第三章 ]W.おかえり



 






 全てを終えてぐったりと脱力した有利へと、自発的に動ける全ての人々が集まってきた。
 その誰もが心配そうな眼差しを浮かべているものだから、精一杯微笑むと…耳元にそっとコンラッドが囁いた。

 甘い甘い…やさしい声で。

『無理はしなくて大丈夫…。もう、ユーリが頑張らなくてはならないことは終わりましたからね』

 こくりと頷けば、ふぅ…っと強ばっていた身体から力が抜ける。

『あ…俺、結構気張ってたんだなぁ…』

 ずっとずっと…眞魔国で平和なひとときを過ごしている間も、大陸の過酷な状況の中でコンラート達がどのように戦っているかが気になってしょうがなかった。

 昔なら…少なくとも、この身に別の生命が宿っているのでなければ、こっそり荷物の中に隠れて強制帯同なんて荒技も繰り出したかもしれないが、流石に今回は自重した。その分自分では動けないことのもどかしさと、実際苦難に直面している人々を想う気持ちとで鬱々としたものを抱えることになった。

 だからこそ最終局面を任されるという重責が重く感じられたのかも知れない。

『1点差の優勝決定戦でストッパー任される投手って、こんな気持ちなのかな…』

 でも、しんどい部分は終わりを告げた。
 それぞれが精一杯の力を出し切って、ここまで辿り着いたのだ。

 この勝利に関わった全ての人たちに握手をしたいような心地だ。

 ふと、空を見あげれば…今回の功労者とも言うべき迦陵頻伽族が少し名残惜しげではあったけれども、手を振りながら元の空間へと移動していくところだった。

 彼らは壮大な規模で盛り上がっている宴席に集う性質があるらしく、宴の乗りが最高潮の頃合いにはいつの間にか加わって思いのままに歌うが、参列者の酔いが醒めて《おや?》と思う瞬間には姿を消してしまうそうだ。

 基本的に人見知りな上、他種族の宴に参列した折に娘を浚われているものだから、そう長く滞在するつもりはないのだろう。

『ユーリ様、どうかお元気で…っ!』

 澄んだ娘の声が遠い空から響いたのを最期に、彼らはすぅ…っと綾雲の中へと姿を消していった。

『さよなら…そんで、ありがとうね…っ!』

 迦陵頻伽族への感謝の思いが浮かんだせいか、今度は自然に微笑むことが出来た。

 すると…見守る人々の頬が一様にほわりと淡紅色に染まり、後ろに位置している者達までが《見えない!》《そろそろ退けっ!》と押し合いへし合いを始めた。

『あー、そっか…双黒って珍しいんだよな』

 でも、そういえば人間世界では黒という色彩自体が不吉とされているのではなかったろうか?東洋系妖怪の迦陵頻伽族も実は双黒だったりするので、恐怖と嫌悪におののいてもしょうがないような気がするのだが…集まってきた人々の表情はいずれも珍しそうではあるが、不快そうではなかった。
 寧ろ、動物園で可愛い動物に集まる子ども達のような、純粋な好奇心を滲ませている。

 何故だろうかと小首を傾げて見やれば、《うきゅ?》…っと擬音の出そうな動きに《ほぅ…》っと溜息が漏れ、うっとりと見惚れる人々の眼差しが日差しに透かした蜂蜜みたいにキラキラしている。

 その中でも特段にキラキラして…尽きせぬ友情と感謝の念に輝いているのが、レオンハルト卿コンラートの眼差しであった。

「ユーリ…ありがとう、本当に…ありがとう。全ては君のお陰だ…!」
「え?いやいやいや……」
 
 コンラートの涙で潤んだ瞳は煌めきすぎて気恥ずかしい程であり、《シャラララ…》と銀の竪琴をつま弾く音が聞こえそうだ。
 有利は照れまくったあげく、話をヴォルフラムに振った。

「ヴォルフの奴、あんたのこと凄く心配してたんだぜ?」
「本当かい?」

 ヴォルフラムはむっつりと押し黙っていたものの、真ピンクの衣装で睨んでも可愛いだけである。

「心配…したら悪いかっ!」
「いいや、とても嬉しいよ…ヴォルフ」

 コンラートの方も愛称を呼ぶのには気恥ずかしい様子だったが、それでも弟の瞳に見え隠れする感情が照れ隠し以外のなにものでもないことを見て取ると、勢いよく腕を伸ばして華奢な体躯を抱き込んでしまった。

「ありがとう…ヴォルフ」
「う…うむっ!」

 重々しく頷くものの、兄の胸に抱き込まれた顔はすぐに涙でくしゃくしゃになってしまい、それを見られたくがないためにますます深く顔を埋めると、端(はた)からは甘えてすり寄っているようにすら見える。
 その傍らでは、苦笑したグウェンダルも微笑んでいた。

