第三章 ]UーD



 


 朝日を受けて、アリスティア公国名物の円月状防御壁がきらきらと輝いている。
 明るい卵色をした防壁は同色の自然石を幾重にも重ねて作られたものなのだが、何故こうも隙間無く、頑強に作られているのか説明できる者は居ない。

 しかもこれは建造されてから数千年を閲する歴史的建造物であるのだが、風雪によって摩耗する様子もないのだ。

 《人間が作ったものではないのではないか》…何度も噂に登るのだが、それもまた証拠があることではないので無責任な推測話の域を出ることはない。
 だが、この公国の起源を知る大公家の者にとっては話は別だ。

 知っているからこそ…語れないこともある。

『防壁を一歩出た途端に、この荒廃ぶりだ…。どれほど我らが護られた存在なのかが分かるというものだ』

 ポラリス大公はアリスティア全軍が防壁外に出たことを確認すると、大跳ね橋を上げるよう命じてから付近の様子を観察した。

 大跳ね橋と防壁の間から覗くアリスティア公国の土地は、昔に比べれば緑の度合いが薄いものの、それでも未だ目に優しい色をしている。
 だが…振り返って防壁外の風景を眺めると、そこは死後の世界を思わせる荒涼とした色彩をしていた。

 色だけではない。
 形もどこか奇妙に拗くれている。

 健やかな存在であったものは死に絶え、荒れ果てた土地の中でしぶとく生き残った動植物は大抵奇形に育っており、木々は根方から裂け…うねり、草も風を受けるよう天に伸びるのではなく、おぞましい触手のように大地を張っている。

 大地自体もそこかしこに裂隙が見られ、硫黄の匂いや色の付いた熱風が噴き上がっているのだ。

「酷い有様だな…」
「ああ、今年に入ってから特にな…」

 独白のつもりで囁いたのだが、馬首を並べるマルティン将軍には伝わってしまったらしい。
 共に50代の彼らは幼馴染みで、深い絆で結ばれた友人でもある。これまで気がかりなことも大抵は共有し合っていた。
 だから、この光景に対して抱く想いにも近いものがあるのだろう。

 互いに気苦労のせいか、40代の後半くらいから髪に白いものが目立ち始めているが、それでも未来に希望を失っていない瞳には、他の同世代には見られない強さが残っている(…と、思いたい)。

「ポラリス、何時になったら話してくれるのだ?」
「待て。全ては魔王に会ってからだ」
「それまでは、俺にでも言えぬと?」
「すまん…俺もまだ迷っているのさ」

 普段は取り澄まして《私》という一人称を使う二人も、小声で囁き交わす今は幼い頃のように《俺》と口にしてしまう。
 マルティンの方は殊更そこを強調して親しみを示そうとしているのだが…申し訳なさそうに眉根を寄せつつも、ポラリスはまだ打ち明けようとはしなかった。

『頑固者め…』

 そうは思うが、首根っこを押さえて吐かせようとは思わない。
 この男がそうまでして秘密を保持しようとするということは、やはり今回の出征にはそれ相応の理由があるのだろう。

『無事に…帰ってきたいものだ……』

 最後に一目だけ防御壁に眼差しを送ると、マルティン将軍は全軍に命令を下す。
 迷いを残しながらも、彼らは進まねばならないのだ。



*  *  *




「アリスティア公国だって?ふぅん…それは僕も失念していたな」
「ご存じなのですか?」

 コンラートは法力除けを施した幌馬車の中で、土の要素の魔石越しに村田と会話をしている。
 村田の横でちょろちょろと顔を出してくる有利の動きが小動物を思わせて愛らしく、つい頬が笑みを片づくろうとするのを意識的に引き締めた。

 アリスティア公国の下した決断…そして、その要因となったものは、やはり《禁忌の箱》…そして、魔族に関わっているようなのだ。

「ああ、だってあそこの円月壁は僕が設計したんだもん」
「なるほど、だからあのようにしぶとい造りなのですね?」
「……君、言い方が軽く失礼だよ?」
「申し訳ありません……」

