第三章 ]VーH



 






「たーっ!!」


 緊迫した空気を切り裂き、投げつけられた石が命中したのは…リーシュラの胸に掛けられた革人形であった。

「…はっ!」

 我に返ったリーシュラは、慌てて強ばった指を一本一本引きはがすようにしてナイフを手放す。

「カール…っ!」
「リーシュラ様、しつれいしますっ!」

『たぶん…これだ…っ!』

 難しい物事を暗記することは苦手だが、カールには独特の鋭い勘があって、人が気付かないような秘密にするりと到達することが出来る。この時も、リーシュラの胸で拍動している異様な革人形に着目した。

 カールはアリアズナに貰った短刀でブチッとリーシュラの聖円月茨を結ぶ紐を断ち切ると、床に叩きつけてから革人形に刃を突き立てた。


 ギャァアアアアア………っ!! 


 恐ろしい断末魔を上げて革人形が悶絶したかと思うと、がくりと事切れ…ただの革に戻ってしまう。

 リーシュラはその様をへたり込んだ状態で見つめていた。

「あ…あ……」
「リーシュラ様、大丈夫ですか?」

 カールが肩に手を掛けると、昔よりも二回りは小さくなった体格に眉根が寄る。

『ちっちゃくなっちゃったな…』

 カールが母に死なれて孤児院に引き取られた時には、まだリーシュラも少しは若くて活力に満ちていた。
 きっと…聖都からの使者に蹂躙されるリネラを放置してしまったあの日から、孤児院もリーシュラも歪み…病んでしまったのだ。

『だけど、いつまでも病んでたってしょーがないや』

 昔のことは昔のことだもの。
 カールはけろっと笑い飛ばして次のことを考えた。

「リーシュラ様、みんなと一緒に逃げて?」
「私は…皆と……一緒に、いてもいいのか?」

 皺くれた指の間からぼろぼろと涙が滴っていく。
 教会への忠誠を徹底的に打ち砕かれた老人は、寄る辺なく枯れ果てて見えた。

「うん、だって俺らはリーシュラ様がだいすきだもん。一緒にいたいもん」

 にぱりとカールが笑えば、他の子ども達もリーシュラを急かすように立ち上がらせた。
 その勢いにつられて歩みかけたリーシュラだったが、は…っと我に返って立ち止まる。

「いや…頼む。先に行ってくれ」
「どうしてっ!?」
「私は…」

 リーシュラは胸がつかえるのか《ごくり》と息を飲み込んだが、一拍おいてから理由を口にした。

「避難所に連れ出そうとしてくれた眞魔国兵の首を…絞めてしまったのだ。あのままでは…建物が崩壊した時に押し潰される可能性がある。私は…あの兵のもとに行かねばならん」
「では、どうかお早くお願いしますっ!」

 リネラは少し迷ったようだが、小さい子ども達と共にいることもあってか避難所に向かった。

「俺は一緒にいくね?」
「カール…」

 二人は共に屋敷の中にはいると、大柄なバルフォントの体格に苦労しながらも何とか避難所に集合できた。




*   *   *




 創主の呼びかけに呼応して、大陸中で熱心な教会信徒達が武器や調理器具を手にして震えていた。

『身体の自由がきかない…っ!』

 意識は鮮明なのに、憎くもなんともない…寧ろ、大切に想っている者に刃を突き立てようとする衝動に動揺していた。

 ドクン…ドクン…と拍動する革人形の存在感は大きく、誰もが自分たちの信仰の印が生け贄を求めていることに慄然としたが、迷い無く襲い掛かるには親しい者達への愛が強すぎて、殆どの者が信仰心に身を委ねることなく拮抗していた。


『嫌だ…嫌だ嫌だ…っ!』
『殺したくない…!』
『助けて……っ!!』


 心の中で響き渡る声は孤独に…虚しく消えていくかに思われた。

 だが、今…この世界には、そんなかそけき声を汲み取り…心を震わせる存在が居るのだった。
 奇跡のような愛を持つその存在こそ…。



 そう、我らがコンユバインXだ…っっ!!



