第三章 Z.王都に廻る大気ー@
ヒュ…ルル………
お日様を沢山浴びた草いきれの香りを載せて、微風が流れてくる。
耳元を掠める風にギュンターが微笑みかけると、要素達は嬉しそうに旋回して見せた。
悪戯者のつむじ風に銀色の髪房がふわりと巻き上げられ、眩しい陽光の中できらきらと輝いたが…ギュンター自身がそれを目にすることは出来ない。
ギーゼラの手厚い治癒のおかげで瞼を綴じ合わせていた滲出物は消え、元の美貌は蘇ったのだが…その菫色の瞳が物の形を捉えることは出来なくなっていたのである。
《視力が戻る日が来るのだろうか》…それを考えると、つい瞼を伏せ気味にしてしまう。
血盟城にほど近いフォンクライスト家縁(ゆかり)の館で、ギュンターは現在静養中であるのだが…体調はある程度回復したものの、ふと将来のことを考えると不安になるのだった。
『このような身体では…コンラートを助けてあげることなど無理だろうか…』
そもそもコンラートは…ギュンターを必要としているのだろうか?その意図を汲むことは難しい。
何故なら、彼と直接声を交わしたのは…あの《奇蹟の日》だけなのだ。
そう、あの素晴らしい…そして、信じがたいほどの驚きに満ちた一日は、既に人々の中では《運命の日》、《奇蹟の日》と呼び交わされて、詩歌や書物の形を取り始めている。基本的に《記念日》というものをあまり設けない眞魔国の民でさえ、おそらく一年後のこの日、自分たちがこの日を祝っていることを予感しているのだった。
『まあ…少し、気が早いかも知れませんけどね』
《禁忌の箱》は、まだ厳然として存在しているし、コンラートは眞王陛下と大賢者のお墨付きを受け、熱狂的な民の支持を受けているとはいえやはり混血である身だ。真にこの国の貴族階級に受け入れられる為には、時間と労苦を必要とするだろう。
『傍で…支えてあげられれば良いのですけど』
それを考えると、きゅ…っと唇を噛みしめてしまう。
この見えない瞳では、どうしても行動は制限され…書物から情報を読み取ることも剣を振るうことも困難になってしまう。
かつて眞魔国の光と呼ばれたフォンウィンコット卿スザナ・ジュリアのように精神面や治癒の力で社会貢献することが出来たとしても…ギュンターが本来持つ力は大幅に削られてしまうだろう。
『言っても、詮無いことですね…』
ふるるっと首を振るが、それでもまだ寂寥感を拭うことが出ない。
『どうも独りで居るといけませんね…思考が暗い方に偏ってしまいます…。みんな、どうしているのでしょう?』
腐れ縁で繋がっている友人のグウェンダルが来て、憎まれ口を叩いていかないのもやっぱり寂しかったりする。
『まあ…無理でしょうけどねぇ……』
彼はまだ十貴族会議による正式な任命を受けてはいないものの、コンラートを支える宰相の座が内定しているとの噂だ。働きの上では、実質もう動き出してもいる。とても友人を見舞っているような余裕などあるまい。
『やれやれ…贅沢とは魔族を慣れさせるものですね!』
自嘲の笑みを浮かべながら、ギュンターは恥じ入ってしまう。
考えてもみれば、一週間前の彼からしたら今の状況は信じがたいほどの幸福に満たされているのだ。
* * *
ツェツィーリエとギーゼラによって救い出されるまで、ギュンターは地獄の中にいた。
不潔な牢獄の中で毒により目を潰され、鞭打たれ…爪を剥がされたが、そんなことよりも酷(むご)い責め苦として科せられたのは、コンラートのことをちらつかされた事だった。
拷問吏はギュンターが深くコンラートのことを心配していることを知った上で、彼がどんな惨たらしい責め苦を受けているか…屈辱の中で苦鳴を上げているのか…まことしやかに語っては、ギュンターに救うことの出来ぬ無力さを突きつけたのである。
『短気を起こすのではなかった…』
『本当にコンラートを救いたいのなら、もっと良いやり方があったのではないか…』
そんな想いが螺旋を描いて脳裏を駆けめぐったが…決して拷問吏にその動揺を見せることはなかった。
残された矜持が、決してこの恥ずべき男に屈するものかとギュンターを奮起させたのだ。
『コンラート…あの子は、運命の子だ…』
『決して生死も分からぬまま、歴史の中から消え失せることなどあるものか…!』
闇の中で、それだけがギュンターの希望だった。
そしてそれは…最上の形で報われることになった…。
* * *
『ええ…そうですとも。落ち込んでいる場合ではありませんよ!きっと私には…まだ、私にしかできないことが残っているはずです!いま見つからないからと言って、存在しないという理由にはなりませんからね!』
目元に滲んでいた涙をハンカチで拭い、ギュンターは《にっ》…と笑みを浮かべてみせた。
昔、スザナ・ジュリアに聞いたことがあるのだ。
《辛いときでも、微笑みを浮かべるといいわ》…彼女は笑ってそう言った。
そうすれば、新しい力が湧いてくると。自分にはまだ出来ることがあるのだと必ず気付くことが出来ると…。
ヒュルルル…
ルルゥ……っ!