 つるっと口が滑ったせいで、映像越しにも村田の眼鏡がギラギラして怖い…。
 
「凄い!村田ってマジで何でも出来るんだな…っ!何千年も持つような壁作っちゃうなんて、やっぱ天才だよなーっ!」
「いや…まあ、僕一人で作ったって訳じゃないしね」

 流石の村田も、手放しに絶賛する有利に対しては少々面映ゆそうに謙遜してみせる。
 
「それに、あの壁がそこまで持つってことは…アリスティアの民は未だにアリス湖を信仰対象にしてるって事だ。湖の精霊があの壁を支えているんだからね。よくまぁ長期間にわたって教会を騙し仰せたものだよねぇ…」
「ええ、世渡りの上手い国だとは聞いていましたが…。しかし、それならば尚のこと、何故今になって数千年も誤魔化してきた教会に敵対してまで、魔族に協力しようと決意したのでしょう?」
「まだ推測の域は出ないけどね…。そのポラリスって大公殿下は余程色んな事を知ったんだろう。しかも、知識だけでなく11年前の《禁忌の箱》の開放騒ぎの時に、彼は実証を目の当たりにしたんだと思う。あれほど《凍土の劫火》に近いにも関わらず、アリスティアが荒廃していないのが何よりの証拠だ」
「目に見える形で…湖が公国を護ったのでしょうか?」
「そうだろうね。一般人には《偶然》や《奇蹟》と映っても、大公家に代々伝わる伝承…それも大陸には珍しく、教会の検閲を経ていない生の記録を目にしている者には分かったんだろう。自分たちを守護したものが魔族と強い結びつきを持つ、湖の要素…精霊の力なんだと」
「そこまで分かっているのであれば…ひょっとすると……」
「ああ、《禁忌の箱》と教会の繋がりにも気付いているのかも知れないね」

 村田の口調は何処か同情めいている。
 この時代の大陸内にあって、《真実を知っている》ということはとても大きな重責だろう。
 知っているからこそ誤魔化せず、敢えて困難な路を進もうとしているポラリス大公という男に同情しつつ…同時に、喝采を送りたいとも思っているようだ。

「人物を見極めてくれ、レオンハルト卿…。そして、本当に私心なく魔族に協力してくれるというなら、僕たちはどんな助力も惜しまないと伝えてくれ」
「承りました…!」

 村田と同じ思いでいるコンラートは、重々しく頷いた。
 そして、出来る限りの歓待で大公を迎えるべく準備を始めたのだった。



*  *  *




『この男が…魔王、レオンハルト卿コンラート…』

 ランドアナ丘陵を抜けて約束された峡谷へと踏み入れたポラリス大公は、遠目に黒衣の人物を確認して驚嘆した。

 若い。
 そして…驚くほどに美しい。

 魔族を直接目にすること自体が初めてのポラリスは、一瞬…魂を抜かれそうになって不安を過ぎらせた。

『この美しさで誘惑されるのでは…』

 魔性の罠に捕まるのではないかと懸念したのだ。

 しかし、ほどなくそれを否定する気持ちの方が強くなった。

 コンラートは近づいてくるアリスティア軍を認めると単身、歩を進めてきた。
 帯剣はしているが柄に触れる様子もなく、《あなた方を信頼している》という思いを全身から滲ませながらゆっくりと歩を進めてくる。

 その面差しはやはり美しく凛々しく…想像していたような淫猥さは持ち合わせておらず、爽やかな清冽さでポラリス大公を包み込んだ。

『これは…』

 ポラリス大公は衝動に突き上げられるまま、反射的に馬を降りると早足に駆けていった。
 《容儀が軽い》と普段から言われがちだが、50年と少し生きてきた中で通常の人間よりは人物の見極めをしてきたポラリス大公は、自分だけでなく国の盛衰を握るであろうコンラートを一刻も早く己の目で確認したかったのである。

「殿下、お目にかかれたことを光栄に存じます。第27代眞魔国魔王…レオンハルト卿コンラートと申します」
「お…おお…これは失礼しました!私の方から名乗るべきところですな…!我が名はポラリス・カティアスと申します。アリスティア公国の大公を務めております」

