第三章 ZーB







「わ…わわ…私が王佐ですか!?」

 確かに異世界ではそのような役職について、年若い魔王ユーリ陛下を支えていると聞く…。
 だが…こちらでの我が身を振り返ると、《光栄です》とすんなり受け入れるわけにはいかなかった。

「私の視力は…回復の目処が立たないのですよ?」

 そんな男が王佐になどなれば、返って迷惑を掛けることにはならないだろうか?
 コンラートにとって心から信頼できる大貴族がまだ少数であるとはいえ、なれ合いで組織化を図るのは危険な傾向だ。

 その不安を察したように、コンラートは理知的な色彩を湛えて微笑んだ。

「ご心配なく。あなたがその任に耐えられないと判明すれば、即座に罷免の措置を執ります。ですが…いまの段階で、俺はあなたにこそ王佐の職が相応しいと考えているのです」
「それ…は、本来の力が発揮できれば自信がないとは言いませんが…」
「あなたに能力がなくなったわけではないでしょう?視力という機能の一つが損なわれたに過ぎません。だとすれば方法は二つあるはずです。その機能を補うか、修復を測るかです。それも無理だというのなら諦めます」
「は…そ、そうですか?」

 きっぱりと言い切られると、逆に鼻白んだように眉毛を下げてしまう。
 なんとなく…息子を心配して見当違いなことを言ったら、理路整然と打破された母親の気分だ。

「手立ての一つとして、視力が回復しなくとも仕事に支障が出ないよう秘書官をつける予定です。眞魔国の古文書のみならず、人間世界に於ける各種の言語系に対応可能で文書解析に長けた者を数名選出しておりますので、あなたが直接面接をした上で適切な者を登用してください。ただ、もう一つの手立てついては…」

 そこでコンラートは一度言葉を切り…ちらりと傍らに眼差しを送った。

 目配せを受けた側のグウェンダルは…………実に苦々しげな表情を作ったかと思うと、ひり出すようにしてこう言ったのだった。

「……アニシナに、治療薬の開発を依頼しようと思う」


 ガターン…っ!

 
 白木のテーブルが再び激しく揺れる。
 だが、今度立ち上がったのは有利であった。



*   *   *




「ま…マジで!?目が見えるようになる代わりにポーンって飛び出したりしない!?」
「恐ろしいことを言わないでくださいよユーリ…。実にありそうで、つい想像しちゃうじゃないですか」

 しかし、グウェンダルはともかくとしてギュンターの方はぽかんと異世界の住人達を眺めている。

『あれ…?怖がってない?』

 もしかして…こちらのギュンターはアニシナの被害を受けていないのだろうか?

「どういうことです…?フォンカーベルニコフ卿アニシナは少々不可思議な実験を行うそうですが、傑出した発明家だとも聞いています。しかし…開発物に、そんなにも恐ろしい副作用があるのですか?」
「副作用って言うか…。寧ろ、アニシナさん的には治療効果の方が副作用で、目が飛び出してくる方が主作用と思ってる節があるよね…」
「まあその話は置いておいて…それよりもギュンター、君はアニシナの実験に巻き込まれたことがないのかい?」
「ええ…幸いにして、と言うべきなのでしょうかね?」

 コンラッドの問いかけに、ギュンターは苦笑気味に応えた。

「グウェンダルが幼い頃から格好の獲物…いえ、実験対象にされていると聞いたことはありましたが、この二人もずいぶん前から疎遠になっていますからね。今、彼女がどのような活動をしておられるのか伺ったこともないです」
「へぇ〜。グウェン、なんで喧嘩なんかしたの?…て、聞いても良かったのかな?」

 さっくりと聞いておいてから、有利はグウェンダルの気分を損ねたのではないかと不安になって、《うきゅ?》…っと小さく肩を竦めて上目遣いに見詰めた。

「……っ!」

 最も効果的な角度から放たれた(おそらく、感覚的に《この角度が良く効く》ということを覚えてしまったのだろう)魔王陛下の必殺技に、グウェンダルは脂下がってしまいそうな目尻と口角を、咄嗟に大きな掌で覆い隠した。

