第三章 XーD







「食糧問題を解決するとはまた、魔族の野郎どもめ…随分と大きなハンカチを広げているものだぜ」
「一体、どんなまやかしを見せるつもりなんだ?」

 大賢者の告げた言葉に、アルフォードに率いられた人間達がざわざわと囁き交わす。その殆どは懐疑的な発言で、《騙されるものか》という決意に満ちていた。

 だが…そうは言いながらも、彼らは頭上に浮かぶ映像から目を離すことが出来ないのだった。


 もしかして…
 万が一……


 《期待してはならない》…そう自分に言い聞かせながらも、心の奥の方で密やかに囁きかける存在がある。

『もしかして…本当に、《禁忌の箱》を滅ぼしてくれるんじゃないのか?』

 そんなこと、期待するだけ無駄なのに…。
 本当にそんな方法があるのだとしても、魔族の連中は決して人間世界を助けようとはしないだろうに…。 


 ああ…だが、《禁忌の箱》が開放される以前の光景をこの目で見ることが出来るのなら…。
 あの黄金色の麦穂を家族総出で刈り取る喜びを再び味わえるのならば…。
 里山の豊穣に満ちた実りを収穫し、手のひら一杯に木の実を掴むことが出来るのならば…!


 人々の中でも、特に祈るような気持ちでそれを夢見てしまう一群があった。
 耕していた土地が枯れ果ててしまい、税が払えなくなって路頭に迷った結果、剣や槍を持つに至った…流浪の元農民達である。

 肥えた土を丹念に掘り起こし、虫を駆除し、実りを刈り取っていくその行程にこそ喜びを覚える彼らにとって、またあの暮らしに戻ることは切ないまでの望みであるのだ。

『その為なら…魔族にだって魂を売り渡しても良い…っ!』

 しかし…決してその願いを口にすることは出来ない。すぐさま、周り中の仲間達から壮絶なリンチを受けると分かっているからだ。


 様々な想いを込めて見詰める先で、映像が次第に拡大されていき…一人の少年を映し出した。



*  *  *




 一方…もはや双黒の大賢者を生ける伝説として信奉し始めている魔族の人々にとって話は単純であり、その願いは直線的に周囲へと口に出して良いものであった。

 グウェンダルの治めるヴォルテール領でもそれは同様…いや、彼らの場合は敬愛する領主を兄弟相打つという血生臭い内戦から救ってくれた大賢者に対して、更に強い思慕の念を抱いていると言っても良い。

「ほ…本当なのかな?」
「俺達を…双黒の魔王様が救って下さるのか?」
「当たり前だ!あのお方が、何とかしてくれるに違いねぇ!」

 領主館に農作物を納めている農夫ジャイルズはすっかり大賢者を崇拝するようになったらしく、まだ幾らか不安げな顔をしている近所の連中や幼い娘に力強く請け負った。

 ジャイルズは膂力も大したものだが更に土の要素に呼びかける力が強く、この近在では知らぬ者ない魔力持ちである。その彼が太鼓判を押すものだから、皆一様に《そうだよな!》と囁き交わしながら頷いている。

「そうだ…きっとそうだ…!」
「なんせ、《禁忌の箱》をぶっ壊せるようなお方だっていうもんな!」
「きっと、何とかして下さる…!」

 人々は手と手を取り合い、神様を見詰めるような瞳で映像に目を凝らすのだった。
 果たして、一体どのような魔王陛下が現れるのかと…。

 焦げ付きそうなほど熱い眼差しを送る先に、とうとう…その少年の姿が映し出された。


「わ…」
「あ……っ!」

 それは初夏の若木のように伸びやかな体躯に、青い長衣を着込んだ少年であった。
 
 瑞々しく滑らかな頬、小さめの形良い鼻に、やはり小造りだが下唇だけ《ふく》っとした質感の可愛らしい唇…。
 さらさらと微風に靡く髪は漆黒で、ゆっくりと開かれていく長い睫の下から現れたのもまた…澄み切った黒瞳であった。

「ふわぁ…」
「なんて…なんて綺麗なんだろうねぇ…!」

 美貌の純血貴族を見慣れているはずの魔族にとってすら、その愛らしさは思わず言葉を忘れてしまう類のものであった。
 顔立ちが整っているとか、身体の均整がとれているとか…そんな次元の問題ではない。

 何かが…どうにも抗しがたいほどの力で染み込んでくる。

 何故、こんなにも心惹かれるのだろうか?