 リィィィイイン……
 リィイイイイイイインンン……っ!


 体腔中を蝕んでいた不協和音を薙ぎ払い、美しい和音が奏でられる。

『何…?』
『これは……っ』

 みな、訳が分からないながらも大脳皮質で理解できない事への探求を一時止め、ただ心のままに…本能に従うまま心地よい響きに同調していく。

 
 ラン…ランララランランラン…
 ラン…ランラララン……


 そのうち、共鳴音はハミングを伴うようになり…それが幾重にも折り重なる、麗しき音の帯となって世界に流れ始めた。

「ラン…ランララランランラン…」
「ラン…ランラララン……」

 無意識のうちにそう口ずさむと、不思議と身体の拘束が解かれた。
 人々は急いで信仰の印を身体から外すと、己の身体が自由を取り戻したことに歓喜し、屋外に飛び出して空を見あげた。

 何かが…呼んでいるような気がしたのだ。

「あ…あ…」
「これは……っ!?」

 
 それは…驚くべき光景であった。



*   *   *




 創主の力に影響を与える為には、有利自身の内腔を浸食されることにもなる。
 微妙な均衡を保ちながら《引いてはならじ》と堪え続ける時間は、地獄の苦しみで有利を締めあげた。

『う…くぅう……』

 体細胞の一つ一つが擦れ合うような…血が逆流するような不快感に喉が反らされ…引き釣るけれど、叫ぶことも出来ず…開けた唇から微かに覗く舌を震わせることしかできない。
 
『痛い…くるしぃい……っ…』

 目の奥がズン…ズンと拍動するたびに耐え難い強さで頭が締め付けられるものだから、有利はついつい自分の苦痛だけを追いかけて涙を零した。

 だが…


 ラン…ランララランランラン…
 ラン…ランラララン……


 不意に響いたのは、懐かしいメロディー。
 それは…別のコクピットに収まったコンラッドの声だった。

 やさしく包み込むようなその声は…謳っていた。
 ウェラー領を基点として有利が発信した、あの…豊穣を言祝(ことほ)ぐメロディーだ。

 村田の趣味丸出しの選曲らしいとは後日聞いたのだが、それでも…コンラッドの声はやさしく…力強く有利を包み込んでいく。

 コンラッドもまた、鍵を発動させたことで腕から筆舌に尽くしがたい苦痛が押し寄せているだろうに…それでも楽しげに歌おうとしているのは、有利を励ます為に他ならないだろう。

『気持ちいい…』

 まだ身体は苦しいのだけど、心の中にぽぅ…っと光が灯ったような…ゆっくりと花弁が開いていくかのような感覚が広がり、有利は微笑みたい気持ちになった。

『そーだ…苦しい時こそ、上を向いて…笑わなきゃ…っ!』

 苦しい時に苦しい顔をしていたら、もっともっと苦しくなる。
 大事な人が示してくれた優しさの種を握りしめて、綺麗な華を咲かせようじゃないか…!


 にこぉ…っ!


 思いっきり、笑ってみた。

 すると、有利の唇からもあの懐かしい響きが蘇ってきたのだった。

『ちょっとだけ前のことなのにな…何だかとても懐かしい』

 枯れ果てた土地に豊かな緑が蘇り、水は潤いをもたらし、火は暖かく燃え立ち…大地はどっしりと構えて全てを支えていた…あの光景が、蘇る。

 人々の心に歓喜をもたらしたのは、これでお腹が膨れるという感慨だけではなかった。
 枯れていたものが再び生命を蘇らせた光景に、心がふるえるような感動を覚えたのだ。

  
 ランランランラン、ラララララン…
 ランランランラン、ラララララン…
 ランランランララランランラン…ランラララン
 ラーラー……

 
 謳おう。
 謳い合おう…っ!

