第三章 WーA








「…ねえ、教えて欲しいことがあるの…!」

 繰り返される呼びかけに、リリアーナは呆然として立ち上がった。

「魔王…陛下……」
「し…!お兄様に見つかったら、止められてしまうらしいの…っ!」

 顔色は悪いが、それでも今まで見たこともないような力を瞳に湛えたツェツィーリエが、茂みの中から手を伸ばしてリリアーナの手を握った。
 いつもは柔らかく滑らかに維持される事だけを使命としている手が、今はどんな道を歩いてきたものか(隠れて歩くこと自体、初めてだったに違いない)、擦り傷だらけになっている。
 金色の巻き髪も大小様々な小枝を絡みつかせており、普段の艶を失っていた。

「リリアーナ…あなたは、コンラートがお兄様に捕まっているかどうか分かって?」

 問われている内容を聴取することは出来たが…理解することが出来なかった。

『この方は…何故、私にそのような問いかけをなさるの?』

 リリアーナは血盟城つきの侍女の中では髄一のお針子であり、コンラートの乳母であった経歴もあるため、数年前まではツェツィーリエには随分と重用されてきた。

 だが、あの日…コンラートの名誉が貶められ、罠に掛けられようとしたその日からというもの、彼女はリリアーナを傍使いに用いることはなくなっていた。

『目が怖いと言われるのよ』

 代わりに配せられた侍女が、気の毒そうに説明してくれた。
 《責められているようで辛い》、そう言っていたのだと…。

『怖いですって?私には、貴女の方が恐ろしい…!』

 ぐらりと臓腑の中でマグマが吹き上がり、リリアーナの穏やかな容貌を鬼女のそれへと変えようとする。

『あの日…貴女がもっと現実を見て、助けの手を伸ばしてさえくだされば、コンラート様はあのように王都を追われることも、危険を顧みず眞王廟へと侵入されることもなかったはずだわ…!』

 ぐつぐつと込み上げてくる怒りのためだろうか、リリアーナはほっそりとした繊手を砕かんばかりの力で握り込み、ツェツィーリエに苦痛の声を上げさせる。
 衛兵が通りかかるようなことがあればリリアーナなど即座に無礼討ちされると分かってはいたが、止めることは出来なかった。

「リリアーナ…。お、怒っているの…?」
「怒っているかですって?ええ…怒っていますともっ!これが、怒らずにいられましょうか!」

 涙に濡れる瞳の美しさが余計に腹立たしい。
 自分の身を飾り立てることだけに執心してきたこの女のために、何故コンラートが犠牲にならなくてはならないのか…っ!

 リリアーナはわなわなと唇を震わせ、怒りに釣り上がる眼から苦い涙を零した。

「何故…何故、今になってそのような問いかけをされるのですか!?何故もっと早く、コンラート様を救おうとなさらなかったのですか!?」

 啜り泣くような罵倒の声にツェツィーリエの眼差しが揺れる。

「どうして…もっと早く、あの方を母として見つめてくださらなかったのですか…!」

 あんなにも蔑ろにするのなら…コンラートを《いらない》と思うのなら…
 何故リリアーナにくれなかったのか…!

 純粋な欲望は、それだけに毒々しい光彩を振りまきながらリリアーナの心を錐揉みさせる。

『ああ…私は、この方に嫉妬しているのだ…!』

 完璧な美貌を誇る彼女に女として挑みたいわけではない。
 母として、コンラートの寵を奪いたいと熱望しているのだ。

『憎い…憎い憎い…!どうして眞王陛下は私ではなく、こんな女の腹にコンラート様を孕ませたの!?』

 リリアーナの手は憎しみと嫉妬に駆られて振り上げられた…。
 
 恐怖を感じて叫べばいい。
 這いずって無様に逃げようとする髪を掴み、何度でも殴ってやる…!

 警備兵に捕まったって知るものかっ!
 《呪われるがいい!》と叫びながら舌を噛みきって死んでやる…!

 しかし、リリアーナは思いがけない反応を受けて動きを止めることとなった。


「ごめんなさい…」


 ほろりと、ツェツィーリエの瞳に真珠のような涙が盛り上がり…すべらかな頬を伝い落ちていく。

 ほろり…ころり……。 

 あどけない幼女のように素直なその涙に、リリアーナは彼女を撲とうと振り上げた手を強ばらせた。

「何故…助けを呼ばないのですか?」
「出来ないわ…」
「ここは音を防ぐような構造にはなっておりません。一声助けを呼び、衛兵を呼び寄せればこんな無礼な女、ギュンター様と同様に獄に繋ぐどころか、この場で嬲り殺しにすることも簡単でしょう?何しろ…あなたは絶対的な権力を持つ魔王陛下なんですもの…!」

