第三章 ]VーD
「コンラート陛下…連中は《地の果て》埋没地点の近辺に、何やら怪しい機材を運びつつあります」
「ふむ…」
目的地を眼下に臨む崖の上から、コンラートは双眼鏡で視認しつつ斥候からの情報を受け取った。
大地は無惨に引き裂かれ、悪魔の牙を思わせる岩石が至る所で鋭く突きだしている。
足場の悪い土地を、人間にとってさえも耐え難いだろう瘴気を吸い込みながら歩いていくのは教会信徒達だ。
一握りの神父達はこの不規則な土地で馬を操る事は出来なかったのか、やはり徒歩になっているものの、それが酷く腹立たしいようでやたらと信者達に当たり散らしている。
そんな中…一人、奇妙なほど軽い足取りで歩いている白髪の老人がいた。
果たして、軽い…という表現で良いのだろうか?
律動的に過ぎるその足取りは、どこかバネ仕掛けの玩具を思わせる動きだった。
ミリアムに双眼鏡を渡して確認させると、やはりそれは大教主ウィリバルトであった。
「でも…やっぱりおかしいです。怪物みたいな格好ではないけれど…あいつは膝が悪くて、もっとぎくしゃくした歩き方をするはずなのに、あの足場の悪い場所をひょいひょい歩き回ってるなんて…。そもそも、こういう場所に直接来る事自体がとっても異例です。あいつは何時だって人に命令するばかりで、自分は滅多に聖都から出ませんでしたから…」
「かなり…乗っ取られているわけか?」
では、その目的は何だろう?
これまで自由気儘にさせていたウィリバルトをこのタイミングで矢面に持ってきた理由…。
見守るコンラート達の前で、信徒達は持ち込んだ機材を裂隙前に設置し始めた。
カーン…
カーン……っ!
硬い大地に大ぶりなトンカチを使って太い鉄棒が数本差し込まれると、そこに極めて棘の長い鉄条網を円状に整形していく。複数設置されたそれは、何処かで見た覚えのある形状であった。
「なんだろう…あれは?」
「聖円月茨を模しているのでしょうか?でも…《神》の御印は掲げないのかな…?」
ミリアムは胸元から首飾りを取り出すと、コンラートに見せた。
それは植物の茨に白い革製の人型が磔にされたもので、胸元に入れていたのではさぞかしチクチクしたろうと思われる。
それに…魔族を頼って来はしたものの、ミリアムが未だに信仰の印は捨てられないのも気に掛かった。
『信仰か…根深いものだ……』
創主が意図的に教会を拠代に使っているのは明白だが、敵ながらこれは見事な戦略と言わざるを得ない。
生存している一個人への敬愛であれば、何かの拍子に幻滅して洗脳が解ける事も期待できる。
しかし《宗教》の名を借りたカルト教団の怖さは、その洗脳の度がより根深いということだ。
それを信仰対象とする人々の心にそれぞれの形で《神》が存在する以上、どんなに外表から《それは悪しきものだ》と教えても拒絶されてしまう。
『信徒自らが信仰を捨てたいと願わない限り、誰かが考えを《変えさせる》のは不可能だ』
ならば…どうすれば良い?
