体へと自由に入り込ませて、そこで新たな人物として成育していく方が良いだろう。

「うん…分かった。俺はここで大人しくしとくよ…」
「俺も傍にいます」
「コンラッドは行かなくても良いの?」
「結果だけ聞くことが出来ればいいです。正直、ジュリアが何を考えていたかは知りたいですが、今となってはユーリの方が遙かに大切ですから」

 早速いちゃいちゃし始めた恋人達に眉根を寄せつつも、村田は話がついたことに安堵したようだった。
 幾らかごり押しをして有利が付いてくると思ったのかも知れない。

「理解してくれて嬉しいよ、渋谷…」

 村田の声は優しげで、策略をもって動く彼にとっても有利という存在だけは掛け値なしに大切なものなのだとわかる。
 その有利に近しい存在である魂にもまた、有利に次ぐ思い入れがあるのかも知れない。

「では、僕たちは行くよ?」
「うん。気をつけて行ってこいよ?」

 有利は《バイバイ》と手を振り、村田も同じ動作で返した。

 この時…村田は安堵していた。
 これで、少なくとも有利に危害が及ぶことはない。
 ならば、何の心配もない。



 けれど、村田は思い知ることになる。

 自分にも想定できない事態というものが、世の中には存在するのだと…。




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