第三章 ZーC






「本当に、お二人は仲がおよろしいのですね…」

 ギュンターはどこかおずおずと…地雷を踏まないように気をつけたいのだが、その先にあるものを掴みたいとでも言うように囁いてみた。

 有利はぽう…と頬を染めると、照れたように頭をぼりぼりと掻くのだった。

「いやー…。ま、名付け親で野球仲間で親友だからさー」

 語尾に複数のハートマークを飛ばしながら有利が答えれば、ますますコンラートが地中深くに潜っていくようで、内心ギュンターは冷や冷やしてしまう。
 こういう話題はコンラートがいないときに振れば良かっただろうか?
 
「名付け親…ですか?」

 この時、グウェンダルがぴくりと眉毛を跳ね上げた。
 
「うん、直接《名付けて》って頼まれた訳でもないらしいんだけどね。コンラッドは俺が産まれる直前にお袋と会っててさ、そんときに《7月生まれは祝福される》ってのと、《故郷で7月はユーリ》って言うんだってお袋に言ったら、それが採用されちゃったんだって。だから、コンラッドは俺の名付け親ってわけ。まぁ…まさか、ああいう漢字変換をされるとはコンラッドも予想だにしなかったろうけど…」

 笑いめかした有利の口調とは裏腹に、グウェンダルは真剣そのもの…といった表情で問いかけてきた。

「ユーリ陛下、あなたとコンラートとは元々深い繋がりがあるのですね?」
「うん、そうだね」
「……ひとつ、お聞きしてもよろしいか?」
「うん?何?」

 一拍の沈黙の後、グウェンダルは重々しく尋ねた。

「ユーリ陛下、何故…我らの世界にあなたが存在しないのか…その理由をご存じですか?」



*  *  *

 
 

 空気が、ピン…と張りつめる音がした。

 有利は目に見えて蒼白になり、そのきっかけを作ったギュンターも何かを察したように顔色を変えた。

 コンラートに至っては、凍り付いたような表情で兄の横顔を眺めるのだった。

『…知られる……のか?』

 いつか、言おうとは思っていた。
 だが…それは、全てが終わった後でのことと考えていた。

 《禁忌の箱》の始末がつくまでは、コンラートの求心力を保つためにも秘していることが望ましいと村田も判断していた。

 今も、誤魔化そうと思えば出来ないことはないだろう。

 だが…何かに気付いたらしいグウェンダルに対して、沈黙はともかく虚偽をもって返すことは考えにくかった。

「えと…あの、俺は…良く分かんないよ。だって、こっちの世界でナニがどうなったかなんて分かんないもん」

 しどろもどろに有利が答えるが、グウェンダルは勿論納得していない。

「正確なところはお分かりではないでしょう。ですが…相違点はご存じの筈だ。我らの世界とユーリ陛下がおいでになる世界…この二つを決定的に分けることとなった事象をご存じありませんか?現在の時系列では無理でも、今からでもユーリ陛下が誕生されるという可能性はないのですか?ユーリ陛下は現在御年18歳にしてその成長ぶり…18年や20年など、魔族にとって待てない時間ではありません」
「そりゃあ…」

 ちら…と有利の瞳が揺れる。
 そう、全く可能性がない訳ではないのだ。

 だが、その可能性を口にすることは有利には出来ないだろう。
 それは…コンラートを告発するのと同意であるからだ。

「あるのですね?でしたら…どうか、教えて頂きたい。我らの世界にもあなたという素晴らしい存在が出現する可能性があるのであれば、私はどんな事でもしましょう…!それこそ、生涯をアニシナの実験体として使用される身になっても構わない…!」

 熱く語るグウェンダルは何時しか立ち上がり、長身を前のめりにして有利へと身を寄せていった。
 大柄な男の迫力ある物言いに、有利は半泣きになって狼狽えた。



*  *  *




「な、なんでそんなに今更こっちに《渋谷有利》が生まれなくちゃなんないの…?レオが魔王になって、《禁忌の箱》の始末がつけばそれで良いじゃん!」

 言ってみて、有利はその可能性を深く考え始めた。

 そうだ…今更どうして《有利》がいるというのだろう?
 だって現在の有利を作ったのは有利自身であり、周囲を取り巻いていた18年分の環境の成果なのだ。
 悩み…苦しんだり、笑ったり喜んだりして過ごした日々は有利だけのものだ。

 今更《スザナ・ジュリア》の魂を封入した子どもを日本で作ったとして、それが《有利》と呼べるだろうか?

