第三章 XーJ







 出立の準備が整うと、騎馬姿の一群がウェラー領の防壁手前に整然と並んだ。
 白茶けた大地の上で、茶色を基調としながらもどこか華やかな印象の武装騎兵達が一堂に会する。

 もともと馬への拘りが強い彼らは、正規軍であった頃から独自の馬具を設えてその意趣を競っていたので、独立してからは特にその傾向が強くなっている。
 いずれの騎兵も自分の武具より馬に気を回している様子で、革製品に焼き付けや浮き彫り加工を施した手綱や鞍、頚当てや額飾りに趣向を凝らしていた。

 その中で、コンラッドに割り当てられた馬は若い栗毛の雌馬バルトゥックであり、その体躯を覆う馬具はしっくりとコンラッドの身体に馴染む。

 コンラートのものであったバルトゥックは脚力持久力共に優れているのだが、主以外には懐かない気性の荒い馬であったため他の者には扱えない難物であった。

 しかし、共通項が多いせいなのだろうか?
 バルトゥックはコンラッドの姿を見るや懐かしげに頚をすり寄せ、慕わしげに目を細めていた。今も、馬具以上にぴたりとコンラッドに寄り添って恋女房ぶりを発揮するのだった。

 ただし…どういうわけだか有利が撫でようとすると、《ブルル》…っと不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 周囲は不思議そうな顔をしているが、その理由にアリアズナだけが何となく勘づいている。 

『バルトゥックの奴…妬いてやがるな?』

 馬とはいえど雌の本性なのだろうか?
 コンラッドをいたく気に入っている《彼女》は、厩で見せつけられた二人の行為にやき餅を焼いているらしい。

 有利の方もその事を悟ったらしく、《むぅ》…っと眉根を寄せてバルトゥックに対峙していた。
 けれどもこの勝負、有利の方がより大人の(…というかヒト科の?)余裕を見せて譲歩することで決着がついた。

「バルトゥック…頼むな。コンラッドを護ってくれよ?」

 触れれば怒られるので撫でたりは出来なかったが…ルッテンベルク式の敬礼と共に、笑顔と励ましの言葉をバルトゥックに送った。
 バルトゥックの方は尚も微妙な顔立ちで佇んでいたが、有利が離れようとするとぶつかるようにしてその背に頭を擦りつけたのだった。

 恋の好敵手として、有利を認めたのだろうか?

「コンラッド閣下、出立前に確認しておきたいことがあります」

 改まってコンラッドへと声を掛けてきたのはケイル・ポーであった。

「分かっているよ。君の指揮権を侵すつもりはない。閣下という呼び方も止めてくれ…俺のことは、一兵卒として扱ってくれた方が通りが良い」
「指揮権については仰るとおりですが、あなたは客員士官として処遇する必要がありますので、やはり閣下と呼ばせて頂きます。ですが、それは既に確認済みのこと…俺が確認したいのは、閣下の心構えのことです」

 あちらの世界では長身ながらやや細身で、腕の良い仕立て屋だというケイル・ポーも、こちらでは騎馬姿も凛とした堂々たる武人である。
 コンラートの留守を任されている最高司令官たる彼は、真っ直ぐに厳しい眼差しをコンラッドへと向けていた。

『あいつめ…何を言い出すつもりだ?』

 まさかアリアズナのように二人の痴態を覗いたというわけでもあるまいが…何か強く言っておきたいことがあるらしい。

「何だろう?」

 コンラッドの方も真摯に応じる構えを見せている。
 ケイル・ポーはアルノルド後にルッテンベルク師団に参入した男であり、コンラッドが罪悪感を感じる立場ではないはずだが…彼にとっては《ルッテンベルク》の名そのものが精神外傷として刻まれているのかも知れない。

「戦場に於いて…アルノルドを背負ったまま戦うことはないと約束して頂けますか?」
「…どういうことだ?」
「閣下は…《ルッテンベルク師団》という存在に対して深い罪悪感を覚えておられる。ですが、その組織に所属していた者とこちらの世界の者達とは別の存在です。あなたとコンラート閣下が異なるように、やはり異なる存在なのです…。その連中のためにあなたが命を擲つような戦いをされることは、我々の存在に対する侮辱です。その感情は死した者にだけ手向けるべきもので、生者に向けるものじゃない」
「……っ…」

