第三章 ]VーB
「げ…猊下、一体何を…!?」
配下から正気を疑われているのは、双黒眼鏡の少年ではなかった。
銀に近い純白の長髪と髭を持ち、高価な白絹に身を包んだ大教主ヨヒアム・ウィリバルトの方だ。
彼は寵愛していたはずのミリアムの頭髪を、頭皮が剥がれるほどの勢いで鷲掴みにしたままズルズルと廊下を歩いていた。そして、その先々で《聖戦だ》と呼ばわっては檄を飛ばし、信者を大広場に集めるよう指示しているのである。
『とうとう…発狂したのか?』
数人の神父のうち、最も痛烈な感想を抱きつつも…同時にえもいえぬ不安に背筋を震わせたのはバイアント・ルクサスであった。
大教主に次ぐ神父長という役職に就くルクサスは、ここ十数年というもの…ウィリバルトに対して嫌悪を抱きつつも、その足下に追従するという鬱屈とした日々を過ごしていた。
逆らおうとする心は常に、圧倒的な恐怖感によってねじ伏せられてしまうのだった。
ルクサスの恐怖感の起源は、11年前の…先代大教主の死に絡んでいる。
ウィリバルトが手を下したという証拠はない。
だからこそ現在、この男が大教主をやっていられるわけだが…先代大教主の無惨な死に様は、《人ではない何かの手によるものではないのか》…と、死体慣れしているはずの検死官をして慄然とさせたものである。
彼の死は表向き《禁忌の箱》による被災時の事故とされているのだが、幾ら大規模な天変地異があったとはいえ、尖塔頂点にある聖なる茨…金属製の長い棘が無数に突出するそこに、腹を割かれて逆さに張り付けられるなど…どんな状況で起こるというのだろう?
しかも彼の体内には茨が入り込み、孔という孔から棘を突出させていたのだ。
まるで、彼の身体を依代として金属の茨が生えてきたかのように…。
『この男は…何か、奇妙な存在と契約しているのではないのか?』
その後もルクサスは、度々そのような状況に遭遇している。
当時、大教主の座を狙っていた対抗馬はウィリバルトの他にも数人いたのだが、現在生き残っているのはルクサスだけだ。
後は…特に公然とウィリバルトを批判したフォルスト・バッカート…教会内では数少ない《廉潔の士》と呼ばれていた友人は、先代大教主と同じように惨い《事故死》を遂げている。
そんな中、唯一人生き残ったルクサスは忸怩たる想いを抱えずにはいられなかった。
何故なら…彼が生き残っているのは自分の説を枉げ、ウィリバルトに阿(おもね)ってきたからだ。
親友だと思っていたバッカートが非業の死を遂げた時ですら、ウィリバルトの関与を疑いながらも調査する勇気が無かったし、先代教主の息子に《力を貸してくれ》と頼まれた時にも、怯えきって拒絶してしまった。息子はその後ウィリバルトに狙われ、逃げるようにして聖都を後にしたと聞いている…。
いっそのことルクサスも同じ価値観を持って《悪人》に成り果ててしまえば楽だったのだろうが、偽善と分かっていても蹂躙される稚児に菓子や痛み止めの薬をやったり、無実の罪で拷問塔に収監された者が減刑されるよう取りはからったりしてしまう。
けれど…それも結局目先だけのことで、彼らがウィリバルトの気まぐれで傷つけられたり、処刑されたりすることを止めることは出来ないのだ。
『私は…善人にも悪人にもなれぬ小物だ……』
今も…特に可愛がっていた稚児のミリアムが息も絶え絶えに引きずられていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
仲間思いで純粋なミリアムは、ルクサスのことも慕って甘えたりしてくれたのに…。
『許してくれ、許してくれ……』
許されるはずがないと分かっていながら、ちらりと視線を向けてしまったルクサスの前で…ミリアムは思いがけない行動に出た。
絶対的な存在に対する恐怖を、非人道的な扱いに対する怒りが一時的に凌駕したのだろうか?
ミリアムは…ウィリバルトの手を掴むと、珊瑚色の爪を立ててガリリ…っと引っ掻き、驚いて手が外れた瞬間にがぶりと噛み付いたのである。
「くひぃぃいぃーっっ!!」
獣じみた声で叫んだウィリバルトは、自分に傷を与えた存在が人扱いしていないミリアムなのだと認識した瞬間…怒りの形相を露わにして、幼い少年の細首をギリギリと締め上げ始めた。
「お…おや…お止めくださ……っ!」
流石に目の前で展開される扼殺現場を見逃せなくて、反射的に手を出したルクサスは…激しく後悔した。
「止めろ…だとぅ…?」
『ひぃいいーーーっっ!』
ウィリバルトは口角から蟹のように白い泡を噴き出し、ギョロつかせた目の焦点が合っていない…。右目は上を向いてぴくぴくしているし、下の目はぐるぐると回転しているではないか…!