『信仰対象としての《神》を否定することなく、悪虐なカルト部分だけを否定することが可能だろうか?』
その可能性ならば0では無いはずだ。
コンラートはミリアムやオードイル、そしてアリスティア公国の民やアルフォード達を見回して思った。
彼らもまた生まれ育った環境の中で《魔族は悪》たることを刻み込まれながらも、現実の触れ合いの中で既成概念を打ち砕いてきた。
いきなりは無理でも、段階を踏めば理解を深めていくことは出来るのではないか。
『その為には媒体が必要だ』
「ミリアム、あの中に君の救いたいルクサス神父長がいるか分かるかい?」
「分かりません…。ですが、頑張って捜してみます!」
「何としてもお救いしよう」
「は…はいっ!」
コンラートは煌めくミリアムの瞳に少々罪悪感を感じながら苦笑した。
ルクサスを救いたいという心情が、必ずしも単純な正義感から出たものではないことを自覚していたからだ。
* * *
『どうなっているのだ…。わ、儂はどうなるのだ?』
笑顔を浮かべているにもかかわらず、ウィリバルトの胸の内には恐怖と疑問の嵐が吹き荒れていた。
今や身体のどこもかしこもウィリバルトの意志に従わず、思考の何処にもない台詞を口にしているというのに誰も異常に気付いていないのである。
いや…もしかしたら気付いてはいるのかも知れない。
けれどもそれを口にして激しい叱責に合ったり、下手をすれば拷問塔送りにされることの方が現実的に怖いのだろう。
ならば少々《おかしいな》と思ったところで、口を閉ざして淡々と言われるがままに作業を進めた方が良い。
彼らをそのように《育成》してきたのは誰あろう…ウィリバルト自身である。
『うわぁ…う、うわわ…ぅわぁああ……っ!』
目の前でどんどん鉄製の杭が大地に突き刺さり、円形に鉄条網の茨が整形されていく…。
それが何を意味するのか…特に、《神》を模した人形は運搬されていないという事実がウィリバルトを恐慌状態に陥れていく。
しかも、信徒達は《ウィリバルトの命令通り》に針金へと貴重な油を刷毛で塗り込め、点火しているではないか。
ボ…っ!と勢いよく燃え上がる炎が、一瞬視界を紅く染めた。
油の量が少なかった為か炎自体は数分も経たぬうちに燃え尽きたものの、不穏な熱量を持つ金属は怪しい光沢を持って次なる動きを待っている。
『一体…何のつもりなのだ…っ!?』
ウィリバルトの心情とは裏腹に、皺くれた顔や腕は勝手に動いて信者達を扇動する。
「諸君…我らは運命の日に立ち会うことになる!今日この時…神は地上に蘇られるのだ…っ!!」
ざわ…
信者達だけでなく、これには付き従ってきた神父達までもがぎょっとしたような表情を示し、死んだ魚のように濁っていた瞳に少しだけ人間らしさが覗いた。
「《神》ですと…?それでは、これまでは一体何処におられたのですか?」
「それはお前等如きが知って良いことではない。儂だけが知る事実だ」
『そんなこと、儂が知りたいくらいだ!』
いつものようにこの馬鹿どもを罵倒してやりたいのに、声も腕もまるで自由にならない。
『そういえば…他の二つの箱に行かせた連中はどうなるのだ?』
何をすれば神…創主の蘇りに繋がるかなどウィリバルトですら知らないのだが、やはり同じように拷問道具や鉄条網を携えた一群を送り込んでいる。
先導させている神父達にも《全ては神のお導きだ》と分かったような分からないような説明だけして送ったのだが…今から、一体何が起こるのだろうか?
ウィリバルトの疑問に、ウィリバルト自身の構語器官が答えてくれた。
「諸君の苦痛と悶絶の声が、神を蘇らせるのだ…!さあ、まずは儂が見本を見せようぞ…っ!忠実なる者どもよ、続け…続け……っ!」
『何…なに…ナニ……っ!?』
両腕を大きく広げたウィリバルトの身体が、ゆっくりと後退していく。
背後には、長い棘を持つ鉄条網が手ぐすね引いて待っているというのに…。
ブツ…っ…
ジュウゥウウウ……っ!