 怒りを保とうとしてわざと好戦的な言い回しをするが、ツェツィーリエの眼差しはリリアーナを忌避することはなく…ゆっくりと伸ばされた腕が、その身体を抱き込んだ。
 
「…っ!?」

 ふくよかな胸の谷間に押しつけられながら、リリアーナはどう対処して良いのか分からずに、胸の中で荒れ狂う感情の捌け口を探しかねていた。

「出来ないわ…そんなこと……。コンラートを愛してくれたあなたを、罰する事など出来ないわ…」
「そんな…今更……っ」

 その気持ちを、どうしてもっと早く持ってくれなかったのか…!
 滾る思いが噴き上げるが、それでも…リリアーナはもうツェツィーリエを撲つことは出来なかった。

 怒りでも侮蔑でもなく…心からの謝罪を受けたことで、十分な怒りを保つ事が困難になってきたのだ。

「ごめんなさい…」

 何度も何度も…切々と囁かれるその言葉だけが静寂の中を流れていく。
 そして、何時しかその声は美しくも切ない…そして、心震わすほどに懐かしい調べに変わっていった。

『これは……』

 子守唄だ。

 懐かしい…なんて、懐かしい調べ……。


『ツェリかあさまが、教えてくださったんだ』


 リリアーナの二人目の子を抱きながら、嬉しそうに微笑んでいたコンラートの横顔が思い出される。
 その輪郭は、睫も前髪も鼻筋も…暁の陽光の中で熔けてしまいそうな黄金色に輝いて、神々しいまでの美しさを呈していたのだった。

 あの方は、母の謳ってくれたその歌を宝物のように口ずさみながら…幸福そうに微笑んでいた。

 どんなに蔑ろにされても…。
 …年に数度しか会えなくても。

 コンラートはやはり一心に、この女性を想い続けていたのだ。


『コンラート様にとっての母は…この方しかおられないのだ……』

 がくりと肩から力が抜ける。
 怒りの念が全て消え失せてしまった分けではないけれど…それでも、誰よりも愛おしい…コンラートを想うからこそ、もうこの女性を撲つ事はできなかった。

 一種の諦めに近いのかも知れないが、敗北感は意外と無かった。

「ツェツィーリエ様……どうか、ご無礼をお許し下さい」
「いいえ…謝るのは私だわ。長い間…ええ、そうよ…本当にとてもとても長い間…私の瞳は盲いていたのだわ…。それを覚ましてくれたギュンターの為にも、どうか…私を導いて?」
「はい…」

 暫く声もなく抱き合った後…リリアーナは身を離すと、ごしごしと袖口で目元を擦った。

「陛下、申し訳ありません…。私はコンラート様の行方については八方手を尽くしましたが、探し出すことは叶わなかったのです」
「では、ギュンターの捕まっているところは分かって?」
「分かります。ですが…入り込むとなると難しいですよ?」
「お金で何とかなるかしら?」
「お金よりは寧ろ、高価な食料の方が良いかも知れません。ことに、上質なお酒などは普通には買えませんから」
「分かったわ。部屋からすぐに持ってくるわ」
「ご一緒させて…いただけますか?」

 まだ素直な表情を浮かべることは出来なくて、リリアーナは仏頂面で申し出たのだが…ツェツィーリエは華のように微笑むと、そっと手を繋いできたのだった。

「ありがとう…心強いわ」
 
 ツェツィーリエの信じられないくらい殊勝な態度を目にして、リリアーナは先程とは違う種類の涙が込み上げてくるのを感じた。

 これは…きっと、奇跡なのだ。

 そして、こんな奇跡が起こるのなら、コンラートが戻ってこないはずがないではないか…そんな気さえする。

『ええ…ええ!戻ってきますとも!あの方は、とても劇的な生涯を歩まれる方ですものっ!』


 リリアーナの祈りは強く天に羽ばたいた。



*  *  *





『なんて臭いかしら……』

 ツェツィーリエは未だかつて体験したことのない不潔な空間に、吐き気を押さえるのが困難なほどであった。

 リリアーナの手引きでじっとりと湿った階段を下りていくと、階層が深まるに従って耐え難い息苦しさと臭気が増していく。
 何十年…いや、何百年何千年と汚物と血を練り堅めてきたような泥塊を踏みつける度、《ひっ》…っと悲鳴を上げて飛び上がってしまった。

 ビシィン…!
 ジャギ……っ!!

 ヒィィィイイイイイ………っ!!

