第三章 W.母の詩@









 

 滑らかな弦楽器の音色は、ツェツィーリエのお気に入りであるはずだった。
 菫の砂糖漬けはそれほど美味しくないけど、可愛らしいから眺めているとうきうきするし、おろしたての絹のドレスを纏えば、それだけで舞踏会での賞賛の声が聞こえてくるような気がする。

 なのに…今は何をしても心浮き立たず、弦楽器を奏でていた最もお気に入りの愛人さえ下がらせてしまった。
 最近愛人の座を射止めたばかりの若者は、興が乗る手前で止められたことに不服そうな顔をしている。

「気分が悪いの…。どうしても、何をしていても…不愉快な事を思い出してしまうんですもの」


『あなたに、母たる資格などない…!』


 泣きながら、ギュンターは叫んだ。
 
『殿方があんな風に泣くところなんて、初めて見たわ…』

 心を砕かれた苦しみと哀しみの中で、麗しい菫色の瞳が濡れていた。
 その姿は胸を突くほどに壮絶で、ツェツィーリエは初めて自分以外の誰かを《美しい》と感じた。

 ふと指の間を見ると、菫の砂糖漬けが潰れてくたりとしている。
 口の中に含んでみると、甘いはずの味に仄かな塩っ気を感じた。

『ギュンターの涙のようだわ…』

 そんなにも、彼はコンラートを愛し信頼していたのだろうか?
 それでは…ツェツィーリエはどうなのだろう?

『愛しているわ…勿論』


 本当に?


 ザシュ…っと、胸中に鋭い棘が刺さる。
 その声はギュンターの声のようにも…自分自身の内なる声のようにも聞こえた。

 兄にコンラートの裏切りを告げられ、哀しみに涙を零したけれど…それは、果たしてコンラートを思って流した涙だったろうか?
 《息子に裏切られた母》…そう自分自身を哀れみ、他者から見た時の立場や姿を考えて、《傷ついた自分》に耽溺してはいなかったろうか?

『ああ…嫌っ!』

 本当は何もかも分かっている。

 自分という女は魔王以前に、母として魔族として…恐ろしく欠けた部分があるだと言うことに。
 けれど、それを直視することはいつでも耐え難い苦痛をもたらした。
 ざらりとした質感の鑢(ヤスリ)で身体の内腔を擦られるような不快感に苛まされるから、極力見ないように努めてきたのだ。

 けれど、ギュンターのまっすぐな指摘はツェツィーリエに逃げることを許さず、貫いてくる。

『ああ、ああ…ギュンター…!どこまで私を苦しめるの!?』

 身悶えするツェツィーリエを気遣ってか…あるいは、このままお気に入りの座から転落することを怖れてか、愛人はなかなか退室しようとはしなかった。

「おお…愛しき魔王陛下!その薔薇色の唇を狂おしく噛み合わさせ、苦しめているのはあの愚者なのでしょうか?どうか、私との愛の営みで貴女本来のあでやかさを取り戻してください…」
「エリオット…ああ、愛しい方!」

 そのまま淫靡な官能世界に逃げ込もうとしたツェツィーリエだったが、エリオットが発した一言によって妖艶な肢体を硬く強ばらせた。

「ああ、ツェリ…もう貴女が気に病むことなどないのです。あの男は今頃、地下牢の中でいつ果てるとも知れぬ拷問を受け、貴女への無礼を嘆いていることでしょう…」
「エリオット…今、なんと言ったの…拷問…?まさか……」

 エリオットはきょとんとして、ツェツィーリエの呆然とした顔を見つめた。
 女を寝台の上で悦ばせる技量には長けているが、感情の機微を推し量る事が不得手な青年は、それを《喜び》と受け止めたらしい。
 機嫌良く笑いながら言を続けた。

「摂政殿の厳命により、屈強な拷問吏がここ数日というもの昼夜を問わず責め立てていると評判ですよ。元軍人とあって、声も上げぬ強情ぶりだそうですが…なに、そのうち泣きわめいて赦しを請いますよ。我らの前でも、見苦しいほどに涙を流してしましたからね!」
 
 エリオットはツェツィーリエが旅先で拾った流しの男娼であり、シュトッフェルの《指導》が殆ど入っていない状態であった。

『魔王陛下を余計な心痛に晒してはならない。政治のことも民の様子も、しみったらしい内容については決して口にするのではないぞ?勿論、私やツェリへの無礼によって重罪を負った連中の処分についてもだ。ツェリはやさしい娘だからな、拷問に掛けているなどと聞けば胸を痛めることだろう』