 清雅な物腰で礼を交わす二人の内、ポラリスはどうしたことか…己の頬に伝うものを感じて驚愕していた。

『涙…?』

 どうしたものか…コンラートの崇高な人物を感じ取った途端、込み上げてくる感情を御しきれなくなったポラリスは、反射的に涙を零していたらしい。

「どうかなさいましたか?お疲れでしたら…少し時間を取り、休息の後に会談させていただきましょうか?」
「いえ…どうか、このままお願いします。いや…出来れば、二人きりでの会談ではなく…アリスティア、眞魔国両軍の皆に伝えてもよろしいでしょうか?この度、大公家が下した決断の意味を…!」
「…分かりました」

 どうやら、コンラートの方でもある程度こちらの事情を察しているらしい。
 重々しく頷くと、素早く後背に控えていた側近に指示を出して全軍に招集を掛けてくれた。

『間違っていなかった…魔族は、頼むべき存在であり…古(いにしえ)からの仲間なのだ…!』

 いや、仲間というのも烏滸(おこ)がましいかもしれない。
 かつて人間に高い知識と技能を授け、アリスティア公国に絶対的な鉄壁を授けてくれた魔族は《恩人》とも言うべき存在なのだ。

 彼らが《禁忌の箱》を滅ぼすべく大陸入りした今、古の誓いを護る為に出征してきたポラリスの決断は間違っていなかったのだ…!
 
『正しかったのだ…!』

 傍らに歩を進めてきたマルティン将軍からハンカチを借りて目元を拭いながら、ポラリス大公は尚も涙を流し続けた。

 迷いの中から選び出した結論を、この親友にも受け入れて欲しいと祈りながら…。



*  *  *




 集まったアリスティア、眞魔国軍全ての兵の前で、ポラリス大公はある《歴史》を語り始めた。

 眞魔国軍にとって、その内半分以上は《当然》《既知》のことであったのだが、アリスティアの兵にとっては全てが瞠目(どうもく)すべき事柄であった。



 かつて、世界を作り出した原初の神々…《創主》は偉大な力を持ちながらも荒ぶる力を自ら御することの出来ない存在であった。
 あまりにも大きな力を持つ神々は系統の異なる者同士で覇権を争って天地を動乱させ、世界創世の過程の中で生み出した他の動植物に対する愛情など持ち合わせていないようだった。

 そんな中、《創主》を恐れ敬うだけでなく、何とかその暴虐ぶりを収める事は叶わぬのかと模索したのが魔族だった。

 そして彼らは《創主》の性質を調査していく中で驚くべき事実に達したのである。

 彼らは確かに世界を生み出しはしたが…本来は、生み出すと同時に適切に分散して循環していくべき存在だったのだ。実際、そのように変化していった存在は《要素》や《精霊》と呼ばれて世界に適合し、育み育てるものへと成長している。

 しかし、《創主》と呼ばれ荒々ぶる《神》は異質なものへと変性してしまった。
 このため世界に適合することが出来ず、充足できない何かに身悶えする度に天地を破壊するようなものへと変わってしまったのだ。

 その源となったのは、皮肉なことに《人間》と《魔族》の持つ感情…特に、嫉妬であった。

 《創主》の力は地・水・火・風の4つに大別されるが、それらはどれが優れており、どれが劣っているという存在ではない。全てが天地の創造と維持の為に必要不可欠なのだ。
 だが、人間や魔族…特に人間については何か自分の好む一つの性質に従属すると、盛んに他の因子を崇める者達と敵対し始めたのである。

 その中で嫉妬や憎しみという感情を強めた《創主》は自らの力を強める為に、既に自立していた他の同系要素を無理矢理に取り込んでねじ伏せ、自分の力に変えていった。同系とはいえ、本来は別の存在であったものを強引に服従させていく段階で、更に《創主》は奇形の度を高めていった。