元気を取り戻そうとするギュンターを励ますように、要素達は殊更陽気に跳ね回っているようだった。
「ありがとう…」
ギュンターがはにかみながら礼を言うと、更に嬉しげに要素が踊る。
ごく小さな力しか持たない要素まで、生き生きと弾んでいるようだ。
「おやおや…元気ですね!今日は一体どうしたのですか?」
あの《奇蹟の日》以来ずっとその傾向はあったのだが、今日は特別元気なようだ。天気も良いからご機嫌なのだろうか?
「ふふ…こんな日がまだ来るなんて、信じられませんねぇ……」
ギュンターは強い魔力を持つ男だが、その彼をしても…ちいさな力しか持たない要素を大気の中から引き出すことは極めて困難であった。
ことに《禁忌の箱》が開放されて以降は、箱から溢れ出てくる力が要素達を踏み躙(にじ)り、千々に乱れさせていることを知っていながら…ずっと何も出来ない日々が続いていた。
その間、ギュンターは常に彼らに思いを馳せては胸を痛めていたものだ。
それが…どうだろう?
『何と心地よい風なのでしょう…』
荒々しい風の要素だけでなく、穏やかで小さな力しか持たない要素までが喜びの詩をうたいながら舞い踊っている…ギュンターは視力を失っているだけに、余計にそれを強く感じているのかも知れない。
肌に…唇に…そっと触れていく風は皆、喜びの声を上げている。
『楽しい楽しい!』
『嬉しい嬉しい!』
『お空をクルクル回るのはなんて楽しいんだろう!』
「ふふ…本当に楽しそうですね!」
要素達の声音に釣られて、ついつい唇から弾むような声が漏れてしまい…恥ずかしげに口元を掌で覆った。
魔力を持たない侍女辺りが見たら、驚くかなと思ったのだ。
しかし次の瞬間、驚かされたのはギュンターの方であった。
「ギュンター、要素が綺麗な声で歌ってるね!」
ギュンターが座るバルコニーの下から、軽やかな声が響いてきた。
彼の心をときめかせるこの声音は…まさか、まさか……。
「ユーリ……陛下?」
少し鼻に掛かる、少年らしい伸びやかな声…。
ギュンターの胸をときめかせるこの声は、聞き間違えようもない独特の響きで大気を震わせ、要素達をぽぅん…ぽぅんと元気よく弾ませるのだった。
要素達がはしゃいでいたのは、こういう訳だったのか!
「うん、そうだよー。お見舞いに来たんだけど…今、良いかな?」
「それは勿論…っ!!」
ガタ…っ!