 きつい物言いは実直なケイル・ポーらしくもないもので、アリアズナを初めとする毒舌家達までもが彼の口を塞ぐべきかと歩を進めかけた。

 だが、その動きを制したのはコンラッド自身だった。

「俺は、君達と共に闘う価値のない男だろうか?」
「いいえ…俺は、閣下に混合して欲しくないだけです」

 切なげなコンラッドの表情に向かって、ケイル・ポーは諭すように語る。

「俺は、閣下とは今日初めて出会った男として共に戦いたい。そして、あなたが知る…死なせてしまったと思っておられる連中とも、同じ思いで戦って頂きたいのです。懺悔でも悔恨でもなく…ただ、この眞魔国を救うための同志として戦って頂きたいのです」
「ケイル・ポー…」

 先程までの厳しい雰囲気を払拭し、ケイル・ポーは実に彼らしい…好青年そのものといった表情で閃くように笑った。

「生意気を言って申し訳ありません。そういえば…俺達、挨拶もまだでしたよね?ウェラー卿コンラッド閣下…初めまして。俺は、ウェラー卿コンラート閣下の部下として、現段階に於いてルッテンベルク軍を取りまとめておりますケイル・ポーと申します。貴官と共に闘えることを、光栄に思います」 

 一礼するケイル・ポーに、コンラッドもまた敬礼で応えた。
 
 こめかみに拳を押し当てるというルッテンベルク式の…あの、懐かしい敬礼で。

「お言葉、ありがたく承(うけたまわ)る。俺も君達と闘える幸福を天に感謝しよう」

 
 ザ……っ!


 言葉もなく、号令があったわけでもないのに…男達は一斉に敬礼の構えをとった。

 瞳を輝かせ…興奮したアリアズナは鋭い音を立てて刀の鍔(つば)を鳴らすと、勢いよく引き抜いた白刃を天に掲げて見せた。
 続けざまに全ての剣が抜き放たれ、陽光を反射しながら燦然(さんぜん)と輝き渡る。

「眞魔国のために…っ!」

 オォォオオオ………っ!

「眞魔国のために…」
「眞魔国のために……っ!」

 国を追われ、軍籍を剥奪された男達の叫びが高らかにウェラー渓谷に響き渡る。

 形式だけの枠組みで、この心の猛りが失われるものかと。
 この滾るような熱意が失われるものかと…っ!

 我らの忠心は、常にこの国の守護に向けられているのだと…!

「眞魔国のために……っ!!」

 一際高らかに、伸びの良い声が大気を響かせていった時…ケイル・ポーはにこりと笑ってもう一つ依頼をしたのだった。

「コンラッド閣下…指揮権を差し上げることは出来ませんが、どうか号令だけは閣下が執り行って頂けますか?俺達は…どうやら、あなたのその声がなくては気合いが入らぬようです」
「承ろう」

 優雅に微笑むコンラッドは、自分が今…新たな《ルッテンベルク軍》の一員になったことを知ったのだった。



*  *  *

  


『闘うことに…なるのかな……』

 有利は遠ざかっていくルッテンベルク軍の姿を見送りながら、抱えた膝に顎を載せた。

 身動ぐと、足の付け根が痺れたように酷使に対する苦情を訴え、奥の方では妖しく《くちゅり》と音が鳴るのだけど…その存在感の名残を拭い去る気にはなれなかった。

 後もう少しだけ…。
 あの腕が自分を抱きしめていた感触を残していたい。

 思い返すようにぎゅうっと自分の二の腕を掴むと、有利は騎影の消え去った地平線から目を逸らした。

 あと少しだけしゃがみ込んだら、ちゃんと立ち上がる。
 立ち上がれることを有利は知っている。
 有利には有利の…有利にしか為しえない闘いがあるのだから。
 
 だから、少しの間だけこうしていたい。
 また立ち上がり、闘う力を得るために。


 その心情を思いやるように、当分の間…有利に声を掛ける者は誰もいなかった。



*  *  *




 かつてリール橋が掛かっていた近辺のボルドレン河岸辺で、コンラッド達一行は大亀ボルドーと合流した。

「う、わ〜…そっくりぃ〜……」

 画像の中では既に挨拶を済ませていたものの、目の当たりにすると感慨もひとしおであるらしい。ボルドーはぱちくりと目を見開いてはしゃいだような声を上げる。

「初めまして、ボルドー…。貴婦人の背に無骨な男どもと馬が乗ることをお許し下さい」
「ま〜…お喋りしてもそっくりだわぁ〜。今度、二人で一緒に喋ってみてねぇ〜…とっても不思議が感じがすると思うわぁ〜」
「ええ…機会があればいつでも、お相手致しましょう」

