第三章 YーD
王都前に集結した魔族達は、夕刻を迎える時刻になってもそこから動くことは出来なかった。
今日の夕餉(ゆうげ)よりも遙かに重要な事態が、空に浮かぶ映像から伝わってくるからだ。
『くそ…』
暮れなずむ空が眩しいばかりの朱に染まると、心なしか天上に浮かぶ映像が見えにくくなったように感じて…グウェンダルは切れ長の目を眇めた。
見逃した瞬間に、彼の弟に何かが起こることを恐れるように…。
『何故…わざわざ人間の統率者を鼓舞しようとするのだ?』
しかもコンラートは今まさに王として認められたのだ。
その大切な身体を、何故勝敗が決した戦地に送らねばならないのだ?
敗北者とはいえど強い敵愾心を持った敵のこと…一体何をしてくるか分からないではないか…!
「不思議かい?」
「…っ!」
グウェンダルは心の声が唇から漏れだしていたのかと咄嗟に掌で顔の下半分を覆ったが、悪戯っぽい目つきで見上げてくる村田は聴覚によって探知したわけではなさそうだった。
人の心を読む山野の精霊の如く、グウェンダルの思考を察知したのだろう。
だがまぁ…《あちらの世界》でのグウェンダルも自分と同様の性格をしているのであれば、こんな時に何を考えるかなどお見通しなのかも知れない。
ならば、今更取り繕っても意味のないことだろう。
「正直申し上げて、疑問です」
「君の弟君は二言三言説明したら得心いっていたみたいだけどねぇ…。さーて、君にはどこから説明したらいいかな?」
それでは、コンラートは納得ずくで行ったのだろうか?
「まず言っておくけど、僕は意味のない行為は大嫌いだ。わざわざこんな荒廃した世界まで来たんだよ?とっとと用件を終わらせて帰りたくて堪らないのさ。その僕が指図するんだから間違いないんだよ…あの勇者君には立ち直らせて、働いて貰うだけの価値が少なくとも二つある」
「二つ…ですか?」
鼻先に突きつけられた二本の指に、グウェンダルが眉間の皺を一層深めた。
村田には、彼なりの《厳然たる根拠》があるようなのだが、グウェンダルには今のところさっぱり分からないのだ。
「一つは聖剣の存在だ。あれはね〜…意外と凄いアイテムだよ?なんせ、リトマス試験紙並みに確実な《正義判定機》だからね。一体どういう仕組みで作ったんだか不思議だけど…勇者君が勇者たり得た時期には発動していたものが、今ではきっちり不能状態なんだからね」
「今現在使えないものを一体どう活用しようというのですか?」
「包丁の切れ味が落ちたからって、すぐに捨てる馬鹿が何処にいる?」
「研ぎ直して…使えるようにすると?」
「ご名答」
にこりと微笑む村田に、多少は意図が伝わってくる。
アルフォードに勇者としての意識を取り戻させ、聖剣を再び発動させることで人望の回復を狙うつもりか。また、魔族と帯同していても作動するとなれば、コンラート達の正当性も内外に示すことが出来る。おそらく、あちらの世界でその辺りは確認済みなのだろう。
しかし…それではもう一つの狙いとは何だろう?