首筋と背中の真ん中に、最初の棘が刺さった。
つい先程油に点火した為に金属は熱を持ち続けており、肉が刺さる度に異臭と音を放ちながら蛋白変性を起こしていく。
「きゃぁああああ……っっ!」
「う…ぅわ…っ!…大教主様…っ!?」
固唾を呑んで見守っていた人々が絶叫を上げるが、ウィリバルトの方は叫ぶことすら許されない。
『………っ!……』
筆舌に尽くしがたい痛みが脳天から爪先まで劈(つんざ)いたが、ウィリバルトの脚は主の意志を相変わらず無視してゆっくりと…力強く後退し続ける。
『痛い痛い痛い痛い……っ!…だ、誰か…助けてくれ……助けてくれぇぇええ……っ!』
その叫びは、これまで幾度もウィリバルトが耳にしてきた言葉だった。
抵抗できない弱々しい美少年を閨で啼かせ、暴力と権力によって拘束した敵対者や、気に喰わぬ者を拷問器具で痛めつけた際にウィリバルトが耳にした言葉。それを聞く度に、ウィリバルトは相手の脆弱な精神を嘲笑ったものだった。
《この程度の痛みでみっともなく泣き喚くものよ…》《ほれ、もっと啼いて見せよ…っ!》蹴り回し、傷口に踵をめり込ませて嗤っていた。
『儂が何故…っ!痛い…痛いぃぃいいいいい……っ!』
因果応報を絵に描いたようなウィリバルトに、次々に鋭利な棘が突き刺さっていく。
しかもこの棘は脊髄や心臓、肺といった器官を上手に避けて突き刺さってくるし、熱していたことで傷口が焼かれるので失血が少なく、気を失うことも死ぬことも出来ない。
「さあ、お前達も続くが良い…っ!」
恐るべきお誘いに、すぐさま《我も》と同調してくる者は流石にいなかった。
「勇気が出ぬか…?ならば、手伝ってやろう…。さあ、神父達…忠実なる信徒達を天国に送るのだ!儂と共に聖なる茨に繋ぐのだ…!道具が足りねば各自の得物を用いて、舌を抜き…乳房や手足を切り落とせ…!血と断末魔の絶叫で神を呼び覚ますのだぁあ……!」
自分が犠牲になるのでなければ、ウィリバルトの命令に従おうという者はいた。
神父達はまず拷問塔に繋がれていた罪人達(実際には殆どが無実の者ばかりであったのだが)を乱暴に掴むと、ウィリバルトの横に幾つも並ぶ鉄条網の茨へと運んでいった。
その中には、どうなることかとおろおろ見守っていたルクサスもいた。
* * *
『気が狂っておる…』
ルクサスは自分の目の前で展開される光景が、この世のものであるとは認めにくかった。
内心嫌悪していたとはいえ、それでも聖職者の長たるウィリバルトが、ここまでの凶行に及ぶとは思わなかったのだ。
いや、ウィリバルト自身が率先して我が身を捧げるのでなければまだ理解できたかも知れないが…彼本来の性格から考えてもこれは異常事態である。
呆然としたままウィリバルト子飼いの神父に肩を掴まれたルクサスは、目の前に迫ってくる鉄条網に恐れを成していたのだが…不意に、見知った親子を見いだした。
確かあれは、夫を拷問塔送りにされて…その恥を濯ぐ為にもと必死に信心に励んでいた母と娘ではなかったろうか?
娘の方はまだあどけない少女で、一体何が起きているのかも分からず必死で母のスカートにしがみついている。
母は神父が罪人の一人を抱えようとしているのを見ると、泣きながら腕を取って《お許しを…!》と叫んでいる。きっと、捕まっていた夫なのだろう。
しかし神父は鞭のようなもので母を打ち据えると、庇うように身を翳した娘にまで鞭を振り上げるではないか…!
「止めろ…っ!」
ルクサスはまだ後ろ手に縛られていたが、脚は開放されていたものだから突進していって神父の背に体当たりした。
「逃げろ…っ!せめて娘だけでも逃がすのだ…っ!」
「ル…ルクサス様…っ!」
今までのルクサスならば、決してこのように自分の身を投げ出してまで人を救おうとはしなかったろう。
だが…人とは、一体いつどのような機を得て開眼するか分からぬものである。
卑怯な日和見虫と呼ばれていたルクサスの心には、今は燃え立つような使命感があるのだった。
「ルクサス様…猊下に反抗されただけでなく、神の蘇りまで阻止されるおつもりか!?」
「蘇るだと…?神が蘇るというのなら、我々が今まで拝してきた神は何だというのだっ!」
「…う……っ」
実はよく分からぬまま従っていたらしい神父は言葉に窮してしまう。
腰巾着時代のルクサスしか知らない神父は、よもやこの老人が正鵠を突いてくるとは思わなかったに違いない。
「大体…場所を考えろ!神が何故このような不浄の場所で蘇るというのだ?ここは…」
言いかけて、ルクサスは慄然とした。
何故ここなのか?
