第三章 XーF








 びき…。


 村田は、自分のこめかみに怒り筋が浮き上がるのを認識した。
 いや…この反応が自分だけのものであろう筈がない。
 
 有利の思惑に反して、眞魔国中の魔族が純血・混血を問わず、人間に対する激しい怒りに囚われていることだろう。
 人間と魔族の衝突という、有利が最も怖れ…回避しようと努めていた事が、人間の悪意によって抜き差しならない局面を迎えてしまった。

 人間は…決して怒らせてはならない男に、この上ない燃焼剤を与えてしまったのである。


『何という下卑た思念』
『何という悪言…っ!』


 有利のあの姿を見て、出てくる言葉はそれだけなのかと…村田はマグマのような怒りに突き動かされ、目の前にあの人間どもがいるのなら袈裟懸けに叩き斬ってやりたいという衝動に駆られた。

「ほう…人間諸君は随分と我が魔王陛下をお気に入りのようだ。彼の希望は、君たちを救うこと…。この眞魔国の実りを分け与える代わりに、《禁忌の箱》への道を開いて貰おうと提案してきたんだよ。だが…君たちは分かち合うことよりも、奪うことを求めているのかな?」


「当たり前だ!双黒のガキを手に入れて、頸に縄でも繋いでせいぜい可愛がってやるよ!夜には地べたに這い蹲らせて、たっぷりと俺のミルクを呑ませてやるぜ…っ!」


 ざわめいていた大気を裂くように、よりにもよってとびっきり下品な声が人間達の陣に響いた。



*  *  *




 典型的な悪役の台詞に、心ある幾人かは眉を顰めたものの…勿論、その中には軍司令官たるアルフォードもいたのだけれど…下卑た群集心理の荒波を押さえる事は出来なかった。

 アルフォードの軍が幾つかの部隊に分かれて壕に籠もっており、現在は部隊長の裁量で攻撃行動を行っていたのも悪く働いた。
 《一斉攻撃》といった積極策以外に、アルフォードが細かい指令を全軍に発布することは難しい状況になっているのだ。


「双黒のガキを我々の手に!」
「捕らえろ!捕らえろ…っ!」


 ワァアアアアアアア………っっ!!


 居丈高な歓声が上がり…突撃ラッパが鳴り響く。
 先走った幾つかの部隊が突撃を始めてしまうと、もう司令官とはいえど止めることは出来ない。
 前方方向への推進力を加速させて調和を計るほかに、軍としての統率を維持する術はなくなってしまった。


「全軍、突撃…っ!」


 弱体化したウィンコット軍を一気に撃破しようと、戦意を高揚させたアルフォード軍が攻め掛かっていった。
 
  

*  *  *




『どうするつもりなのだ…!?』

 怖れていたことが起きてしまった。

 グウェンダルは眉根を寄せ、奥歯を噛み締めて映像を見やった。ウェラー領の麦畑の中で涙を零す有利の横で、もう一つの画面が心ない人間達の突撃を映し出す。

「止めて…止めて……アル…っ!」

 哀しげに涙を零す有利は胸を締め付けられるほどに哀れで、グウェンダルはこの突撃を止められなかったアルフォードとやらの顔面に、深々と拳を抉り込ませてやりたくてしょうがなかった。

 可愛い物好きの血が騒ぐ…というほかにも、この愛らしい少年が魔族だけでなく、人間に対しても真心を尽くそうとしていることが分かるだけに、その侠気を最悪の形で拒絶した人間への憎しみが深まっていく。