 人間達はそのような力を持つようになった《創主》を信奉し、清浄であっても比較的力弱い要素や精霊を見つけては、生贄として奉じていったのである。

 そして4つの力を持つ《創主》とその配下の人間達が覇権を争い、最終的な激突を試みようとしたその時期に、魔族を率いる王…眞王が出現したのである。

 この状況に危機感を感じていた魔族と人間とは共に手を携えて闘った。

 その中に、アリスティア公国の宗主国であった古代の大国…《オリハルトュア》も存在した。
 オリハルトュアは人間の国家ではあったが、建国されたばかりの眞魔国にとっては最も有力な同胞であった。

 そして見事、眞王に率いられた魔族と人間の混成軍は《創主》を屠った。

 だが…《創主》が世界を創世した要素の集合体である以上、これを完全に破壊・消滅させることは世界の均衡をも揺るがせると考えられた。最悪の場合、世界が崩壊する危険性すらあると研究者が語ったのだ。

 真の意味でこの問題を解決に導く為には、嫉妬心と怒りで煮え滾った《創主》の感情を揉みほぐし、本来の要素に分解して開放する必要がある。しかし、眞王とて万能の存在ではなかった。

『《創主》との力と力の戦いであれば何度でもねじ伏せよう。だが、性格上…俺には説得という芸当はできぬ』

 眞王はそのように告げると、最も信頼する4人の部下を鍵として《禁忌の箱》を作り出した。

 この時敢えて完全密封しなかったのは、前述のように、そうすることで世界の均衡が崩れることを懸念したのである。
 もしも可能であるのなら、封じた状態で様子を見ながら調教していきたい…そんな意図もあったのだろう。
 こうして、やや不完全ながら《禁忌の箱》は厳重に封じられることになった。


 しかし…平和な時代が訪れたからといって、そこに存在する者達の性質が変わるわけではない。

 
 ことに、《創主》について闘った者達の中には大きな不満が残った。
 彼らは言葉巧みに眞王側に就いた人間達に語りかけたのだった。

『君達は勇敢に《創主》と闘ってきた。だが…その後の扱いはどうだ?同じように闘ったにも関わらず、眞魔国という大国の頂点に就いたのは眞王ではないか。結局魔族という連中は、人間を目下に見ているのさ』

 最初の数十年の間は、そんな誘いかけに応じる者は少なかった。
 だが…哀しいかな、人間の寿命は極めて短いのである。

 実際に魔族と馬首を並べて闘った勇者達は次々に墓地に入り、息子や孫という時代に入ってくると、次第に《創主》とは別物であるという《神》…実際には、過去に奉じていたものと何ら変わることのない存在を信奉する一派に力が集中し始めた。

 こともあろうに…眞魔国の同胞であったオリハルトュアに於いて《神》を奉じる教会が国教に制定された時代から、人間と魔族とは分断の時代を迎えることになる。

 しかし、宗主国の決定に密かに背く存在もあった。
 その一つがアリスティア公国であった。

 オリハルトュアからの厳命で、歴史書の書き換え…オリハルトュアにとって都合の良い形に歴史を歪曲するよう指示されたときにも、彼らは自国の地下深くに秘密の洞窟を建造し、真の歴史を石の壁に彫りつけ…あるいは、一子相伝の口伝として伝え始めたのである。

 その伝承はしかし、時として薄くなり…大公家を継ぐべき家系の断絶などもあって完全に現代へと伝えられたわけではない。
 それでも、彼らの中には魔族によって建造された強力な防御壁と、雄大なアリス湖への感謝の想いが営々と伝えられることになる。
 宗主国たるオリハルトァアが内乱によって滅亡した後も、防御壁の中で国の礎を守り続けてきたのである。

 時流に乗り、摩擦を避けながらも…決してその思いだけは途絶えることなく続いてきた。
 このことが、当代のポラリス大公の時代に大きく表出することになるのである。


 きっかけは、11年前の《禁忌の箱》による被災であった。


 《凍土の劫火》から放たれたと思われる火の玉や溶岩が怒濤の勢いで押し寄せてきたとき、不意にアリス湖が噴き上がり…天蓋のような水膜でアリスティア全土を覆うという《奇蹟》が何度も起こったのである。