「…別段、大したことではないのですよ…」

 エフンエフンとわざとらしく咳払いをして誤魔化すが、体験的にそれが照れ隠しであることはよく分かっている。
 その反応自体は慣れたものなのだが…嫌みを言うわけでもないときに敬語で喋られることに奇妙な違和感を覚えた。



 考えても見れば、有利があちらの世界で眞魔国にやってきたとき、グウェンダルとの関係は最悪のレベルから始まった。
 グウェンダルは母ツェツィーリエの政治的無関心と摂政シュトッフェルの無能と横暴に失望しきっており、事情もよく分からないままやってきた有利に対して最初から嫌悪感を剥き出しにしていたものだった
 
 いや、正確には嫌悪というより一種のスクリーニング検査的な意味合いもあったのかもしれない。彼が提示するハードルをクリアできない者であるならば《即座に帰れ》と威嚇していたのだろう。
 二度と気軽な気分で魔王になろうとする者が現れないようにという、彼なりの警戒網だったのかもしれない。

 今になれば理解も出来るが、当時は辛くて堪らなかった。
 コンラッドがいなければ、それこそ即座に地球への帰還方法を尋ねていたに違いない。

 しかし、こちらの世界では随分と事情が変わってくる。

 グウェンダルにとっての有利は、《異世界で既に大きく成功した魔王陛下》であり、《窮地にあった我が眞魔国の救世主》、更には《弟の恩人》という要素もあるのだろう。

 その眼差しはどうしても柔らかいものにならざるを得ず、物腰や言動も自然と敬意に満ちたものになる。

 そのことが少し嬉しい…というよりも、なんだか気恥ずかしいような心地がするのだった。

「私は、その…随分昔に、彼女と諍(いさか)いを起こしたことがあるのです。ともかく、その事については私に非があろうがなかろうがこの際関係ないことですから、なんとか謝罪をして治療薬の開発を依頼するつもりです。アニシナを怒らせた理由については…個人的なことですので、今は伏せておいてもよろしいか?」
「うん、言いたくなかったら良いよ。じゃなくて…良いデス」
「私に対して敬語など結構ですよ?年長者ではありますが、立場というものが違います」

 恐縮して微笑むグウェンダルに、やはり有利はむずむずするような居心地の悪さを感じてしまう。
 丁寧ではあるのだが…その分、他人行儀にも感じられるからだ。
 
「うーん…やっぱ、あっちの世界でのグウェンと違いすぎて変な気分だなぁ…」
「あちらでの私はどのような…?」
「うん、なんかっつーと《この馬鹿もんがぁっ!》って、拳骨をおみまいしてくれたよ」
「…………拳骨…ですか?魔王陛下に…?」
「グウェンダル、あなた…なんてことを……っ!」

 ギュンターが青ざめて《ひぃ》…っ叫ぶが、そんなことを言われてもグウェンダルとて困るだろう。

「いや、こっちのグウェンの事じゃないし!それに…あっちのグウェンだってね、意味もなく拳骨ぶちかましてるわけじゃないんだ。俺が怒らせるようなことをしてるせいだもん。グウェンは…やっぱ、優しいよ?」

 懐かしげに瞼を伏せて微笑めば、ぽぅ…っと見ている者たちの頬が染まる。
 あまりに可憐な仕草に、そのような生体反応を止める術がなかったのだ。

「心配してるかな…」
「え、きっとそうでしょうとも…。どうか、無事にお戻りいただけますよう!」

 ギュンターがそういった瞬間…微かにコンラートの睫が震えたことに、有利は気づかなかった。



*   *   * 

 


『ユーリ…君は、いなくなってしまうんだね?』

 分かっている。
 理性では…痛いほど分かっている。

 そもそも…彼が今ここにいること自体が様々なものを犠牲にした上でのことだし、危険を伴うことでもある。
 少しでも早く、彼を待つ人々のもとに帰って貰うことが筋なのだ。

 それでも…コンラートの胸はいつか来るであろう別れの予感に拉(ひし)がれそうになっている…。

 二つの世界が分断されるわけではないから、頼めば何とか訪問はしてくれるだろう。
 だが…その時の滞在はあくまで《訪問》であり、親しく過ごすひとときは更に短いものになるだろう。