 呼びかける声はコンユバトラーXの乗組員達に…有利を守護する四大要素達へと広がり…そして……

 思いがけない領域に住まう者達までもを呼び出したのだった。



『ユーリ様が謳っておられる』
『おお…』

 滑らかに響く声音が囁き合う。
 普通のお喋りさえもが詩歌のような音調を持っているようだ。

『我ら詩にて生きる者』
『呼応せずにはおられますまい……』
『大恩あるユーリ様の歌声にあわせ』
『ここに、我らの歌を捧げん…!』



 コォォオオオオ…………


 ス…と暗雲がひび割れたかと思うと、その狭間から驚くほどうつくしい色合いが垣間見えた。
 不気味な暗赤色の雲とは対照的な…淡い桜色、萌葱色、蜜柑色…多彩な綾をまとう光が、ふわぁ…っと見る者の心に直接降り注いでくる。

 そして、ぽっかりと浮かぶ雲のうえに優雅に腰掛けるのは雅(みやび)な楽人の群れ…手に手に胡弓や笛、竪琴をもつ者達。

 男女ともに梳(くしけず)った艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、肌も露わな肢体を幾重かに巻いた紗(うすぎぬ)で包み、鮮やかな色彩の羽根を背に負うた…美麗な妖怪達の一群であった。


 あれは…あれは……っ!


『迦陵頻伽族…っ!?』


 娘と一族の名を怪物に奪われていた、あの一族ではないか…!?
 
 彼らは手に携えた楽器に手をやると、ポロ…ンとつま弾きポン…っと鳴らし、そこへうつくしい声音を絡めて歌い始めた。

 腐海の主と少女が交流を果たした、奇跡の瞬間に流れた曲を…。

   
 ラン…ランララランランラン…
 ラン…ランラララン……

 ランランランラン、ラララララン…
 ランランランラン、ラララララン…
 ランランランララランランラン…ランラララン
 ラーラー……

 
『来てくれたんだ…声を、聞きつけて…来てくれた…っ!』 


 歌うことを至上の歓びとし、仏の悟りを歌い上げる霊鳥の種族…迦陵頻伽。
 その歌声は誰も彼もを惹きつけて、共に謳わせずにはいられないほどの魅力を湛えていた。

 その中でも一際美しく旋律を歌い上げ、羽ばたきながら宙を舞う乙女に有利は声を上げた。

『あ…あの子…っ!』

 あれは…怪物に300年にわたって蹂躙され、歌と表情とを失っていた娘だ。
 有利達と謳うことで歓びを再び手にした娘は、今では素晴らしい歌い手に成長しているらしい。


 踏みにじられ…泥にまみれていたとしても、必ず希望の日は来る。
 立ち上がろうという気持ちさえあれば、きっと光は差し込むから。

 立とう…
 立とう…っ!

 謳おう…
 謳おう……っ!


 力強い歌声は仲間達のハミングに併せて幾重にも重ねられた調べを奏で、ひしひしと窶(やつ)れ衰えていた人々の心にも沁み渡っていった…。

 それに伴い、創主を構成していた憎しみの因子の網から各種の要素達が逃れ出たかと思うと、歌に合わせて舞い踊り始めた。

 地・水・火・風のそれぞれが、各(おのおの)の性質が命じるままに謳い踊るがそこに衝突は見られない。

 本来、彼らはそういう存在であったのだ。

 4つの中のどれが優れているわけでも劣っているわけでもない。
 どれかが何を踏みつけにして、ひとつだけでそそり立つこともできない。

 全ての要素は互いに共鳴し、影響しあい…それによって世界は保たれてきたのだ。

 そんな当たり前のことが…当たり前だからこそ見失いがちな真実が、今ここで歌い上げられていった。



*   *   *




「ああ…なんという……」

 人々は滂沱の涙を流しながら跪き、天を見あげて両手を組み合わせた。

 傷ついた…そして、傷つけてしまったという想いが、痛みを帯びながらも素直に心を整理させていく。

 それは、《禁忌の箱》の前で攻防を繰り広げていた魔族と人間の間でも同様であった。



*   *   *




 天上を覆っていた暗雲がどんどん払われ、清々しい風が吹き抜けていったかと思うと、《凍土の劫火》周辺で熱さにむせいでいた人々は心地よさげに目を細めた。

 見あげた空には殆ど瘴気は残っておらず、僅かに身悶えしている毒蛇のようなもの以外は突き抜けるような夏の青空に変わっている。

 そして、暗雲の影からひらひらと舞い踊っているのはお伽噺の中に出てくるような天人の姿であった。
 まるで夢のような光景…これが、本当に現実のものなのだろうか?

