第三章 X.運命の日@








 その日…眞魔国一帯の天を埋め尽くしていたのは黒と灰色の混じり合った雨雲であった。
 いっそ勢いよく降ってしまえばいいものを、どういうわけか思わせぶりにゴロゴロと稲光だけをちらつかせて、ぬるい風の中でどんよりと蠢いている。

 その空模様は、まるでこの国の現状を模しているかのような様子であった。

 

*  *  *




 ドンドンドン…!

「ツェリ、ここを開けなさい…!」

 突然鳴り響いた荒々しいノックの音に、ツェツィーリエはびくりと肩を震わせた。
 どうしようかと左右を見回したものの…この場で最も発言力があるのは自分であり、こうしようと決断したのもまた自分であったことを思い出すと、精一杯背筋を伸ばして扉に向かった。

「陛下…」
「大丈夫よ、ギーゼラ…そのまま、ギュンターの治癒を続けて頂戴?」

 地下牢から一転して貴賓室へと通されたギュンターは、未だ意識を取り戻さないままツェツィーリエとギーゼラの治療を受けていた。
 その合間にリリアーナが清潔な湯と布で丁寧に拭き清めたのだが、全身余すところ無く鞭打たれた身体は高い熱を発しており、毒を吹き付けられたらしい目元はこのまま光を失う怖れすらあった。

「お兄様、さわがしくってよ?」
「何を悠長なことを言っている!ギュンターを私の許しなく、勝手に治療しているとはどういう事だ?しかも貴賓室などに通して…!ギュンターはお前を罵倒した重罪人なのだぞ?」
「私が非を認めて、謝罪の意味も含めて治癒しているのだから文句はないでしょう?それに、剣を向けて明らかに私を害そうとしたというのならともかく、発言による不敬というだけなら、その処分には十貴族会議の承認が必要なのではなくて?」
「そ…それは……」

 思いがけないほど堂々とした態度の妹に、シュトッフェルは苦い物を銜えさせられたような顔になる。
 このような反論など予想していなかったのだろう。

「それよりも…ギーゼラに聞きましたわ。お兄様…グウェンとヴォルフを戦わせようとしておられるの?」
「む……ぐ…」

 今度こそシュトッフェルは泡を食ったような顔になり、妹が何か見知らぬ生物にでも化けてしまったのではないかという疑惑に囚われたのか、ぺたぺたとその顔を撫で回した。

「一体…どうしたというのだ?素直で可愛いいつものツェリは何処に行ってしまったのだ?」
「お兄様にとっては可愛くても…息子達や民にとっては、唯それだけしか価値のない王というのは無意味なだけでなく、害すらあるのではないかしら…?」

 皮肉げな笑みを浮かべて、ツェツィーリエが嗤う。
 およそ…彼女には似つかわしくない笑みであった。

『そうよ私…魔王に指名されたときに《一体何をすればいいの?》と周りに聞いたら、みんな言っていた…《美しく、聡明な王におなりください》って…。私、美しさにかけてはみんなの期待を裏切らなかったけれど、聡明さについては幾度期待を裏切ってきたのかしら?ううん…そもそも、そんなものは期待されていなかったのかも知れないけれど…』

 その最たるものがこの兄なのではないかと、ツェツィーリエは初めて気付いたのだった。

 政治好きで、少なくともツェツィーリエに比べれば王としての才能があると思っていた兄…。
 彼に任せてさえおけば何も心配はない…何故、そんなふうに確信することが出来たのだろう?
 彼は…ツェツィーリエの瞳を政治から遠ざけている間、一体何をしてきたのだろう?

 その事を初めて、《怖い》と感じた。



『母上、どうか…伯父上の提案を鵜呑みにされず、今一度書類を読み直してください…!』

 グウェンダルはいつも眉根に皺を寄せて苦言してきたが、ツェツィーリエがまともに取り合ったことはなかった。
 それは、兄より息子の能力が劣ると判断したからではなく、意見が合わないときには年長者の意見を尊重しておけば問題ない…そう、単純なルール付けをしていただけだ。



『グウェン…ごめんなさい……』

 ツェツィーリエには、いまもって息子の方に政治の才能があるのかどうかはよく分からない。それでも、噂に聞くヴォルテール領とシュピッツヴェーグ領の経済状態から言えばその差は歴然としているのかも知れない。

 飢饉や高い税収に締め付けられながらもどうにか自給自足を保っている前者に比べて、後者は国庫からの補助金が十貴族領地の中で最大となっているのだ。

 そのグウェンダルが不毛な戦いで命を落とすようなことがあれば、眞魔国にとって大きな痛手となるのではないだろうか?