止めようとしたことを即座に《無かったこと》にしたくなったルクサスだったが…思わず視線を向けた先では天使のように愛くるしい顔立ちのミリアムが、真っ赤になった顔を涙で濡らしてルクサスの方を見ている。
口をぱくぱくさせながら、声にならない声で懸命に《たすけて…!》と叫ぶ姿に、ルクサスの罪悪感はきゅうきゅうと刺激されてしまう。
『止めてくれ…そんな目で見んでくれぇえ…っ!わ…私こそ助けて欲しいくらいだ…っ!』
自分は単なる小心者の日和見風見鶏の矮小な老人なのだ…!
そう主張したいのだが…ミリアムの瞳に諦めの色が浮かび、藻掻いていた指にも力が入らなくなってきたのか、ぱたりと床に落ちていくのを見てしまうと…ルクサスはどうにもこうにも耐えられなくなって、とうとうがむしゃらにウィリバルトへと掴みかかってしまった。
「ぅわわぁああぅぅう……っっ!!」
ここ数十年来思い切り身体を動かしたこともないので、一体どうやって良いのか分からないのだが…もうもう、夢中で腕を振り回してウィリバルトを叩くルクサスに、周囲の連中は呆気にとられているようだ。
《腰巾着》という異名をとる男が、一体どうしたことかと思っているのだろう。
「貴様…貴様……儂に逆らう気か…!?何故だ…誰も彼も…何故儂に逆らうのじゃ…っ!」
ウィリバルトはミリアムに続いて《腰巾着》までが自分に楯突いたという事実を受け止め損ね、怒りに顔を赤黒く染めて悶絶している。
『わ…私だって分からんわいっ!』
もう、こうなったらやけくそだ…!
ミリアムを見習ってがぶりとウィリバルトに噛み付くと、どうにかミリアムを救い出すことには成功したのだが…布越しの筋張った身体が突然、ビク…ビクビク…っと奇妙な動きを見せた。
「……っ!?」
ミリアムの身体をどうにか掴んで弾かれたように身を退けると…ルクサスの目の前で、恐るべき《変化》が起きた。
通路の敷石の中から瘴気のようなものが湧きだしてきたかと思うと、それは次第に腐った沼のような臭いと色を帯びながらウィリバルトの体内に入り込んでいったのである。
毛穴という毛穴から忌まわしいものが入って行くに連れて…ウィリバルトは人ならざるものへと変化していった。
ゴキ…
バキ…ギギィィ……
グギョギ……っ…
めこめこと…ウィリバルトの各部関節が捻れたように蠢き、身体の奥から沸騰するようにして筋肉が盛り上がってくる。
長く伸びた首など、あり得ないほど直角に曲がっているではないか…!
「うご……げ……?」
「ひ……っ!」
「うぬ…?ぐ…ぐ……ぅ…。よせ…止めぬか…っ!」
ぺたりと腰を抜かしてしまったルクサスの目の前で、ウィリバルトは胸の布地を掴むとそこに縋り付くようにしてぶるぶると手を震わせ、大きな呼吸音をたてながら深呼吸を始めた。
すると…人外魔境に成り代わりかけていた身体が、メコ…ベキュ…っと音を立てながら元の姿に戻っていく。
相変わらず血走った目がギラギラとはしているものの、どうにか《人の姿になった》ウィリバルトは、多少冷静さを取り戻した声で呼ばわった。
「…お前達!悪魔の使いであるルクサス神父を拘束せよ!」
「……は?」
ルクサスはどこかきょとんとした顔でウィリバルトを見あげ、一体何が起きているのかと見守っていた使用人や衛兵達も同じように呆然としている。
悪魔…という疑いで言えば、どう考えても先程のウィリバルトの方にその呼称を使いたくなるのだが……。
「今、お前達が見たのはルクサスが見せた幻覚である!」
「何という……っ!」
ルクサスの体腔内に怒りのマグマが込み上げてくる。
人ならざる者は自分の方ではないか!