「凄ぇ…これが、ユーリ陛下の力なのか?」
「きれい…」

 そう応えた人物が自分の部下ではなく…いつの間にか傍に寄っていた人間の子どもなのだと気付いてアリアズナは目を丸くした。
 
 アリアズナの視線に気付いた子どもがばつの悪そうな顔をしながらも…ぺこりと頭を下げた。
 こいつはアリアズナが身体についた火を消してやり、大きな火の玉から救った子どもだ。

「へ…へへ…っ!」

 アリアズナは鼻面についた炭を手の甲で拭いながら笑った。
 特徴的な犬歯を剥き出しにしたその笑いは昔のように不吉な印象を与えることはなく…えらく愛嬌のあるものに見えたのだった。

 

*   *   *




 有利の存在は今、大きく…広く、創主に縛り付けられていた要素と共鳴しあっている。
 その融和した状態は美しい波動となって大気を巡るのだけれど…ここで、困った状況に陥っていることに村田だけが気付いた。

『まずい…』

 計画はここまで順調に進んでいる。
 創主との鬩(せめ)ぎ合いの中で有利の苦痛が大きくなりすぎて一時心配したが、迦陵頻伽族の出現により共鳴波動が大きくなった分、彼の苦しみ自体はかなり緩和された。

 だが…迦陵頻伽族の参入が、思いがけない効果をも生んでしまったのである。

 有利は今…迦陵頻伽族の詩歌に調和しすぎて、自我を取り戻すことが難しくなっている。一種にトランス状態に陥っているのだ。

「渋谷…渋谷?」

 呼びかけても、村田の焦りを帯びた声が詩を途切れさせる異音と捉えられるのか、嫌々をするように首を振ってしまう…。

『このままじゃあ…創主の残存部分を倒せない…!』

 分離される以前に比べれば遙かに縮小化されたとはいえ、天空で蠢く暗赤色の固まりは尚、強い憎悪を漂わせている。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に縛り付けられたその感情は、これ程の波動の中でも根深く…昇華されることを拒否して再生の機を狙っている。
 
 もしもあれが力在る存在に入り込めば、あちらの世界で有利を乗っ取られたときと同じような状況になってしまう可能性もある。

『そうだ…特に危ないのは渋谷なんだ…!』

 無防備に要素と共鳴し合っている今の有利に気付かれたら、村田達は死地からの挽回を狙って突撃してくる創主を防ぎきれるだろうか?

『奪わせるものか…っ!』

 村田は眼下で様子を伺っている人々に向かって叫んだ。
 
「レオンハルト卿、アルフォード・マキナー…剣を取れっ!」

 彼らには、有利と3人で分離不能な創主の闇黒部分を潰すように言ってあるが、こうなったらあの二人でやって貰う他ない。
 創主に状況を知られない為にそれ以上は言わなかったが、コンラートは村田の声を正しく理解したようだ。
 
『頼む…!』

 村田は世界を救うとか何とか言うことよりも、今はただ…親友を奪われたくない唯の高校生として祈った。
 どうか…どうか、大切なこの少年を、奪わないでと…。



*  *  *


  

『ユーリは手一杯なのだろうな…』

 村田の叫びに呼応したコンラートは、すぐさまアルフォードを呼び寄せて共に聖剣と魔剣を掲げた。

 敵は規模を縮小したとはいえ、濃密な悪意で構成されているだろう創主の中核部分だ。本当に、この二本だけで始末できるかどうかは分からない。だが、やらねばならぬのだ。この状況まで持ち込んでくれた有利の為にも…!

