第三章 ]UーC
「納得できませぬっ!」
ドォン…っと二つの拳が円卓に叩きつけられ、質を同じくする怒鳴り声が狭い室内に反響する。
円月状の防御壁に囲まれたアリスティア公国は大陸中最も安全な国土と言われているが、その分、人口が増加しても居住地の拡大に限界がある為、軍組織最高位のマルティン将軍の邸宅ですら心なしか手狭である。
ことに、体格に優れた武人が3人もひしめき合い、興奮して語り合うとなれば室内温度が2〜3度は高めに感じられてしまう。
この邸宅はアリス湖の辺縁に建てられているので、普段なら夕刻を過ぎれば夜風が涼しいはずなのに…今宵は部屋が煮えくりかえっているかのようだ。
「アマル…カマル、興奮するな」
マルティン将軍は血気盛んな二人の息子を窘めると、酒杯を口に運んだ。
他の大陸諸国に比べれば作物の収穫もまだ維持されているアリスティア公国にあっても、嗜好品となればそうそう良いものを口にすることは出来ない。
マルティンは口に含んだ苦さが悪質な酒によるものか、息子達をいなす気苦労によるものか判じかね、眉間に皺を寄せた。
「父上こそ、どうしてそのように落ち着いておられるのですか?」
「ポラリス大公から何か聞いておられるのですか?」
双子の息子達は、普段はそれほど口数の多い方ではない。
軍における人望篤く、双刀を芸術的なまでの技巧で操る父を信奉しているせいもあって、基本的には意見することすら珍しい。
それがこのように猛っている理由は、その敬愛する父が…よりにもよって魔族を手を結ぶ為の軍団指揮を任されてしまったからだ。
「《アリスティア公国の存在意義に関わる問題なのだ》…と、大公は申される。だが、理由については今は言えぬそうだ。しかし…従わぬ訳にはいかない。我々は、軍人なのだからな」
「公国の存在意義に関わることを、どうして当事者たる民が…ましてや、一軍を率いて行動される父上が知らされていないのですか…!」
「もしや…眞魔国軍が携え、カロリアやロンバルディアに与えたという糧食目当てなのでは…っ!?」
「くそ…っ!そんなものの為に父上の名誉と兵の生命を損ねるつもりなのか!?」
感情の高ぶりが頂点を迎えてしまったのか、アマルは鳶色の瞳に水気を含ませて歯がみする。
鷹を思わせる鋭い眼差しも、父を思って潤めば少し子どもっぽくも見えた。
実際…二十歳を迎えたばかりの年齢は、軍内部にあっては《子ども》はともかくとして《若造》と呼ばれてもおかしくはない。
それでも、普段の彼らを実際に《若造》と呼べる兵士はそう多くはない。
単騎ではマルティンに叶わぬとはいえ、アマル・カマルが連携して太刀を振るえば、ぴったりと息のあった攻撃をかわせる者はそうはいないのだ。
「父上…せめて、我らを伴ってはいただけませぬか?」
「それはならぬ。お前達は万一の場合、アリスティアを護る双璧となるべき剣士だ」
「万一を…やはり、お考えなのですね…?」
彼らの言う《万一》とは、可能性としてはその言葉よりも高い確率を持っているに違いない。
アリスティア公国の行動意図が周囲国…ことに、教会に察知された場合、待っているのは激しい粛正攻撃だろう。
籠城に極めて強いとは言え、アリスティア公国も結局は人間の住む国なのだ。
教会によって《悪魔の眷属》と指定された場合、周囲国から完全に孤立してしまう。