「他にもあの男に価値があるとお考えですか?」
「そうさ。彼は何しろ、このご時世に《人々を救う》なんて綺麗事を考えて、しかも行動に移せる男だよ?」
「私には、単におめでたいだけの男と映りますが…」
「ふふ…そうかもね。君はそういう男だよ。だからこそ、君には今の眞魔国を率いる資格がないんだ」
「……っ!」
からかうような口調ながら、それは痛烈な批判であった。
思わず息を呑んだグウェンダルだったが、村田の眼差しが思いの外やさしい事に気付くと余計に居心地悪そうに姿勢を直すのだった。
「君が王になれば、暫くは上手に事が進むだろうね。おそらく、人間世界のどの国よりも眞魔国は滅びの日を先延ばしにすることが出来るだろう…だが、絶対に回避は出来ない。たとえ僕や渋谷が全力を尽くして君を助けたとしても不可能だ。何故なら、君は決して世界全体を救おうとはしない…人間世界に働きかけて、共に世界を変えていこうなんてことは、君が指導者である限り起こり得ないのさ。更に上位から命令すれば別だろうけど…その場合は名ばかりの王ということになる」
「コンラートであれば、それが出来るというのですか?」
「そうさ。彼はもともとそういう資質を持っている。混血として…魔族と人間の間に立たされて苦しんで、更にはそれを覆していくだけの力を持つ男だ。《変革しなくてはならない》っていう動機をもってる。そして…何よりも、渋谷の意志に共鳴してくれる。彼なら、アルフォードの勇者としての意識を蘇らせることが出来るよ。彼には…人の中に眠る仏界の生命を引き出す力がある」
「《ぶっかい》…ですか?」
今度こそ訳が分からなくなってしまい、グウェンダルは眉根に深々と皺を寄せた。
「一体…何のことでしょう?」
「うーん…どこから説明したら良いかな」
少々面倒くさそうに顎を掻いていた村田は、その指で中空に三角形を描いて見せた。
「ねぇ、フォンヴォルテール卿…君は人間や魔族の精神には何段階の階層があると思う?」
今の三角形は、どうやらヒエラルキーのつもりらしい。
「申し訳ないが、今は哲学論を闘わせるだけの精神的余裕がありません」
すげなく話を断ち切ってしまうグウェンダルに周囲の方が慌ててしまうが、村田は落ち着いたものだ。
「ま、別にいま聞いてくれなくても良いんだけどね…。ただ、いつか君には分かって欲しいな。このしっちゃかめっちゃかになった国を、弟君と共に立て直していく気があるのならね〜…」
コンラートのことを出されると食いつくと踏んでいるらしい。
見透かされているようで腹立たしいが…分かっていてもつい自分から尋ねてしまう。
「……どういうことでしょう?」
「僕はねー、10の精神階層があるって説が気に入ってるんだけど、大抵の場合は下から6段階の階層…《六道》って状態をグルグルしてることが多いんだ。底辺から順に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天とくる。地獄界はまあ、苦しみに縛られた最低の境涯だね。餓鬼界は飢え乾き…肉体的なものだけじゃなく、精神的なものにせよ何にせよ、何かを激しく渇望して満たされない状態だ。畜生界は動物に喩えちゃうとムツゴロウさんに怒られそうなんだけど…」
《むつごろう》が何者なのかさっぱり分からないのだが、敢えてスルーする方向でいきたい。
「ま、要するにヒトの本能に忠実な状態だね。食欲、睡眠欲・性欲・物欲・支配欲といった欲望のまま行動する状態を指す。そして修羅界は常に自分を他者と比較し、どんな手を使っても人より勝ってやろうとする境涯。人界は穏やかで平静だから一見マシに見えるけど、その状態をどうにかしようっていう向上心もない状態。僕的には、何事にも無関心で醒めていることを差すんだと認識してる。天界は物凄く嬉しいーっ!って状態だけど、えてしてそれは一過性の喜びで、喜びのモトが失われるとすぐに餓鬼界なんかに落下しちゃうんだ」
「何というか…世知辛い話ですな」
哀しくなるような生命状態の変転だが、確かに得心いくところはある。
美味しいものを食べ、得たいものを得たとき強い幸福感を感じるが、それが奪われたり飽きたりしてしまうとすぐに下の階層に落ちてしまう。それは、ごくごく一般的な反応だ。
だが…グウェンダルはそのように浅薄な喜びの生命状態でなく、もっと強く深い感動を味わったことがある。先程見たあの素晴らしい奇蹟は、この先どんな事が起きようとも決して胸の中で色褪せることはないと思うのだ。
そういえば、村田は《10》あると言っていた。
変転しやすい6つの世界の上に、更なる高みがあるのだろうか?