 いたる場所から、撓る革が何かを弾くような音と、金属が擦れ合う耳障りな音とが混じり合って響いてくる。
 その度にギュンターではないのかと血の気が引くのだが、リリアーナは警備兵から聞き出した階層にはまだ達していないと首を振る。

『どこまで降りていけばいいの?』

 一歩階段を降りるごとに、滾々と湧きだしてくるような邪悪な気配に背筋が粟立つ。

 普段のツェツィーリエなら耐えきれずに逃げ出していたことだろう。
 いや、今だとて突き上げるような嫌悪感と不安に駆られている。本当なら、すぐにでも逃げたいのだ。
 それを引き留めているのは手を引いてくれるリリアーナの存在ではなく、初めて《知らないということの重罪》に気付いてしまったせいだろう。

『逃げちゃ駄目…っ!』

 きっと…いや、間違いなく…ギュンターはもっと凄惨な待遇を受けているのだ。
 その現実を自分の目で見て、原因を作り出した者として何かをすべきだろう。

『手遅れでなければ良いのだけど…!』

 心臓を握り潰されそうな不安もまた、逃げ出すことを許さず足を地下へと向かわせた。



「ツェツィーリエ様…こちらのようです」

 リリアーナがちいさな声を掛けて立ち止まった。
 壁の曲がり角に張り付くようにして様子を伺うと、そこには…ツェツィーリエの想像を遙かに越える凄惨な光景が広がっていた。

「………っ!」

 暫くの間…声が喉奥で凝り固まったように、音声を発することが出来なかった。

 ギュンターは手首に金属製の大振りな鎖を巻き付けられ、天井から吊されていた。
 それでも指先には血の気がある…と思ったのは見間違いで、どうやら剥ぎかけた爪の間に血が固まっているのだ。
 足は地上に着かない高さで浮かされており、一瞬たりと身体が休まる隙はない。
 半裸に剥かれた身体には鞭によるものだろうか?無数のミミズ腫れが交錯し、焼いた金属鏝を押し当てたような焦げや噛みついたような痕さえ見受けられる。

 そして…おお、何ということだろうかっ!
 ギュンターの双弁は黄色みを帯びた滲出物によって塞がり、その美しかった菫色の瞳は見る影もなく爛れている。

「あ…ぁ……っ…あ…」

 ツェツィーリエは何とか声を上げようとして唇を戦慄かせるが、炸裂する打撃音に《ひぃ》…っと喉奥で悲鳴を上げてしまう。
 手を繋いだままのリリアーナもよく似た状態で、あまりにも凄惨な光景に言葉を失っていた。

 ビシィィン…っ!

 拷問吏の手首が撓り、鞭がギュンターの頬から首筋に掛けてを抉る。

「……っ…」

 凄まじい痛みが襲っているだろうに、ギュンターは唇を真一文字に結んで苦鳴を押さえ込む
 決して無様な悲鳴など聞かせてなるものかと決意しているようだった。

「ふふ…強情な方ですねぇ閣下…。流石は《ルッテンベルクの獅子》の師匠ですな。ふふ…お弟子さんも俺の手で可愛がってあげたかったものだ…。さぞかし美味でしたでしょうからねぇ…」

 ギュンターは鞭の柄で荒っぽく顎を持ち上げられると、口の中に溜まっていた血と唾を拷問吏に吐きかけ、横っ面をしたたかに打ち据えられた。

「なかなか味な真似をされる…。しかし、おいたが過ぎますな…。削ぎ落としてしまいましょうか?」 
「…っ!」

 わざと痛みを与えるようにギザ歯になった大振りなナイフがギュンターの口元に押し当てられる。
 頬の肉を…削ぎ落とそうとしているのだ…!

「止めてぇぇえええ……っっ!!」

 強ばっていた身体が反射的に動くと、リリアーナもまた足並みを揃えて飛び出していく。
 二人の女性は拷問吏にしがみつくようにして、ナイフをギュンターから遠ざけた。

「止めて…止めてぇぇ……っ!」
「こ…これは…魔王陛下!」

 フードの下から溢れた豊かな金髪と美貌に拷問吏は慌てて跪いたが…

 …場所が悪かった。


 ズズゥゥウウン……っ! 


 不意に轟いた号音と共に壁の一部が倒壊し、拷問吏を下敷きにしてしまったのである。

「え…?」
「な…何!?」

 もうもうと立ち込める土煙の間から、人影が浮き上がる。
 その姿は…華奢な女性の姿をしていた。



*  *  *




「魔王…陛下……?」

 フォンクライスト家の養女たるギーゼラは、薄青い肌を更に蒼白にして信じ難い光景を目の当たりにしていた。
 美しいものだけを愛で、楽しいことだけに興じることを第一義と考えているはずの彼女が、何故不潔で暗い拷問部屋などにいるのだろうか?