国として滅びないとしても、その精神的な苦痛たるや凄まじい重責であるに違いない。
いや、円月状の防壁に護られている公国内部はまだいい。外で何が起きているかを間接的に感じ取るだけなのだから。
だが、マルティン将軍は矢面に立って魔族の元に向かわねばならないのだ。
魔族が一体何を考えているのか分からぬ上、聖騎士団辺りと直接戦闘に入るようなことがあればマルティン以下アリスティア軍は目の敵にされることだろう。
基本的に降伏を赦さない教会派軍団に拘束された場合、マルティンは筆舌に尽くしがたい辱めを与えられた上で凄惨な死を迎えることだろう。
戦場で好敵にまみえて死ぬのは騎士の誉れ…だが、今回の戦いでマルティンが受けるのは屈辱でしかない。
少なくとも、双子にはそうとしか考えられなかった。
「何故…何故、抗いもせずに死地に向かわれるのですか…!?」
「死地と決めつけるな」
アマルと同じ形相で詰め寄ってくるカマルに、マルティンは苦笑する。
二人とも鷹の雛鳥のようにほわほわとした短髪をしているものだから、ついついマルティンは手を伸ばして頭を撫でつけてしまった。
「…子ども扱いなさらないでくださいっ!」
「すまん…だが、私はポラリスに従うよ。確かに彼は詳細を語ってはくれなかった。だが…いつまでも秘したままということはあるまい」
「暢気すぎますぞ父上!大公が父上の信頼に応えぬ男であればどうなさるおつもりですか!?」
「いや…あいつは、応えてくれる」
我ながら根拠には乏しいのだが…マルティンにはまだポラリスを見限る気持ちはない。 やはり…どうしても、彼が一時的な利益に目が眩んで不用意な決断をしたとは思えないのだ。
「何も言ってはくれなんだが…どうやら、ポラリスは今回の出征に同行するつもりでいるらしい」
「…なんですって!?」
ポラリスも一応は軍隊経験があるが、剣士としては中の下というところだ。特段に交渉術の上手い彼を失うことは公国の舵取り上問題がある為か、大公位についてからのポラリスは一度も従軍したことはない。
「もしもの場合は、大公家を含めた選定公の中から適切な人物を選出すべしと内々に根回しをしていると聞いている」
「そんな…何故なのですか?何故…そこまで魔族に肩入れを!?」
アリスティアの食糧事情は厳しいとは言え、それでも他国に比べれば短期間の間に餓死者が続出するというような状況ではない。
それが何故…理由も明らかにされぬまま、大公自らが魔族軍に身を投じようとしているのだろうか?
糧食が目当てというわけではないのだろうか?
「わからん…ただ、一つ言えることは…ポラリスにとっても今回の決断はそれほどに大きな意味を持つものなのだろう。《アリスティア公国の存在意義に関わる問題》…その言葉は、虚仮威(こけおど)しなどではないのかも知れぬ」
その理由は秘されたままだが、公国外に出てしまえば…自分にだけは説明してくれるのではないか。
マルティンはそう期待している。
『納得できぬまま、《悪魔》扱いされて死ぬのは御免だぞ?ポラリス…』
マルティンは幾ばくか大人しくなった息子達から視線を外すと、大きく開けた窓からアリス湖を眺めた。
海とも見まごうほどに雄大なその姿が、これで見納めにならぬ事を祈りながら…。
* * *
パリーン……っ!