「うん、この6つだけじゃ随分としょっぱい気持ちになるよね。だけど…」
村田は人差し指を唇に当てると《ここだミソだよ》と言いたげに、とっておきの秘密でも教えるみたいに囁きかけた。
「更に4つの精神階層があるとも言われているんだ。声聞(しょうもん)界、縁覚(えんかく)界、菩薩界、仏界って状態なんだけど、声聞界は知識を得ることで充実感を得ている状態。縁覚界は直感的なひらめきによって悟りに近い何かを会得した…と、少なくとも本人は思いこんでいる状態だ。天界よりも更に持続性の高い喜びに浸れる境涯といえるね」
「《ぼさつかい》に《ぶっかい》が更に上に配置されているところを見ると、その精神状態にも何か問題があるのですか?」
「流石に読んでくるねぇ〜…。そうだよ、この2つはさっきの6つに比べると喜びや充実感が強い分、まるで最高の悟りを悟ったかのように錯覚するんだけど、実はそうじゃない。自分だけその大きな喜びの中に浸っていれば良いっていうエゴイズムがあるんだね。その上の菩薩界はとにかく慈悲深くて、自分よりも人のために尽くすという大きな愛情を持つんだけど…これもやっぱり限界がある。《人のために頑張っている自分》に自己陶酔してしまうことがあるのと、相手の意図に関わりなく助けることで、逆にそいつ自身の力を引き出せず駄目にしてしまうことがあるんだ。偉大な母が息子を庇いすぎて無能化しちゃうような感じかな?」
「それを越える生命状態が《ぶっかい》というわけですか」
「そう…仏界と菩薩界の大きな違いは、無上の悟りと智慧を自分だけでなく、救いたい相手の中から引き出すことなんだ。しかも、その対象は一人や二人に留まらない…何故なら、一人を本当の意味で救うためには、その一人を取り巻く環境をも変えて行かなくてはならないからだ。その人が住む地域を…国を…世界を幸福なものに変えていこうとするのが仏界なんだよ」
スケールの大きすぎる話に、グウェンダルは何とも微妙な表情を浮かべて見せた。
とてつもなく素晴らしく聞こえはするのだが、果たしてそんな境涯に至る人物がいるものかと、その現実性を危ぶんだのだ。
「何とも立派なことではありますが…猊下の精神もその仏界にあるのですか?」
「うっわ、君も分かりやすい嫌みを言うようになったねえ…。僕の精神基盤はどっぷり声聞界…せいぜい縁覚界までだよ。ただね…僕は限局的に、渋谷にだけは菩薩界の生命になるんだよ」
「そんな都合の良い…」
「そういうもんなんだって。十の生命状態…十界(じゅっかい)には、更にその界ごとに十界が備わっていて、十界互具(ごぐ)と呼ばれている。だから、基盤となる生命状態が声聞界でも、その知識の上に渋谷を救いたいという菩薩界をもつことはとても自然なことなんだよ。君だって、変化を嫌う人界が基盤になっているけど、小動物や子どもに対しては菩薩界になったり仏界になったりするだろ?どんなに恥ずかしくても凍えたねこたんは胸に入れて可愛がるじゃないか」
「……っ!」
グウェンダルは《ぐにゅり》と唇を歪めて村田を睨め付けた。
別の世界で全てを知られているというのは実にやりにくい。
「ねぇ…僕は君に今の眞魔国を率いる資格はないと言った。これは侮蔑でも何でもない。正確な人物把握に基づいているのさ。君は現段階での最高指導者にはなり得ない…その代わり、君は最高の助力者になれる資質を持っている」
「褒められているのか、けなされているのか…」
「褒めているさ。この上なく…ね。僕は君の極めて優れた資質を評価している。君は、優れた者に対する嫉妬の念が極めて薄い…殆ど存在しないと言っても良いくらいだ。これは…とてもとても素晴らしい資質だよ」
村田の声は急に真剣味を帯び、グウェンダルの肩を掴むと唇を寄せんばかりにして強く語りかけた。
「獅子王コンラートは、極めて仏界に近い資質を持っている男だ。だけどね…そういう男は純粋な者からは高らかな賛辞と崇拝を受ける反面…凄まじい嫉妬に晒されるんだよ。君だって分かってるだろ?まさにその嫉妬によって彼は正当な権利を奪われ、辱められ…地獄の底に突き落とされたじゃないか」
「そう…ですな……」
「そういう奴を嫉妬の輩から護り、支えていけるってのはさ…とっても気分の良いものじゃないかい?」
ふわ…っと華が綻ぶような印象の微笑みを浮かべる村田は、掛け値なしに純粋に…美しく見えた。
おそらく、彼にとっての《そういう奴》は直接コンラートを差しているのではないだろう。
きっと…彼が唯一、菩薩界の精神で護り育みたいと思う存在…ユーリ陛下のことなのだ。
『ユーリ陛下…か。一体どのような少年なのだろう?』
不意にグウェンダルは、有利に対する強い興味に駆られた。
満ち足りた世界から、滅びに瀕した異世界を救うために、おそらくは何の見返りも求めずにやってきた魔王陛下…。
映像で見る限りは純粋無垢な精霊を思わせる少年であったが、その彼が偏屈な大賢者をここまで虜にする理由とは何だろう?