「そうだわ…お兄様。眞王陛下がお隠れになり、眞王廟は魔物の巣窟と化しているという噂は本当ですの?」
「ど…どこでそんないい加減な噂を…。不敬にも程があるぞ!?」
「……本当なのね?」
「な…な……っ」
「お兄様は嘘をつくとき、右目の下がぴくぴくっとなるのよ?」
「……っ!」

 シュトッフェルは絶句して…ぱくぱくと口を開閉させた。
 その様子は抱きかかえられた魚人殿のようだ。

「では…コンラートが眞王廟に入ろうとして消息を絶ったというのは、本当なの?」
「……そうだ…。今の眞王廟はどろどろとした気味の悪い固まりの中に、巫女も眞王陛下も取り込まれていると聞く…。その中に入り込んだのだ。おそらく、喰われてしまったのだろうさ」
「…そんな……っ!」

 酷(むご)い兄の言葉にツェツィーリエは真っ青になるが、背後で聞いていたリリアーナにとっては更に強い衝撃であったらしい。《ひっ》…っと一声上げると、そのまま顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。

『駄目…!』

 その姿を目にして、ツェツィーリエは心を奮い立たせた。
 駄目だ、へたり込んだり泣いていては駄目…。
 それは、何もかもが終わった後でなくてはならない。

『そうよ…全てが終わったら、私も行くわ…コンラート。あなたがそこにいるというのなら…母も、眞王廟に赴きます…っ!』

 そう心に誓うと、ツェツィーリエは再び瞳に力を込めて兄に対峙した。

「では…眞王陛下はもう、次代の魔王を指名することはお出来にならないのよね?では…私、退位しますわっ!そして、十貴族会議をひらいて新しい魔王を決めて貰うの!そうよ…グウェンなんてどうかしら?能力も高いってギュンターが言っていたし…。きっと渋くて素敵な魔王様になるわ!」

 ツェツィーリエは突然思いついた《素敵な提案》に夢中になっていたが、兄の方は素敵どころか刺又で局部を貫かれたような顔になっている。

「な…なな…何を言い出すのだツェリ!?気でも狂ったのか?」
「いいえ、お兄様!私はきっと…玉座に座ってから初めてまともなことを言っていると思うわっ!!さあ…お兄様、ヴォルフとグウェンに進軍を止めるように命令を出しましょう?そして、十貴族会議の準備をしなくちゃ!ああ…ギュンターは身体がとても酷いことになっているわね…代理でギーゼラに出て貰えばいいかしら?」
「本気…なのか?」
「ええ、それはもう…」

 ツェツィーリエはこの時初めて…兄の瞳が異様な光を湛えてぎらぎらと底光りしていることに気付いた。
 水の底で重油がぬめるような…そんな目の色は、酷く不穏なものに感じられる。

「…お兄様?」

 不安げに眉根を寄せて問えば…兄は{《カ…ッ》と眼裂を開いて今まで聞いたことのないような荒々しい声を上げた。


「調子に乗るのもいい加減にするが良い…ツェリ!」


「…ひっ」

 手こそ出なかったものの、叩きつけるような罵声はそれだけでツェツィーリエを怯ませるのに十分であった。

「お前の望む服・酒・男…音楽に宝物…私は何でも惜しげなく、くれてやったろう?今更何が望みだ!」
「わ…私は…少しでも、魔王として…母として…ちゃんとしようと……」
「お前は美しいものだけ見て、笑っていればいいのだ!政治の細かなやりとりにお前のような馬鹿が口を出して、ろくな事になるものか!」
「な……っ…」

 あまりといえばあまりの言いように、流石にツェツィーリエが反論しようとするが…その発言を断ち切るように、シュトッフェルの声が大きく響いた。

「魔王陛下、ご乱心!…衛兵、おらぬか衛兵…!魔王陛下は乱心しておられる。落ち着かれるまでお部屋に軟禁せよ!自害を防ぐため、手と足を拘束申し上げ、口走られる妄言には耳を貸すな…っ!」
「お兄様…!」