 それこそ、誰を受け皿に選ぶというのだ?

 そこまで考えたら…急に、ドキンと胸が拍動した。

『ジュリアさんの魂を受け継がなかった俺って…ちゃんと生まれたのかな?』

 生まれているのだとすれば、ジュリアではない誰かの魂の系譜上にいるのだろう。
 そうだ、そもそもコンラッドと美子の接触がなかったのであれば《有利》という名にもなっていないだろうし、既にこちらでは4011年にまでなっている所から考えると、現在地球上にいる《有利になったかも知れない日本人》は26〜27歳というところだ。

『子どもを作っても、おかしくない年頃……』

 さぁ…っと、色んな事が頭を駆けめぐって気持ちが悪くなってくる。

 もしかして、有利に一番近い存在を生み出すとすれば、《有利になったかも知れない日本人》の子どもなのではないだろうか?
 本来受け継ぐ筈だった魂を押しのけて、ジュリアの魂を封入するのか?
 そんなことを、《有利になったかも知れない日本人》は受け入れるのか?


『そういえば…俺のもともとの魂って、どうなったんだよ?』
 
 
 ジュリアの魂に跳ね飛ばされて、ビリヤードの玉のようにどこかに転がっていったのだろうか?
 本当ならこの身体に入るはずだったのに?

 まさか…その辺に転がったまま、消えてしまったりしたのではないだろうか?

「…っ!」

 今まで気づきもなかった事柄を突きつけられて、有利は目の前がくらくらと揺れ始めているのに気付いた。
 脳内の普段使っていない部分を揺さぶられているようで気持ちが悪い…そして、酷く恐ろしい。

「ぅわ…」
「ユーリ…!」

 頭を抱えてテーブルの上に突っ伏しかけた有利を、横合いから浚うようにして抱きしめたのはコンラッドだった。

「ユーリ…落ち着いて?」

 有利の肩は小刻みに震え、縋る縁(よすが)を求めてコンラッドへと必死にしがみついた。
 そうしていなければ…自分の存在がとても希薄なものになって、大気の中へと霧散してしまうのではないかと恐れるように…。

「コンラッド…何か、気持ち悪い……」
「ギュンター、どこか横になれるところはあるかい?ユーリは酷く疲れているようだ。まだ…十分に回復しきっていないんだよ」
「え、ええ…!すぐに用意させます…っ!」

 ギュンターは侍女を呼びつけると素早く客室に案内させ、有利とコンラッドはそちらに移動することになった。



*  *  *




 沈黙が、流れた。

 宵闇に包まれたバルコニーは、卓上に置かれたキャンドルと侍女の持ってきた洋燈の明かりに照らされているが、集う三人(…と、一匹)の顔色は夜の闇よりも深く…暗いものであった。

 渡る風は初夏だというのに嫌に冷たく、ギュンターは膝掛けを侍女に持ってこさせたくらいだ。

 その沈黙に耐えかねたように、不意にコンラートが口を開いた。

「グウェンダル…フォンクライスト卿…秘密を、打ち明けてもよろしいですか?」
「あなたが、告白したいというのなら…」
「うむ…」
「…聞いて頂きたいのです、あなた方に。聞いてもなお俺についてきて下さるのか…どうか教えて頂きたい…」
「コンラート…」

 ひっそりと、コンラートは話し始めた。


 異世界において自分が知る事となった真実…自分が魂を運ばなかった事が、どれ程の不幸を世界に引き寄せたのかを…。



*  *  *




『なんということだ…』

 グウェンダルはコンラートの告白を聞き終えると、愕然として言葉を失った。
 コンラートは…弟は、何という重い罪を背負ってしまったのだろうか?


 彼の性格から考えて、その事実を受け入れることがどれ程の苦痛であったかは推し量るべくもない。

「赦して貰えるとは…思っていません。それだけのことを、俺はしました」
「コンラート…!」
「多くの命が失われ…世界は滅びの危機に瀕した。それは…あの一瞬……俺が決断したことに大きく関与しているのです。もしもそれだけの因子によってのみ決定されたのだはないのだとしても…俺の罪が消えることはない…」


 コンラートの表情は凍てつき…瞳から生気が消え失せていた。
 もう、兄の信頼を再び得ることなど出来ないとでも絶望しているのだろうか?