あれほど絶大な魔力を持ち、苦しむ者を救いたいという純粋な祈りを持つ少年…《お人好し》とも感じられる彼を好きなように利用し、その力を自分の欲望のために使いたいと願う者はさぞかし多いことだろう。
だが…狡猾に見える村田も、有利に対してだけは利用するのではなく護り育みたいと真剣に願っている。彼はその精神を菩薩界と言ったが、有利を取り巻く環境をも変えていこうとしているのなら、それは十分仏界に身を置いていることにはならないのだろうか?
『そうか…』
まだ実感として納得したわけではないが…少なくとも、理論上は理解できたように思う。
有利という少年は、村田のように優れた者をも自分の味方に引き込み…その生命を仏界にまで引き上げる力を持つのだ。
まさしく、生命の基盤が仏界に所属する希有な存在なのだろう。
彼と出会ったからこそ、コンラートはあんなにも変わることが出来たのではないだろうか?
かつての彼は極めて優秀で、卓越した存在ではあったが…無理からぬ事ながら常に油断無く周囲を警戒し、混血以外の者が自分に接するときには特に、何らかの利用価値を自分にも相手にも見いだそうとしていた。
グウェンダルのこととて、決して心から信用していたわけではあるまい。
『それがどうだ…』
異世界から帰ってきたコンラートは、変わっていた。
グウェンダルを信じたいのだという意志を精一杯伝え、積極的に働きかけてきた。
だからこそグウェンダルも、コンラートが魔剣を手にしようとしたとき彼を支えたいという情熱が突き上げてきたのだ。
それは決して有利の絶大な魔力のためでも村田の智慧に感応したわけでもない…コンラートの想いに、真剣に報いたいと願ったからだ。
『これが、生命を《ぶっかい》に引き上げる力なのか…?』
まだ、綺麗事だという意識は拭えないながら…それでも、心の底で何かが囁きかけてくる。
《信じたい》…そんなに美しいものがこの世界に存在しうるものであるのなら、この目で見てみたいとグウェンダルは祈り始めているのだった…。
「あの勇者君もまた、獅子王と同じような資質を持っている。そして…嫉妬や誹謗中傷によって傷つけられる可能性もまた大きいんだよ。《勇者のくせに》…と、罵倒されることもね。それでも僕は、彼に立ち上がって欲しい」
「………ええ…」
グウェンダルも、控えめながら頷き…同意した。
映像の中で見つめ合う、獅子王と勇者を見守りながら…。
* * *
アルフォードは手の中で聖剣の感触を確かめながら、コンラートの台詞を反芻する。
アルフォードはずっと、目を背けてきた。
自分の率いる軍隊がいつの間にか趣旨を変質させ、民を救うことよりも目の前の敵に勝利することを目的とする集団に変わりつつあることから…。
アルフォードとて、民の苦しみの源が魔族ではなく《禁忌の箱》にあることくらい分かっていた。だが…世界を崩壊させるほどの勢いで荒れ狂ったあの箱を、どうやって処分して良いのか分からなかった。
それこそ、あれは神に祈る者や神自身がどうにかすることであり、一般人であるアルフォードにどうにか出来るようなレベルの話ではないと思っていたのだ。
『俺は…間違っていたのか?』
民を苦しめる源に気付いていながら目を背け、戦いやすい敵とだけ戦ってきたことが今日の無力感を生み出したのだろうか?
敵わないと分かっていても…戦うべき相手は他にいたのだろうか?
ならば今…アルフォードがすべき事は何だ?