 その注意を耳にはしたものの、それがどれ程の意味を持つのかエリオットには理解できていなかった。

 シュトッフェルは《知らせてやりたくなかった》のではない。
 …《知らせたくなかった》のだ。

 妹の権力の元で、自分がどのような行いをしているのかについて…。

「まさか…だって、ギュンターはフォンクライスト家の当主よ?わ…私への無礼と言ったって、それは…酷いことを言われたけど、危害を加えようとしたわけではないし…。そうよ、十貴族会議だって行われていないわ?」

 幾ら魔王陛下への不敬罪とはいえど、十貴族の当主たるものが拘束され、拷問にまで掛けられることが会議も経ずに摂政の意見だけで決定されるなど、幾らツェツィーリエとはいえおかしいことくらい分かる。

「十貴族会議など…」

 《何を言い出すのか》と言いたげに、エリオットは鼻で嗤った。

「フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナ様が眞王廟警備隊の手に掛かって絶命された為に、跡を継がれたヴォルフラム様は恐れ多くも摂政殿を討伐するなどとぶちかまして王都に進軍されていますし、それを迎え撃つフォンヴォルテール卿グウェンダル様も、防衛の手筈で一杯一杯でしょう?ヴォルフラム様を返り討ちにされても、まだ国境沿いに向かわねばならないと聞きますしね。八面六臂の闘いながら、いつか力尽きてしまわれるのではないかと市井でも噂されていますよ?」
「な…に?それ……知らない…私、何も知らない……」

 ツェツィーリエの唇は色を失ってわなわなと震え、顔色は脱色したような白に変じている。

「ツェリ様…?」

 ここに至り、漸くツェツィーリエの様子が尋常ではないことに気付いたエリオットは、小刻みに震える肩へと手を伸ばそうとするが…反射的な動きによってか、汚らわしげに振り払われる。

「触ら…ないで頂戴…!」
「どうなさったのですか?」
「あなた…どうして私を愛しいと言いながら、笑っていられるの?ヴォルフもグウェンも…私の子なのよ?」
「はあ…それは存じておりますが、一度もあの方々がどうしているかなど聞かれたことはございませんし…」

 エリオットは宮廷に入ってから日が浅く、作法も何も知らなかったから…浮かべた不快感をそのまま口の端に載せてしまった。


「別に、俺の子じゃないですしね」


 ぽーん…と放り出すようにあけすけな言葉は、それだけにこの男の本心であったし、彼にとっては…口に出して言って良いかどうかはともかく、そう感じること自体は責められる筋合いがない。

 まさに、他人なのだから。

「……っ!」

 思いがけないほど、その言葉は強烈な勢いでツェツィーリエの体腔内に化学変化のような波動をもたらした。

 《俺の子じゃない》…

 …そうだ。


『みんな…私の子なのに……っ!』


 他の誰でもない…ツェツィーリエが見守らなくてはならない子達だったのだ。

 気に掛け、心配し…罪を犯したというのならその真偽を確かめ、真であれば共に詫び…偽であれば身体を張って護らねばならなかった。
 危機に瀕しているというのなら、何としても手を伸ばすべきだと…絵物語や舞台での《母親》というものは、そういう存在であったはずだ。

 《なんて美しいの》…そう涙を零しながら、ツェツィーリエが現実の世界で為してきたことは一体なんなのだろうか?

 自分の身を常に幸福の花園の中に置き、かけがえのない愛し子達が何を考え、どう行動しているのか案じたこともない…。

 《知らない》…いや…
 ……知ろうとしなかったのだ。

 だって、知らなければ自分の無能さを直視することもない。
 自分の愉しみを我慢してまで時間を割かなくても良い…。

 それなのに、他人でありながら我が身をかけてコンラートを想ってくれたギュンターの愛は、どれ程に強いものであったのか…。
 その彼を、筆舌に尽くしがたい拷問に掛けさせたのは兄とツェツィーリエなのだ…!

『なんて罪深い…っ!』

 罪を認めることはあまりにも恐ろしい。

 一時の楽しみだけを共有する愛人達は、こんな面倒な事に付き合ってはくれないだろう。 
 ツェツィーリエ自身そうだったのだから良く分かる。

「ツェリ…?」
「…ねえ……ギュンターの所に連れて行ってくれない?」

 ほら…案の定、嫌な顔をした。

「摂政殿のお叱りを受けますので…」
「なら…いいわ……」

 ゆらりとツェツィーリエは立ち上がると、もうエリオットの方を見ようとはしなかった。

 怖い。
 今でも…いや、時間が一秒過ぎていくごとに恐ろしくなる。

 けれど、このまま封じ込めることは不可能だと思う。

『母として…魔王として、私はせめて何かを知らなくてはならない。…そうよね?ギュンター……』

 ツェツィーリエは歩き出した。
 その歩みが、遅すぎるものでないことを祈りながら…。



*  *  *



 リリアーナはなかなか進んでくれない手元の刺繍針に溜息をついた。
 わき上がる不安と…そして何も出来ない無力感に打ち拉がれているのだ。

『コンラート様…お兄様と、弟君が相打つ事になろうかというこの時にも…お帰りにはならないのですね?』

 それとも、まさに相打つという劇的な場面で颯爽と現れるのだろうか?