「なんか、あったかいねぇ……父ちゃん」

 呆っとして大きく口を開けていた娘がジャイルズの袖を引きながら呟くと、周りの者も《なるほど》と頷いた。

 何故だか、この子の美しさは胸に沁み入るようなぬくもりを湛えているのだ。
 
 枯渇した大地に瑞々しい水を注がれるような…陰々滅々とした吹きだまりに、明るく陽光が差し込み、芳しい風が吹き込んできたような…見る者の瞳にやわらかい光を投げかけるような、そんな美しさ。

 ああ…こんな美しさが、この世に存在するだなんて…!

「お目々がねぇ、きらきらして…つやつやして…どんぐりみたいだねぇ!」
「どんぐりかぁ…あんな美しい方にそりゃ、ちっと失礼なんじゃないのか?」

 頬を淡紅色に染めて興奮している娘のベルタにジャイルズは苦笑してしまうが、ベルタの方は不満げにぷくっと頬を膨らますのだった。

「だって、似てるもん!くりくりっとして…森で見つけた一等大きなどんぐりみたいにキレイだもん…!」
「そうだなぁ…ああ、そうかもしれないなぁ…」

 昔は、森を少し歩けば掌に一杯のどんぐりが拾えたものだった。
 けれど…《禁忌の箱》が開放されてからというものの、里山の実りは年を追う事に激減していき、今では幾らか拾えたその実が子どもの遊び道具になることはなく、全て取り上げられて食糧に変えられるようになった。

 ジャイルズは思い出す。
 かつて幼かった自分にとっても、宝物であった木の実のことを。
 大粒の形良いどんぐりを手にしたときの、あのキラキラとした思い出を…。

『そうだなぁ…この方の暖かさは、そういうものに似ているのかもしれないなぁ…』

 《どんぐり》という言葉によって想起される、秋の豊穣…栗鼠などの小動物の姿…かつては日常であった…今となっては懐かしさに胸が詰まるほどの光景が蘇ってくる。
  

「眞魔国の皆さん…」


 不意に、映像の中から伸びやかな声が響いた。
 少しだけ鼻に掛かったような響きのある声は少年の姿に似合いのもので、人々は反射的に《もっと聞きたい》と身を乗り出すのだった。

「えと…初めまして。俺がいた方の眞魔国で、俺が会った人達もいるんで…なんだか《初めまして》は変な感じもするんですけど…。でも、皆さんにとっては初めましてデスね。俺、渋谷有利っていいます。あっちの眞魔国で親しい人達からは《ユーリ》って呼ばれてました。今回はレオ…じゃなくて、ウェラー卿コンラッ…あ、コンラートに頼まれて皆さんのお手伝いをしにやってきました!」

 大賢者と同年齢と聞いているし、実際見た目年齢は同程度かと思われるのだが…その話し口調はなんとも辿々しくて、聞いている者をはらはらとさせるのだった。

「が…頑張れユーリ…陛下!」

 子煩悩なジャイルズなどはついつい、我が子のお遊戯を見守る気分で声援を送ってしまう。
 
 けれど、《すぅ》…っと息を吸って辺りを見回した魔王陛下…有利の様子は少しそれまでとは変わってきた。
 一度口を開いて落ち着いたせいもあるのだろうが…それ以上に、枯れ果てた周囲の様が胸を締め付けるのかも知れない。
 きっと…彼の国ではそんな情景は見られないのかもしれないから。

「凄く…凄く、辛い日々が続いたと思います。一生懸命に耕しても、穀物や野菜の芽が生えてこないことに苛立ったこともあると思います。《何でだ》…《もう嫌だ》…って、投げ出したくなった日もあると思います。それでも…皆さんはずっとこうして、畑を護ろうと力を尽くしてきたんですね。畑は、まだ死んでやしない…。このウェラー領なんて、魔力持ちの魔族もいなかったのに、こうして心を込めて手入れを続けてきたから土が死んでいないんだ…。本当に、とってもとっても…頑張ったんですね…!」

「…っ!」

 ぐ…っと、ジャイルズの喉が鳴り…目の奥が《かぁ》…っと熱くなるのを感じて、慌てて目が痒いふりを装う。
 有利の言葉に涙が込み上げてきたことを知られたくないためだったが、どうやら周囲の連中も似たり寄ったりの様子のようだ。