勢いよく床に叩きつけられた硝子杯が粉々に砕けてしまうと、上等な貴腐ワインが滑らかな大理石の上に広がって独特の香気を立ち上らせる。
この大陸にあって、そのような贅沢と暴虐を赦される唯一の存在…大教主ヨヒアム・ウィリバルトは純白の美髭を震わせた。
80歳は越えているかと思われる老人は、腰まで伸ばした頭髪や身に纏う長衣もまた純白であり、気品のある顔立ちとも相まって、毅然としていれば確かに宗教家として相応しい出で立ちであったかもしれない。
だが、今はわなわなと打ち震え…ぎょろつく三白眼や、美髭の影で蠢(うごめ)く妙に紅い唇が品位を下げ、なんとも凄まじい形相になっている。
幼児を連れた母親が彼を大教主と知らず目にすれば、《見ちゃいけませんっ!》と視線を逸らせたことだろう。
「おのれ…おのれ、不信心者共め…っ!」
「猊下…どうか、怒りをお納めください」
傍らに立つ騎士の言葉は丁寧だが、取りなす態度はどこかおざなりだ。
それもその筈、聖騎士団長ソアラ・オードイルは癇癪持ちの老人の介護にうんざりしているのである。
こうしてウィリバルトの私室に二人きりでいるだけでも、背筋の毛がざわつくほどの不快感を感じている。
『下卑た男…。こんな奴が、何故大教主になどなれたのだ?』
厳寒の北海を思わせる蒼瞳を険しく眇めながら、オードイルは形良い唇をへの字に枉(ま)げた。
実際…ウィリバルトの大教主就任には、以前から黒い噂が付きまとっていたのである。
11年前の《禁忌の箱》開放により聖都テンペストも大災害に見舞われており、その際に先代の大教主は事故死している。
だが…その死が果たして発見者たるウィリバルトの申告通りであるかについては、事情通の間では眉唾扱いされているのだ。
何故なら先代の大教主とウィリバルトの関係は険悪であり、教義に対する知識は豊富だが人心を纏める力に乏しく、素行に於いても問題の多いこの男がとても新たな大教主として選定されるとは思われなかったのだ。
しかし…ウィリバルトが大教主の証である聖円月茨(イバラ)を所持していたことで、教会上層部は従わざるを得なかった。
『聖円月茨など、どのような手口で得たものか分からぬではないか…!』
オードイルは忌々しげに口腔内で舌打ちする。
神の使途として如何なる残虐行為も認められている聖騎士団長にとって、実は一番血祭りにあげたいのがこの大教主なのであった。
今日もオードイルが報告した事実…《ロンバルディア軍を退けた眞魔国軍は、ゾーンウォルツの領土内も抵抗を受けることなく通過した》という内容に激怒してしまい、それ以上の報告や、今後の方針決定などになかなか話を進めることが出来ない。
苛立たしさを表に出すわけにも行かず、オードイルは努めて冷静な口調を保とうと努力しながら言葉を続けた。
「この状況を受け、今朝方マドロス国、パラケルドュス国から我らの旗下にて使って欲しいと派兵の希望が出ております」
「ほぅ…マドロスか!」
途端にウィリバルトの眼差しがねっとりとした脂性の笑みを浮かべる。
マドロス国の王はウィリバルトの機嫌を取ることに長けた男であり、兵を送るに際して必ず上等な酒と…美麗な稚児を寄越すのである。
勿論それはウィリバルトに対する敬愛の念から出たものではなく、それ相応の見返りを期待してのことである。
『…気色悪い、男色家め…!』
妻帯を赦されない聖職者にありがちなことだが、ウィリバルトも男色家であり…身の回りの世話をさせると偽って色子を囲ったり、酷い場合には敬虔な信徒の中から見目の美しい少年を召し上げては閨(ねや)に引き込んでいる。
若干32歳という若さで聖騎士団長を務めるオードイルもまた、その被害にあった内の一人だ。
10歳の頃…教会で祈る姿を当時は神父長であったウィリバルトに見初められてしまい、それから6年に渡って肉体を蹂躙されて来たのだ。
《儂に逆らうと、神の怒りに触れるぞ?》…そう脅しながら、ウィリバルトはおよそ純粋な少年には耐え難い痴態の限りをオードイルに強要したのである。
父にも母にも言えず、オードイルは淫猥な指が触れてくる恐怖に耐え続けた…。
辛かった…悔しかった、気持ち悪かった…っ!