「ご苦労だった…コンラート。少し怪我もしているようだが、深手はないか?」
「ええ、大丈夫です。ご心配おかけしました」
「そうか…」

 あれほど、想いはありながらも拗れて複雑化していた三兄弟は今…久方ぶりに屈託無く互いの存在を噛みしめることが出来たのだった。



*   *   *




『この方々は…一体?』

 アリスティア公国のアマルは輝き渡る星々のように優美な魔族を前にして、半ば開いた口を閉じることが困難になっていた。

 これまで目にしてきた魔族も人間に比べれば格段に綺麗な顔立ちをした者が多かったのだが、新たに不思議な装置の中から出てきた者達は格の違う《美》を湛えていた。

 それらの中にあっても流石にコンラートだけは見劣りすることなく凛々しく映るが、それが二人いるという事実にも驚いてしまう。

「コンラート陛下は双子でらしたのかな?」
「うむ…我らと同じか?」

 《同じ》という響きがちょっと嬉しくて、アマルとカマルは和気藹々と交流しているコンラート達に《そそそ…》っと近寄っていった。

「し…失礼します。あの…こちらはどういった方々なのでしょうか?差し支えがなければ教えて頂きたいのですが…」

 美麗な者同士の親密な雰囲気の中に割ってはいるのは少々勇気のいることで、内心…《気を害されたらどうしよう…》と懸念を抱いていたのだが、コンラートは《禁忌の箱》を滅ぼした途端に態度を翻すような男ではなかった。

「ああ…これは失礼!そうだね、紹介がまだだった!」

 《つい…嬉しくて》…と、喜色溢れる微笑みに陽光が煌めき、アマルとカマルはふくふくとした幸せに包まれる。

『コンラート陛下…お幸せそうだ!』

 使命感の為か、これまではそもすると冷徹な印象も孕んでいたコンラートだったが、創主を滅ぼしたことで肩の力が抜けたのか、青年らしい爽やかさが全身から吹き抜けてくるようだ。



*   *   *




 コンラートが手短に新入眞魔国組の紹介をすると、辺りは更なる驚愕に包まれた。

「異世界の…コンラート陛下と、魔王陛下?」
「双黒の大賢者…」
「こんなに似ておられないのに、ご兄弟…?」

『まあ…驚くよな』

 コンラートはくすくすと笑い出したいのを、失礼に当たるからとすんでの所で押さえた。
 人間達は色々と驚きどころが多すぎて、正直…どこから突っ込んで良いのかよく分からないようだ。
 無理も無かろう、眞魔国以上に不思議な事象に対する免疫がない彼らには、《異世界》という概念さえしっくり来ないに違いない。

 それでも…狐に摘まれたような顔をする人々に暗い疑惑の色はなく、《コンラート陛下が仰るのなら、そういうものがあるのだろう》という納得が見られる。
 こういう反応が返ってくるのであれば、今日この日までコンラートが培(つちか)ってきた彼らとの交流は無駄ではなかったと言うことなのだろう。

『良かった…』

 コンラートがふんわりと微笑めば、人間勢は有利に見惚れたのと同様に頬を染めてはにかんでいる。

 しかし、そんなふわふわとした歓びの中に何時までも身を浸しているわけにはいかなかった。
 有利が言うように全ての物事がこれで終わったわけではなく、寧ろこれからの日々がまた始まっていくのだ。…となれば、少しでも今回の騒ぎによる傷跡を小さく留め、人間と魔族の交流を深めていかねばならない。

「魔道装置操縦者の皆さんはどうか、日陰で休んでいてください。さあ、我々は次の動きをしなくては!」
「次…」

 アマルやカマルといった生粋の軍人達は、一仕事を終えた歓びと心地よい虚脱感に浸りきっていたものだから、《次》という言葉の意味を認識するのも一手間だったのだが、流石に一国の指導者や宗教家としての本道に目覚めた者達は反応が早かった。

「そうですな。我らは一刻も早く本国に戻り、被災状況の確認をさせて頂きたい。それが済み次第、我が国が眞魔国と同盟を結ぶ旨と《禁忌の箱》に関わる報告を携えて他国へと使者を送りたい。つきましては、眞魔国の外交官の方を数名お借りできますかな?正式な依頼状等は後日お届けすることになりましょうが…」
「私もロンバルディアに戻ってよろしいか?我が国でも、眞魔国と同盟を結ぶことが国益に繋がるとの提唱をしたい」

