第三章 ]WーD
アリスティア公国に有利達が身を寄せてから数日の後、円月防御壁の跳ね橋が降ろされる日がやってきた。
《禁忌の箱》開放地点の救護活動などが一段落ついた眞魔国軍、アリスティア軍の面々が帰還してきたのである。
民の歓声を受けて中央街道を騎馬で進むのは、先頭にレオンハルト卿コンラートを据えた眞魔国軍であった。
迎える側の先頭がポラリス大公である為、これを正式に迎える為にこのような順路になったらしい。
そのまま民の祝福を受けながら公文書に署名したことで、二国間の同盟は正式なものになった。
* * *
ポラリス大公の邸宅に入ると、ここまで併走していたグウェンダルがコンラートの肩を抱くようにして気遣った。
「ご苦労だった、コンラート…疲れただろう?すぐに横になるか?」
「いえ、平気ですよ。兵はこのまま休めさせて頂こうと思いますが…俺は報告を聞かせて貰おうと思います。既に同盟を希望する国から使者が訪れているのでしょう?」
既にハルステッド公国からはバルザント・カンザミア大公が訪れて、大公妃であるファリナを聖騎士団に差しだした事を心から謝罪し、再び彼女を連れて国元に帰ることとを希望すると共に、大恩ある眞魔国との間に友誼を結びたいと申し出ていた。
他にも数国からの使者が訪れており、コンラートに会うことを希望しているのだ。
「旅の埃だけ軽く流したら、すぐにお会いしましょう」
強行軍など慣れたものなので、マントを脱ぎながら気安く言ったのだが…。
兄と弟に凄まじい剣幕で捲し立てられてしまった。
「一晩くらい待たせても問題はない!もうお前一人の身体ではないのだぞ…っ!?」
「疲労を溜めてもしもの事があったらどうするっ!」
『俺は妊婦ですか…!?』
そう突っ込みたかったが、兄と弟はコンラートが休むと言わない限り獣のように唸ることを止めそうにもなかったので、それほど疲れを自覚してはいないのだが一晩ゆっくりさせてもらうことにした。
『全く…こんなに心配性になるとはなぁ…』
以前はコンラートがどうなろうと眉一つ動かさないと思っていたのに、こんなに変わってしまうなんて思いもしなかった。
いや…もしかすると、ずっとそうであったのにコンラートが気付かなかっただけなのかも知れないが。
『そう…なのかもしれないな』
コンラート自身、想いはあるのにずっとそれを表に出すことが出来なかった。
兄のことも弟のことも、とても大切に想っていたのに…。
『こんな幸せをくれたのは…』
無意識に視線がその姿を求めて彷徨うと、その人は扉の影からとたた…っと駆け寄ってきた。
「レオ、お疲れ様っ!」
「ユーリ…っ!走ると危ないよっ!?」
真実妊婦さんである有利が走れば、コンラッドやアリスティア公国の使用人達までが血相を変える。
「ユーリ陛下…っ!こ、転ばれますよ…っ!」
「大丈夫、大丈…」
言いかけて見事に躓いてしまうが、素早く回り込むコンラッドに抜かりはない。
がっしりと両脇から腕を回し込んで支えていた。
「ユーリ…相変わらずだねぇ…」
「はは…ご心配おかけしまシテ…」
照れくさそうに頬を染めると、有利はコンラートを気遣うよう肩に掛かる砂塵を払った。
「おかえり…は、まだ早いかな?」
ここはまだ眞魔国ではないのだが、ほんの数日とはいえ幾らか馴染んだ場所であるせいか、コンラートを迎えて有利は《おかえり》を言いかけてしまう。
「ああ…でも、懐かしい顔を見ると言いたくなってしまうな。ただいま…って」
「何回でも言って良いのかもね。帰りたい場所がいっぱいあるのは良いもんだもん」
『帰りたい場所…』
父が死んでからずっと、そんなものは一つとしてコンラートには存在しなかったように思う。
ヨザックのように親しい友人はいたけれど、そういった人々から離れてすっぽりと包み込まれる場所、極々自然に《ただいま》…《おかえり》と言いあえる場所はコンラートにはなかった。
それが…今では《いっぱい》あるのだという。