 呆然として立ち竦むツェツィーリエに衛兵達が向かってくるが、伸びてきた腕は勢いよく弾かれる。

 ひらりとツェツィーリエの前に飛び出してきた細身の女性は…ギーゼラであった。

「この…ド腐れ摂政がぁ…っ!」

 鬼軍曹の殺気走った形相と、轟くような怒号に衛兵達の顔が引きつる。
 ギーゼラの表情は、お面として作成されれば魔除けの効果を発揮しそうなレベルに達していた。

「どぉりぁあああ……っ!」

 ギーゼラの拳が勢いよくシュトッフェルの顎に炸裂し、新たに駆けつけた3人の衛兵は鞘ごと捌かれる剣によって瞬時に突き飛ばされた。
 流石は剣豪と名高いギュンターの義娘と言うべきか!ギーゼラの振るう高速の剣は凄腕である筈の血盟城衛兵を次々に打ち倒し、しかも血を流していない。
 血盟場内での流血を避ける余裕さえ見せているのだ。

「摂政閣下こそ乱心しておられる!そこの腐れ衛兵どもっ!逸(はや)る事無く正邪を見極めんかぁっ!」

 《正邪はともかく、怖いのはあなたです》…衛兵達はそう思ったが…よく見れば確かに魔王陛下は暴れる素振りもなく、おろおろと可愛らしく両手を組んでいるだけだ。
 この方を力づくで拘束するというのは、プレイとして楽しそうだが衛兵の業務としては大きく間違っている気がする。

 かといって、思いっきり分かりやすく暴力を振るわれている摂政(現在も床の上で蹴り回されている)を、そのまま放置しても給料に響きそうだ。

 どうしたものかと考え倦ねていたその時…そんないざこざを吹き飛ばすような急報がもたらされた。

 
「ビーレフェルト軍来襲…!」
「大跳橋を降ろそうとしているぞ…っ!」

 ヴォルテール軍よりも一足先に、攻め手のビーレフェルト軍が到着してしまったのだ…っ!



*  *  *




「これは、私戦ではない!」

 ビーレフェルト家の若き当主となったヴォルフラムが高々と剣を掲げると、勢いよく唱和が重なる。

 しかし、そこに勢いはあっても持続力はない。
 暫くすると、王都の前に広がる白ちゃけた平原の中で唱和は散り散りになり…ぬるい風の中に消えていくと、後にはうら寂しいような沈黙が生まれた。

 それも無理はない…。何しろ、頭数が寂しいことになっているのだ。

 迅速に…少なくともヴォルテール軍には先んじて王都へと到着せねばならなかったため、糧食を積んだ馬車や歩兵は遙か後方に置いてきている。
 更には夜間も無灯で駆け通しであったために脱落者が多く出て、ビーレフェルト軍は今や、軍団どころか師団…いや、旅団規模にまで縮小しているのだ。

 それでも、ウェラー領に次いで軍馬の産出が盛んであり、優れた騎手を輩出することでも知られているビーレフェルト軍だからこそ旅団クラスを維持できたとも言える。

『些か心許ないが…もう、良い…僕は、もう誇りのために死ねればいいのだ…』

 戦地での総合力はともかく、机上では優秀であった伯父の教えを受けているヴォルフラムにとって、これが如何に戦略的に見て無意味な戦いであるのか…いや、国としてみれば有害ですらあることも知っている。

 それでも、ヴォルフラムは戦わなくてはならないのだ。
 一族の名誉のために。

「これは不法に王権を濫用し、真実を明らかにしようとした同胞…ヴァルトラーナ閣下さえ死に至らしめた、逆賊シュトッフェルに対する聖戦である!」

 おおおおおぉぉぉぉ……っ!

 シュトッフェルに対する憎しみだけは十分以上に持っているヴォルフラムのこと…この叫びだけは心からの憎悪を込めて放つことが出来た。

『あの男さえいなければ…!』

 ツェツィーリエが幾ら魔王としては無能であっても、兄やギュンターの助言に従っていればもう少しましな政治が出来た事だろう。
 《禁忌の箱》の暴発によって世界が滅びゆく事は止められないとしても…国として、魔族として手を携えて、その日まで同じ目標と誇りを共有することは出来ただろう。

『そうだ…あいつが、全ての元凶なのだ…!』

 この時、ヴォルフラムには自責の念はない。
 自分もまた甥として伯父を止めることが出来なかったという自覚には、蓋をしておかなければ戦うことが出来なくなるからだ。

「ゆくぞ…!」

 おおおぉぉぉぉ……っ!
 