「……」
不意に、アルフォードは聖剣を降ろした。
その動きを可能にするまでの一瞬…これまでの栄光、拘り、疑いなどなど…様々な感情が体腔内を去来したが、完遂したその後…コンラートに向けた瞳は澄み切っていた。
呼応するようにコンラートもまた魔剣を降ろし、真剣な眼差しでアルフォートを見詰めてくる。
『なんて…綺麗なんだろう?』
改めて向き直って初めて…アルフォードはコンラートの美しさに気付いた。
造形の美しい魔族は何人も見てきたし、彼らを斬るときには何の躊躇いもなかった。だが…コンラートの中に内在する意志の美しさを感じ取ったとき、もう…アルフォードに彼を斬ることは出来なくなっていた。
朱から急激に藍色へと色調を変化させていく空の元…静謐な琥珀色の眼差しのなかで、きらきらと銀色の光彩が輝いていた。まるで、空に光り始めた星々のようにその煌めきは清らかで…心に沁みいるような美しさを湛えていた。
「俺の、負けだ」
何故だろう。
とても清々しい。
どよめく仲間達の怒号も誹謗中傷の叫びも気にならない。
歩み寄ってきたコンラートが、深い信頼の色を湛えて自分を抱きしめてくれたことがとても嬉しくて…そんなものを気にしている余裕がなかったのだ。
「ありがとう…。俺と、共に戦ってくれるか?」
「喜んで…!」
勝手に分かり合う二人を前に、アルフォード軍の男達は地獄・餓鬼・畜生・修羅の魂を蜷局(とぐろ)状に巻き上げながら悪鬼の表情を浮かべて立ち上がった。
「巫山戯るなよ…」
「アルフォード!もうあんたの言うことなんて聞かねぇぞ…っ!この裏切り者っ!なにが勇者だこの野郎…っ!」
ギャアァァア……っ!
ガァアアア…………っっ!!
餓えた鴉でもこうはいかないというほど醜い声が辺りを埋め尽くし、武器を取り上げられていた負傷兵達は石を手にしてアルフォードとコンラートに投げつけようとした。
勿論、それを防ぐように武器を携帯したウィンコット軍が取り囲んでいる。だが…彼らはその事で自分たちや、動くことさえままならない重傷者が虐殺されることになっても、それこそが自分たちの正義を認めさせることだと信じているのだろう。
しかし、コンラートを庇うように前進すると、アルフォードは落ち着いた声音で仲間達に呼びかけた。
「そうだ、俺は勇者なんかじゃない。現状に流され、目的がぶれてしまっていることにも目を瞑ってきた俺に、勇者と名乗る資格はない。俺が今日…戦場で敗北したのは軍人としての能力に欠けていたからだが…勇者としては、ずっと前から…自分自身に負けていたんだ」
「な…何を……」
そんな小難しいことを言われても、単純な正義を信じてここまでやってきた者達には訳が分からない。
ただ、それでも…彼らは気が付くと荒れ狂っていた語気を鎮め、アルフォートの言葉に耳を傾けていたのだった。
* * *
『アルの奴…急に、変わりやがった…』
その変化に最初に気付いたのは、副官のガーディー・ホナーであった。
《俺の負けだ》と敗北を受け入れながらも、彼の表情は清々しく…力強い何かを掴んだかのように輝いている。
「今日…ここに、アルフォード軍は解散する」
「なっ!…お、俺達を投げ出す気かよ?」
先程まで《裏切り者》呼ばわりしていた男に《投げ出す》のかと問われても、アルフォードは動揺しなかった。
「目的が違うのに、頭数だけ増えて何の意味がある?」
「じゃあ、何をやり出すつもりなんだ?」
「魔族と共に、《禁忌の箱》を滅ぼす…!」
ざわ…
人間達はざわめき、互いに顔を見合わせて囁き交わした。
「馬鹿なことを…」
「魔族の連中が言っていたことを真に受けているのか?」
侮蔑の眼差しや嘲笑にも、アルフォードは負けない。
「もう決めたんだ。出来る出来ないじゃない…やるんだ」
「俺は抜けるぜ!」
「ああ…止めない。俺は、俺の意志に賛同してくれる者だけを仲間としてやっていく」
きっぱりと言い切るアルフォードの肩を、ガーディーが横から抱き寄せた。
「アル…この馬鹿め!また貧乏くじを引く気だな?」
「でも、あんたは付いてきてくれるんだろう?」
「当たり前だ…!お前みたいな馬鹿、俺が横で助けてやらなきゃあ、すぐ路頭に迷っちまう!」
夕闇が迫る中で、にかりと笑ったガーディの口元から意外なほど白い歯が覗いて、眞魔国軍が灯し始めた篝火を反射する。