『やはりあの連中は、敵なのだ…!』

 ギリ…っと軋む奥歯が、欠けそうなほどの勢いで音を立てた。

「残念だよ…。本当に、残念だ…」

 《ふぅ》…っと嘆息し、村田は哀しげに瞼を伏せた。

 だが、再び開かれたその瞳に浮かんだものは哀しみなどではなく…純粋な怒りであった。

 おそらく嘆息と共に浮かんだ表情は有利に向けたもので、後者は明らかに人間達へと向けられたものであろう。

「渋谷…君の提案は却下された。決断…できるね?」

 びくりと肩を震わせて有利が瞬くが、その瞳はふるりと潤み…一瞬の躊躇の後に…

 ……頷いた。


「了承は得られた。ウェラー卿…頼んだよ?」


 この時、同時に異なる場所で二人の《ウェラー卿》が頷いた。


「御意…!」


 一人は村田の傍らで。

 もう一人は…戦地に於いて強く頷いた。


 深い怒りに、琥珀色の瞳から鬼神の如き焔を噴き上げながら…。



*  *  *




 王都上に掛かった黒雲はウェラー領と違ってまだ晴れてはおらず、微かに雲間から覗く陽光が帯のように降りかかって大地を斑模様に染める。

 その中でコンラートは立ち上がり、す…っと翳した腕を曇天に向けて突き上げた。

 表情は険しく、瞳には怒りがある。

 同じ表情を浮かべているだろう《コンラッド》と、傷つき…泣いている有利を想って、コンラートは指に力を込める。

『本当は…俺が行って、戦いたかった』

 だが、眞王廟で村田が提示した計画ではコンラートは何としても早急に名誉回復をはかり、王権を取得することが第一条件とされた。

 残念だが、今は託すしかない。
 仲間と、友に…。

『頼む…《コンラッド》…!』

 腕が振り下ろされると同時に、響きの良い美声が命令を告げる。


「ルッテンベルク軍…全軍突撃……っ!」


 

*  *  *




「な…に……?」

 勢い込んで突出してしまった人間の部隊は、自分が見たものを信じられずにぽかんと口を開けた。

 まるで目の前に有利がいるかのように突撃していった彼らは、切り替わった映像の中に…《自分たちの姿》を見いだした。

 しかし…その映像はくるりと反転している。
 つまり、彼らは自分達の背中を映像の中に見ていることになるのだ。

 その視点が意味するものを理解したとき、彼らは慄然とした。

 彼らの背後に位置する傾斜の上に…彼らを見据える形で、騎馬隊が戦闘態勢を整えていることに気付いたからだ。


「ルッテンベルク軍…全軍突撃……っ!」


王都から伝わる号令に合わせ、同じ声が背後から聞こえてくる。


「ルッテンベルク軍…全軍突撃……っ!!」


 ドド…ドド……っ!
 ドドドドドドドドド………っ!!

 
 蹄が大地を蹴る音が加速していく。
 大型の獣が唸る声と、高らかな角笛の音が響き渡り…人間達を恐慌状態に陥れていく。
 沸き上がる粉塵と怒声の響きが大気を染めていく…!

「ルッテンベルク…だと…?」
「うわぁ…わ……な、何でだ…っ!?」

 あり得ない方角からの、あり得ない軍の攻撃に人間達の部隊はもはや組織だった行動を取ることは出来なくなっていた。
 兵達はただ闘争本能によってのみ剣を振るい、その衝動すら折れてしまった者は地に伏し、身を縮込ませてがたがたと震えることしかできなかった。

 ウィンコット軍相手に善戦していたとはいえ、基本的にははぐれ傭兵や食い詰め者の寄せ集めである彼らは、部隊長の指揮すら伝わらなくなり、個別に戦闘しなくてはならなくなると一気に弱体化してしまうのである。

 しかし…極めて高度な訓練を受けた軍であっても、このような攻撃を受けてまっとうな戦いが出来るかと問われれば甚だ疑問である。
 それほどに、この攻撃は見事なまでの奇襲攻撃であったのだ。

 アルフォード軍は眞魔国の北西方向の平原を進軍してきて、幅広に広がる窪地に主戦陣を敷いていた。平原側に対しては、十分に警戒をしていたと思われる。
 しかし、攻撃されたのは全く想定外の後背方面からであった。

 《何故想定しておかなかったのか》とアルフォードに問うのは酷というものだろう。
 
 何しろ彼らの背後に広がっていたのは急な傾斜面である上、小動物が穿った小さな坑や突出した岩が邪魔で、通常の馬ではとても駆け下ることなど出来ない。しかも、それが騎馬隊として組織だった攻撃を行うなど…目の前で行われていてすら信じられる映像ではなかった。

 それだけではない。

 この傾斜面を越えた向こうには大きく抉り込む形のポルパント湾が広がっているのだ。ごつごつとした岩礁がかなりの沖に出るまで浅い場所に突き出しているこの湾は港には不向きで、干潮の時分には小舟でさえ乗り付けることが難しい。
 ましてや、馬を載せた大船では満潮であっても絶対に下船することなど不可能である筈だ。

 更には、ウェラー卿コンラートが率いているはずの軍が一体何故この時期ここにいるのか…!
 彼は王都にいるのではないのか?

『何故だ…一体、どうやってルッテンベルク軍がここに…!?』

 アルフォードに、その理由を追及している時間などなかった。
 彼を見定めて、憤怒に燃える男が神速の騎行をみせて突撃して来たからだ。

「う…わぁぁ……っ!」

 思わず…反射的に叫んでしまった。
 今日は一体どれほどの奇跡を見せつけられればいいのだろうか?

 その男は…ダークブラウンの後ろ髪を短く刈り込んではいるが、あまりにも映像の中の《ウェラー卿コンラート》に酷似しすぎていた…!