「グウェンの旦那…頼むよ……コンラートのヤツを責めないでやってくれよ……」

 泣きそうな声で…実際、涙を目尻に滲ませて囁きかけたのは、存在を忘れられかけていた白狼族の鋼であった。

「あのよ…?こいつ、俺らのいる世界でこのことを知ったとき、多分…どうやっても詫びることが出来ないって思ったんだろうなぁ…。自殺、しかけたんだよ…」
「…っ!」

 三人が同時に瞬いた。
 コンラートもまた、鋼にその事を知られているとは思わなかったのだろう。

「死のうと…したのか?」
「すみません…今では、何の解決にも…詫びにもならないと分かっています。ただ…あの時、俺の頭は真っ白になってしまって…。ただ、死ぬことしか考えられなかった。きっと…罪を受け入れて生きていく勇気がなかったのです」
「でも、死ななかった…あなたは受け入れた…そうでしょう?コンラート…」

 見えぬ瞳を涙で濡らしながらギュンターが囁きかける。

「そうです…あの時、死のうとした瞬間…俺が辛くて堪らないだろうと思ったんでしょうね、ユーリが、部屋に忍んできてくれたんです。そして、何と言って良いのか分からないように戸惑いながら…それでも精一杯の真心を込めて声を掛けてくれたんです。《慰めることは出来ない》と…。それでも、《知っていて欲しい》のだと…」

 コンラートは感極まったように声を震わせて、両手で顔を覆い隠した。
 声は…涙混じりのものになっていた。

「《……生きててくれて、ありがとう》と…そう、言ってくれたんです」

 《嬉しかった》…。

 そう呟いたきり、コンラートは言葉を切った。

 そんなコンラートの上体を荒々しく抱き寄せると、グウェンダルは何か言ってやろうとして声にならず…救いを求めるようにギュンターへと目配せをして、《そういえば目配せはきかない》という事実に困り果てていた。

 しかし、目は見えずともギュンターには分かっているようだった。
 今、自分が何をすべきなのかを。

「責めることなど…どうしてできましょう?そのような選択の場に立たされて、私とてどのような決断が出来たでしょうか?それは勇気でも叡智の問題でもなく…恋人を喪って慟哭する者への憐憫であったはずです。後になって結果だけ見て、《何故こうしなかった》と責め立てるなど…少なくとも、未来を知る術もない我らの誰に出来ましょう?ましてや…想像を絶する苦しみの中で、それでも生きることを選んでくれたのだろうあなたを前にして、どうして…責めることなど出来ましょう?」

 ギュンターはぽろぽろと花弁に散るしずくのような涙を零しながら、それでも笑顔で語りかけた。
 暖かく…強く、励ますように。

「私も、あなたが生きていてくれて本当に嬉しいのですよ。グウェンダル…あなたも、そうですよね?」

 こくりと頷くことで同意を示すことしかできなかった。
 もともと饒舌でないこの男にとって、この思いを口にして説明することはまことに困難だったのである。

「お前は王だ。私が…仕えようと誓った王だ。生きていてくれなくては困る」
「では…何故……」

 おずおずと抱きしめ返してくるコンラートの声に、グウェンダルは自分も力を尽くさねばならないことを痛感した。
 何もかもギュンター任せというわけにはいかなさそうだ。

「…双黒の魔王が欲しいのではない。私は…お前だけの《ユーリ陛下》を手に入れてやりたかったのだ……」
「…っ!」

 コンラッドとあまりにも深く結びついた有利を引き離すことは、コンラートにとっても望ましいことではないだろう。
 何らかの方策を用いて引き離したところで、両者の心に癒しがたい疵がつく。

 だからこちらの世界で《有利》を生み出すことが出来るのなら、その方法に縋りたかったのだ。

 コンラートの切ない想いを感じるからこそ…そうしてやりたかった。
 だが、グウェンダルのやったことは予想しがたい程の反応を引き起こしてしまったようだ。

「私は…全くもって不器用で…いつも、こうだ…。お前を幸せにしてやりたいのに…いつも失敗ばかりしている……」 

 薄闇の中…抱き合って、直接顔を見ることが出来ないせいだろうか?勢いがつくと意外とすんなり言葉が出てくる。
 顔を見合わせれば火が噴き出すほど恥ずかしい思いをしそうだが、それでも…この機会にせめて伝えておきたかった。

「私は…お前の幸せを祈っている。今も…昔も……」
「グウェン…っ!」


「君達、暑苦しいなぁ…」


 涙ながらに抱き合う兄弟に、突然醒めた声が掛けられた。
 勿論それはギュンターでも鋼でもなく、先程までここには居なかった第三者である。

 宵闇の中に溶け込むようにして中空を飛んでいた者は、白狼族(最近、大変便利に使われている)に跨る村田であった。その背後にはヨザックが共に騎乗している。眼帯なしの目元から見て、あちらの世界のヨザックだろう。