毎日毎日…一刻も早くウィリバルトの好みから外れたくて身体を鍛えたおかげで、16歳の時に聖騎士団への入隊が認められた時には驚喜したものだ。
ただ、軍人として聖都を離れられたことは単純に嬉しかったのだが、その間にウィリバルトの興味の対象が変わったときには複雑な心境になった。
オードイルの後に寵愛を受けた少年もまた、悲運な一般の子どもであったからだ。
このような人生を過ごしてきた為か、神の御名を唱えながら戦うオードイルの中には常に複雑な心境が内在している。
『神を信奉する集団の頂点に立つ男がウィリバルトだということを…どうして、神はお許しになるのだろうか?』
だが、その思考を突き詰めることは恐怖だった。
『神など、いないのではないのか…?』
その疑いを持つ者に、聖都での生存は赦されない。
『くそ…っ!』
またいつもの袋小路に填りそうになって、オードイルは頭を振るった。
「おう…そうじゃ、ソアラよ。双黒の少年の噂は聞いたか?」
「ええ、存じております」
「何でも眞魔国に実りの奇跡を起こした、とてつもない力を持つ悪魔だというではないか…!眞魔国軍を打ち破った暁には、必ず我が元にその少年を連れてくるのだぞ?儂が自ら調伏し、神の御心に従うようにしてやろう!」
ウィリバルトの瞳がぎらぎらと粘っこく光ると、オードイルには彼が言わんとする意味が厭でも伝わってくる。
この男は…噂に聞く美少年の双黒を手に入れ、自分の性欲の対象にしたいのだ。
もともと、ちらほらと冗談交じりに口にしていたことはあった。
『魔族というのは随分と美麗な生き物らしいのぅ…。おそらく、その容姿で健全な者を誑かす為だろうな?』
『そのような連中を、神の威光の前にひれ伏せさせてやりたいものよのぅ…』
実際には神ではなく、自分の足下に跪かせ…皺くれているくせに老齢をもろともせずに機能している逸物を銜えさせてやりたいのだろう。
「滅多なことを言われますな…。先日、カロリアに対して布告を出されたことをお忘れですか?」
「お…ま、まぁな……」
忘れていたのだろう…。
ウィリバルトはつい先だって、魔族と友好的な交渉を交わして作物や苗・種子などを手に入れたカロリアに対して《悪魔の眷属》認定をしている。
聖騎士団が遣わされていないのは、《禁忌の箱》のひとつ《凍土の劫火》に眞魔国軍が向かっていると想定されるからだ。
眞魔国軍を打ち倒してから、カロリアを初めとして眞魔国軍の通過を抵抗することもなく赦した国々には、粛清の嵐が吹き荒れる筈なのだ。
『俺がその指揮官という訳か』
ウィリバルトの拘束から逃れる為に就いた軍の中で、オードイルは死に物狂いで実績を上げてきた。
実績…それは、戦場に於いて多くの敵を殺して来たということだ。
しかしそのことを名誉と誇ることは難しい。敵とされた者達は必ずしも《神の意志》に反したわけではなく、単に教会の機嫌を損ねた人物や国であることが多かったからだ。
だが…《色子上がり》と蔑視されるオードイルが軍の中で高い位につく為には、名誉や真実などといったものを追求しているわけにはいかなかった。
『考えても仕方のないことだ…』
そうは思いながらも時折胸がぎしぎしと軋(きし)むように感じるのは、オードイルの心にまだやわらかな部分が残っているせいだろうか?