「あのような悪魔的な姿を見せておいて、その強弁ぶり…な、なんという事を言い出すのか!お前達…!み、見ただろう先程の悪夢のような光景を…!」
「拘束しろと言っているだろうが…!」
ルクサスは懸命に言い立てたのだが、如何せん…こういう時は原則として声と態度の大きい者勝ちなのである。
半信半疑の宙ぶらりん状態であったこともあり、衛兵達はつい反射的にウィリバルトの言うことを聞いてしまった。
「馬鹿者…ば、馬鹿者…何故分からぬのだ…!?お前達が従っている者こそが悪魔だと、何故分からぬ…!」
誰も応えはしない。
みんな…思考を拒否する人形のような表情で淡々と無力な老人の身体を拘束しようと手を伸ばしてくる。
ルクサスはただ一人孤立する恐怖に絶句した。
しかし…不意に、唯一人の味方が声を上げたのだった。
「そう…だよ……!」
ふぅ…っと息を吹き返したミリアムは、薄い意識の中でもある程度状況を観察していたらしい。
噎せながらも、ルクサスの身体を庇うように両腕を広げた。
「おかしいのはウィリバルト様の方だよ…!なんで…何で分かんないの?あんなに酷く僕の頭を掴んで引っ張っていくような人が、どうしてちゃんとした人だって思うの…っ!?そんな中で、たった一人僕を助けようとしてくれた、お優しいルクサス様を…どうして捕まえようとするんだよ…っ!」
「ミリアム…っ!」
涙が溢れそうになる…。
ああ…きっと、ミリアムもまた先程のルクサスのように孤独で哀しくてしょうがなかったのだ。
こんなふうに、互いに無力な者同士であったとしても…それでも、《助けようとしてくれた人がいた》という事実は、お互いにとってかけがえのない救いになる。
『ならば…最後までやってみよう…!』
ルクサスはミリアムの身体を掴むと彼が持ちうる最大の膂力を持って抱え上げ…一言《逃げろ…!》…と、耳元に囁いてから渡り廊下の窓にぽぅんっと投げ出した。
ここは2階だし、脇には植え込みがある。すばしっこいミリアムなら怪我はすまい。
「…貴様…っ!」
「はは…は!」
『やってやった…やってやったぞ…っ!?』
なにやら爽快な気分だ。
幼い頃から自己主張に乏しくて、強い者の後を魚の糞のようについて行く奴だと馬鹿にされてきた…。
そんなルクサスが、教会の中で最大の権力を持つ男に反抗して、それを完遂させて見せたのだ。
後はもうどうにでもなれという気分で、ルクサスはひとしきり笑うとその場に座り込んだ。
横合いから叱責を恐れた衛兵達が殴りかかってくるが、興奮しているせいか痛みも恐怖もあまり感じなかった。
ただ、体力のない老人であることに変わりはないらしく…次第に意識は遠のいていった。
『逃げろ…逃げろ、ミリアム……』
ルクサスの生涯でもしかすると、一度きり発揮できた勇気の発露によって救えたかもしれない子ども…。
この厳しすぎる環境下で彼が生きていけるかどうかは分からないが、それでも今は…ただ祈りたかった。
不思議とその時思い浮かんだのは、数十年にわたって祈り続けたあの丸い茨とぶよぶよとした革製の人型ではなく…突き抜けるように青い空とか、輝く太陽であった。
そこにこそ祈るべき対象があるのではないか。
そう…感じながら。
* * *
「おお…なんと言うことだ!この聖なる教会の中にまで悪魔が出現したとは…!こうなれば儀式を迅速に執り行わねばならん…!」
ウィリバルトは完全にルクサスが意識を失ったのを確認すると、衛兵や忠実な神官達を集めて指示を出した。
拷問塔からありとあらゆる道具を幌馬車に積み込み、信者と共に3つの集団に纏めさせると、そのそれぞれを《禁忌の箱》に向けさせた。
その中には自主的に参加した信者達もいたが、ルクサスのようにウィリバルトに反抗したり、機嫌を損ねて拷問塔送りになった《罪人》達もいた。
彼らの中にはあまりに長い期間を暗黒の中で過ごし、耐え難い苦痛を与え続けられた為、言葉を忘れていたり光に当たることを恐れる者もいたが、厳しく鞭打たれるとようよう動き出した。
それらの指揮を配下の神官に委ねると、ウィリバルト自身は再び閨に戻ろうとしたのだが…不意に、身体が言うことを聞かなくなった。
『ぬ…うぅ……?』
先程…ミリアムやルクサスの反抗を受けて気が高ぶりすぎた影響なのか、それとも…躰の中に入り込んできた瘴気の影響なのか?