 誰もが、誰かから《もっと頑張れ》と言われてきた。
 
 これ以上ないくらいに頑張って頑張って…でも、年々収穫が減少していくのを止めることが出来ず、頑張れ頑張れと言われ、自分でも自分に頑張れと言い続けてきた。

 それを…《頑張ったね》と認めて貰ったのは、初めてのことなのだ。

「実らなかったは、皆さんのせいじゃない…」

 有利はしゃがみ込むと、両の掌に土をとった。その土は丁寧に掘り起こされ、水を蒔かれていたけれども…夏を迎えるこの季節にはあり得ないほどに芽吹きは少なく、頼りなくひょろひょろとした茎から麦であるらしいことが伺われるだけだった。

「そして、大地のせいでも要素のせいでもない…。《禁忌の箱》から出てくる創主の力に押さえ込まれて、芽吹きたくても芽吹くことが出来なかったんです」

 土の声が聞こえるかのように、有利は悲痛に眉根を寄せて苦鳴した。

「今、《禁忌の箱》の一つ…《鏡の水底》は封印しました。眞王廟…眞魔国のド真ん中で、大地と要素を押さえ込んでいたヤツです。だけど…まだ、国境を越えて押し寄せてくる他の3つの力が影響を与え続けているのと、あんまりにも長い間押さえ込まれていたせいで、要素達はどうして良いのか分からなくなってます」

 そこまで語ると、有利は下げていた目線を眞魔国中に向けて…両手を顎の前で組んだ。
 伏し目がちだった瞼がゆっくりと開かれると…うるりと水膜を被った黒瞳が真摯に、一人一人の心に訴えかけてくる。


 《双黒の魔王様の上目づかい》…最強の必殺技(?)が今、眞魔国中に炸裂した…!


「だから…お願いです。皆さんの力を、大地に降り注いで下さい…!」

「はいぃぃ……っっ!!」

 思わず拳を握りしめて熱く叫んだジャイルズの言葉は、期せずして仲間達のそれとシンクロしていた。
 多分、眞魔国中で同じ反応を示している者達が居るはずだ。

「今、皆さんは俺に期待してくれてるかも知れません。だけど…俺自身が持ってる力って、実は結構へなちょこなんです」

 淡紅色に頬を染めて、有利は一層瞳を潤ませる。
 
「俺には、この国の要素全てに呼びかけるだけの力がありません。でも…出来る限り多くの大地に蘇って欲しいんです。そのためには、皆さんの力が必要なんです。どうか…俺に同調して下さい。魔力を持っている人も、持っていない人も…魔族も人間も…一緒に、同調して下さい。俺達を育んでくれた大地に、少しでも生きていく力を取り戻して貰うために…。今度は、俺達が持つ力を大地に分けて下さい…」

 ゆっくりと…有利の瞼が閉じられ、強く何かに呼びかけるように…祈るように、手が硬く組み合わされると、ジャイルズを含めた眞魔国の民が同じように手を組み合わせる。

 そうだ。この大地に育まれてきたのは異世界の大賢者でも魔王でもない…自分たちに他ならないのだ。
 《何とかして貰う》ことばかり考えていたジャイルズは恥ずかしくなって来て、これまでに覚えがないほどの集中力を見せて要素に呼びかけ始めた。

『頼む…応えてくれ……っ!』
 
「思い出して…硬い殻を突き破って芽吹く植物の力強さを、すくすくと伸びていく茎のしなやかさを…豊かに実る麦穂の感触を…っ!」

『思い出せる』
『ああ…思い出せるとも…!』

 ジャイルズは在りし日の、生き生きと成育していた頃の植物たちの様子を思い浮かべては組んだ指に力を込める。
  
『もう一度…ああ、もう一度あの姿を…!』


 強い祈りが今、眞魔国中に満たされていく…。



*  *  *




「さぁ…今だよ」

 村田がパチリと指を鳴らした瞬間、眞魔国国境に配置された巫女達が一斉に魔石を掲げた。
 淡く発光し始めた魔石は見る間に強い光を放つようになり…仄かな熱ささえ持ちながら巫女達の白い頬を照らした。


 フォン…
 フォォン……っ!


 音とも波動ともつかない感覚が互いに結びつき、次第に格子状に眞魔国を覆い始める…。
 視覚では捉えることの出来ないその光景が、強い魔力を持つ巫女達には手に取るように分かる。

 複数の魔石が感応し合って…魔力による巨大な防御壁が眞魔国を包み込むと、どんよりと押し寄せていた創主の力がそこで阻まれた。


 リィィン…!
 リィン…リィィン……っ!