 優雅な所作でたちまちボルドーの心を奪ったコンラッドは、約束通りルッテンベルク軍と共に大亀の背に乗った。
 馬は最初のうち怯えた様子だったが、ボルドーの放つ要素の力に癒されたのかすぐに落ち着いてきた。

「さー、急ぐわよぉ?」

 もったりとした動作が多少不安だったものの…ボルドーの《急ぐ》という言葉は信頼に足るものであった。

 乗員を全て載せきったことが分かると、ボルドーは勢いよく水を掻いては《ぐぅん》…っとコンラッド達が体感できるほどの加速を見せて河を下り始めたのである。

 暫くすると、その速度がボルドーの泳走能力のみによるものではないことが分かった。
 よく見ればボルドーの周囲に波打つようにして水の龍が跳ね回っている。水の要素を司る水蛇の上様かその眷属が、大亀の巨体を後押ししているようだ。
 目立ちたがりの上様自身が姿を現さないところを見ると、後者の可能性が高い。

 結局、驚くほどの速度で河口まで達した彼らは一度外海まで出ると、そこからくるりと迂回してポルパント湾に至った。
 
 岩礁を前にしてコンラッド達は一体どうするのかとはらはらしていたが…ボルドーは相変わらずマイペースにゆるゆると距離を測ると、声を掛けてきた。

「さ〜あ。みんな、しっかりしがみついてね〜?」

 突然、ボルドーは《ふんむむむ》…っと気張りだした。

「ボ…ボルドー…?」
「んーむーむ〜…っ!」

 《ふん…むっ!》と一際強く意気込んだ瞬間…


 ボフゥン……っ!!

 
 勢いよく、ボルドーの後部から気体のようなものが勢いよく噴き出され、大亀の巨体が海中から《射出》された。

「こ…これは……」

 所謂一つの《排気ガス》なのでは…と、コンラッドは思ったが口には出さなかった。
 乙女の羞恥心を刺激するのは得策ではないだろう。

 ドォォン…っ!

 衝撃は予想したほどではなく、どうやら着地に際してもボルドーが逆噴射してくれたお陰だと知れる。

『ユーリに話したら絶対に《俺も乗るーっ!》なんて言うんだろうなぁ…』

 のんびりとした思念にくすくすと笑っていられたのはここまでだった。

 大亀から降りて馬に騎乗したコンラッド達が険しい岩坂を駆け上っていった先で、空に《あの映像》が映し出されたのだ。

 どんよりと垂れ込める黒雲を背景とした映像は鮮やかに映し出す。ビーレフェルト軍とフォンヴォルテール軍は一瞬触発の危機に晒されている様子を…。
 その中で、呼びかけをシュトッフェルに止められ…揉み合う中で高所から落下していくツェツィーリエの姿が人々の呼吸を止めた。

『…猊下は間に合わなかったのか!?』

 瞬間、嫌な汗が背筋を伝うのを感じたものの…その不安を一撃で吹き飛ばす映像が飛び込んできた。

 白狼族に跨ったコンラートが間一髪の所でツェツィーリエを救い出し、恋人さながらの熱烈さで抱き合う様に兵士達は熱狂し、その声と沸き立つ雰囲気を押し隠すのに必死であった。

「凄ぇ…閣下はやっぱりさ、やることが派手だよなぁ〜…」
「ああ…まるで絵物語みてぇだぜ!」

 うきうきとはしゃぐ感情が隠しきれないようで、小声のつもりで囁き交わす声がついざわめきに変わっては上官に目線で叱責される。

 指令が下るまでは隠密行動であるため馬には麻布を噛ませているのだが、この分では兵士達の口にも猿轡(さるぐつわ)を噛ませねばならないようだ。

 ただ、幸いと言っていいものか…人間陣営にとっても動揺ぶりは激しいものであるらしく、あちらは声高に叫び合っているせいもあって、ルッテンベルク軍の気配にはまるで気づかれていない。

 さて、事態は一体どのように動いていくのだろう?