「行くぞ、アルフォード」
「ええ…!」
 
 最近良い出番の無かったモルギフはやる気満々で、この晴れ舞台へのときめきに頬を紅潮させていた。
 …こちらに向かって唇を伸ばしてこなければ、もっと感じが良い剣なのだが…。

 それぞれに剣を構えて精神を集中させれば、辺りに満ちる要素が極めて高濃度である為か、魔力を持たない二人にも肌合いで感じられるほど多くの要素が祝福するように剣の回りを取り巻いていく。

 地・水・火・風…虐げられ、束縛されてきた要素達が、再び得た自由の歓喜に飛び跳ねながらくるりくるりを輪を描いて…


 …ドォォオオオン……っ!


 一斉に撃ち放つと、最初は二本の光線が螺旋状に絡み合いながら飛んでいたのだが、それが見る間に膨れあがって巨大な固まりとなり…創主に激突する。

 だが…

「何…?」

 創主が…嗤ったような気がした。
 幾ばくかが吹き飛ばされたものの、その一撃で聖剣と魔剣の持つ力量に気付いてしまったに違いない。
 やはり、人間世界で造られた聖剣と、魔力を持たないコンラートが操る魔剣では創主を消滅させることは出来ないのだろうか?

「…行くぞ、もう一度だ」
「はい…っ!」

 先程の一撃で、全身から精力が抜かれたように感じるが…コンラートは再び魔剣を構えると、祈るように柄元へと額を当てた。

「頼む…頼む、モルギフ…!ここまで来たんだ…頼むから、力を貸してくれ…!」

 有利に出会うまで、コンラートは何かに縋り付き、助力を請うという体験をしたことがなかった。
 全てが己の力量で裁量できないと知っていても、誰かに請うてそれを実現させるくらいなら、最初から達成することを願わないという性質だったからだ。

 だが…今は、今だけは…何にしがみついても良いから実現したいことがあるのだ。

『俺は…一人でここまで来た訳じゃない…!』

 沢山の人々の思いを載せて、託されて…ここまでやってきた。
 コンラートは、そんな人々の思いの中で生かされてきた存在なのだ。

 ここで、それらを無駄にするわけにはいかない。

 
 ウヒョェエエエエ………っ!


 見てくれの割りに侠気があるらしいモルギフも、主の想いに応えようとして頬を膨らませて気合いを入れる。

「行くぞ…っ!」

 何度でも放ってやる。
 この身に残る全ての力が尽き果てようとも…!

 コンラートとアルフォードは同じ思いを胸に、それぞれの愛剣に祈りを込めて構えた。



*  *  *





 リィィン…
 リイィィン……

 波動の中に、何かが混じる。

『何…これ?』

 有利は不意に…心地よく響き合う音の群に身を浸す快感の中から、とても強い決意の声を聞いた。
 託された祈りに応えようとする…それは、切なる祈りであった。

『これ…レオだ』

 世界を、自分のせいで滅ぼす事になったのだと嘆いていた異世界のコンラート。
 何もかも自分のせいだと抱え込んで…追いつめられていたあの日、有利は彼をなんとしても支えたいと祈ったのだ。

 その彼が、こんなにも強く祈っているというのに有利は何をしていたのだろう。
 急に恥ずかしくなって辺りを見回せば、そもそも自分の精神が半ば身体から抜け出していたことに気付いた。

『うわ…エクトプラズムっ!?』

 吃驚して斜め上から見下ろしている本体に戻ろうとするのだが、大気に溶け込んだ精神はなかなか元には戻せなくて、あわあわしてしまう。
 
 けれど…そんな有利に囁きかけてくる者があった。

「ユーリ…戻っておいで?」
 
 スポン…っ!
 我ながら現金さに苦笑が浮かぶような勢いで、有利の精神体は本体に戻った。
 だって…その声だけは大気の解けたものを感じ取るのではなく、直接耳朶を震わせて欲しいのだ。

「ふ…く……」

 途端に身体がドン…っと重くなり、四肢のいたるところが怠く…下手をすると感覚がないほど痺れているのが分かる。あまりに強い魔力を発動させたことで、これまでにないほど疲れ切っているのだろう。