それだけ沢山の人々がコンラートにとって大切な存在になったからだ。
「ただいま…」
はにかみながらそう囁けば、満面に笑みを浮かべて有利が応えてくれた。
「おかえりっ!」
その様子を伺っていたグウェンダルとヴォルフラムが悶絶している。
おそらく…同じノリで《おかえり》と言うべきかどうかで葛藤しているのだろう…。
* * *
コンラート達がアリスティア公国で陣営を整え直し、ロンバルディア国など大陸諸国との会談で同盟や復興支援の条件について詰めていく中で、教会からも新たな報告が寄せられた。
ルクサスは教会内部の混乱を平和的に沈静化させることに成功し、大きな方向転換を打ち出していた。
まず資料塔に残された古文献を禁書扱いになっていたものも含めて調べ直すと、創立当時の素朴な教義のみを残して異教徒等に対する過激な弾圧を原則禁止した。
まだ研究は不十分であるのだが、創設初期には偶像崇拝を禁止しており、茨に革人形という御神体を奉じるようになったのがほんの百数十年前の事だと知れただけでも収穫であった。
また、拷問塔に繋がれていた囚人の罪を物証を再考証すると、無実の罪であることが明確な場合は教会として賠償していくことを約束し、罪有りと認められた場合も最低限の人権を認めた形で、しかるべき収容施設に一定期間収容することとした。
ミリアムやオードイルのような存在を出さない為の規定も作られた。
罰則も伴うとはいえ、このように根の深い事柄には息の長い対応が必要になるだろうが、それでも公式には禁じられたという事実にミリアムは随分喜んでいたという。
また、眞魔国との友誼を結ぶことも渋々とはいえ認められた。
これらの大胆な進路変更が可能となった背景には、先代のウィリバルトがあまりにも悪逆な支配者であったことが明確だったからだろう。
ウィリバルトの日記も自室から見つかっており、ミリアム達を蹂躙した記録を愉しげに書き綴っていた事以上に、その《殺人日誌》とも言うべき内容が検察官達を慄然とさせた。
やはり、多くの者が予測していたようにウィリバルトは先代大教主マルコリーニ・ピアザのほか、彼の政敵と見なされていた人々の死に関わっていたのだ。
《我が同胞》という名で記載された者が創主であることは明らかで、生贄を使ったおぞましい儀式の内容は、彼の邸宅地下で見つかった祭壇の状況とも一致していた。ことに、その祭壇に残されていた遺体の数々…既に身体とすら呼べなくなった物体の群が静かな証人としてウィリバルトの罪を実証していた。
ルクサスの召還に応えて野に逃れていた人々も次々に聖都へと戻っており、同胞達の無惨な死を嘆くと共に、ルクサスの意に賛同して教会を変えていくことに熱意を持つ者が多かった。
特に、マルコリーニ・ピアザの息子バルトン・ピアザをルクサスが公言していたとおり暖かく迎入れ、彼を大教主の座に据えると自分は再び神父長に収まったことで、ルクサスの真価を認める者は多かった。
まこと、眞魔国にとっては願ったとおりの展開になっていると言っていい。
こうして大陸中に友好の輪が広がっていく中で、いよいよその日が近づいてきた。
眞魔国軍が全ての目的を終え…本国に帰還する日がやってくるのだ。
* * *
アリスティア公国の人々に涙ながらに見送られた後、眞魔国軍は上陸時よりも短路を経て港に向かうことが出来た。
集団自決を恐れて、狂信的なレベルで教会を信奉している国を避ける必要が無くなったからだ。
教会からの通達もあるだろうが、《禁忌の箱》が滅ぼされたその日から明らかに大気が清澄になり、多少の地域差はあるものの…そこかしこで緑が芽生えはじめた事も大きく関与しているだろう。
来るときには細かに心を配って通過したゾーンウォーツ国でもそれは同様であった。
流石にまだ信じ切ることは出来ない様子で、人々は遠巻きに見ていたのだけれど…それでも、好奇心に溢れた子ども達は少しでも良い場所から壮麗な眞魔国軍を見ようと躍起になっていた。