ウィリバルトに蹂躙される以前…神を信じて、清らかな行いをしていれば天国に行けると信じていた頃の純粋さが、踏み躙られてなお残存しているのだとすれば…こんなに鬱陶しいものはない。
『擦れて…消えてしまえばいいのに』
黙り込んでしまったオードイルをどう思ったのか、ウィリバルトは機嫌を取るようにねっとりとした笑みを浮かべた。
「のう…ソアラや、そなたは不思議よのぅ…。儂はひととし取った男には興味を持たぬのだが…そなたの美しさは年による掠(かす)れを感じさせぬのぅ?」
「……っ!……」
百足(ムカデ)が足首にジュロリと巻き付いたような心地がして、オードイルは双弁に怒りと嫌悪を噴き上げかけた。
だが…癇癪持ちの老人が怒りを感じた時、何処までも無惨な責め苦を与えてくることを知っている彼に、感情をそのまま顔に浮かべることは出来なかった。
「……畏れ入ります…」
美麗な所作で一礼すると、胃の腑に詰まったものを全部吐き出したい衝動と戦った。
「…報告は、以上です。何か新たな指示はございますか?」
「うむ…まぁ、良いわ…」
にちゃにちゃと口の中で言葉を弄ぶウィリバルトに恐怖に近い感情を抱いていたが、彼は30歳を越えた男で新境地開拓をする気は今のところないようだった。
現在、彼の寵愛を受けている色子が隣室で待っている為かも知れないが…。
《ん…ぁ……っ…》時折、幼い…そして、そのわりに艶の乗りすぎた声が隣室から響いてくる。
おそらく、高価な媚薬で高めた色子に性の玩具を仕込んだまま放置しているに違いない。
かつて…オードイルにしたように。
「……失礼します…」
もう、限界だった。
オードイルは真っ青な顔を見られぬように素早く踵を返すと、マントの裾に弧を描かせて扉に向かい、廊下に出るなり早足で屋外を目指した。
一刻も早く、老人の気配から遠ざかりたかったのだ。
* * *
ゾーンウォルツ国の領土を抜けると、眞魔国軍は何処の国の領土でもない区域に入った。
その土地にはかつて《フランシア》と呼ばれる小国があり、異世界に於いては眞魔国と同盟を結んで友好的な関係を築いているのだと聞く。
だが…現在はそのような名を冠した国は残っておらず、常に硫黄の匂いが渦巻き、大地が煮えたように熱を持つこの土地は人々に見捨てられ、放置された荒れ地と化していた。
この国土に半ば開かれたまま埋まっているという、《凍土の劫火》と共に…。
しかし、荒れ地に入ろうとする少し手前で眞魔国軍は《アリスティア公国から来た》という使者を受け入れ、その話を聞くことになった。
* * *
「英雄と讃えられるマルティン将軍指揮のもとアリスティア軍を派兵して頂く上に、ポラリス大公自らがお越しのなるのですか…?」
「申し訳ありませぬが、私も詳細は伺っておりません」
使者のフィラルド公はポラリス大公から携えられた書状を魔王コンラートに渡すと、苦笑しながら眉根を寄せた。
正直、魔族に対してどのような感情を抱けば良いのか分からないのだ。
今のところ、眞魔国人が噂に聞いていたような残酷さを滲ませる様子は見ていないし、彼らは使者たるフィラルド公はもとより、侍従として付き添っている者達にも丁重な扱いをしてくれる…。
だが、簡単に今まで抱いてきた不信感を払拭することは難しいのだ。
コンラートに対しても、自然と顔が強張ってしまう。
「アリスティア公国軍として我らに加勢したことが教会に知られれば、大きな不利益を被ることになるのではないでしょうか?ゾーンウォルツ国のように領土内の通過を許しただけなら言い逃れも出来ましょうが、これほどの規模で兵を出されては誤魔化しもきかぬでしょう?」
「………は?」
つい、フィラルド公は調子はずれな声を出してしまった。
コンラートに言われた内容はフィラルド公も重々承知しており、ポラリス大公の正気を疑って何度も質疑したほどである。
だが…まさか、派兵を受ける眞魔国側からそのような心配をされるとは思っても見なかった。
『そのように…考える連中なのか?』
大陸を渡る間、眞魔国軍が見せた行動は極めて理性的なものであり、幾らか偽善的に感じるほどの清らかさを示している。
だが、その真意が分からない人間達が素直に《魔族って素敵》などと思うことは難しく、《一体何を考えているのだ?》と疑いの眼差しで、眞魔国の行動の裏事情を探ろうとしてきたのである。
けれど、面と向かって言葉を交わせば噂では分からなかった色々なことが伝わってくるものだ。
フィラルド公はコンラートの琥珀色の瞳を見詰めると、その中に一片の曇りもないことに驚嘆していた。
『これは…この男は……もしかして、本物の英雄なのだろうか?』
敵対する者を多く倒すことを誉れとするのではなく…行いの中に美学を感じさせる者。
フィラルド公が知る限り、現在生きている軍人の中で唯一人、マルティン将軍だけが《英雄》の名を冠するに相応しい男だと思っていた。
しかし…この、《魔王》という人間にとって呪わしすぎる肩書きを持つ男は、マルティンと同等…いや、それ以上の輝きを内包してフィラルド公に相対している。
そう見えるのは、フィラルド公の目が曇ったということなのか?