わたわたと慌て、椅子から立ち上がろうと藻掻いたものだから…卓上に置かれた茶器が《チキィン》と不穏な音色を奏でるわ、揺れた弾みにカップから飛び出した紅茶が白いテーブルクロスを汚してしまうわ、えらいことになりかけた。
「あ…あ……っ!」
牢獄から救出されて一週間…まだ、盲人生活に慣れるには時間が掛かりそうだ。
唯、有利の存在に慣れてしまうのは一生涯を費やしても無理なような気がする。冷静沈着な彼としては珍しいことだが、あまりにも敬慕の念が強すぎていつも慌てすぎてしまうのだ。
しかも、映像越しに言葉を交わしたことはあっても直接相まみえたのはこれが初めてのことであり、とてものこと落ち着いてなどいられなかったのである。
「わ…、大丈夫!?待ってて、俺がすぐに行くから…!」
「いえ…そのような……」
失礼がないようにと気を使うのに、ますます被害が広がってしまう…大昔の少女漫画のヒロインのような風情でギュンターは半泣きになっていた。
「ギュンター、落ち着いて?俺達がすぐに行くよ」
「え、ええ…すみません、このまま待たせて頂きます」
声では聞き分けが出来ないのだが…これはコンラッドとコンラートのどちらだろうか?少なくとも異世界から有利を護るべく同行してきたコンラッドが傍を離れるわけがないから、一人で来ているか二人で来ているかの違いなのだけど…。
『今日はコンラッドだけ…だろうか?』
見えない分、気配を研ぎ澄ますことに長けてきたギュンターは、落ち着いてさえいれば周囲環境の認識は確かだ。
《禁忌の箱》による桎梏(しっこく)から逃れた要素達も力を貸してくれる。
『ああ…やはり、コンラッドだけのようだ』
しょんぼりしていたら、侍女に案内されてバルコニーに上がってきた有利が、これまた泣きそうな声を上げた。
「ギュンター…ごめんね!俺が急に声かけたから、慌てちゃったんだよね?約束もせずに急に来ちゃったし…」
「そんな…謝られることなどありません!こうして来て頂けたことを私がどれほど喜びと感じているのか…詩歌に変えてお伝えできぬ己の無学を嘆くばかりです」
だが、確かに急な来訪に驚いたのは確かだ。
「ユーリ陛下、一体いつ王都に入られたのですか?私も館の中で療養する身ですから情報には疎いところがありますが、それでも…ユーリ陛下が王都に来られたとなれば…」
言いかけて、《なるほど》…と独りで納得する。
コンラッドも苦笑している風な声で頷いているようだ。
「大騒ぎになるだろう?」
「ええ…そうですね。私としたことが間の抜けたことを申し上げました」
有利が王都にやってくると知れば勿論、民は大歓喜で迎えるだろう。
だが…一方で、彼を狙う者も出てくるはずだ。
「何か色々あるみたいでさ…今朝早くに血盟城に着いたんだけど、俺がいることは…少なくとも十貴族会議までは内緒にしてるんだ。だけどじっとしてるの退屈でさー…みんなに頼み込んで、コンラッドとこっそり散歩してたんだよ。んで、通りを歩いてたらギュンターの姿が見えたんで、つい声を掛けちゃったんだ。驚かせて…ゴメンね?」
《こっそり》にしては、思いっきり館に突撃してきたわけだが…。
なお、ギュンターには見えないが有利もコンラッドも、往来を歩いている間は目深にマントを被っていた。
コンラッドは勝手知ったる人の家…といったふうに、侍女に笑顔でお願いして衝立を持ってこさせると、往来からの視線を遮ったことを確認してからマントを脱いだ。
初夏の陽気に照りつけられながらマントを羽織っていた有利はそろそろ限界だったらしい。マントをするりと脱ぎ去ると、気化熱を奪う風に心地よさそうに瞼を伏せる。
しかし、人心地着くとすぐにギュンターの傍にとたとたと駆け寄ってきた。
「傷…痛くない?酷い拷問を受けてたって聞いて…俺、心配だったんだ…」
「平気ですよ。ふふ…こう見えても私は結構頑丈なのですよ?」
「そう?なら…良かった」
心底安堵したように、ほわりと有利が微笑んだのが雰囲気から分かった。
『なんとお優しい…』
あちらの世界のギュンターと既に馴染んでいるせいもあるのだろうが、親しげに声を掛け…身を案じてくれる有利に、暖かな想いが胸に込み上げてくる。
「でもさ、無理しないでも平気なくらい、全部の傷が早く治るといいね!」
有利はそっと、ギュンターの肩に両手を載せてくれた。
伝わる暖かな体温と、要素の共鳴が心地よい…。
ヒュルル…
ルルゥ〜ン…!