 思えば…全てを奪われ、異空間に投げ出された時の事までが切ないほどの光彩を纏って想起される。
ただ一つ残されたヨザックの存在までもがぬくもりを失い、孤立する恐怖に発狂しかけたとき…異空間を切り裂いて飛来してきた奇跡の存在。

 それが、有利だった。
 
 あの瞬間から…コンラートの中のあまりにも大きな部分を占めるようになった彼が、目の前からいなくなってしまうのだ。

 今となっては、魔力を消耗してくたりと脱力した有利を抱きしめ…獣の穴蔵で過ごしたあの一時が生涯で最も輝いていた瞬間のように感じられる。
 薄明かりの中でも明瞭に見て取れた類い希な美しさ、腕に抱き寄せたときに感じたしなやかな柔らかみ…仄かに匂い立った彼独特の香気…。

 記憶野に刻み込まれた感覚は、今もコンラートの胸を掻き立てる。

『ユーリ…ユーリ……』

 異世界の魔王陛下。
 異世界に於けるウェラー卿コンラートの恋人であり、結婚を約束しあった者…。

 彼のことを思うとき、コンラートの胸には甘さと痛みの入り交じった感覚が同時に押し寄せてくるのだった。 

 望みのない恋…そして、想いを知られるだけでも大恩ある有利に心理的負担を与えてしまう…行き場のない恋。
 不毛だと理屈では分かっていても、狂おしく込み上げてくる想いを完全に潰してしまうことは不可能だった。



 トン…っ!

「コンラート…!」

 グウェンダルに肘でこづかれて《はっ》…と、意識を取り戻す。
 見れば、事情を察しているわけではないのだろうけれど…有利も心配げにこちらを覗き込んでいた。

「仕事忙しくて…疲れちゃった?俺が手伝えると良いんだけどな…」
「いや、大丈夫。少し考え事をしていただけだから…」
「そう?」

 にぱりと微笑む表情のなんと愛らしいことだろう?

『どうして…そんなに可愛いんだろう?』

 泣きたくなるくらい可憐な思い人に、コンラートは精一杯の微笑みを浮かべてみせるのだった。
 せめて、愛しい人の懸念が減りますようにと祈りながら。



*  *  *




『よりにもよって…何という方に思いを寄せているのですか…』

 ギュンターは楚々と形良い指で目元を押さえると、心痛によって刻みかけた皺をきゅきゅっと戻した。

 まだしも差別意識に凝り固まった純血貴族の令嬢だの、人間世界の王女だのの方が実る見込みがあるというものだ…。

 そんな固定概念など蕩かしてしまうくらいコンラートの男としての魅力には凄絶なものがある。きっと最初は蛇蝎のように嫌っていた相手であっても、女であれば…いや、一国の王を勤める男であっても…コンラートが本腰を入れて掻き口説けば、どんな氷冷の心を持つ者でも狂おしいほどに彼を求めてくることだろう。

 だが…今回ばかりは相手が悪すぎる…!
 よりにもよって異世界の魔王…それも、恋敵は自分自身なのだ。

『こちらのコンラートとはまた少し印象が違うようですけど、ユーリ陛下との強い結びつきのせいなのか人生経験のためなのか…コンラッドには余裕すら感じられますからね』

 そう…今も、コンラッドの方は気遣わしげな眼差しを浮かべる程度で、嫉妬めいたものは微かにしか感じられない。
 きっと、彼にとっての有利の重さを実感しているからこその同情であり、自信なのだろう。

 彼は決して、有利が自分から離れてコンラートを選ぶとは思っていない。
 心配しているのは寧ろ、コンラートの方だ。

 切ない想いに飲み込まれて、自分を見失うことのないように気遣っているのだろう。

『コンラートは聡い子だもの…きっと、コンラッドの想いにも気付いているでしょうね?』

 だとすれば、なお一層切ないではないか。



「ギュンター…お返事を頂けますか?」
「あ…え、ええ…」

 物思いに耽っていたギュンターは、コンラートに声を掛けられて我に返った。
 そして、既に腹の中では決まっていた答えを力強く告げたのであった。

「そのお話、謹んでお受けします」
「ありがとうございます。どうか…俺と共に、眞魔国を支えて下さい」

 そ…っとコンラートに手を握り込まれて、ギュンターは感慨深く心中に囁いた。

『なんと大きな手になったのでしょう…!』

 太さはないが、がっしりとした骨組みの手はギュンターのそれよりも一回り大きくて、幼い頃に剣の手ほどきをしてあげた時とは比べものにならぬほど立派な武人のものとなっている。