 カーキ色の眞魔国軍服を身に纏った男は、馬上で見事な均衡を見せながら片刃の長剣を引き抜いた。戦闘を意味する筈のその動作には一切の無駄が無く、優美と称する事こそが相応しく思える。
 さながら美しき戦神が、愚かな人間達を滅ぼすべく野に降りてきたかのようだ。

 不思議なことはまだある。

 彼は瞳に恐ろしいほどの怒りを湛えながらも…何故だか人間を殺そうとはしないのである。片刃の剣は見ているだけで魂を吸い取られそうなほど鋭利なものであるのに、決して刃の部分で兵を薙ぐことはなく、必ず鈍い背の部分を打ち込むか、極めて接近している場合は空いている方の拳で殴りつけてくるのである。

 剣による戦闘としては異質なものである筈だが、それでいて彼の戦いぶりには優雅な印象さえある。

 煌めく刀身が陽光を跳ねて円月を描き…柔軟な肢体は馬上で舞うかのごとく身を撓らせ、紙一重のところで兵士達の突き出す槍をかい潜っては効果的な一点を抉り、地に伏せさせていく。

 その腕前は、刃の方を向けていれば即座に命を奪うことが出来たと思われるだが…おそらく、倒された兵達は骨折やら挫滅によって身体の形状が変形することはあっても、死亡した者はいないように見受けられる。
 何か要素の力が働いているのか剣を受けた部位が凍結しているようにも見えるが、それも手足が凍り付く程度で全身が氷に閉ざされると言うことはない。

 あれほどの怒りを湛えながら…彼は、故意に命を奪わぬように配慮しているのだ。
 
「何故…殺さない?」

 あまりに見事な騎行と不可解な攻撃に、アルフォードは一軍を指揮する者としては考えがたいほどの無防備さで男に見惚れてしまった。

 絶叫と怒声が交わされる戦場にあって、ちいさな呟きが直接男の耳に入ったとは思われない。
 けれど、ウェラー卿コンラートの相似形である男は意図を汲んだように声を上げたのだった。

 血を吐くように苦しげな…怒りを噛み殺しかねた声で。


「それが、我が主…ユーリ陛下の願いだからだ…っ!」


 《そうでなければ、貴様等などこの場で全員虐殺してやる》…琥珀色の瞳は雄弁に物語っていた。

「だが俺自身は…あの方の頬に涙を伝わせる存在を赦しはしない…っ!」

 怒れる神の如き闘気が押し寄せて…アルフォードを圧する。
 怒濤の勢いで接近してくる男に向けて、聖剣を引き抜くことさえしない自分が信じられない…。

 為す術もなく打ち倒されそうになったその時、横合いから身を挟ませてきた男があった。

「おい…俺を失望させるなよ、アル!」
「ガーディー!」

 《剣豪》として名を知られるガーディーは、確かに腕の立つ男であった。
 過たず乗馬を狙ってその頸を切り裂くと、見事な跳躍を見せて大地に降り立った男に剣を突き立てようと、隙のない突撃を見せる。

 敵が《剣聖》と呼ばれる男でさえなければ、彼に軍配があがったかも知れないが…幾多の戦場で名を売ったガーディーも、二、三太刀も交わさぬうちに実力差を思い知ることになる。
 
「う…わ…っ!」

 おそらく、ここ数十年に渡って覚えがないほど情けない声を上げて段平剣を跳ね飛ばされたガーディーは、剣の刃を用いることさえしない男に絶対的な敗北感を味合わされていた。

「畜生…ウェラー卿本人ならともかく、そっくりさんにしてやられるとはなぁ…っ!」
「ならば、少し気を楽にさせてやろう」

 聖剣を振るうアルフォードを子どものようにあしらいながら、男は妖しいほど艶のある笑みを浮かべてみせた。

 
「俺も、ウェラー卿コンラートだよ」



*  *  *




 時を戻そう。

 
 眞王廟で村田から今後の計画が提示された時、有利とコンラッド、そしてギィの3人は白狼族の背に跨りウェラー領に赴くことが決まった。

 勿論、アルフォードの率いる人間軍に対して武力で対抗する案については有利が懸念を示したが、《君のもたらす奇跡によって、勇者君と対話による交渉が出来れば戦闘にはならない》と言い含めて納得させたのだ。