少年ロイは絶好の場所…今度はちょっとしたことで折れたりしない大木の枝に身を置くと、そこにおっかな吃驚という顔をした母のナターリャと妹のレンレンも招き入れた。木登りなどしたことのない二人は大きな枝にしがみついたまま鯱張っていたが、それでも降りる気はなさそうだ。
「ほ…本当にコンラート陛下はここをお通りになるの?」
「うん、絶対通るよ!あれだけの規模の兵団が通れる道なんて限られてるからね」
《ほぅ…》っと溜息をつくと、ナターリャは頬を撫でていく風に汗ばんでいた肌が冷やされるのを感じた。
少しだけ落ち着きを取り戻して、青々とした緑の香りを鼻腔一杯に吸い込むと、《これが魔族がもたらして下さった緑なのだわ…》と、眦が熱くなるのを感じた。
眞魔国軍が《禁忌の箱》に向かう途上で偶発的に出会ったナターリャは、彼らと口をきいたことを当分の間ひた隠しにしてきた。だが…胸の中には常に甘酸っぱい想いと共にコンラートの凛々しい姿が刻み込まれていたのだった。
だから、《禁忌の箱》が滅ぼされて辺りを巡る大気が一変した時、つい友人との会話の中で《これは魔族のお陰に違いない》と言ってしまい、血相を変えた友人達に口止めされたものだった。
『そんなことを言うと吊し上げに遭うよ?』
そう心配してくれる友人達の言葉は尤もであったので、それからまたナターリャは沈黙を護っていたのだが…程なくして、今度は大手を振って口を開くことの出来る日が来たのだ。
教会からの使者がゾーンウォルト国の宮廷で《禁忌の箱》と大教主ウィリバルト、そして眞魔国軍に関わる詳細を伝えて以降は、吟遊詩人達によって物語歌として市井に広まってきたのである。
魔族が世界を救い、教会の最高指導者が創主と結んで悪逆非道な行いを為していた…天地がひっくり返るような騒動が落ち着いた頃、ナターリャの友人達は挙って雄壮な眞魔国軍の様子や、美麗なコンラート王について教えてくれと言い出したのであった。
おかげで、ロイとナターリャはちょっとした地域の小英雄扱いとなり、一人毛布の中で震えていたレンレンは泣きながら《あたしも見たかったぁ〜っ!》と叫んだものである。
『ああ…コンラート陛下、どうかまた直接お目に触れて…お礼の言葉を申し上げたいわ』
それが出来ないのなら、せめてこの手に握った焼き菓子の固まりを渡したい…。
なけなしの大麦粉を練り合わせて作ったそれには砂糖すら入っていないのだが、良く咬むと素朴な味わいがするし、形も気をつけて作ったのでなかなかに可愛らしい。
オレンジ色の布切れに包んだ焼き菓子を片手で握りしめていると、丘陵の向こうから砂煙が上がり…次いで、蹄の音も明瞭に伝わり始めた。
「来た…っ!」
「わぁあ…っ!!」
流々と吹き流される角笛の音は、往路では聞かれなかったものだ。
今度は安心して通過するつもりの眞魔国軍は、こころなしか装備も一層艶やかなものなり、馬具も磨き立てられているように感じる。
錦織の絵巻物のように雄壮な軍隊行進が続けば、沿道に集まった人々からは盛んな声援が送られた。
「ありがとうよーっ!」
「あんた達のおかげで、命を繋げそうだーっ!」
素朴な声援に応えて逞しい魔族の戦士達が手を振れば、人々は更に沸き返って《わぁああ…っ!》と大歓声を上げた。
『来る…来る……っ!』
今は亡き夫の告白を待っていたときのようなときめきに包まれ、ナターリャは焼き菓子の包みを宝物のように大切に握りしめた。
進軍が止まる気配はないから、何とかしてコンラートに焼き菓子を投げようと思ったのだ。
「かーちゃんっ!来た…来たよっ!!」
「とりゃぁああああああ……っ!!」
息子が目を見張るような気合いを見せてナターリャが剛速球を投げ込めば、瞬間…叩き斬らんばかりの勢いで何騎かが剣の柄に手を掛けたが、コンラートは優れた動体視力でナターリャを確認すると、臣下を制して見事に包みをキャッチした。
そして、異国の挨拶なのだろうか…?