『ですが…昔と変わらぬところもありますね?』

 幾つもの疵が刻まれているのだと察せられるが、地肌は滑らかで…そこだけは昔と変わらない。母親のしっとりとした肌質にシルクの滑らかさを混ぜたようなその肌は、覚えのある《コンラート坊や》のそれだ。

 母や兄弟達の愛を求めて得られず…孤独の中を、それでも希望を捨てずに生きてきた《コンラート坊や》。
 彼が真の充実感や幸福感を得ることが出来るのなら、ギュンターは何でもしてあげたかった。



「微力ではありますが、私の持つ全てであなたを支えましょう…」

 それは、誓いであった。

 生涯かけて、精神と肉体の全てを捧げ尽くすというギュンターの誓いを…コンラートは誠意を込めて受け止めた。



*  *  *




『わー…なんか、良いなぁ……』

 請い請われて主従を誓い合う…憧れの中世騎士道の世界だ(あるいは、三国志か)。
 何故だか有利の場合、眞魔国では発生しなかった情景なので余計に眩しいような気がする。
 気が付いたら泥縄式に宰相だの王佐だのが立っていたような気がするのだ…。

『あ…でも、コンラッドは俺にしてくれたよね?』

 隠れ天然のコンラッドが軽く勘違いした結果ではあったのだが、アレはアレで嬉しかった。

 昔…と言っても、月日にすればほんの一年前のこと。
 有利を求めて地球にやってきたコンラッドが、虐待防止のCAPプログラム講演会で客員出演した際、有利はコンラッド(よりにもよって、お隣の少年に悪戯するという変質者の役だった…)の相手役に嫉妬し、会場で泣きそうになっていたのだ。
 
 そんな有利の変化に気付いたコンラッドは、舞台から一気に飛来して足下に駆けつけたのであった。

 会場から迅速に有利を連れだしたコンラッドは、熱い眼差しで有利を見詰め…剣の誓いを立ててくれた。   

『懐かしいなぁ…』

 まだコンラッドのことを好きなのだと気付いたばかりで…想いを伝える勇気もなかった頃、四大要素を手に入れることよりもコンラッドのことが気になってしようがなかった。
 大人で何でも出来て色男のモテモテマンで声が佳くてガタイが良くて《ルッテンベルクの英雄》で《夜の帝王》で…王と臣下なんて位の違いなど問題にならないくらい、彼は有利よりもずっと《上》の存在だった。

 その彼が、今では結婚を約束しあった相手なのだ…!

『うわー…改めて考えると、凄ぇ嬉しい……』

 あの頃の不安でしょうがなかった自分に、教えられるのなら教えてあげたいくらいだ。
 《未来のお前はこんなに幸せになれるんだぜ?》…て。

『苦しくってしようがないときだってさ、いつか絶対幸せになれるって知ってたら頑張れるよな』

 にこにこしながらコンラッドを見詰めていたら、こちらも笑顔になってそっと手を伸ばしてきた。

 ちょこんと合わせた指先はいつも通り少し冷たくて…でも、馴染んだ肌質がとても気持ちいい。
 ぎゅうっと握りしめたいけど、流石にちょっと恥ずかしくて出来なかった(←周囲から見れば十分恥ずかしい行為であることに、残念ながら有利は気付いていなかった……)。

「あれ?レオ…顔色悪いよ?お腹痛い?涙目になってるよ?」
「いいや…何でもないんだよ……」

 蚊の鳴くような声でコンラートが囁くと、横に座っていたグウェンダルがぽんっと背中を叩いた。すっかり仲良し兄弟だ。

「そう?良く分かんないけど…これからはグウェンもギュンターも助けてくれるから安心だよね」
「うん、そうだね。本当にそうだ…」

 健気に微笑むコンラートに、コンラッドも生暖かい微笑みを浮かべて肩を叩いた。

「…まあ、まだまだこれからだから…。共に頑張ろうな?」
「ああ…ありがとう…………」



 頑張れコンラート。
 行け行けコンラート。

 君が幸せになれる日もいつか来る。
 …多分。 





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