 勢いよく叫びながら後続してくる兵の一体どれほどが、自分と共にこの戦場で散る覚悟があるのだろう?
 ヴォルフラムはちらりと考えてしまって舌打ちした。


 自分でも、それは大した数ではないだろうと思われたからだ。



*  *  *




「まだか…?」
「申し訳ありません」

 グウェンダルは一礼する副官に手を振ると、馬に鞭を当てて速度を増した。
 先程問うたのは王都への到着予定を尋ねたのではない。眞王廟に差し向けた諜報員からの連絡が来ないことに苛立っていたのである。

『くそ…っ!グリエならばもっと首尾良くやったろうに!』

 いない人材を嘆いても仕方ない。分かってはいるのだが、ぼやき癖のあるグウェンダルには嘆かずにいられない。

『いかん…苛立つな。こうなれば、王都戦に集中するほか無い』

 何としても両軍激突の被害を最小限に食い止め、ヴォルフラムを生きたまま捕獲するのだ。
 あの子のことだ…。降伏を呼びかけても投降など望むまい。
 力づくで押さえ込み、しょっぴいてしまうほか無いだろう。

 それはそれで…矜持が強すぎるあの一族の特性として《生きて虜囚になるくらいなら…》等と下らない事を言い出して、舌を噛んだり服毒するのを止めなくてはならないだろう。

『くそっ…頭の痛い…っ!』

 グウェンダルの脳髄はこんな事を考えるためにあるのではない。
 もっと建設的で…時間は掛かろうとも、いつか花開くような政治のために使いたかった。

 その合間に、楽しく編みぐるみが出来るくらいの余裕を残して…。

『編みぐるみ…か』

 フォンヴォルテール領の自室の引き出しに突っ込んだまま、もう随分と編み棒も持っていない…。
 そして、編みぐるみの師匠である彼女とは更に長い期間、疎遠となっている。

『どうしているのだろうか…?』

 グウェンダルが怒らせてしまったことで、《あなたとはもう二度と口をききません!》と、絶縁宣言をされてしまった幼馴染み…。
 最初のうちは《これで下らない実験に付き合わされることもなくなった》と喜んでいたのだが、そのうち…酷く自分が、《寂しい》と思っていることに気付いて愕然としたものだ(それが長年連れ添った古女房に絶縁状を出された旦那と、同じ感慨であるとは認めたくないグウェンダルであった…)。

 しかし、今更謝ったところで許してなどくれまい。
 彼女は、ヴォルフラムとはまた別のベクトルで矜持が強すぎる女なのだから…。

『いかん…アニシナのことなど考えている場合ではなかった!』

 ぶる…っと頭を振るうと、目の前に接近していた深い谷間を騎馬のまま華麗に飛び越える。
 しかし、そこからは少し減速せざるを得なかった。
 グウェンダル自身は優れた騎手であるのだが、ヴォルテール軍は基本的に騎兵戦は不得手であるのだ。この谷間を全軍が越えるためには少々時間が掛かるだろう。

 彼らは塹壕や要塞といった拠点から陣地を広げていくとか、籠城戦など長期に渡る戦いでは素晴らしい粘り腰を見せるものの、瞬発的な突撃力には課題がある。原則として歩兵主体の軍団なのだ。
 
『くそ…っ!』

 苛立っても仕方ない…そう、自分自身に言い聞かせる。
 もたつく後続部隊に厳しい目線を送りながら、グウェンダルは天を仰いだ。
 どんよりとした黒と灰色の斑雲が何処までも広がり、不穏な生暖かさが大気を満たしている…。

『嫌な雲だ…』

 天にまで愚痴を零しながら、グウェンダルは身の内でじりつく焦燥感に耐えた。



*  *  *




 カッカッカッ…!