 興味津々で見守る彼らの前に、更なる衝撃が訪れることになる。



*  *  *




「う…わ……」
「見ろよ…凄ぇ…凄ぇよ……っ!」

 感極まったように、ルッテンベルク軍の兵士達が肩を抱き合い、同じ映像を見上げて目元を潤ませる。
 空に浮かぶ映像の中で、信じがたい…そしてたとえようもなく美しい光景が広がっているのだ。

 どれほど手を尽くしても荒廃を止められなかった大地が、鮮やかな緑に埋め尽くされ…次いで、豊かな実りへと色彩を変転させていく。
 黒っぽい麦穂は金色の彩りを持ち、丁度…彼らの敬愛する領主、ウェラー卿コンラートの髪がそうであるように、獅子の鬣を思わせる雄壮さで風を受けて靡いていく…。

「綺麗だ…なんて、綺麗なんだろうなぁ…」

 堪えきれずに流れていく涙の中で誰もが感動を口にし、この奇蹟を生み出してくれた双黒の魔王陛下に対する尊敬と思慕の念を深めていく。

 だが、その感情を共有できない者がいるという衝撃的な事実を彼らは突きつけられることになる。

 実りと交換で話し合いに応じることを求める双黒の大賢者に対して、人間陣営の最高司令官たるアルフォード・マキナーは口籠もり…交渉は最悪の形で決裂したのだ。


「当たり前だ!双黒のガキを手に入れて、頸に縄でも繋いでせいぜい可愛がってやるよ!夜には地べたに這い蹲らせて、たっぷりと俺のミルクを呑ませてやるぜ…っ!」


 誰もが眉を跳ね上げ、臓腑を煮えたぎる油にぶち込まれたような痛みに苦悶した。

 あの少年の清らかな姿を見て…その実りと再生の奇蹟を目の当たりにして、何故その様な台詞が出てくるのか。
 
 溢れ出してくる殺意が剣の柄を握らせるが、コンラッドとケイル・ポーの手は素早く制止を示して軽挙に出ぬ事を厳命する。

 だが…彼らもまた同じ怒りに打ち震えていることは誰も目にも明らかであった。

 待っているのだ、彼らは。
 自分たちが牙を剥くべきその瞬間を…。
 だから、彼らは命じるのだ。
 いつでも…次の瞬間にでも出撃できるように馬と己の準備を整えよと。


 過たず、その時は来た。


 大賢者の促しに有利が頷くと、コンラートの手が翳されて…清冽な響きを持つ声が号令を掛ける。

「ルッテンベルク軍…全軍突撃……っ!」

 間を置かずして、ルッテンベルク軍の中枢でも張りのある美声が号令が下される。 

「ルッテンベルク軍…全軍突撃……っ!」


 ドド…ドド……っ!
 ドドドドドドドドド………っ!!


 蹄が大地を蹴る度に濛々と乾いた粉塵が舞い上がり、岩坂を登る馬体が荒々しく揺れるが、騎手達はいずれも巧みな手腕を見せて隊列を乱すことなく戦場へと向かっていく。
 人間陣営の視点から見れば、あり得ない場所からわらわらと…魔法のように騎手達が湧いて出てくるように感じられたことだろう。

 憤怒を蹄と剣に載せた男達が、今…驚愕の中で何が起こっているのかさえ理解できていない人間達の後背を襲い、引き裂くべく突撃を始めた。
 
 邪魔な麻布を取り払われた馬が、沈黙させられていた鬱憤を晴らすが如く高らかに嘶き、肺活量の持つ限りに浪々と吹き鳴らされる角笛が軍勢を幾倍にも見せる。
 それでなくとも人間軍の殆どは歩兵だ、全く無警戒だった背後から騎兵によって襲われた場合、指揮は全く通らず兵達は右往左往して互いにぶつかり合うような有様であった。

「突撃…」
「突撃……っ!」

 沸き上がる粉塵と怒声の響きが大気を染めていく…!



*  *  *




 狂乱するように疾駆するアリアズナはすぐに《朱斧》の名に恥じぬ戦果を上げ、独特の派手な銀鎧を人血に染めていく。
 返り血で顔の半分ほどが赤黒く染まっている様は仲間から見ても不吉に思えるほどで、獣めいた犬歯を剥き出しにして嗤う顔はまるで悪鬼のようだ。

 しかし…血に酔う彼の目に驚くべき光景が映し出された。

 コンラッドは剣の背や拳を使って敵兵を薙ぎ倒すという迂遠な攻撃法をとり、人間を殺さぬように配慮しているのだ。

『あの馬鹿…っ!』

 有利が身体を張ってまで止めたというのに…あの男には伝わっていないのか?