 ほろ…っと涙が零れて指の上で弾けた。
 そんなことはあり得ないと分かっているからだ。

 それでも期待せずにはいられない。
 昔から、あの子が《ここぞ》という場面で見せる英雄的な華やぎを知っているからだ。

「コンラート様…」

 昔、リリアーナは彼のことを《コンラート坊っちゃま》と呼んでいた。
 彼を産んでしばらくすると、また旅に出てしまった魔王陛下の代わりに息子と並べて乳を飲ませていたのだ。

 コンラートもリリアーナに良く懐いて、ツェツィーリエが居ないところでは《リリアーナかあさま》と呼んでくれた。

『お可愛らしかった…そして、とても勇ましくておいでだった』

 魔王陛下の息子でありながら混血児として、リリアーナが憤激せずにはいられないような扱いを受けてきた。

 コンラート自身もその複雑な生い立ちゆえに煩悶したこともあったろうが、それでも彼は自分に何が出来るか、どう生きていくかを前向きに見据えていた。
 周囲が変わることを期待するのではなく、まず自分が動いていく子だった。

 《ルッテンベルクの獅子》と謳われ、十一貴族として大貴族の仲間入りをするという話が出たときには、これでやっと今までの不遇が昇華されるとリリアーナは泣いて喜んだ。

 それが…僅か数日にして覆された。

 それでもなおリリアーナが世界を呪わずに済んだのは、コンラート自身が自棄を起こすことなく、眞魔国のために戦い続けていたからだ。

『私は私で、出来ることをしよう…!』

 血盟城の侍女として働く彼女にしかできないこと…それは、上手く立ち回って摂政やビーレフェルト筋の情報を掴み、情報屋を介してウェラー領に送ることだった。

 コンラートが眞王廟で消息を絶ったときも、死にものぐるいで情報を探ろうとした。

 だが…今回ばかりは何も掴むことが出来なかった。

 少なくとも、血盟城の地下に捕らえられている訳ではない事は確かだった。
 汚らわしい拷問吏にすらリリアーナはツテを作り、その行為を止めることは出来ないまでも、誰がいつからそこにいるかは把握できるようになっている。

『ギュンター様も、おかわいそうに…!』

 シュトッフェルの息が掛かった拷問吏が昼夜入れ替わり立ち替わりに責め続けているために、隙を見て差し入れすることも、その身を清めて差し上げることも出来ない。

『コンラート様を思うあまり、魔王陛下に激高したせいであのような扱いを受けるなんて…!陛下は変わってしまわれた…』

 リリアーナは奔放な魔王陛下に対して複雑な思いは持っていたが、それでも嫌いになることは出来なかった。誰よりも…あるいは、実の息子よりも愛おしいコンラートが、彼女の愛を求めて得られぬ事を知っているせいもあるだろう。

 物理的に…愛玩動物のように抱き寄せるのではなく、母として…心ごと抱きしめて欲しい…!

 悲鳴のようなコンラートの心の声が感じられるからこそ、ツェツィーリエに変わって欲しかった。

 だが…いち早くコンラート捕縛の知らせを掴んで部屋に駆け込んだリリアーナに対して、ツェツィーリエはぽかんと突っ立ったまま何もしようとはしなかった。

 絶望した。
 もう、この方には何を期待しても駄目なのだと悟り…リリアーナは気を失ったのだった。

『ギュンター様も、きっと同じ思いだったのでしょうね…』

 そうでなければ…少しでも希望があるのなら、あの剣豪として知られた男が唯々諾々と捕縛されるはずがない。
 彼の絶望もまた、深かったのだろう。

 考えれば考えるほどぽろぽろと涙がこぼれてしまい、全く仕事にならない。
 こんな事ではいけない…幾ら血盟城とはいえど無能な侍女を雇っている余裕はないのだ。いま市井に放り出されれば、病身の夫と仕事を無くした息子ごと路頭に迷うことになるだろう。


「リリアーナ…リリアーナ…!」


 不意に聞こえた囁き声を、最初は幻聴かと疑った。
 その声は、侍女の詰め所脇にある植え込みの中などから聞こえるはずがない声だったのだ。

『まさか…』

 目を凝らせば、そこにいたのは信じられない人物であった。







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