 アリスティア公国のポラリス大公とロンバルディア国のヘルバント・ウォーレスが続けざまに述べると、神父長のルクサスも控えめな態度ながら依頼をしてきた。

「私も、急ぎ《禁忌の箱》埋没地点に向かいたいのですが…お許し願えましょうか?もし可能であれば、私を乗せて行ってくださる馬の乗り手を都合して頂きたいのですが」

 教会側の馬は離散したまま帰ってこないようだが、訓練の行き届いた眞魔国の馬たちは、放たれていたものが全て主の元へと帰ってきているので頼むのだろう。

「いーや、ルクサスさんよ。あんたは聖都に戻った方が良いぜ?」
「え…?」

 横合いからひょいっと顔を出してきたのはオレンジ髪も鮮やかなグリエ・ヨザック…有利からは《ギィ》と呼ばれる男だ。

「来たか。…遅いぞ?」
「言うなよ…。俺だってお祭り騒ぎに参加できなくてしょぼくれてんだから」

 ギィは本隊に先行する斥候隊の隊長を務めていたのだが、眞魔国軍が《禁忌の箱》に向かって三分割されて以降は、コンラートの指示で教会の動きを探っていた。
 これは、アリスティア公国と同盟を組んだことで人間世界の情報が格段に入り、教会の中でまことしやかに囁かれていた噂…先代大教主の死に、現在の大教主が関わっているのではないかという話を聞きつけたせいである。

 これまでも教会には幾らか密偵を放っていたのだが、これは教会内部の分裂を煽るための調査であった。しかし、コンラートがルクサスなどの教会指導者と結びつくことで状況が少し変わってきた。

 何処に向かうのか分からないまま分裂を誘うよりも、穏健派のルクサスを取り込んで指導者に据えた方が格段に眞魔国としては国益に繋がるだろう。教会の後ろ盾があれば、大陸各国との同盟も組みやすいからだ。
 また、教会内の争いに巻き込まれる人々の痛手を考えれば、その方がよほど良識的でもある。

「聖都では何が起こっている?」
「まー、取りあえず混乱しまくってます。何しろ、今の聖都には強力な指導者がいない。そこのウィリバルト氏は、力量のある政敵は悉(ことごと)く潰してきたみたいですからね」

 《そこの》…と言われて初めて、人々はある方向に目を向けた。

 今まで見えなかったわけではない。
 …見たくなかったのだ。

「……っ!」

 あちらの方でも同じような気持ちであったらしい。
 一斉に視線を向けられると…教会の最高指導者であった大教主ヨヒアム・ウィリバルトは顔色を赤黒く染めて呻(うめ)いた。

「……何を見ている!早く助けぬかっ!!」

 これが釣り目気味の愛らしい美少女であれば《ツンデレ》と呼ばれて持て囃される可能性もあるが、残念ながら相手は変態嗜好を持つ生臭坊主であり、灼けた鉄条網で串刺しになっているせいもあって、あまり関わり合いになりたい感じではない。

「…とは申されましても、元々あなたがそこに突き刺さっているのは自分でなさった結果ですから…。我らとしても、あなたが今後どうしたいのか伝えて頂かねば手出しのしようがありませんが?」

 人の良いルクサスとしては精一杯意地悪な声で言ってみた。
 老境に入った身体に結構な暴力をふるわれたのだ。この位のお返しはしても良いだろう。

「これは…か、神の試練に打ち勝つ為になした儀式である!《禁忌の箱》を滅ぼしたのは、我が犠牲によるものぞっ!」
「どうします?あんなコト言ってますが…」 

 ギィは呆れ果てたようにぼりぼりとオレンジ頭を掻くが、教会の連中にとっては《呆れ》で済まされる問題ではなかった。

「どの口が…それを言うのだ?」

 シャリン…と剣が鞘走ると、もはや勘弁ならぬと言いたげにオードイルが睨み付けてくる。

「ひ…っ!」
「私は見ていたぞ…?貴様は明らかに、《禁忌の箱》を開く為に儀式を行ったではないか。すぐ傍で見ていた者も居たはず…言い逃れは出来ぬぞ?」
「ソ…ソアラ…そのように恐ろしい顔をしては、美しい顔が台無し…」

 ヒュン……っ!

 オードイルの剣が陽光を弾いて一閃されると、ウィリバルトの鼻筋から一筋血が流れる。

「ひぃいい…っ!痛い…痛いぃぃい……っ!」
「私が幼い頃…貴様の薄汚い陰茎をケツの穴にねじ込まれた痛みは、こんなものではなかった…っ!」
「やめ…やめてくれぇえええ…っ!!」

 ひぃひぃと情けなく暴れるウィリバルトは、失念していた。
 灼けた金属が絶妙な角度で刺入されていたからこそ、自分の命が保たれていたのだと言うことに…。
そこから、少しでも動くことがあれば…全身から血が噴き出して死に至るのだと…。