ここでなくてはならなかったのか?
恐るべき予測は、十分な説得力をもってルクサスの脳髄を揺るがせた。
「まさか…ウィリバルトが蘇らそうとしているのは…《禁忌の箱》なのか?」
ここだけでなく、場所が知れている2カ所の埋没地点にも信徒を送り込んでいるのだ。
突然の思いつきとはいえ、実にあり得る話だ。
ぎゃぁあああ……っっ!!
絶叫に我に返れば、神父や熱狂的な信者の手で罪人達が灼けた鉄条網に張り付けられようとしていた。
「い…いかん…っ!止めろ…っ!お前達、《禁忌の箱》の封印を解けばあの大災害が再び天地を覆うのだぞ!?止めろ…止めろぉぉお…っ!!」
止めなくては。
何としても止めなくては…っ!
焦る想いに声が上ずるが、使命感に目覚めたとはいえやはりルクサスは体力のない老人だ。先程の神父に頬を2、3発殴られるとすぐに動けなくなってしまう。
そして、ズル…ズル……っと引きずられていく先はあの鉄条網だ。
『くそう…くそぉおう……っ!』
今になって蘇るのは、理知的だった先代大教主のことだった。
線の細い学者肌の大教主、マルコリーニ・ピアザ…彼は大・小シマロンが《禁忌の箱》を手に入れた際に強い懸念を示していた。
どうやら古い文献を精査する内に《禁忌の箱》が人間の手には余るものであると認識し、大・小シマロンの国王に使用を禁止する通達を出すように手配しようとしていたらしい。
ルクサスにも協力を求めてきたのだが、当時大きな権力を持っていたシマロンに逆らうことで不利益を被るのが怖くて、よく話を聞きもせずに断ってしまった。
マルコリーニが無惨な死を遂げた後、その死について調査しようとした息子バルトン・ピアザの要望にも応えなかった。
影でウィリバルトが不気味な力を使ったのではないかと恐れていたからだ。
『申し訳ない…申し訳ない、マルコリーニ様…バルトン殿!』
その時の罪が、今…ルクサスを鉄条網へと導いているのだろうか?
ちょっと善行を積んだくらいでどうにかなるものではなかったのだろうか?
「う…うぅう…せ、せめてひと思いに殺してくれっ!針金でじわじわ死ぬのは嫌だっ!」
「何を仰る…。猊下自ら磔となって模範を示されたのですぞ?神父長たるあなたがそのようなことでは示しが付きませぬな」
もう神父長の座など剥奪されたも同然であることを分かっていながら、神父はにやにやと残酷な嘲笑をみせる。
だが…突然、その余裕の笑みが消し飛んだ。
「何だ…?あれは……」
「……っ!」
ドド…ッ…ドド……ッ!
ドッドド…ドッドド……ッ!
乱杭歯のように屹立する鋭い岩をもろともせず、巧みな手綱捌きを見せながら突撃してくるあの一団は…あれは、まさか…っ!
「眞魔国軍か…!」
これほど慕わしくその名を呼ぶ日が来るとは思いも寄らなかった。
しかもしかも…その一群の中に、眞魔国兵と共に騎乗したミリアムの姿があるではないか…!
向こうもルクサスの姿を見つけ出すと、涙を目元に浮かべて拳を突き上げ絶叫している。
「ミリアム…!」
助けに来てくれたのか…!
見捨てずに…魔族を説得して来てくれたのか…!?
胴が震えるような感動を味わいながらルクサスが一歩踏み出そうとしたその時…
ドゥ……っっっ!!!
凄まじい音が背後に轟いたかと思うと、激震が大地を襲った。
「う…わわわ……っっっ!」
振り向いた先でルクサスが目にしたものは…巨大な裂隙の中から湧き出てきた土砂の固まりだった。
《そいつ》は…そう、意識を持った存在だと認識される土砂の固まりは、赤黒く光る双弁で眞魔国軍を睨み付けたかと思うと…ニィ…っと口裂(…の、ようなもの)を釣り上げて嗤ったのだった。
まるで、彼らの到来を待ち受けていたかのように…。
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