 だが、有利の指は震えながらパネルを探ると脱出用ポットのスイッチに辿り着いた。

「…!止めるんだ渋谷。後は、レオンハルト卿と勇者君がやるから…!」
「うん…だけど、出来る限りは手伝いたいんだ。お願い…ここから、出して?」
「駄目だ…!君がこの機体から出たら、すぐに創主に狙われるぞ…!?」

 疲労の為だけではない感情で真っ青になった村田が、ディスプレイ越しに説得してくるけれど、有利はふるる…と首を振って懇願を続けた。

「お願い…お願い、村田…。俺…この為に、ここまで来たんだよ?」
「……嫌だ!」
「猊下、俺がお護りします」

 コンラッドが、やはり疲労の色が濃い顔を引き締めてそう告げた。

「…魔力もないくせに!」
「ええ…そうです。ですが、それでも…お護りし、支えます」

 生命を賭けた誓いのように、彼独特の語尾がリィン…と響く。

「…………渋谷に何かあったら…僕は、一生君を許さない……」
「赦しを請うことはありません。その時は…俺は自分で自分自身の始末をつけます」

 覚悟は出来ているのだと、コンラッドは眼差しと声とで語る。

「コンラッド…」

 熱いものを感じながら、有利は村田が頷くのを視認すると…スイッチを押した。
 その動作すらも随分と重く感じながら、脱出用ポットに掛かる重量に有利は耐えた。

「行こう…コンラッド……」
「ええ」

 
 ドォン…っ!

 
 コンユバトラーXの両肩部分が外れ、逆噴射装置を作動させながら地上に降りていく…。
 そこを狙うようにして創主が押し寄せてくるが、すんでのところでコンラートとアルフォードが放った剣圧に押し戻される。

『身体…重いや……』

 着地したポットから立ち上がるのすらふらついてしまい、焦る気持ちも手伝って地上に落下し掛けてしまうけれど、一足先に脱出していたコンラッドがすかさず抱きとめてくれた。

「コン…ラッド……」
「ユーリ…」

 抱きしめられた身体から伝わるのは、懐かしいコンラッド独特の香りと気配だった。
 泣きたくなるような慕わしさに包まれながら、有利はもう一度精神を奮い起こして両の脚を踏ん張ると、コクピットに装備されていた魔剣を手に取る。

「支えてくれる?」
「それこそが…我が望み」

 コンラッドの唇が頭の天辺に押しつけられ、その腕は背後からすっぽりと有利を抱え込んで、魔剣を持つ手の上に被せられる。

 
 コォオオオ……っ!


 有利の残存魔力が縒り合わされ…魔剣に力が満ちていく間に、コンラートとアルフォードも駆け寄ってきた。
 彼らもまた数発の波動を放って疲労の極みにあるようだが、流石武人と言うべきか…殆どそれを感じさせない動きだ。

「ユーリ…っ!」
「ユーリ陛下……っ!」
「ゴメンね…遅くなっちゃった…」
「何を…言われます…!」

 コンラートは目元に涙さえ浮かべて有利の肩に額を寄せた。
 そんなに草臥れ果てているように見えるだろうか?

「やろう…。これで、最後にしよう…?」
「はい…っ!」

 三本の剣に力が満ちる。
 
 創主の方もこれが最後の突撃とばかりに咆哮を上げながら迫ってくる。


 コォオオオオオオオ…………っ!!


 強い弦を限界まで引き絞るように、三本の剣に力を込め…そして……


 放った一撃が、創主の固まりとぶつかり合った。


 
 ギャアアアアァァァ………っっっ!