唇に指の腹を当て、片目を瞑りながらナターリャに向かって口吻を投げかけてきたのである。
「きゃぁあああ……っ!!」
ナターリャは歓喜の絶叫をあげると両手で上気した頬を包んでしまい、危うく大木から落下するところであった…。
眞魔国軍はあっという間に通り過ぎてしまったので、ナターリャはコンラート達がその後どんな会話を交わしたかは聞いていない。
「陛下…あの挨拶は一体?」
「ああ、猊下に教わったんだ。なんでも、チキューの文化で感謝を意味する挨拶なんだそうだ」
「そう…ですか?」
ケイル・ポーは色っぽすぎるこの《挨拶》が公式なものになると、コンラートに惚れ込む婦人…いや、寧ろ婦人ではない者達が増えすぎて困るのではないかと懸念した。
* * *
明日はもうカロリアに入るという、最後の野営の夜…アリアズナは用を足そうとして茂みに入ったところで不思議なものを目にした。
アルフォード・マキナーがはにかむような表情をして、野の花を摘み集めているのだ。
「おい、アルフォード…あんた、何やってんだい?」
「え…?」
アルフォードは三十路という年の割に若々しい顔をしているが、それでもいい年をした男が野花を摘む姿は端から見ると《イタタ》な感じがする。
「いや…その……お土産にしようかと思って」
「ああ、あんたは孤児院の連中と仲が良かったんだっけな?」
アリアズナはアルフォードとはこれまであまり会話を交わすこともなかったので、彼が孤児院のリネラに想いを寄せているとは知らない。
単純に《土産》という言葉をそのまま受け取ったアリアズナは、《それもいいか?》と思いついた。
カールに何か面白いものか美味しいものでも買ってやろうと思ったのだが、忙しくてそんな暇もなかったせいでめぼしいものを手に入れることが出来なかったのだ。
なんでも素直に喜ぶあの少年なら、花束にも満面の笑みで応えてくれるような気がする。
『久し振りに、あいつの笑顔を見てみたいしな…』
こう見えてアリアズナは洒落者として知られているから、花束の二つや三つ持っていても奇妙には思われないだろう。
…あげる対象は細っこい子どもだが。
この時、アリアズナは知らなかった。
花弁の端が白く、中心が仄かな紅色をした…プシュケと呼ばれるこの花を捧げる意味を…。
* * *
潮風に乗る海鳥が《ニャー…ニャー…》と鳴く夕暮れ、カロリアでは明日眞魔国軍が到着するということで、様々に準備を進めていた。
既に港には沢山の眞魔国軍艦が連なっており、彼らを迎える為にも数日前から飾り付けをしていたのだが、レオンハルト卿コンラートや勇者アルフォード、そして噂に聞く双黒の少年を迎えるとあって、人々の気合いは格段高まっいた。
家々の戸口には歓迎を意味する立て看板や横断幕が張られ、雑草の中でも特に芳しく色の濃いものをプランターに詰めて庭先に並べた。
ありったけの紙を千々に刻んだものも大切に袋に詰めて、眞魔国軍の頭上に播く準備を夜通しする者もいるだろう。
『英雄達の帰還だ!』
『我らの友邦が無事戻ってくるぞ!』
彼らにとってこの土地に帰り着くことは、そのまま眞魔国への帰還に繋がるわけだから、また《さよなら》を言わなくてはならないと分かっているのだけれど、それでもカロリアの民は彼らに《おかえり》を言いたくてうずうずしているのである。
それは、領主たるフリン・ギルビットにしても同様であった。
* * *
『コンラート陛下がお帰りになられる…』
ついつい、夜のスキンケアが丁寧なものになり、ここ十数年はほったらかしであったボディラインも気になりだして、娘時代に使っていたコルセットをまだ使用できるかどうか確かめたりしてしまう。
ドレスも見窄らしくなく、かといって小娘のようにはしゃいでいるとは思われたくなくて、そう大した量もないのに寝台の上に広げたものを《ああでもないこうでもない》と試すがめすしている内に、何だかおかしくなってきた。
『私ったら馬鹿みたい。でも…こんな風にときめくのも悪くはないわ』
夫が亡くなった日からこの身に課したのは、カロリアの為だけに生きること。
《鉄のように頑なであれ》と、自分を律し続けた日々を後悔しているわけではないけれど…それでも、こうして恋未満友情以上の想いにときめく時間は、鏡の中のフリンを輝かせた。