「ま、フォンヴォルテール卿の気持ちも分からなくはないけどね、僕はこちらの世界で渋谷に代わる存在を作るなんて願い下げだよ?それに、獅子王君だってあくまで渋谷が好きなんであって、似たものが欲しいわけじゃないだろう?」
「ああ…」
「僕は君を大して好きではないけれど、そういうところは信頼しているよ…」

 白狼族がふわりとバルコニーに降り立つと、村田は端正な顔立ちを淡く強張らせて自嘲の笑みを浮かべた。

「魂を人為的に遣り取りする…。それがどれほど罪深い行為であるのか知っていて実行したのは眞王と僕だ。この件について、獅子王君の決断を責める気はないよ。当時、眞王が発狂しかけていたことで眞王廟内の情報が錯綜していたことが大きな原因であることに疑いの余地はないし、その点を伏せて君を責めるほど僕も厚顔にはなれない。そして…利用しようとした魂に対しても責任を感じているんだ。今更、《禁忌の箱》破壊の為の魔王を生み出す為には使えない。かといって、アーダルベルトの手に収まったまま…彼の死と共に破壊されるようなことがあれば、決断してくれた彼女に詫びる事も出来ないからね」
「猊下は、スザナ・ジュリアが何故…自分の魂を次代の魔王に引き継がせることを了承したのがご存じなのですか?」

 ずっとその事が気に掛かっていたのだろう…コンラートは血を吐くようにして問いかけるが、村田は否定の形に首を振った。

「分からない。その頃、僕もまた転生の最中だったし、そもそも随分長い間眞魔国ではなく地球で転生を続けていたからね。正直な話…英明で知られ、権威を笑い飛ばして思うように生きたというスザナ・ジュリアが、一体何故狂いかけている眞王の言葉を信じ、魂を委ねたのか理解できないんだよ」
「猊下でも…お分かりにならないのですか?」
「そうだ…僕にも分からない。僕はね、このことがとてもむずむずして嫌なのさ。眞王のヤツも問いつめてみたんだが、あいつも当時は狂いかけていたわけだから、スザナ・ジュリアの心の内を読み取るなんて芸当は出来なかったようだ。依頼したことは確かなようだけど…彼女が《静かに受け入れた》ってことしか覚えていないって言うんだ」
「畏れ多いことながら…眞王陛下がスザナ・ジュリアの承諾無しに魂を取り上げたという可能性はあるのでしょうか?」
「グウェンダル…!」

 不敬に過ぎる発言をギュンターが咎めるが、村田は気に留めた風もない。
 ただ、《それはないだろう》というふうに肩を竦めて見せた。

「だとすれば、彼女の魂が疵一つ無い正球になったことの説明がつかない。意に反して奪われたのであれば…その事に死の瞬間彼女自身が気付いていなかったとしても、死に際して一片の後悔もなかったとは考えにくい。彼女は愛する男との婚礼を前にしたうら若き女性だったのだからね」
「ええ…そうです。俺にも何故彼女がそんな運命を受け入れたのか理解できなかった。そして…何故アーダルベルトではなく俺を選んだのかも…!」
「確かめてみたいとは思わないかい?」

 また、くるりと辺りを覆う大気が変化した。

「可能…なのですか?」
「分からない。だが、理論的には可能なはずだ。魂には記憶が刻まれているからね、その襞を捲(めく)れば…分かるはずだ」
「…っ!駄目ですっ!……そんな…っ!」

 顔色を変えて立ち上がるコンラートに、村田は微かに笑った。
 少し、それは嬉しそうな微笑みだった。

「分かってるよ、渋谷の魂は操作しない。知っているだろう?僕は…世界の誰よりも渋谷が大切なんだ。彼を苦しめるような行為など…頼まれても不可能だよ」
「では…」
「記憶の襞を捲るのはこちらの世界の魂だ。きっと…何十年も封じられて弱ってはいるだろうけど謎を解き明かすことは出来るだろうし、もう開放してあげた方が良い…。だから、僕はヨザックに命じてアーダルベルトを探し出させたんだよ」
「…見つかったのですか!?」

 こくん…と村田が頷く。



「ああ…彼は王都にやってくる。スザナ・ジュリアの魂を携えてね…」

 
 
 それが一体何をもたらすことになるのか…この時、村田にさえ把握できてはいなかった。
 





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