『いや…曇りなど、無い』
フィラルド公はぎょろりとした大きな瞳を見開いてコンラートをまじまじと見詰め、もう一度その澄んだ瞳と容貌の清廉さを認めると、深く…大きく息を吐きだしたのだった。
「……衝撃です。どうやら、見(まみ)えずしてあなたの真価を見抜いたポラリス大公は、やはり大公位に相応しい人物なのでしょうな」
「…?…」
きょと…っと小首を傾げるコンラートは少々意味を判じかねるようで、凛々しい顔立ちがちょっぴり幼く見えてしまう。
その様子が自分の息子と重ねって見えてしまい(息子はここまで美形ではないのだが…)、フィラルド公はくすりと笑った。
「失礼…。正直、直接あなたに見えるまで、私はポラリス大公がおかしくなってしまったのではないかと不安に思っていたのですよ。ですから、自ら使者の名乗りを上げたのです」
「もしも俺があなたの眼鏡に適わなかった場合は、力づくでも止めるおつもりで?」
コンラートもまた意図を察したのか、若々しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ええ…ですが、少なくともあなたは本気で《禁忌の箱》を消滅しようとしておられるのでしょうな。ポラリス大公が何故、その行動に国を挙げて協力しようとしているのかは謎ですが…。この度の決断は、おそらくアリスティア公国ひとつの存続だけでなく、大陸全土に…いや、世界に関わることなのかも知れませんな…」
「フィラルド公…あなたは、《禁忌の箱》について色々とご存じなのでしょうか?」
コンラートは少々意外そうな表情を浮かべた。
大陸諸国の歴史家は《禁忌の箱》が開いた現象について、教会からの通達で深く調査することを禁じられている。呪わしい《箱》に近づくことで精神が汚染されるというのだ。
ちなみに教会曰(いわ)く、《禁忌の箱》による災害は《神の怒り》であり、その際に事故死した先代の大教主は《神の怒りを収める為の人柱になられた》のだそうだ。
「いや、大した知識などありませんよ。ただ…私は11年前の大災害に際して《凍土の劫火》から放たれた恐ろしい火柱や、天空を染め上げた真っ赤な火粉嵐を目にしているのです。正直、あんなものを放つ神とは一体どういった存在で、私たちがどれ程の罪を犯したのかと腹立たしかったですな」
「………その発言は、多分に思い切りの良すぎるものでは?」
コンラートは意外すぎるフィラルド公の発言に戸惑っているようである。
アリスティアの特異性は公国内部でのみ知られる性質であり、コンラートが知らないのも無理はないだろう。
伝統的に、アリスティアの民は教会に対して服従し、神も信奉してはいるが…《ある事情》から、その精神の底にはもう一つ大きな根が張り巡らされている。
おそらく、それこそが教会の教義に縛られず、柔軟な思考を維持してこられた最大の要因なのではないかとフィラルド公は考える。
『決して教会には知られてはならぬ性質を、魔族相手だと安心して証せるというのも妙な話だな』
「勿論、教会には内密にお願いしますよ」
《内緒》というようなポーズを取ってフィラルド公が頼むと、コンラートはまだよく分からない様子で地図を眺めた。
「それは…そうでしょうな。それにしても、地理的に見てアリスティアは《凍土の劫火》にかなり近い位置…。相当な被害が出たのでしょうね?」
「いや、幸いそれほど大きな被害はなかったのですよ」
「被害が…なかった?」