ウィリバルトの四肢と喉は彼の意志に反して、妙に律動的に…しかし、どこかバネが効きすぎた人形のような不自然さを見せて衛兵達に向き直った。
「今回は儂が直々に指揮を執る!出立の用意をせい…っ!」
『な…何を言うておるのだ…っ!?』
仰け反って口を閉ざそうとするが、身体中のあらゆる筋がウィリバルトの指示に反して行動している。
いっそのこと意識もなければいいのだろうが、こちらは明瞭なまま…自分の身体が完全に乗っ取られていることを感じ取る。
『こ…こんな筈では…っ!』
11年前…確かにウィリバルトは《契約》を交わした。
得たいものを得られるようになるとの約束に飛びつき、《思い通りに動く》との契約で自分の願いを叶えて貰ってきたのだ。
だが…《思い通りに》というのはあくまで概念上のことで、決してこのように行動の自由を奪われることではないと思っていた。
『ぅわ…う、うわわ……っ!』
絶叫は唯一自由になる思考認識の頭野でのみ発揮され、決してウィリバルトの外に放出されることはなかった…。
* * *
『どうしよう…どうしよう……っ!』
ミリアムは息の続く限り、脚の保つ限り駆けていった。
室内履きの柔らかい薄布靴はあっという間に裂けてしまい、足の裏は石を蹴り、シダの枯れ草に抉られて血を吹き出しているが立ち止まることはしない。
何とか息をついて後ろを振り向いたのは、聖都の北方に広がる針葉樹林の中に入ってからだった。
は…はぁ……っ…
喉が焼け付くように痛くて、ひりつく粘膜からは焦げ臭いような匂いを感じる。
けれど、そんなことよりも頭の中を埋め尽くしていたのは…これからどうすべきかということだった。
ルクサスは、身体を張ってミリアムを助けてくれた。
この恩義に報いる為に何としても彼を救い出したいが、このまますぐに戻ったのでは彼の行為を無にすることになるし、助けることなど叶わないだろう。
ならば…一体どうしたら良い?
この大陸の中で、一体誰が自分達を大教主の手から救ってくれるのだろうか?
大教主とはすなわち絶対的な権力者の意であり、その威光は国王にも勝る。
《神の怒り》等といったものまで持ち出せば、不信心者であってもウィリバルトの方に就くだろう。
『でも…やだ……!何もしないまま僕だけ逃げられないよっ!』
ミリアムは、ぜい…ひゅう…と未だ荒い息の中で、ぼろぼろと涙を零しながらしゃくり上げた。
普段優しくしてくれた人たちは他にもいた…だが、大教主の怒りを買ったことが明白なミリアムを、あの状況下で救おうとしてくれたのはたった一人…ルクサスだけなのだ。
このまま見捨てるなんて出来ない。
それくらいなら、救えないと分かっていても反転して共に捕まった方がましだ。
『考えろ、考えろ…っ!僕は馬鹿なんかじゃないっ!ちゃんと考える頭を持っているもの…っ!』
ウィリバルトが言っていたような、尻の孔で男を悦ばせることしかできない無能者などではないのだ…!
『そうだ…!』
突然の閃いたのは《あの軍隊》…。
おそらく…現在大陸に存在する勢力の中で唯一、ウィリバルトに公然と敵対する軍であった。
だが…彼らに縋ることはすなわち、今までの信仰を蹴り飛ばすような意味合いをもつのだ。
『眞魔国軍…魔族に、お願いするんだ……っ!』
毒をもって毒を制すとはまさにこういう状況を言うのだろうか?
悪魔的なウィリバルトに対して、魔族をぶつけるのだ。
そもそも教会の対抗勢力だからといって、彼らが何も持たないミリアムに協力して神父長を救う義理などない。
分かっている。分かっているけれども…!
『きっと…可能性があるとすれば、そこしかない…っ!』
魔族軍は今どこにいる?
考えろ…思い出せ……っ!
『そうだ…僕は大教主への敗戦報告を頼まれたんだ。あれは…アリスティア公国の近辺で聖騎士団が倒されたっていう話だった。だとすれば…』
ミリアムの脳裏に、神父達が持っていた地図の画像が蘇る。
聖都、アリスティア公国、そして…三つある《禁忌の箱》。
その経路を結んだ線のどれかに進めば、少なくとも手がかりはあるはずだ。
『急げ…っ!』
ミリアムはきりりと顔を上げると駆けだした。
ルクサスを、救う為に。
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