「退いて頂戴…!」
「ま…魔王陛下!?」

 スカートをたくし上げ、靴音を響かせながら疾走する魔王陛下に防壁に配備されていた兵は度肝を抜かれて口を開くが、すぐにそれどころではないのだと我に返る。

 ビーレフェルト軍が来襲してきた今、王都防衛の指揮官は摂政シュトッフェルであるはずなのだが、彼はいっかな防壁に到達する気配はなく統合指揮官不在のまま防衛を続けているのだ。

 防壁に辿り着いた士官の中では最高位にあたるネーデルガンツ准将が臨時に指揮を行ってはいたのだが、シュトッフェルの従兄弟にあたる彼はお世辞にも有能な男とは言いにくく(彼が十分な能力を持っているのなら、そもそもグウェンダルを呼び出したりはしていない…)、防壁に籠もれるという有利な状況にもかかわらず、いきなり混乱を呈してしまった。

 しかも、そこに魔王陛下自らが髪を振り乱して出現したものだから、兵士達は一様に舞い上がってしまった。

 特に、ツェツィーリエを敬愛してやまないネーデルガンツは目をハート形にしてしまい、すっかり彼女の登場を自分に都合良く解釈すると、求められるままに高見台へと案内してしまった。

 攻め手からよく見える高見台にはかつてアニシナが開発した《轟け銅鑼声大賞》と書かれた一種の拡声装置が備わっており、少し声を張るだけで比較的広範囲に声を響かせることが出来る。少なくとも、防壁に接近しているビーレフェルト軍全体には伝わるはずだ。

 その装置の前まで来ると、ツェツィーリエは《すぅ》…っと息を吸い込んでから、滑らかな声で訴えかけた。

「ヴォルフラム…お止めなさいっ!」

 直接名指しで呼ばれたヴォルフラムは止められたことそのものよりも、今まで見たこともない母の表情に目を奪われた。

 真剣そのものといった顔には強い決意が漲っており、厳として息子を戒めようとするように…声には叱責の色があった。

「母上…」

 しかし、ここまで軍を率いておいて今更…母の一喝ですごすごと剣を収めるわけにはいかない。
 かといって、摂政シュトッフェルを敵とはしているものの、魔王陛下に反逆を企てる意図などない以上その言に従わないわけにもいかない。

 しかもこの時、王都の東に位置する丘陵地帯から粉塵をあげて騎兵部隊が疾駆してきた。
 濃緑に揃えられたその軍装は…ヴォルテール軍のものだ。ビーレフェルト軍に倍するほどの規模を誇る軍団の接近に、ヴォルフラムは殆ど反射的に命令を下していた。

「弓兵、構え…っ!」

 ギリ…っと蔓が鳴り、弓がつがえられる…。


「止めなさいと言っているのが分からないの!?」


 響き渡る魔王の一喝に、全軍がびくりと動作を中止させた。
 絶対権力者の発する命令が当主のそれよりも上位にあたる為に、どうして良いのか分からないのだ。

 その声は、進軍してくるグウェンダルの元にも伝わってきた。



*  *  *




「母上…?」

 止めてくださったのか?
 あれは…本当に母なのか?

 遠目に伺える高見台には鮮やかな金髪と共に黒いドレスが閃いている。
 間違いない…母、ツェツィーリエだ。

 これまで、政治にも軍事にも何一つ関心を示さなかった母でも、流石に兄弟相打つというこの状況には心を動かしてくれたのだろうか?

 安易な思いこみは危険だ…そうは思いながらも、微かに頬が緩むのを止められない。
 母は…生まれ変わろうとしているのかも知れないではないか。 

 その思いは、続けて発せられた言葉によって確信へと近づいていった。

「グウェンも進軍を止めて頂戴!私…第26代魔王、ツェツィーリエは…ここに退位を宣言します!眞王陛下がお隠れになった今、眞魔国の未来を切り開くためにはあなた達の力が必要になるのです!十貴族会議を開き、次代の魔王選出を検討するのです!」

 歓喜が…込み上げてくる。

『母上…っ!』

 母は、本当に変わったのだ…っ!

 しかし…その母に何者かが取り縋ろうとしている。
 その口を塞ぎ、高見台から引きずり降ろそうとするがツェツィーリエは必死で暴れ、声を伝えようとする。

「お兄様…止めて…っ!私は…魔王として最初で最後の仕事を……っ!」 
「魔王陛下はご乱心だ…っ!衛兵…衛兵…っ!!」

 駆け上がってくる衛兵達の軍靴の響きから、身を捩って逃れようとしたツェツィーリエの身体が均衡を崩し…

 高見台の柵を越えて………


 …落下した。


「母上ーっっっ!!!」
「魔王陛下ーーっっ!!」

 

 絶叫が轟く中…不意に、暗雲立ち込める雲間から…

 一閃の光が防壁の前に差し込んだ。






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