異相のわりに人好きするその顔が《当然だ》という表情を醸(かも)しだした途端…おずおずと、人間達の中から歩み出してくる者が居た。
「アルフォード様…お力になれるか分かりませんけど、俺…お手伝いさせて貰って良いですか?」
それは…ガリガリに痩せた、子鼠みたいな少年だった。
襤褸(ぼろ)を纏った身体にも麦藁色の髪にも泥がこびりつき、全体的に汚れていたが…つぶらな瞳が春の空のように澄んでいるのが印象的だった。
「勿論だよ!」
にっこりとアルフォードに微笑まれると、少年は恥ずかしそうにもじもじした。
「馬鹿カールっ!お前…魔族の仲間になる気かよ…っ!?」
灰色の瞳と髪を持つ大柄な少年が慌てて駆けだしてくると、《気は確かか》と言いたげに肩を揺さぶるが…カールはこっくりと頷く。
気持ちを変える気は全くなさそうだ。
少し年の割にあどけない言い回しから察するに、ひょっとして何らかの知的障害を持っているのかも知れないけれど…そんな少年が今日まで生き残ってこられたのは、こうして仲間達が気に掛けてくれたからかも知れない。
「うん、マルク。だってね…魔族に俺、助けられたもん。恩は必ず返せって…母ちゃんが言ってたもん」
「ば…馬鹿…っ!そんなもん…気まぐれに決まってるだろ?騙されるなよ?」
「気まぐれでも、助けてくれたのは本当だもん。俺…ダッタカダッタカ走って来る馬が怖くてどうにもなんなくて…しゃがみ込んでたけど、真っ赤な目と髪をした魔族が、塹壕の中に入れてくれたんだよ」
「そいつは、ルッテンベルク軍の主力…《紅斧のアリアズナ》だぜ?カール坊…お前、大した男に助けられたもんだ」
ガーディーはカールの髪を撫でつけると、乾いてこびりついた泥を指先で揉んで落としてやった。
「そんな…」
「カール坊があんまりちっちゃくて可哀想だったから、助けてくれたのさ。まぁ…戦士としては褒められたもんじゃねぇが、もともとカール坊は飯炊きとして軍にいたんだ。恥ずかしがらんでも良いわな」
「えへへぇ〜…そうだよねー」
「いや、ちょっとは恥ずかしがれよカールっ!」
「恥ずかしくないもん〜」
「くそ〜…ううぅ〜」
灰色髪のマルクは拳を握って悶絶していたが、覚悟を決めたように脚を踏ん張ると…コンラートへと挑むように人差し指をびしりと突きつける。
「おい…あんた、本当に《禁忌の箱》を滅ぼすんだろうな!?」
「そうだ」
《そのつもり》でも《そうしたい》でもなく…コンラートはそう断言した。
呼応するように、マルクもまた胸を張った。
「だったら、俺もアルフォード様と一緒に連れて行け!あんたが裏切ろうとしたら、すぐ喉元に穂先を突き込んでやる。覚えておけ…俺の槍は鋭いんだからな!」
「ああ、いつでもおいで」
にっこりと微笑まれると、煌めくような表情に《ボゥン》…っとマルクの頬が上気する。
「くぅう…こ、子ども扱いしやがって…っ!」
地団駄踏んで悔しがるマルクだったが、彼とカールのとぼけた遣り取りの間は人間達を和ませる効果は大いにあったようだった。
一人…また一人と静かに人間達は立ち上がり、はむかむような表情を浮かべてアルフォードの傍に寄ってくる。
それは勿論人間達の全員ではなかったが、ガーディーが考えていた以上に豊富な人数が、極めて平和的な形で集結することになった。
寄ってこなかった者達も、毒気を抜かれたような顔をして…ぶつぶつと何事か口の中で呟きながらもアルフォードの元に集う者達を強硬に責め立てることはなくなっていた。
『俺達は…変わっていける……っ』
この戦いが始まる前よりも気持ちが浮き立っているような気さえして、ガーディーは夕闇に浮かぶ星々を眺めた。
それにしても…何という一日だったのだろう?
数々の奇蹟が目の前で繰り広げられ、あれよあれよという間に敵対していたはずの男達が親しく声を掛け合うようになった。
それは…一瞬にして植物が実る奇蹟よりも更に実現が困難な事柄であるはずだった。
アルフォードが、かつてと同じ純粋な眼差しで仲間を見詰め…敵であったはずのコンラートと肩を寄せ合っている。
その光景を満足げに見詰めながら、ガーディーは心に祝杯を挙げるのだった。
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