 しかし…7日間続いた災害の中で、次第に湖は濁り始め…《奇蹟》はアリスティアを護りきれずに火の玉の落下を許すようになってきた。

『どうすればいいのだ…!?』

 ポラリスは死に物狂いで古文献をあさり、何かアリス湖に力を貸すものはないかと探し回る中で、地震によって崩れた公主館の壁の向こうに…古代文字によって書かれた記録を発見したのである。

 それは…もはや口伝では伝えることの出来なくなっていた、真実の歴史だった。

 おそらく、教会の監視が及ばぬように厳重に塗り込められのだろう漆喰を引き剥がして、ポラリスは死に物狂いでその歴史を読み解いた。
 その中で…かつて行われていた《祭事》の存在を知ったのである。

 アリス湖に住まう水の精霊に感謝を捧げ、祈りを奉じる聖なる儀式…。 
 
 ポラリスが事情を告げぬままアリスティアの民に呼びかけて儀式を行ったところ、目に見えてアリス湖は澄んだ輝きを取り戻し、再び《奇蹟》を創出したのである。

 その奇蹟について、ポラリスは全ての民に他言せぬよう厳命した。
 不思議な現象が起きたとなれば教会から審議官の調査が入り、妙な難癖をつけられる可能性があるからだ。

 だから、湖が起こした奇跡については《天変地異の際に起こった自然現象》として口裏を合わせることにしたのである。

 実際、事情を知らぬ者にとってはその通りなのだから《口裏》というほどのものでもなかったのかも知れないが…。

 そのようにして危機を乗り越えたアリスティア公国に、今また転機の時が訪れた。
 そう…レオンハルト卿コンラート率いる眞魔国軍の到来である。

 公国としてどのように動くべきか、ポラリスは悩みに悩んだ。

 何しろ、彼はアリスティア公国が魔族に対して恩義を持っており、人間として大きな裏切り行為を働いたのだということも分かっている。

 だが…公然と事実を明らかにすることは、教会に対して全面的な敵対表明をするのと同じだ。
 彼らの奉じる《神》が《創主》と全く同質であり、彼らの操る法術が呪わしく歪められた要素の力なのだと告発するのだから…。

 しかし、しかし…教会への配慮から眞魔国軍に対して何ら手を差し伸べぬという選択も出来なかった。

『彼らは…人間が開いてしまった《禁忌の箱》を始末しに、わざわざ眞魔国からやってくるのだぞ?』

 双黒の少年によって奇蹟の実りを生じたという眞魔国が、人間世界にやってくる。
 他国の首脳や教会は口を揃えて《侵略だ》と騒ぐが、既に国内に於いて豊かな実りを得ている眞魔国が、何故力尽きかけている人間世界を侵略しようと言うのか?
 放っておけば自滅するのだから、その時を待つ方がどう考えても得策ではないか。

『忘恩の徒となるか…乗りやすい船に乗り続けるか…』

 個人的な誇りの問題に民を巻き込もうとはしていないか?
 かつての魔族が歴史に示される通り高潔な者達であったとしても、今もそうであるとは限らないではないか…。

 ポラリスは憔悴しきるまで悩みに悩んだ。

 そして、様子を見る内にカロリア自治区とロンバルディア軍での出来事が伝え聞かれたとき…漸く決意するに至ったのである。

『レオンハルト卿コンラートという男を…信じてみよう…!』

 そして、今…ポラリスは感じている。


 決断は、正しく報われたのだと…。 

 
 

*  *  *



 ポラリス大公が全てを言い終えた後、峡谷内には静寂が満ちた。

 アリスティア兵は一様に蒼白になり、自分たちの指導者が為した恐るべき告発をどう受け取ったものか判じかねて息を詰めた。

 彼らは、もともと絶対的な教会信徒ではない。
 その心の源になっているものはやはりアリス湖であり、自然の存在に対して大きな畏敬の念を持ち続けている。
 
 だが…同時に、彼らはそれを秘密にし続けてきたからこそ自分たちの国が維持されてきたことを知っている。

『大きな…決断をしたものだな?』

 マルティン将軍は息を吐きだしてみて初めて、自分の肩にどれ程力が入っていたかを知った。

 きっと…煩悶し続けたポラリス大公の重責は、こんなものではなかったろう。

「ここに…アリスティア公国大公ポラリス・カティアスは宣言する。アリスティア公国はこれより、古(いにしえ)の友誼に基づいて眞魔国と行動を共にし、《禁忌の箱》の棄却に全力で助力するものである!」