そういえば、コンラートと共に異世界でフリンの親友であるという《ユーリ陛下》もおいでになると言うのだ。二つの世界を比べられて、容色が劣ると言われるのは不本意だし、ちゃんと領主として必要な仕事はしているのだから少しくらい綺麗にしても罰は当たるまい。
『ああ…楽しみだわ…』
最終的に決めた服を胸に抱くと、フリンは少女のように無邪気な表情を浮かべて微笑むのだった。
* * *
翌日、カロリアに入った眞魔国軍は盛大な歓声と紙吹雪が舞う中を進むことになった。
カロリアに入る少し手前からけたたましいラッパの音が響いたときには《敵襲か!?》と一瞬驚いたものの、ここ近年使ったことのない楽器類を引きずり出して歓迎の意を示しているのだと知り、みんな苦笑しながら前進していった。
歓待の騒動と、フリン・ギルビットによる公式な挨拶、眞魔国軍艦を率いてきた指揮官からの引き継ぎが一段落すると、荷積み作業は艦隊組が担当することになり、陸戦部隊は一晩ゆっくりと宿に宿泊することになった。
勿論、全員が入れるわけではないのでかなりの数が艦船上で休むことになったが、それでも懐かしい眞魔国の事物に触れながら過ごすのも悪くはないらしく、特に不満は出なかった。
* * *
「リネラ…これを、君に捧げたい」
孤児院の子ども達やリーシュラと共にアルフォードを迎えたリネラは、彼がマントの影から取りだした花束に目を見開いた。
それは娘達が年頃になると、心ときめかせて見詰めることになる花…プシュケであった。
娘が一人で摘むときには花占いの道具として…そして、若い男が摘んで花束として差し出すときには、《求婚》を意味するのだ。
「あ…アルフォード様…っ!?」
「その…お、俺は剣以外取り柄のない男で、安定した実入りが見込めるわけでもないし、年だって君よりもずっと上だから、とても恥ずかしいんだけど…俺には、妻として迎えたいのは君以外いないんだ。だから…どうか、お願いだ。結婚…してくれないか?」
《付き合う》という過程をひとっ飛びして《求婚》に行き着くのは流石勇者(?)というべきか…ぐるぐると煩悶していたわりに思い切りは良い。
「わ…私…アルフォード様に相応しい女ではありません…。だって…だって……っ!」
顔を真っ赤にして涙を零すリネラに、リーシュラは小さく萎んで…そこいらの穴の中に入り込んでしまいたいという顔をした。
「ふさわしいとか関係ないよ。だってさ、アルフォード様はリネラねーちゃんが良いって言うんだからさ。ねーちゃんが良いなら、それでまるっとおさまるんだよ?」
思い切りの良さでは定評のあるカールがぽんっと背中を叩くと、リネラはまだ迷うようではあるけれど…アルフォードが差しだしたプシュケの花束をおずおずと受け取り、そのまま顔を埋めて泣いた。
「私で…よろしければ……」
「君しかいない…君しか、考えられないんだ」
熱く愛を語るアルフォードに抱き竦められては、もうリネラの唇から意味のある言葉が漏れることはなかった。
若い性を踏み躙られ続けた娘は今、恋を実らせて至福の直中にあることをゆっくりと…暖かな腕の中で確認するのだった。
* * *
『良いなぁ…ねーちゃん』
カールは幸せそうに泣き続けるリネラを見ながら、笑みを少し複雑なものにした。
カールが好きで好きで大好きで…初めて自分の全てを捧げ尽くしたいと思った男は、カールが寝所に忍び込んだ時、腰をぬかさんばかりに驚いていた。
『馬鹿野郎…っ!俺にはお前みたいなガキをどうこうする趣味はねぇよ!』
乱戦の中で救ってくれたアリアズナは、口は悪いけどとても優しい人だった。
混血にしては随分整っている顔立ちは、口を開かなければ貴族的にすら見える端正なラインを描き、カールに向かって笑いかけるときには鋭い犬歯が目立って野性的にも…可愛らしくも見える。
別れ際、《帰ってきたら抱いてくれ》と縋り付いたカールに、アリアズナは顔を引きつらせながら《お前さんがしっかり飯を喰って抱き心地の良い身体になってたらな》と条件をつけた。
少しだけふっくらとした身体は少年らしく瑞々しいラインを描くようになったけれど…それでも、彼好みのボンキュッバーンなボディラインからはほど遠いのだと知っている。
『でも…口吻くらいはしてくれるかな?』
フリンが持つ軟膏をお願いして薄く塗ったから、唇は少しぷるんとしている。
せめて…この唇が、少しでもアリアズナにとって魅力的に映ればいいのにな…と、カールは祈った。