 オードイルが真剣に自分の血と死を欲していると悟った瞬間、何もかもが吹き飛んでしまったらしいウィリバルトは、前後の見境を無くて暴れて…結果、目を背けたくなるような状態に陥った。
 長い針金が無理矢理に肉体から引き抜かれた瞬間に何が起こるかは、各自の想像力にお任せしたい。

 ウィリバルトはくるくると壊れた人形のようにふらついたあげく、ぐらりと平衡を崩して…谷底に落ちていった。

「……っ!」

 オードイルが駆け寄った先で、ウィリバルトは尖った岩に何度もぶつかり、跳ね上がり…そして、谷底で動きを止めた後はぴくりとも動かなくなっていた。

 死んでいるのは、明瞭だった。

「オードイル…」

 しゃがみ込んだまま、オードイルは暫くの間その場から動けずにいた。
 不倶戴天の敵が呆気なく自分の前から姿を消した時、人は安堵するよりも寄る辺なさを感じるものなのかも知れない。

 コンラートは具体的にオードイルとウィリバルトの間にあったことを知っているわけではない。だが、ウィリバルトについて語る時に、オードイルから感じれた血が噴き出すような痛み…そして屈辱については、その言葉と眼差しの端々から窺い知ることは出来た。

「…終わりました」 
「ああ…」

 虚脱したようなオードイルを、コンラートはそっと抱き寄せて頭を撫でつけてやった。どうしてだか…そうしてあげたいような気がしたのだ。
 かつてコンラートが有利にそうして貰ったように、今は幼子のようにただ抱き寄せてやりたかった。

「…君さえよければ、俺と共に眞魔国に来ないか?ルッテンベルク軍はもともと混血部隊だし、教会に戻るよりは生きやすいと思う。家族は残していくことになるだろうが、その辺も配慮できると思う」
「お願い…します……」

 まだ呆然とした様子が抜けきらないながらも、オードイルは眦をうっすらと濡らして頷いた。



*   *   *




『眞魔国に…』

 オードイルは、まだその目で見たこともない大地に郷愁のようなものを感じている自分に驚いた。
 そこがレオンハルト卿コンラートのふるさとなのだと思うだけで、不思議なほどの慕わしさが込み上げてくる。

 思えば、幼い身…それも、男でありながら老人に陵辱される苦しみを誰にも相談できなくなったあの日から、オードイルは何処に居ても《自分が居るべき場所にすっぽりと収まっている》という安心感を得ることが出来なかった。

 それが…コンラートのもとに居られるのだと思うと、ふっかりとやわらかなものに包まれているような安堵に、深く深く息を吸い込むことが出来た。

 《おかえり》と言われ、《ただいま》…と返したくなるような、そんな親近感に身を任せる。

『ああ…この方の元が、我が命を捧げるべき場所だ』
 
 静謐な歓びが…澄んだ湧き水が溢れ出すように身体中を浸していく。
 ぎすぎすと軋(きし)み、からからと乾ききっていた何かが潤されていき、《生きていこう》という明るい望みが体腔内を持たしていく。

『ありがとう…ございます……』

 深く頭を垂れて、オードイルは騎士の誓いを立てるようにコンラートの前に跪いた。
 生まれて初めて心から忠誠を誓うことの出来る対象が、目の前に存在してくれることに感謝しながら…。



*  *  *


 
 
「た…他国の者でも陛下の軍に入れるのですかっ!?」

 そこに、思わず…といった感じで身を乗り出してきたのはアリスティア公国のアマルとカマルであった。

「来たいのかい?」
「いや…その……っ!わ、我ら騎士の誓いは公国に捧げておりまして…しかしっ!コンラート陛下に対する敬愛の想いも強く…っ!」

 自分でも何を言っているのか分からないほど混乱しているようだ。

「では、士官交流で眞魔国を訪問してくれないか?正式に同盟条約が提携されれば、軍人同士が交流をしてもおかしくはないだろう?」
「ええっ!ちっともおかしくございませんっ!!」

 力強く握り拳を突き上げる双子に、父親のマルティン将軍は苦笑気味だ。

「やれやれ…我が跡継ぎ共はコンラート陛下に随分と熱をあげているようですな」
「なに、構わんさ。それでも公国への忠誠は変わらぬと言うし…大体、この私の目の前でこういう遣り取りをするのだからな?暗さが無くて、可愛いものだ」

 鷹揚に笑うと、ポラリス大公はマルティンの肩をポンっと叩いて促した。

 若い連中は少々浮かれ気味のようだが、そろそろ指導者としては次の動きを指示せねばならない。

「アリスティア公国軍、集結!点呼の後、装備点検と報告っ!」

 マルティン将軍の声に呼応して、他の組織でも人員の確認や被害状況の取り纏めが行われ出した。



 少しずつ、創主滅亡後の新たな世界が動き出そうとしている。 






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