コンラートは不思議そうに小首を傾げて地図を見た。どう考えても、距離的に不思議な気がしたのだろう。
確かに、《凍土の劫火》が埋まっているとされる地点とアリスティア公国はあまりにも近すぎるのだ。
「いえ、全くなかったわけではありませんが…少なくとも、周囲国に比べれば随分と軽微なものだったと思います。その後の荒廃の度も不思議なほどに穏やかでしたし」
「ふ…む……」
コンラートは食い入るような眼差しを地図に送っていたかと思うと、何かを思うようにゆっくりと…その指をアリス湖に置き、次いで円月状に張り巡らされ防御壁に伝わせた。
「フィラルド公…もしや、ポラリス大公は古の歴史書などに興味をお持ちですか?」
「…っ!よくご存じですな」
大公家は代々アリスティアの歴史を紡ぐという語り部としての役割も持っている。公文書として残されているものはもとより、表沙汰に出来ない歴史もまた彼らの血脈と共に受け継がれているという。
「何か、気がかりな事でも?」
「確信はないのですが…ひょっとすると、ポラリス大公は古い文書の中から大きな秘密を知ってしまったのではないでしょうか?」
「秘密…ですと?」
「おそらく《禁忌の箱》に纏わる何か…それも、教会の怒りを買うような事実を」
コンラートの口調はどこか謳うようであり、その瞳は銀色の光彩を瞬かせている。
ポラリス大公が何かを知り…そして、その事実に依って眞魔国軍に助力しようとしている事に感動しているのかも知れない。
「何故その様にお考えなのですか?」
「いや…推測に過ぎぬ事をここで口にするわけにはいきますまい。単に、俺の願望なのかも知れませんしね」
気が高まりすぎたことを恥じるように苦笑するコンラートだったが、フィラルド公は思うのだった。
『この男をここまで感動させる《事実》を…ポラリス大公は掴み…それをもって国を動かしたのか?』
もしかすると教会の激甚な怒りを買い、アリスティア公国を人間世界から完全に孤立させてしまうかも知れない程の秘密。
だが、それはきっと…《真実》であるからこそ巨大な告発になり得るのだろう。
『大公殿下…』
おそらくポラリス大公が今回の選択理由を伏せているのは、コンラートの真価を知るまで全てを明かすことは出来ないと考えているのではないだろうか?
コンラートが信頼に値する男であった場合とそうではなかった場合とで、自ずと選択肢は変わってくる筈だ。
後者と判断した場合には、その《秘密》を抱えたまま口を閉ざす可能性もある。
フィラルド公は自分の心理内に問いかけてみた。
果たして…自分はポラリス大公にどのような決断をして貰いたいのだろうか?
「………」
驚くべきことに…あっさりと答えは出た。
「フィラルド公…?」
「いや…何でもありません」
フィラルド公は実に良い表情で微笑んだ。
あまり小綺麗とは言い難い岩のような顔貌なのだが、そういう表情を浮かべると実に人好きのするいい顔になる。
『そうだ…アリスティアは《世渡り上手》で知られる国だが、決して日和見的な選択をしてきたわけではない…。時には周囲が驚嘆するような決断を下して、時代の波を乗り越えてきたのだ…』
ならば、怯むまい。
己の目と心を信じよう。
アリスティア公国の要人の中で、少なくとも自分はこの男を信じる。
フィラルド公は力強く己の心に頷いた。
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