 歓喜の叫びとも歌声ともつかぬものが大気に満ちていく。
 突然開放された要素達が喜びと驚きの中で、どうしたものかと辺りを見回しているようだ。 

「吃驚してるのかな?でも…大丈夫。彼の指揮に乗ってね。そして、誰も見たことのない光景を僕たちに見せてくれ…!」

 くすくすと…村田は子どものように無邪気な笑みを浮かべて囁く。
 なにせ、彼は本当にこれから起こることが楽しみで堪らないのだ。
 一大イリュージョンが目の前で繰り広げられる瞬間に、冷静な《大人》でいられるものがいるものだろうか?

 続いて、紅色の蝶に抱かれた琥珀色の魔石が揺らめくような光を発し始め、エルンスト・フォーゲルと有利の力に反応し…更には眞魔国中に散在する魔族達の力が連動していく。 


 変化の始まりは、有利の足下からだった。


 ふく…
 ふ…くく……

 ふくふくふく………っ

 
 まるで小さな生き物の笑い声のような音がふこふこと聞こえてくる。
 それは、土を頭に乗っけた芽がにょきりと伸び出してくる音だ。
 
 普通なら何時間も掛けて伸び出してくるはずの芽が、ぴょこっ…ぴょこりと勢いよく土の中から顔を覗かせていく。
 黒い土に映える鮮やかな黄緑色に人々が目を奪われた瞬間…《それ》は、急激な変化となってドドウ…っと広がったのだった。

 黄緑色の芽が噴き出てくると、それはしゅるしゅると伸びて茎となり先っぽに麦穂を実らせ…見る間に綾を連ねて広がって行く…!

 その色調の変化が、次第にロングショットへと変わっていく映像の中で鮮やかに広がっていく。
 驚嘆すべき光景を巧みなカメラワーク(?)を駆使して魔石が映し出し、同時に芽吹きの魔力を眞魔国中に響かせていくのだ。


 リンリンリィイン…っ!!
 リンッリンッリン…っ!


 押さえつけられ、踏み躙られてきた要素達が開放の喜びに歓喜している。
 生命を謳歌すべく楽しげに歌い…くるりくるくると舞い踊り、爆発的な力で植物たちを鼓舞していく…。


『歌おう歌おう…!』
『踊ろう踊ろう…っ!』
『芽吹こう……育とう………っ!』


 ザアァァアアアアア……っっ!!
 ザァァァァアアアアアアアア…………っっ!!!


 有利を中心として広がる麦穂の波が風に靡き…人々は、それがやや黒っぽい色をした《ウェラー大麦》であることに気付いた。

 混血の民が住まうウェラー卿コンラートの領土だけで、この奇蹟は起きているのだろうか?

 映像の中では厚く垂れ込めていた黒雲がサァ…っと退き、眩しいほどに降り注ぐ陽光が色鮮やかに景観の印象を変えていった。
 黒っぽい麦穂は金色の彩りを持ち、丁度…彼らの敬愛する領主、ウェラー卿コンラートの髪がそうであるように、獅子の鬣を思わせる雄壮さで風を受けて靡いていく…。

「あ…っ!」
 
 変化はウェラー領だけで起こっているわけではないということに、人々はすぐに気付いた。
 芽吹きは彼らの領土にも広がっている…。
 
 見よ…自分たちの足下にも、その奇蹟は広がっているではないか…!

「草が…お花が…咲いてるよ……っ!」

 ベルタが《きぁっ!》と小動物みたいな声を上げて駆け出すと、ここ数年殆ど開かなかった花の蕾が、ふんわりと開かれていく奇蹟に目を奪われた。
 石垣の隙間から、道ばたの土塊の中から…次々に緑の草が伸び、蕾が開いていく…。

「何て…なんてこった…っ!」

 誰もがそれ以上饒舌に口を回すことなど到底出来ず…唯々感嘆して、この奇跡に目を奪われていた。

 ウェラー領の奇蹟ほど派手な変化ではないものの、彼らの目前で畑で野山で…鮮やかな色彩が広がっていく様を。



*  *  *




「何が…何が、起きているのですか…?」
「お義父様…奇蹟が、起きているのですわ…っ」

 王都の防壁までよろめく身体を引っ張ってきたギュンターは、ギーゼラの服を掴んでもどかしげに眉根を寄せた。

 つい今し方まで高熱に魘され寝台に伏していたギュンターは、勿論傷が癒えたわけではない。ある程度の傷はツェツィーリエとギーゼラに治癒されたものの、その分奪われた体力は彼の膝から力を奪う。
 毒で潰された目もまた色彩を捉えることは出来ず、白い包帯を巻いた顔は痛々しい印象を受ける。

 だが…今ほどギュンターの精神が高揚した事はないだろう。こんな日にのんびり病人然としていられるほど、ギュンターは老成した男ではなかった。じっとしてなどいられるものか!