 力強く、ポラリス大公の声が峡谷内に響き渡った瞬間…マルティン将軍は堂々たる態度で敬意を表し、胸の前に右手を掲げて跪いた。

「アリスティア軍総指揮官マルティン・ポーラーン…我が身を尽くして、大公殿下の意志に従いましょう…っ!」
「マルティン…!」

 感動に震えるポラリス大公の声に、アリスティア軍の鬨(とき)の声が重なる。

「アリスティア万歳!」
「真の歴史を語る誇りを…末代まで伝えるのだ!」
 
 意気に応じた上級指揮官達が口々に決意を表明すると、動向を見守っていた下級指揮官や一般兵達も呼応し始めた。

「ポラリス大公万歳!」
「同胞、眞魔国軍よ…我らを受け入れたまえ…っ!」

 これほどの意気を見せられて、眞魔国側が拒否することなどできようか?


「我が同胞(はらから)よ…。共に、戦いに赴きましょう…っ!」


 コンラートの声が朗々たる響きを載せて峡谷内に伝わると、今度は眞魔国軍からも鬨の声が上がった。

「コンラート陛下万歳!」
「アリスティア万歳…!」
「同胞よ、君達の到来を歓迎する…っ!」


 わぁあああああ………っっ!!


 巨大な歓喜の声が、怒濤のように峡谷内を満たしていった…。
 
 しかし、そこに奔馬と共に駆け込んできた一騎の眞魔国兵があった。
 鮮やかなオレンジ色の髪をしたその男は、口泡を吹きかけている馬を何とか落ち着けさせると、ひらりと鞍から降りてコンラートの元に駆け寄ってきた。

「おい…隊長、いや…陛下。大事(おおごと)だぜ」
「どうしたヨザ…」

 《水を差すな》と言いたげに眉根を寄せていたコンラートだったが…耳打ちされた情報に、一瞬…恐ろしい形相を浮かべた。
 その表情の主たるものは、《嫌悪》…そして《怒り》であった。

「どう…なされた?」

 嫌な予感を覚えてポラリス大公が声を掛けてくると、コンラートは唇を引き結んでいたが…一拍の後に、伝えられた事実のみを知らせた。

「…聖騎士団が、ハルステッド公国のファリナ公女を拘束したそうです」
「な……に?」

 ファリナ・カンザミア…今年25歳になるその女性は、17歳の年までは別の姓を名乗っていた。
 カティアス…そう、彼女はポラリス・カティアスの一人娘にして、現在ハルステッド公国を治めているバルザント・カンザミアの妻であるのだ。

 それが何故、聖騎士団に拘束されたというのか?

 理由を尋ねるのは恐ろしかったが…察しはつく。
 
「聖騎士団は…何処に向かっているのですか!?」
「…アリスティア公国です……っ!」
「……何という…っ!」

 どこからか…アリスティア軍の行動が漏れたのだ。
 それも、こんなにも早く!

 そして、よりにもよって異国に輿入れした姫を狙ってくるとは…!

「交渉させるつもりか…!ファリナの身と引き換えに、入国させよと…!」

 そうなれば、証拠などお構いなしにアリステイア全土が劫虐の餌食となり、生きとし生けるもの全てが灰燼に帰すであろう…。

「おそらくそうでしょう。ポラリス大公、急ぎましょう」
「…コンラート陛下?」

 虚を突かれて言葉に詰まるポラリス大公に向かって、コンラートは更に急ぐよう仕草で促した。

「決まっています。アリスティア公国に向かい、何としてもファリナ公女をお救いするのです」
「し…しかし…それでは……っ!」

 女一人の身と引き換えに、二つの軍を危機に晒すことにはなるまいか?

「ご安心を…!」

 コンラートはにやりと嗤ってみせた。
 実に人の悪い…くせ者の表情で。



「悪辣な連中に、まともに向き合う必要はありませんよ…」


  



→次へ