「ふふ…要素が一層喜んでいるのが分かります。なんと美しい声でしょう…!ユーリ陛下の来訪を祝福していたのですね?」
「そうかなぁ?ギュンターは風の要素使いだろ?あんたを元気づけようとしてるんじゃないかな?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ、きっと…。うん…佳い声……」
心地よさそうな声が次第に小さなものへと変わっていく。有利もまた、瞼を伏せて要素の声に聞き入っているのだろう。
暫し、二人で瞑目したまま大気の共鳴音に耳を澄ませていた。
* * *
『こんな不思議な光景を目にすることになるとはなぁ…』
侍女に勧められるまま席に着き、優雅に紅茶を啜りながらコンラッドは苦笑した。
ギュンターの傍で抱き合わんばかりにして共鳴を愉しむ有利に軽く嫉妬しないではないが…(←するのはするんだ…)、美しく…あちらの世界の住人にとっては極めて奇妙とも言える光景に見惚れてしまう。
あのギュンターが…《汁まみれ王佐》として名を馳せるフォンクライスト卿ギュンターが、有利に抱きつかれても何らの汁も噴出しないという光景は、二人の希有な容貌も手伝って芸術作品のように鑑賞に値する光景を生み出していた。
ギュンターの銀糸のような髪は陽光を受けると神々しいまでの輝きを呈し、理知的でありながら柔和な表情は日本で見た如来像のように美しい。
長くけぶるような睫は長く濃く…菫色の瞳は煌めくような喜びの色で満たされている。
一方の有利は勿論、完璧にして華麗で可憐だ。
何時だってそうなのだが、違うとすれば日々味わいが違うということだ。
今日は、未だ傷が癒えきらぬギュンターに対する心配を覗かせている様子が慈愛の天使のようだし、それでいて珍しい(笑)彼の姿に尽きせぬ好奇心が湧くらしく、さらさらとした髪を梳いたり形良い鼻を指先で撫でつけ、汁を噴かない様子に吃驚しているのが何とも愛らしい。
だが、調子に乗って唇を頬に寄せていったりしたら…瞬時に止めよう。
言っておくが、有利の行動を止めるだけだ。
誰もギュンターの息の根を止めるとは言ってない。
コンラッドは、別に誰が突っ込む出もない独白に対して独りノリ突っ込みをしていた…。
「ユーリ陛下にギュンター様…なんてお美しいんでしょう…!」
「ええ…見目形の美しさだけでなく、奥底から仄明るい光が差しているようですわ…。まるで、咲き初めたばかりの蕾のように瑞々しくて、見ている私たちの心中までがほわりと暖かくなるよう…」
ほう……
うっとりと見惚れ、吐息を漏らすのは侍女だけではない。
ふわりと舞う風もまた、魔力のないコンラッドにすらそうと分かるほど喜びに舞い踊っているようだった。
『要素の声が聞こえるとは、どういう状態なんだろうな?』
今まで別に羨ましいなどと思ったことはなかったのだが…有利と同じ美しい音楽を愉しんでいるギュンターを見ていると、そのことにも少し嫉妬してしまいそうだ。
「ギュンター、良かったら一緒に散歩に行かない?今日はお天気が良くて散歩日和だよ。俺が手引きしたげる!」
「ええ…喜んで!ですが、その前にどうぞお菓子を食べていって下さい。今日はギーゼラの差し入れてくれた桃のタルトがあるのです」
「そりゃ、ご相伴にあずからないとねー」
有利も椅子に座って、侍女の煎れてくれた紅茶を啜る。
流石に実りの魔力が眞魔国を包んだとはいえ、紅茶を洗練させる余裕まではなかったらしく味が良いとは言い難いが…それでも、軽い苦みを帯びた液体はお菓子をすいすいと胃に運んでくれる。
さわ…
さわわ…
心地よい風に頬を撫でつけられながら…コンラッドはこの一週間のことを思い返していた。
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