『ウェラー卿コンラートが魔王ツェツィーリエを逆賊シュトッフェルから救い、双黒の大賢者が現れて《世直し》をしようとしている…』

 その叫びを廊下から漏れ聞いてギーゼラに詳細を聞いてこさせたギュンターは、それが真実であると知るといても立てもいられなくなり、誰にどう止められようとも…這ってでもその場に居合わるのだという決意でここまでやってきたのだ。

 その決意を物理的に支えてくれたのは、血の繋がらない娘であったわけだが…。

「奇蹟ですって?コンラートが陛下をお救いし、双黒の大賢者が現れるという以上の奇蹟が、まだあるというのですか?」
「ええ…ええ、お義父様…っ!奇蹟というほかに、どう表現して良いのか分かりません…!」


 ギーゼラの声は込み上げる感情に熱く燃え…震えていた。


 普段は冷静な娘が口元を手で覆いながら泣いていることに気付くと、ギュンターは優しくその背を撫でて囁きかけた。頬に感じられる不思議な波動が、ギュンターにも何が起きているかを教えていたのである。

 あれほど締め付けられ…千々に乱れて混乱していた要素達が高らかに謳い、踊っている…。

 なるほど、これは奇蹟というほかない。
 きっと、見える目を持った人々には驚嘆すべき光景が広がっていることだろう。

『やさしい子だ…』

 その…素晴らしいであろう光景を目にすることのできない義父を慮んばかり、ギーゼラは感激を心のままに発することが出来ないのだろう。

『でも、大丈夫ですよ』

 肉体としての《眼》で確認できないことは確かに残念だ。
 けれど…こうしてこの場に居合わすことが出来ただけでも素晴らしい幸運ではないか…!

「ギーゼラ…どうか、盲(めしい)た私の目の代わりに、その目で見たことを教えて下さい…。あなたが泣いているのは、この暖かな波動のせいなのですか?要素達が生き生きと歌っている…。何か…素晴らしい光景が見えるのですね?」

 暖かなギュンターの言葉に、ギーゼラの瞳からは堪えきれぬ涙がぼろぼろと溢れ出した。
 ギーゼラはこれまで、飢えと病に苦しむ領民を見守り救おうと力を尽くしてきた…。その彼女にとって、枯れ果てた大地が再生していくその光景は涙なしに見詰めることは困難であったのだろう。

 その恵みによってどれほどの民が救われるかを知っているからだ。

「ええ…ええ…!ウェラー領で…麦が、実っていきます…!」
「その奇蹟を作り出したのが…猊下の言っておられた、《双黒の魔王陛下》なのですね?一体…どのような方なのでしょう?」
「魔王陛下は麦畑の中心に立っておられます…。陽射しを浴びて黄金色に染まった麦畑の中で、青い服を着て…両手を広げておられます。華奢な体つきの、とても愛らしい方…!ふわりと広がる服の裾が靡いて…まるで青い鳥のようですわ」
「この声は…魔王陛下のお声なのでしょうか?」
「ええ…歌っておられるのだわ…。要素と共に、歌っておられるのだわ…!」


 ラン…ランララランランラン…
 ラン…ランラララン……


 美しい…そして素朴な音調は耳朶に心地よく、ギュンターもギーゼラも共にハミングを始めた。

「分かります…私にも、伝わってきます…!ああ…何という友愛と労りの感情でしょう…!豊穣の願いを押しつけるのではなく…共に成育していこうと……っ!」


 ゴホ…ゴホ…っ!


「お義父様!?」

 興奮しすぎたせいだろうか?咳き込んだギュンターはそのまま身を二つ折りにして苦しそうに喘いだ。
 慌てて身体をギーゼラが支えようとするが、その手は別の手に取って代わられる。


「フォンクライスト卿…」
 

 逞しい腕が力強くギュンターの身体を抱き起こそうとするが、外れた肩関節を固定する三角巾や、目元を覆う白い包帯に…独特の響きを持つ声音に沈痛な色を混ぜる。
 
「……っ!」

 懐かしいその声に、ギュンターは胸の中で弾け出しそうな言葉の存在を感じたが…その量は多すぎ、その熱量は高すぎて…具体的な音声として口から出るのには時間を要した。

「コン…ラート……なのですか?」

 ようよう口にした言葉は、確認のための呼びかけだけであった。
 それは相手の方も同様であるらしく、感極まったように詰まった声が紡いだのも、簡潔な一言のみであった。


「ええ…そうです。俺です…。帰って来ました…この国に、故郷に…!」 






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