「よぉ、カール…。久し振りだなっ!」
背後から、懐かしい声がした。
そして振り向いた先で…アリアズナは信じられないものをカールに差しだしてきたのだった。
それは…プシュケの花束だった。
* * *
「あ…アリアリさ…」
『おお…喜んでる喜んでる。やっぱこいつは素直で良い奴だよな…』
嬉しくって《はにゃり》とアリアズナも微笑んでしまう。
「やー、何か良いもんがあれば買って帰ろうと思ったんだけどな?何にもなくってよぉ…」
照れながら《いるか?》…と、続ける間も与えず、カールは全力で跳躍すると背の高いアリアズナに抱きついた。
「うれしい…うれしい…っ!あ…アリアリさん…俺…大好きだよっ!俺も…俺も…大好きなんだよっ!」
「まぁ…おめでとうカール…っ!」
「良かったな、カール…」
涙をぼろぼろと流して歓喜を溢れ出すカールに、孤児院の子ども達や世話焼きのおばさん達が手を叩いて祝福し、カールに友情以上のものを抱いていたマルクまでが涙を目元に浮かべながらも祝いの言葉を贈った。
「え…え……?」
アリアズナは訳が分からないという顔をして呆然としていたが、ふと見やった先でやはり涙ながらに抱き合うアルフォードとリネラを確認すると《あちゃーっ!》という顔をして血の気を引かせた。
『あ…アルォー…て、てめぇ…ややこしい真似してんじゃねぇよっ!き…求婚の合図かこりゃあ…っ!?』
そうならそうと言ってくれればいいものを、何だってこんな風習があることを教えてくれなかったのだ!?
今更言ってもどうにもならないが…。
「かかか…カール…っ!」
「俺…アリアリさんを一生掛けて幸せにするよ…っ!」
何とか《誤解だ》と言おうとするのだが、生涯級の決意を固めているらしいカールにそれを告げるのは酷な話だろう。
彼が真剣にアリアズナを愛しているらしいことは薄々感じていたのだから…。
「…………………そう…か……?」
アリアズナは観念したようにがくりと肩の力を抜くと、《ま、しょーがねーや…》と呟きながら、カールの細い顎を持ち上げて…唇を重ねた。
「ん…んんぅ……っ!」
カールの反応は初々しくて、とても身体を売ることを生業にしていたとは思えないくらいだった。
『いや…そういうもんなのかもしれねぇな…』
寝所を共にするということが、彼にとっては長く好悪の感情とはかけ離れた《仕事》であったのだ。
愛を確かめ合うという崇高なものではあり得ず、大人の薄汚れた欲情を一方的に吐き出されるカールにとって、《気持ちよくさせてやりたい》という観点から触れられたことなど無いに違いない。
「こんなんでへばってちゃ、保たねぇぞ?」
漸く口吻から開放して、紅い舌でぺろりと唇を舐めてやれば…仄かに膏薬の味がした。
きっと、少しでもアリアズナに綺麗に見られたくて、どこからか調達したものを塗りつけていたに違いない。
それを思うと…アリアズナの胸はきゅう…っと甘酸っぱいもので満たされるのだった。
「アリアリさん…だいすき……だいすきだよぉ…」
キスの余韻でとろとろと腰が砕けてしまった風なカールは、アリアズナにしがみついたままずっと囁き続けていた。
華奢な身体から溢れ出しそうな…愛の言葉を。
「その前に言うことあんだろ?俺ぁ…帰ってきたんだぜ?」
唇を尖らせてアリアズナが言えば、何とも可愛らしい上目づかいでカールが囁いた。
甘い甘い…響きを載せて。
「おかえりなさい…アリアリさん…」
「おうっ!」
ちゅっと額に啄むようなキスを送ると、アリアズナはカールを荷袋のように肩に抱えて闊歩した。
お姫様抱っこにしてやろうと思ったのだが…流石にちょっと抵抗があったのだ。
「さーて、お前の望み通り一杯抱いてやるぞ!」
「よ、アリアズナっ!趣旨変更か!?」
「おーよ!今日からこいつが俺の若奥様だっ!よろしくなっ!!」
やけくそでビシィッ!と拝み打ちみたいな挨拶をすると、みんな生暖かい声援を送ってくれた。
中には《初めてならこいつを使いな》と、軟膏らしきものを渡してくれた者もいる。
引くに引けない状況を抱えながらも、何だか妙に幸せなアリアズナであった。
どんな形で結びつくにすれ…この少年とずっと共にいられる約束が出来たことが、存外に嬉しいらしいと気付いたのだ。
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