 だが、具体的な戦闘案についてもコンラッドやレオから懸念の声が上がった。

「戦陣が敷かれている場所から考えると、時間と兵站の無理が大きすぎませんか?」

 コンラッドとレオは、卓上に置かれた眞魔国地図をのぞき込みながら難しい顔をした。

 村田の計画によると、コンラッド達はルッテンベルク軍を率いて(実際の進軍行動はケイル・ポーに委ねることになるだろうが)国境の戦闘に加わることになっているが、ウェラー領から戦陣が敷かれている地方までは、馬を駆け通しに駆けても1週間はかかる。しかも、街道の草は枯れ果てており、騎兵の糧食をかき集めるだけでも一苦労ではないかと思われる。
 辿り着いたときには既に手遅れになっている可能性が高い。

 しかし、村田は思いがけない場所に指をおいたのだった。

「街道は使わない。君たちは、ボルドレン河を下ってポルパント湾に出るんだ」
「しかし、船はどうします?」
「船が用意できたとしても、ポルパント湾は岩礁が沖まで続いています。馬を下船させるのは不可能ですよ?」
「しかしもお菓子もないよ。レオ…君は《彼女》の愛と能力をフル活用できるだろう?」
「……え?」

 レオは《よそんちのウェラー卿》扱いされなくなったことと、予想外の存在を提示されたことに目を見開いた。
 前者についてはそのまま放置することにしたが(多分、村田が面倒くさくなっただけだろうし)、後者については…まだ《しかし》を続けたくなる。
 村田の不快を誘うとしても、根底となる作戦行動だけに期待感だけで動くのは問題だ。

 村田の言う《彼女》…大亀ボルドーは万能の存在ではないのだから。

「ボルドーの背に乗れるのは一個大隊程度です。それに、彼女は出無精ですから湖から出たがらないでしょう?」
[デブ性ですって?酷ぉ〜い…!]

 もったりとした独特の声に、レオはぱちくりと目を見開いた。

「ボ…ボルドー?」

 見れば、紅い蝶に抱かれた琥珀色の石から中空に向けて光が放たれ、頬を膨らませた(…ように見える)大亀ボルドーのアップが映っていた。

「僕を誰だと思ってるんだい?肝心要の案件はまず最初に押さえておくものさ。彼女には土の要素遣いのエルンスト・フォーゲルの魔石で映像を送って、既に事情を説明済みだよ」
「そーうよぉ〜う。水くーさーいー。私はぁ〜、コンラートの為なら〜お馬さんくらい乗せちゃうわよ〜。石だらけの〜とこだって〜えいさほっさって歩いちゃうもーん」
「しかし君…湖から出られるのかい?」

 以前、ウェラー領に渡る際には確かに背に乗せて貰った。しかし、あの時は湖を渡っただけである。幾らボルドー湖がボルドレン河に繋がっているとはいえ、その間には巨大な滝があるのだ。滝壺に落ちればボルドー自身が大丈夫だとしても、背中に乗っている一個大隊は殆どが死に絶えるだろう。

「大〜丈ー夫〜…。飛ぶからー」
「……………飛ぶ?」

 あんぐりと口を開けるレオに対して、有利は瞳を輝かせた。

「飛べるの!?ま…マジっ!?」
「そーうよぉ〜う。ずーっとは無理だけど、河に降りたり〜滝登ったり〜くらいはぁ〜できるのぉ〜」
「うっわ、凄ーいっ!俺乗りたいっ!」
「君は駄目だよ渋谷…。同時並行で実りの奇跡を起こすんだ。ルッテンベルク軍に帯同している余裕はない」

 村田に止められて、有利は半べそをかいてしまう。

「え…?何でだよ!リアルガメラだぜ?こんなチャンス二度とないかも知れないじゃん!」
「レオが頼めば後でもやってくれるよ。そうでしょ?ボルドー様。ウェラー卿があなたのほっぺにチューとか、抱きしめたりとかどうです?」
「い〜いわぁ〜っ!」

 頬を染めて(いるように見える)ボルドーは超ご機嫌だ。
 レオはちょっと想像して、《ほっぺにチューはともかく、抱きしめるのは壁にぶつかっているようにしか見えないと思うが…》等と考えているようだ。

「では…やってくれるかい?ボルドー。全てが上手く片づいたら、ユーリも載せて貰えると嬉しいな」
「い〜わよぉ〜う。河に降りて、待っといたげる〜。ユーリちゃんも可愛いしぃ〜。いつでも載せたげる〜」
「やったー!」

 このようにして(かなり暢気な場面を展開しつつも)、ルッテンベルク軍の派兵条件は物理的には整った。
 あとはコンラッド達がウェラー領に赴き、旅団長達を説得する段階にはいる。

『ルッテンベルク…か』


 かつて、コンラッドと共に死線を潜った連中が、そこにいる。
 コンラッドが、護りきれなかった連中も……。

「…っ……」


 その顔の群れを鮮明に思い出すことの出来るコンラッドには、複雑な任務となりそうだ。  






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