 
 ぞっとするような断末魔は人々の鼓膜を破壊せんばかりの勢いで大気を震わせ、物理的な波動で吹き飛ばそうとしたけれど…それも長くは続かなかった。

 次第に弱まっていく声は、いつしか嵐の夜の木霊のような響きに代わり、やがて完全に消え失せた。



*  *  *




『ユーリ…ユーリ……っ!』

 レオンハルト卿コンラートは、尽きせぬ想いのままに跪き…深く有利に向かって頭を垂れた。
 眞魔国兵はもとより、アリスティア公国の人々、ロンバルディアのヘルバント、教会信徒達までが共に跪いていた。

 もう魔剣を握る力も残されていないのか、有利は眠りに導かれる幼子のようにあどけない顔でコンラッドの腕に収まっている。
 そう…お姫様抱っこに《恥ずかしい》と抵抗する余力もないらしい。

 こんな可愛らしい少年が…世界を救ったのだ。

『君という存在が…世界をこんなにも光り輝くものに変えていくんだね?』

 大気の色までが全て変わってしまったようだ。
 お伽噺に出てくる魔法の鈴を鳴らすように、有利は人々の心を束縛するのではなく…自由に開放することで変えていく。

『君に会えて…本当に良かった……っ!』

 救ってくれたこと…支えてくれたこと…して貰ったことの全てと、それ以上に輝かしい有利という存在に触れあえた奇跡が、心身を揺るがすような感動でコンラートを浸(ひた)していく。

「ありがとう…ありがとう…っ!」

 思わず口にして叫ぶコンラートの前に、ゆっくりとコンユバトラーXが降り立ってきた。
 機体の一部は創主との激突によって陥没したり、色を変えてしまっているが、そのちょっぴり間抜けな紅い楕円形は今となっては随分と頼もしく映り、教会信徒の子ども達までもが瞳を輝かせて歓迎した。

「天使様…」
「真っ赤な天使様だ…!」

 建造者が本国で《紅い悪魔》と呼ばれていることも知らず、子ども達は手を振って歓声をあげる。

 パカ…っ! 
 ウィィィ……

 ぱこりと頭部・股関節の扉が開くと、《パラタタパラタタ、タンタラッタタンタ〜ン》…と、妙に陽気な音楽が鳴り響き、強制的に乗組員がマジックハンドのような触手で運ばれる。
 正気を疑うような真ピンクの服を着たヴォルフラムはじたばたして抵抗していたが、これ以上人々から見苦しく思われるのは嫌なのか、途中で諦めた。

「ん……」

 有利はぱちぱちと長い睫を瞬くと、コンラートに気付いて微笑みかけた。

「レオ…おつかれさま…」
「ユーリこそ…本当に、本当に…おつかれさま!そして…ありがとう!」
「やー…俺なんて、最後ちょこっとお手伝いしただけだから…!」

 有利はじたばたと動いて照れ隠ししようとしたが、コンラッドの腕の心地よさと自分自身の疲労に耐えきれなかったのか、再びくたりと脱力してしまった。

「終わったんだね…全て」
「んーん?」

 コンラートの言葉にふるるっと有利は首を振る。

「こういう言い回しは使い古されてるかも知れないけどけどさ、きっとこれからが始まりだよ?だって、レオやみんなはここからやってくんだもんね」
「そう…だね……」

 教会信徒の一部が心を開いたとはいえ、大陸全土に親睦の輪が広がるには時間が掛かるだろう。
 末期状態にまで追いつめられていた土壌の荒廃も深刻だ。
 冬にはいるまでに、どれほどの緑が再生出来ることだろう?

 少し不安を過ぎらせたコンラートの袖を、くいくいっと有利が引っ張る。

「ね…見てよ、レオ…!」
「……っ!」

 有利の視線に促されて顔を向けると…真っ黒な溶岩の隙間から、ちいさな芽が生えていた。

 本当に小さな…けれど、瑞々しい若草色の芽。

 命の芽吹きが、《禁忌の箱》によって荒廃したこの土地ですら見受けられたのだ。
 それならば…カロリアなどはおそらく…!

「きれいだねぇ…」
「ああ…とても、綺麗だ……」

 ほんわりと微笑む有利と、芽吹いた命。
 どちらに対する感想なのか分からないまま、コンラートもまた微笑んだ。



 汚れた頬を撫でて吹き抜けていく風から、微かに草の香りが漂うことに歓喜しながら…。
  







  

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