『誰を…傷つけることになっても、お願い…っ!俺のために…無事に帰ってきて…』

 己の信条を枉げてでも無事に帰ってきて欲しいと哀願した有利のために、コンラッドは容赦なく敵兵を屠るべきではないか。

 腹立ち紛れに勢いよく馬上から斧を振り下ろして、襲いかかってきた大男の頭部を石榴に変えるが…馬上から身を乗り出した状態から体勢を戻しかけた時、アリアズナは妙なものを目に留めてしまった。

 まだあどけなさを残した麦藁髪の少年が、怯えきって背を丸めている。
 その身体に向かって突進しているのは仲間の馬であった。

 意図的にそうしているわけではなく、このような乱戦…それも、塹壕に脚を取られぬように馬を操る場合には足場が限られてくる。戦場でお饅頭よろしく丸まっている者など、蹄にかけられても文句を言う筋合いはないのだ。

 それでも…アリアズナはこの瞬間、何故だかこの少年を見捨てることが出来なくなった。

 それは、先程のコンラッドの行動を見ていたせいなのか…あるいは、有利の華奢な体躯を思い出したせいなのか、自分でも分からない。

「……くそっ!」

 アリアズナは舌打ちしながら馬の突進軌道を変え、斧の平で掬い上げるようにして蹄のかからぬ塹壕の中へと少年の細い身体を叩き込んだ。

 時間にすれば、何秒もかからないような行為であった。

 殺戮の直中にあって、あまりにも偽善的な行為であることなどアリアズナが一番よく分かっている。だが、そうせずにいられなかったのだ。

「馬鹿野郎!死にたくなきゃあそこから出るんじゃねぇっ!」

 怒声を浴びせるアリアズナをどう思っているのだろう。
 少年はきょとんとしたように小動物めいた顔でアリアズナを見詰めた。
 顔は泥で酷く汚れていたが…大粒の瞳だけは晴れた春の空のように澄んでいた。

「へ…っ…」

 この時…馬上で体勢を戻し、新たな敵を捜そうと振り返ったアリアズナの首筋目がけて穂先の長い槍が突き込まれてきた。

 避ける余地は…無かった。

「……っ!」

 死を予感したアリアズナが目を閉じることはなかった。

『なるほど、これは死ぬな』

 妙に冷静な頭がそう判断するが、目だけはカ…っと見開いて自分を殺そうとしている者の姿を焼き付ける。
 先程救った少年と殆ど同年代と思しき男だ。

 灰色の瞳を憎悪と殺意に染め、揺るぎない決意で槍を突き込んでくる。
 
 きっと、多くの仲間を失ったのだろう。その中にはアリアズナが頭蓋を砕いた奴もいるかも知れない。
 《復讐》…極めて分かりやすい衝動が叩き込まれてくるのを、アリアズナはいっそ心地よく感じる。 

『また貧乏籤か…』

 妙に長く感じるこの時間が、真実の時間軸においてはほんの一瞬であることは確かだ。普通ならこんなにも多層階を為す思考を展開している間に、穂先を避けられそうなものだ。

 それを証明するように、身体が避けようとする動きだけは残酷なほど時間に忠実であり…野性的なアリアズナの動きを持ってしても穂先を避けることは叶わない。

『まあいいさ…あっちの世界での俺に比べれば上等な生涯だった』

 コンラートのもとで栄光を得た瞬間もある。
 屈辱に悔し涙を流したこともあるが…それも、こうして新たな境涯が拓けるという、その瞬間に居合わせることが出来た。

 晴れやかな心地で笑うアリアズナへと穂先が迫り、喉の皮膚に食い込んだその時…


 ガィン…ッ!


 鈍い音を立てて、槍が中程で折れた。

「似合わない事をするからだっ!」

 嗤いながら剣を振るったのは…コンラッドであった。

 どうやってアリアズナの危地に気付いたものか、横合いから槍を砕くとその破片を空中で受け止め、逆手に持って槍の持ち手の胸甲を撃って気絶させる。
 コンラッドは鮮やかに馬首を廻らすと、次なる獲物を探して戦場を駆けていく。

 人馬一体となった動作に無駄はなく、敵兵を殺さずとも次々戦闘能力を奪っていく様子は敵味方両面からの感嘆を集める。

「へ…っ!」

 どうやら、今度はあの男のお陰で貧乏籤を引かずに済むらしい。

 いや、闘いが終わるまでまだ分からないが…。それでもアリアズナはいつもの調子を取り戻すと、べったりと血脂が付着した上に支柱棒に罅が入った斧を敵兵に投げつけると、腰に提げた長剣を抜いて襲いかかる槍の穂先を落としていく。

 柄にもなく《静かに死を待つ》などという反応を示したことが無性に恥ずかしくて、照れ隠しの為にも剣に血を吸わせたくて堪らないのだ。

「行くぜ…っ!」

 また血臭に酔うようにして剣を振ろう。
 新たな時代をこの目で見るという可能性に向かって…。
  




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