「ギーゼラ…ですか?」

 ギーゼラは懐かしい声に視線を動かし…痛ましげに眉根を寄せた。
 この突入劇の目的である男の…あまりに無惨な姿に気付いたからだ。

「ギュンター閣下…!」
「壁を…どうやって、崩したのですか?お転婆は…相変わらずですね」

 ギーゼラは搭乗していた機体を操ると、マジックハンドのような形状になっている突起を伸ばして、ギュンターを繋いでいた鎖を引きちぎるとその身体を我が元へと招き寄せた。

「閣下…なんとお労(いたわ)しい…っ!」
「もしかして、アニシナですか?」
「ええ…」

 彼女はギーゼラとは《仲良し》と表現できるような間柄ではないのだが、そのギーゼラが平身低頭頼み込んできた気概には感じるものがあったらしく、懇請を受けてこの機体…《超絶突撃ロボほるお君》を貸し出してくれたのである。

 それはフォンクライスト家の親子愛に感動した…というよりは、単に彼女が嫌って止まない現政権…主に、シュトッフェルの鼻をあかしてやりたいだけかも知れないが。

「ギーゼラ…逃げる事なんてないわっ!わ、私…ギュンターにちゃんと謝るし、治療もするから…だから、どうかお願い…。行かないで…!」
「まあ…魔王陛下!」

『本当なのかしら?』

 咄嗟の判断がつきかねて、ギーゼラは眉根を寄せた。

 カッカツカッカッカッ…!

 物音に気付いた警備兵の足音が近づいてくる…。
 焦る気持ちを何とか落ち着けさせようと頭を回転させるが、さほど良い知恵が出てくる事もなかった。

『…どのみち、逃げたところで意味はないかも知れない』

 当初は何とか正体がばれぬようにと心がけていたが、魔王陛下にこうもはっきりと姿を見られては言い逃れも出来ないし、流石に彼女を害する意志も持てない。
 当主が不敬罪で捕らえられ、義娘が力づくで取り戻しに来るという荒技を繰り出したフォンクライスト家に最早明日はないだろう。

『いいえ…明日を信じることの出来る人なんて、今の眞魔国にいるのかしら?』

 内憂外患に蝕まれたこの国自体が、明日をも知れぬ存在と化しているではないか。
 知識ある者、能力ある者が軽んじられ…貶められ、このような非道をふるわれる国にどんな明日が待っているというのだろう?

 しかし惑うギーゼラの耳に、掠れた…けれど、奥底から湧き出るような希望を載せた声が響く。

「ギーゼラ…陛下に、我らの身を委ねましょう…」
「お義父(とう)様…っ!?」

 《信用されるのですか?》…反射的に飛び出し掛けた、不敬極まりない発言を流石に喉奥で差し止めるものの…声の調子からツェツィーリエには明確に意図が伝わっていることだろう。

「ギュンター…このような仕打ちを与えた私を、赦してくれるというの…?」

 ツェツィーリエ自身が《信じられない》という顔をして、ギュンターを見詰めていた。



*  *  *




「陛下は、何かに目覚められたのでしょう?」
「そう…信じたいのだけど……」

 ツェツィーリエは自信なげに言葉の末尾を小さくさせていく。
 自分では何か掴んだような気が確かにしたのだが、改めてそう聞かれると…単に気のせいだったのではないかという気がしてくる。

 その想いを汲み取るように、ギュンターの声は重ねて降り注がれた。

「では、私も信じます。ですから、どうか自信を持ち…その努力を続けてください…」
「どうして?何故…私を信じてくれるの?」

 長い長い間、ずっと正道に立ち返ることなくただ自分の楽しみだけを追いかけていた魔王…。
 その女の為に、これ程の拷問まで受けて…どうして、信じることが出来るというのだろう。

「今までの陛下なら、このような場所に足を踏み入れたりはなさらなかったでしょう?」
「とても…小さなことではなくて?」
「その小さな一歩こそが、未来を造るのですよ…陛下」

 その言葉はどこか、娘にも向けられているようだった。
 不安と疑惑に曇るその顔が見えるわけではないのだろうけれど、聡明なギュンターには分かるのだろうか?

「生まれたての雛の羽ばたきが弱々しいからと言って、巣から突き落とすようなことをしても意味はありません。自分の力で飛び立てるその瞬間まで、護り育み…いざ飛ぶというその日には冷たく感じられるほどに突き放す…それが、師の使命……」

 ゴホッ…コフ……っ
 
 さしも強い精神力にも、身体の方は追いつかなかったらしい。想いを伝えるべく声を張ったせいか、噎せたように咳き込んでしまった。

「ギュンター…っ!」
「閣下…分かりました。私も、陛下に身を委ねます。ですから…どうかもう無理はなさらないでください。すぐに治療に入ります」
「ありがとう…」

 消え入りそうな声で嬉しそうに囁いた後…ギュンターは気を失った。
 

 満足そうに、うっすらと微笑みを浮かべたまま…。







→次へ